第38話 謎の組織『蛇の目』
午後6時。
黄昏が街を茜色に染め上げる頃、東京・練馬区の住宅街上空を、一陣の白銀の風が駆け抜けた。
それは雲を切り裂き、大気を震わせながら、物理法則を無視したごとき速度で地上へと舞い降りる。
巨大化したフェンリル――ポチだ。
その背中には、俺たち一行と、山のような荷物が積載されている。
ドスンッ、と重厚ながらも猫のようにしなやかな着地音が響き、俺たちはアパート『ひまわり荘』の前へと帰還した。
「……着いたな」
俺、鈴木悠作は、ポチのフカフカした背中からアスファルトの地面へと降り立ち、凝り固まった体をほぐすように大きく伸びをした。
ポキポキと関節が鳴る。
久しぶりに吸い込む地上の空気は、排気ガスの微かな匂いが混じっているが、深層の凍てつくような冷気に比べれば、天国のように温かく感じられた。
「お疲れ様です、悠作さん! まるで空飛ぶ絨毯でしたね!」
「師匠! ポチまじ最高! 次は原宿の上空飛んで、インスタライブしたい!」
高橋すずと山本ゆき子が、興奮冷めやらぬ様子でポチの首元の毛に顔を埋めている。
ポチの毛並みは最高級のシルクのように滑らかで、かつ発熱する魔力によって極上の温もりを保っている。一度触れたら離れがたい魔性のモフモフだ。
ジークは地面に降りるなり、ポチの太腿の筋肉を熱心に触診し始めた。
「素晴らしい……。着地の瞬間、衝撃を筋肉の振動で分散させましたね? この脚力、そして柔軟性。武術の理想形だ」
そんな中、S級ポーターの山田しずかは、自分の背丈ほどもある鋼鉄コンテナを軽々と肩から下ろし、地面に置いた。
ズズン、と地面が揺れる。
「ふぅ。……いいトレーニングになったわ。ポチちゃんの予測不能な動きに合わせて、数時間ずっと重心を微調整し続けるのは、インナーマッスルに効くわね」
額の汗を拭う姿は爽やかだが、言っていることは相変わらず筋肉至上主義だ。
みのりは、風で乱れた髪を手櫛で直しながら、ようやく人心地ついたという表情で俺を見た。
「とりあえず、無事に帰ってこれて良かったわ。……でも悠作、ちょっと問題があるんじゃない?」
みのりが指差したのは、巨大化したポチと、どう見てもサイズが合わないボロアパートの玄関ドアだ。
「これじゃポチ、家に入れないじゃない。どうすんの? 駐車場に繋いどく?」
確かに、今のポチは体長3メートル超。象並みの巨体だ。
だが、俺は慌てていなかった。
ポチは元々、質量を自在に操りサイズを変えられる能力を持っているはずだ。これまでは幼体だったから無意識だったかもしれないが、今の進化した姿なら制御できるはずだ。
「……おいポチ。もう家だぞ。いつものサイズに戻れ」
俺はポチの巨大な前足――丸太のような太さだ――をポンと叩いた。
ポチが俺を見下ろす。金色の瞳が揺れている。
「グルルゥ……(わかってる。……でも)」
ポチが身体を小さくしようと力を込めた。
全身の筋肉が収縮し、白い光が明滅する。
バチッ、バチチッ!
