第39話 純子の過去と狙撃手
夜の帳が下りた練馬の住宅街は、今まさに、神話と現代兵器が交差する戦場と化していた。
グルルルルオオオオッ!!
腹の底を揺さぶる咆哮と共に、銀色の閃光が走る。
巨大化したフェンリル――ポチだ。
体長3メートルを超える巨躯が、質量を感じさせない俊敏さで跳躍し、武装した黒服の男たちを薙ぎ払う。
「ひ、ひいいっ! 化け物だ!」
「撃て! 撃ち続けろ!」
謎の組織『蛇の目』の構成員たちが、パニック状態で魔導アサルトライフルを乱射する。
だが、ポチの鋼鉄の毛皮には傷一つ付かない。
それどころか、ポチは「遊んでくれるのか?」と言わんばかりに尻尾を振っている。その尻尾の一撃だけで、大の男が数メートル吹き飛んでいるのだが。
「オラオラァ! 師匠の家の前で騒ぐんじゃねえっしょ!」
そこへ、極彩色の嵐が突っ込む。
山本ゆき子だ。
彼女はブレイクダンスのウィンドミルのような動きで敵の懐に滑り込み、遠心力を乗せたカポエイラ仕込みの蹴りを叩き込む。
B級ダンサーの身体能力は伊達ではない。
「そこ、重心が甘いわよ」
S級ポーター、山田しずかはもっとシンプルだ。
襲いかかってくる男の襟首を片手で掴み、そのまま柔道の要領でアスファルトに叩きつける。
ズドン! という重い音と共に、男が白目を剥いて沈黙する。
「……弱い。弱すぎる。私の食事を邪魔した罪、その体で償ってもらおうか」
そして、S級剣士ジーク・ヴァイス。
彼は剣すら抜いていない。素手で放つ微弱な電撃だけで、次々と敵を麻痺させている。
一方的な蹂躙劇。
俺、鈴木悠作は、その様子を腕組みして眺めていた。
「……終わったな」
北京ダックを冷まされた恨みは深いが、これ以上やると近所迷惑だ。
そろそろ締めようかと思った、その時。
キィンッ!
鋭い金属音が響いた。
俺の足元のコンクリートが弾け飛ぶ。
狙撃だ。
「……!」
俺は即座に反応し、気配のした方向――300メートル先の雑居ビルの屋上を睨んだ。
俺の「危機察知」が警鐘を鳴らす。
ただの魔導弾ではない。あれは、対魔獣用の徹甲弾だ。ポチを狙っていたのか。
「……悠作さんには、指一本触れさせません」
頭上から、氷点下の声が降ってきた。
アパートの屋上、給水タンクの上。
そこに、夜風に黒髪をなびかせた山口純子が立っていた。
手には、彼女の身長ほどもある対物魔導ライフル『ブラック・ウィドウ』。
彼女の瞳から、普段の愛くるしい光が消え失せている。
そこにあるのは、獲物を屠るハンターの、冷徹な殺意だけだ。
(……見えた)
純子の魔眼が、闇夜を透かして敵影を捉える。
敵のスナイパーは、光学迷彩で姿を隠している熟練者だ。
だが、純子には通じない。
彼女はかつて、裏社会で『掃除屋』と呼ばれていた。
組織の汚点、裏切り者、そして敵対者を、誰にも知られずに処理するプロフェッショナル。
彼女にとって、狙撃とは「呼吸」だ。
カチャン。
ボルトアクションの音が、静寂に響く。
「サヨナラ」
純子は躊躇なく引き金を引いた。
消音魔法により、発砲音はしない。
ただ、空気が裂ける音だけを残して、魔弾が闇を疾走する。
ドォン!!