だが、スムーズにはいかなかった。
身体の周囲に、黒い稲妻のようなスパークが走る。
深層で浴びた「瘴気」の影響だ。
急激な進化を促したそのエネルギーが、今は体内で暴れ回り、ポチの制御を阻害しているのだ。
「キャンッ! クゥゥ……!」
ポチが苦しげに声を上げ、地面を掻く。
縮もうとする力と、膨張しようとする力が体内で衝突している。
このままでは暴走しかねない。
「……エネルギー密度が不安定です! このままでは自壊します!」
瞳がタブレットを見て叫ぶ。
「落ち着け、ポチ!」
俺はポチの鼻先に両手を添え、その目をじっと見つめた。
熱い。火傷しそうなほどの熱気が伝わってくる。
「大丈夫だ。あの瘴気は毒じゃない。お前の糧だ。飲み込め」
「……!」
「思い出せ。ここは深層じゃない。ひまわり荘だ。……美味い飯と、フカフカの布団がある場所だ」
俺はゆっくりと、ポチの眉間を撫でた。
いつものように。
敵を解体する時のような殺気ではなく、食材を慈しむような、あるいは生地を寝かせるような優しい手つきで。
すると、ポチの瞳から動揺が消えていった。
荒い呼吸が整い、バチバチというスパークが収束していく。
「ワフッ……(……ごちそう)」
ポチが小さく鳴いた瞬間。
シュゥゥゥ……。
蒸気が抜けるような音と共に、巨体が光の粒子となって収縮を始めた。
数秒後。
そこにいたのは、いつものバレーボールサイズの白い毛玉だった。
「……ふぅ。戻ったか」
俺は安堵の息を吐き、ポチを抱き上げた。
ずしりと重い。
サイズは戻ったが、その内側に秘めた質量とエネルギー密度は、以前とは比べ物にならないほど増している気がする。
「クゥーン(疲れた……腹減った)」
「よしよし。今日は特別に美味いもん食わせてやるからな」
ポチは俺の腕の中でぐったりとしているが、尻尾だけはパタパタと動かしている。
とりあえず、緊急事態は脱したようだ。
「「「きゃあああああっ!!」」」
その瞬間、待ってましたとばかりに女性陣が群がってきた。
「戻った! 戻ったわ! 私の天使が帰ってきた!」
みのりが涙目でポチを撫で回す。
「よかったぁ……! ずっとあの厳つい姿のままだったらどうしようかと……!」
「やっぱこのサイズっしょ! 持ち運び便利だし!」
「ふふ、質量圧縮のメカニズム……興味深いです。後で採血させてください」
ポチは「今は眠いんだよ」とばかりにみのりの顔を肉球で押しのけている。
しずかだけは、「……チッ。トレーニングの負荷が減るわね」と残念そうに舌打ちをしたが、その表情はどこかホッとしているようにも見えた。
「よし、入るぞ。冷える」
俺は玄関の生体認証ロックを解除した。
五右衛門が『へへっ、お帰りなさいでヤンス! 旦那、風呂沸いてるでヤンスよ』と念話を寄越す。
完璧なスマートホームだ。
俺たちはゾロゾロと、要塞化されたアパートの203号室へと吸い込まれていった。
部屋に入ると、そこは相変わらずのカオスだった。
S級美女たちが所狭しと座り込み、中央のちゃぶ台を囲んでいる。
リフォームのおかげで空調は完璧だが、人口密度が高すぎて室温が上がっている気がする。
さて、夕食だ。
全員が期待に満ちた、飢えた獣のような目で俺を見ている。
五右衛門の中には、大量の『エンシェント・マンモス』の肉がある。
「師匠! 焼肉っしょ! マンモス焼肉!」
「ステーキも捨てがたいですね……。あの霜降り、ジュワッと焼いたら……」
はしゃぐゆき子とすずを制し、俺は首を横に振った。
「残念だが、マンモスはまだ食えない」
「ええっ!? なんでですか!?」
「死後硬直だ。あのでかい肉だ、筋肉が解れるまで数日はかかる。さらに低温で熟成させて、アミノ酸を増やして旨味を引き出すには、最低でも一週間は寝かせる必要があるんだ」
料理人として、最高の食材を中途半端な状態で出すわけにはいかない。
俺の言葉に、一同は目に見えて落胆した。
しずかなんて、「タンパク質……」と呟いて膝から崩れ落ちそうだ。
だが、俺はニヤリと笑った。
「その代わり……今日は『S級昇格』と『ポチの無事』を祝して、とっておきの食材を用意してある」
俺は五右衛門の保冷庫から、一羽の丸ごとの鳥を取り出した。
『フレイム・ダック』。
中層の火山エリアに生息する、脂の乗った火属性の鴨だ。
常に熱を帯びているため皮が厚く、火を通すと驚くほどパリパリになるのが特徴だ。
「今日は中華の王様、『北京ダック』だ」
その名前を聞いた瞬間、全員の顔色が輝いた。
歓声が上がり、ポチも俺の膝の上で「ワフッ!」と耳を立てた。
調理開始だ。
北京ダックは「焼き」に至るまでの仕込みが命だ。実は、今朝出かける前に下処理を済ませておいたのだ。
内臓を取り除き、首の皮からストローで空気を送り込み、皮と肉を剥離させる。
そして熱湯をかけて皮をパンと張らせる。
さらに、水飴、酢、紹興酒を混ぜた特製の「糖水」を全身に塗りたくり、五右衛門の『内部時間加速機能』を使って、半日かけてじっくりと風乾させておいた。
取り出したダックの表面は、飴色に輝き、叩くとコツコツと音がするほど乾燥している。
これを、茜が持ち込んだ業務用の魔導オーブンに吊るす。
「火力最大。……一気に焼き切るぞ」
ゴーッ!!
オーブンの中で炎が渦巻く。
鴨の脂が熱で溶け出し、ポタポタと下の炭火に落ちる。
ジュワッ、という音と共に香ばしい煙が立ち上り、それが再び鴨を包み込んで燻していく。
部屋中に広がる、甘く、濃厚で、暴力的なまでに食欲をそそる香り。
焼けた脂と、焦げた水飴の匂い。
「……いい匂い。これだけでご飯三杯いけるわ」
「師匠、まだ? まだ焼けないの? アタシの胃酸が限界突破してるんだけど」
ゆき子がオーブンのガラスに張り付いている。
30分後。
焼き上がったフレイム・ダックは、宝石のような赤茶色の光沢を放っていた。
皮はパンパンに膨れ上がり、はち切れんばかりだ。
「……美しい」
俺は中華包丁を握った。
ここからが料理人のショータイムだ。
ザクッ、ザクッ。
ナイフを入れるたびに、軽快な音が響く。
皮だけを削ぎ落とすのではない。皮の下にあるジューシーな脂と、薄い肉を一緒に切り出す「広東式」だ。
肉汁が溢れ出すが、それを逃さないように手早く皿に並べていく。
黄金色の皮の山。
湯気と共に立ち上る脂の甘い香り。
「付け合わせは、白髪ネギとキュウリの千切り。そして甘辛い『甜麺醤』だ」
「これを、薄焼きの皮で包むんですね!」
すずが目を輝かせて皮を蒸籠から取り出す。
飲み物は、脂っこい中華に合わせてサッパリといきたい。
「『ジン・トニック』だ」
俺が選んだのは、山椒や柚子、檜などの和素材を使ったプレミアム・クラフトジン『六』。
氷をぎっしり詰めた薄はりのグラスにジンを注ぎ、よく冷えたトニックウォーターで満たす。
マドラーで一回だけステアし、仕上げにライムを搾り、黒胡椒を少し挽く。
シュワワ……。
弾ける微細な泡が、柑橘と山椒の香りを運んでくる。
「「「いただきます!!」」」
全員が一斉に手を伸ばす。
温かい薄餅を広げ、たっぷりの甜麺醤を塗る。
そこにシャキシャキの白髪ネギとキュウリ、そして主役のダックの皮を二枚、贅沢に乗せる。
クルリと巻いて、大きく口を開けて放り込む。
パリッ!!
部屋に響く、小気味よい破裂音。
次の瞬間、全員の動きが止まった。
「……んん〜っ!!」
ゆき子がのけ反り、天井を仰いだ。
「ヤバい! 何これ!? 皮パリパリなのに、中から脂がジュワ〜って洪水みたいに溢れてくる!」
「……計算されているわ。脂質の塊なのに、キュウリの瑞々しさとネギの辛味が全てを受け止めて、後味が驚くほど軽やかよ。これなら筋肉への罪悪感も薄れるわね」
しずかも、豪快に三つほどまとめて巻いて頬張っている。
ジークに至っては、目を閉じて咀嚼し、感動に打ち震えている。
「……素晴らしい。皮のクリスピーさと、肉の弾力。そして甜麺醤の深みのある甘さ。このコントラストは、武術における『剛』と『柔』の調和に通じるものがある……!」
「あんたは何でも武術に結びつけるのね」
みのりが呆れつつ、ジン・トニックを喉に流し込む。
「くぅ〜っ! 効くぅ! ジンの鋭いキレと、山椒のピリッとした香りが、ダックの脂を洗い流してくれるわ。口の中がリセットされて、これなら無限に行けそう」
「お酒が進みますわね。……この皮、一枚いくらで売れますかしら。五百円? いえ、千円はいけますわね」
茜も上機嫌で電卓を弾いている。
足元では、元のサイズに戻ったポチが、自分用の小皿に盛られたダックを夢中で食べている。
小さくなっても食欲は変わらない……いや、食べる速度が以前より上がっている気がする。進化の影響で代謝が良くなったのかもしれない。
賑やかな宴。
平和な食卓。
美味しい料理と、信頼できる仲間たち。
俺が求めていた「平穏」とは少し違う形だが、これも悪くないと思い始めていた。
だが。
俺の「危機察知スキル」――長年ポーターとして培った直感が、チリチリと警鐘を鳴らした。
(……視線を感じる)
アパートの外。