遠くのビルの屋上で、小さな爆発が起きた。
敵スナイパーのライフル機関部をピンポイントで破壊したのだ。
殺しはしない。だが、二度と銃を握れない恐怖を植え付ける。
「……ふぅ。駆除完了です♡」
純子は銃を下ろし、ふわりと屋上から飛び降りてきた。
スタッと俺の隣に着地し、いつもの甘い笑顔を向ける。
「悠作さん、お怪我はありませんか?」
「ああ。ナイスカバーだ、純子」
「えへへ、褒められちゃいました!」
頬を染めて喜ぶその姿は、どこにでもいる恋する乙女だ。
さっきまでの冷徹な始末屋の顔はどこへやら。
このギャップこそが、山口純子という女の底知れなさだ。
襲撃犯たちは全員捕縛し、五右衛門で簀巻きにした。
尋問役は、魔女の茜だ。
「さあ、吐きなさいな。どこのどなたの差し金で、私の大事なお客様を狙いましたの?」
茜が契約書という名の拷問器具を取り出すと、リーダー格の男があっさりと口を割った。
『蛇の目』のアジトの場所。構成員数。そして、目的が悠作の「技術」を軍事転用することだということも。
「……ふーん。隣町の廃工場か」
俺は聞いた情報をメモした。
ここからバイクで15分といったところか。
「どうするの、悠作。協会に通報して任せる?」
みのりがスマホを取り出そうとする。
「いや」
俺は首を横に振った。
「警察や協会に任せると、事情聴取だの現場検証だので時間がかかる。俺は明日も仕事があるんだ」
それに、食事を邪魔された恨みは、自分の手で晴らさないと気が済まない。
俺は五右衛門を背負い直した。
「ちょうど、キムチ用の白菜と唐辛子が切れてたんだ。……アジトの近くに、24時間営業の業務用スーパーがあるな」
「……は?」
「買い出しのついでに、ちょっと潰してくる」
俺の言葉に、全員が呆気にとられた。
だが、すぐにニヤリと笑う者たちがいた。
「いいですねぇ! 師匠の『ついで』、見届けさせてもらいます!」
「私も行きます。運動不足解消よ」
ジークとしずかが立ち上がる。
ポチも「ワフッ!(散歩!)」とやる気満々だ。
「……はぁ。もう勝手にしなさいよ。事後処理は私がやっとくから」
みのりが諦めたように肩をすくめた。
こうして、俺たちは「夕飯の買い出し」という名目で、闇ギルドのアジトへカチコミをかけることになった。
結果から言えば、それは「戦闘」ですらなかった。
「災害」だった。
廃工場に突入した巨大ポチが暴れ回り、ジークが雷で電子機器を焼き切り、しずかが鉄骨をひん曲げてバリケードを粉砕する。
そして俺は、混乱する敵の中を悠々と歩き、リーダーの元へ辿り着いた。
「ひ、ひぃぃ……! な、何なんだお前らは!」
「ただの通りすがりの買い物客だ」
俺はリーダーの目の前に、安物のナイフを突きつけた。
「二度と俺の飯を邪魔するな。……次はないぞ」
殺気。
深層のボスすら震え上がる、純度100%の殺意を浴びせかける。
リーダーは泡を吹いて気絶した。
組織『蛇の目』関東支部、壊滅。所要時間、10分。
その後、俺たちは予定通り業務用スーパーに立ち寄り、特売の白菜と大量の唐辛子を買い込んで帰宅した。
アパート『ひまわり荘』。
時刻は午後9時を回っていた。
一仕事終えた後の心地よい疲労感と、空腹感。
ダックの脂でこってりした口の中を、強烈にリセットしたい欲求がある。
「よし、作るぞ。……本場の『キムチ』だ」
俺はキッチンに立ち、買ってきたばかりの巨大な白菜をまな板に置いた。
今回は、漬け込む時間を短縮しつつ、フレッシュな食感を楽しめる即席キムチ『コッチョリ』を作る。
ザクッ、ザクッ!