要塞化された結界の外側から、じっとりと粘着質な視線が注がれている。
純子のそれとは違う。もっと悪意に満ちた、冷たく、計算高い視線だ。
『旦那。……お客様でヤンス』
五右衛門からの念話が脳内に響く。
同時に、アパートのインターホンが鳴った。
ピンポーン。
無機質な電子音が、楽しい食事の空気を切り裂く。
全員の手が止まる。
こんな時間に、しかもS級探索者が集うこの要塞に、まともな来客など来るはずがない。
「……俺が出る。みんなは食べててくれ」
俺は包丁を置き、モニターを確認した。
そこに映っていたのは、黒いスーツを着た、爬虫類のような細い目をした男だった。
胸元には、二匹の蛇が絡み合う『蛇の目』の紋章バッジが怪しく光っている。
「どなたですか」
『夜分遅くに失礼します。鈴木悠作様ですね? 私どもは人材コーディネート会社『スネーク・アイズ』の者です』
男の声はインターホン越しでも分かるほど慇懃無礼で、背筋を虫が這うような不快感があった。
『貴方様の素晴らしい技術……特に、あのドローン映像で見せた「魔力制御」と「解体術」に感銘を受けまして。ぜひ、我々の組織で有効活用させていただきたいと思い、お迎えに上がりました』
勧誘か。
だが、モニターの端には、武装した黒服の男たちが数名、死角に潜んでいるのが見える。
腰にはホルスター。手には魔導スタンバトン。
「お迎え」というよりは「拉致」の構えだ。
「……間に合ってます。今は食事中なんで、帰ってくれ」
『ふふ、そう仰らずに。……我々は、貴方が欲しいのです。拒否権はありませんよ? 我々のバックには、貴方が想像もできないような力が――』
男が指を鳴らす。
その瞬間、ドォン!! という衝撃音が響き、アパートの結界に亀裂が走った。
攻撃魔法だ。強引に突破する気らしい。
「……チッ」
俺の中で、何かが切れる音がした。
恐怖ではない。
怒りだ。
せっかくの北京ダックが冷める。
ジン・トニックの炭酸が抜ける。
皮のパリパリ感が湿気る。
それが何より許せない。
グルルルルッ……。
足元で、ポチが低く唸った。
その体が、ボワッと光り輝く。
さっきは制御に苦労していたはずの進化が、怒りをトリガーにして一瞬で発動する。
次の瞬間、狭い玄関ホールに巨大な影が出現した。
フェンリル化だ。
ポチもまた、食事を邪魔されたことに激怒しているらしい。
「ジーク、しずか。……飯の礼に、ちょっと働いてくれるか?」
俺が低い声で告げると、二人のS級は即座に立ち上がった。
「御意! ちょうど腹ごなしが必要でした! 師匠の食卓を汚す輩には、雷の裁きを!」
「いいわよ。食後の運動にはちょうどいいわね。……あいつら、私のトレーニング用サンドバッグにしてあげる」
ジークが雷を帯び、しずかが拳を鳴らす。
ゆき子も口の周りにタレをつけたまま、ニヤリと笑った。
「アタシも行くっしょ! ダンスの練習相手が欲しかったんだよね! 情熱的にブッ飛ばしてあげる!」
俺はドアのロックを解除した。
外には、気配を察知して臨戦態勢に入った巨大ポチが待ち構えている。
さらに、屋上の給水タンクの影からは、純子のライフルが男の眉間を捉えているはずだ。
「……哀れね。よりによって、今この瞬間のここを襲うなんて。自殺志願者かしら」
みのりが呆れたように呟き、ダックをもう一枚口に運んだ。
「行くぞ。……定時退社を妨害する『害虫』の駆除だ」
俺たちは玄関を開け放った。
そこには、S級の暴力と、食欲を邪魔された怒りが渦巻いていた。
謎の組織『蛇の目』。
彼らは知らなかったのだ。
鈴木悠作という男が、何よりも「食事の時間」を大切にしているということを。
そして、その食卓を守るためには、魔王すらも食材に変える覚悟があることを。
今宵、住宅街の一角で、一方的な蹂躙劇が幕を開ける。