白菜をざく切りにする。芯の部分は薄く削ぎ切りにして、食感を均一にする。
ボウルに入れ、粗塩を振って強めに揉み込む。
浸透圧で水分を抜く間に、味の決め手となる『ヤンニョム』作りだ。
すり鉢を用意する。
中に入れるのは、ニンニク、ショウガ、そしてたっぷりの『アミの塩辛』。
この塩辛が、キムチに深みとコクを与える重要な要素だ。
ゴリゴリ、ゴリゴリ。
すりこぎでペースト状になるまで潰す。
強烈な磯の香りと、薬味の刺激臭が立ち上る。
そこに、韓国産の粗挽き唐辛子粉を、これでもかというほど投入する。真っ赤な山ができる。
「隠し味はこれだ」
俺が取り出したのは、梨とリンゴのすりおろし。
砂糖の甘さではなく、果物の酵素と自然な甘みを加えることで、辛さの中にまろやかさが生まれるのだ。
さらに、ナンプラー、梅エキス、少量の砂糖を加えて混ぜ合わせる。
ドロリとした、深紅のペースト。
舐めてみる。
舌を刺す辛さの後から、魚介の旨味と果実の甘みが追いかけてくる。完璧だ。
塩漬けして水気を絞った白菜に、このヤンニョムを投入する。
さらに、千切りにした大根、ニラ、万能ネギを加える。
ここからは手作業だ。
ビニール手袋をして、全体を力強く和える。
白菜の一枚一枚に、赤いペーストを擦り込むように。
グチャッ、グチャッ。
湿り気を帯びた音が響く。
白菜の白が、鮮やかな赤に染まっていく。
最後に、香ばしいごま油と、たっぷりのいりごまを振る。
「……できた」
『特製コッチョリ・キムチ』の完成だ。
発酵を待たずに食べる浅漬けタイプなので、白菜のシャキシャキ感と、唐辛子のダイレクトな辛さが味わえる。
「これに合わせる飲み物は……」
俺は冷蔵庫から、キンキンに冷やしたスイカを取り出した。
燃えるような辛さには、身体を冷やす瓜科のペアリングが最適だ。
スイカの果肉を角切りにし、キュウリの薄切りと共にピッチャーに入れる。
そこに、ソーダ水と少量のライム果汁、ガムシロップを注ぐ。
氷を浮かべ、ミントの葉を散らす。
『スイカとキュウリのパンチ』。
見た目にも涼しげな、赤と緑のコントラスト。
「「「いただきます!!」」」
ちゃぶ台を囲み、全員がキムチに箸を伸ばす。
白いご飯も用意してある。
純子が、真っ赤な白菜を口に運んだ。
シャキッ!
瑞々しい咀嚼音。
「……んっ! 辛いっ! ……でも、甘い!」
純子が目を丸くする。
唐辛子の爆発的な辛さが口内を駆け巡るが、すぐに梨のフルーティーな甘みと、アミの塩辛の濃厚なコクが広がり、辛さを中和していく。
白菜の繊維から溢れる水分が、口の中を洗い流し、次の一口を誘う。
「これ、止まりませんね! ご飯泥棒です!」
「シャキシャキ感がたまらないわ。……運動後の塩分補給に最高よ」
しずかも白飯にキムチをワンバウンドさせてかき込んでいる。
口の中がヒリヒリと熱くなってきたところで、パンチを飲む。
「……はぁぁ」
スイカの自然な甘みと、キュウリの青っぽい清涼感。
それが炭酸と共に喉を通り抜け、カプサイシンで火照った体を内側から急速冷却してくれる。
キュウリの香りが、不思議とスイカとマッチし、メロンのような上品な風味を醸し出している。
「辛さと冷涼感。……アメとムチですね」
純子がグラスを傾けながら、ふと遠い目をした。
「……私、昔は食事なんてただの栄養補給だと思ってました。裏の仕事をしてると、味なんて感じる余裕もなくて」
彼女がポツリと漏らす。
それは、今日初めて見せた、彼女の「過去」の一端だった。
冷たい弁当や、味気ない携帯食料で飢えを凌ぎ、人の命を奪ってきた日々。
「でも、悠作さんと出会って、悠作さんの料理を食べて……初めて『美味しい』って、生きてるって感じたんです」
純子は俺を見て、花が咲くように微笑んだ。
「だから……この場所は、誰にも壊させません。私の全てを懸けて、守り抜きます」
その言葉には、狂気じみたヤンデレの響きではなく、一人の女性としての静かな決意が込められていた。
俺は少し照れくさくなり、キムチをもう一口かじった。
「……大げさだな。ま、用心棒代としては、このキムチで手を打ってくれ」
「ふふ、はい! 喜んで!」
純子が嬉しそうに笑う。
足元では、元のサイズに戻ったポチが、自分用の「辛くない白菜の浅漬け」をポリポリと齧っている。
『蛇の目』の脅威は去った。
だが、彼らが狙っていた俺の「技術」、そして深層で起きている異変。
平穏な日常を守るためには、まだまだ解決すべき問題が山積みだ。
それでも。
今夜だけは、この刺激的で温かい食卓に身を委ねよう。
俺はスイカパンチを飲み干し、明日への英気を養うのだった。




