第33話 昨日の敵は今日のストーカー
月曜日。
昨日のS級昇格試験という名の「公開処刑」から一夜が明けた。
世間では、俺、鈴木悠作がS級探索者に昇格したというニュースよりも、最強の剣士「雷帝」ジーク・ヴァイスの勝負パンツが「ファンシーなクマさん柄」だったという話題で持ちきりだった。
ネットニュースのトップには、『雷帝、敗北! クマさんに癒やされる視聴者続出』『あのパンツはどこで売っているのか? 特定班が始動』といった見出しが踊っている。
俺としては、彼には同情する。
だが、それ以上に「これでやっと平穏な日常が戻ってくる」という安堵感の方が強かった。
午前7時。
俺はいつものように起床し、ポチの散歩と朝食の準備を済ませ、アパート『ひまわり荘』を出た。
今日は協会の呼び出しもない。久しぶりに自分のペースで、近場の浅層ダンジョンで食材集めでもしよう。
そう思って、補強された鋼鉄製のドアを開けた瞬間だった。
「…………」
目の前に、土下座をしている男がいた。
場所は、アパートの共用廊下。
築40年の古びたモルタルの床に、額を擦り付けんばかりに平伏している金髪の男。
昨日、俺と戦った「雷帝」ジーク・ヴァイスだ。
彼は昨日のボロボロの状態とは違い、仕立ての良さそうな真新しい高級スーツに身を包んでいた。髪も整えられている。
だが、その背中からは、昨日の傲慢さは消え失せ、代わりに悲壮感と、何かに取り憑かれたような異様なオーラが漂っている。
「……おい、何してる」
「はっ! おはようございます、師匠!」
俺が声をかけると、男はバネ仕掛けのように顔を上げた。
整った顔立ち。鋭い碧眼。
しかしその目は充血し、隈ができている。一睡もしていない顔だ。
「……お前、昨日あれだけ恥かいて、よく顔を出せたな」
「恥? ……ええ、かきましたとも!」
ジークは立ち上がり、胸を張って叫んだ。
近所迷惑な声量だ。
「全世界に趣味を晒し、プライドをへし折られた! だが、それ以上の衝撃だったのです! 貴方のあの技術! 既存の武術理論を覆す、神域の体捌き!」
「……声がでかい」
「一晩考えましたが、どうしても解法が見つからない! 恥も外聞も捨てて参りました! どうか私に、その極意をご教示願いたい!」
ジークがジリジリと詰め寄ってくる。
昨日の敵対心はどこへやら、完全に「狂信者」の目になっていた。
エリートが一度折れると、反動でこうなるのか。むしろ昨日より厄介だ。
「教えることなんてない。あれはただの……家事の延長だ」
「家事!? まさか、あの神速のベルト切断が、家事スキルだと言うのですか!?」
「ああ。魚を三枚におろす時の手首のスナップと一緒だ」
「なんと……! 料理とは、そこまで深淵なものだったのか……!」
勝手に納得して震えている。
面倒くさい。とにかく面倒くさい。
俺はため息をつき、彼を無視して階段を降りようとした。
だが、ジークは俺の行く手をサイドステップで塞いだ。速い。無駄にS級の動きだ。
「どけ。仕事に行くんだ」
「なら私も同行します! カバン持ちでも靴磨きでも何でもする!」
グゥゥゥゥ……。
その時、ジークの腹から雷鳴のような音が響いた。
昨日から何も食わずに考え込んでいたのだろう。
「……はぁ」
俺は足を止めた。
空腹の人間を放っておくのは、料理人の矜持に反する。
それに、このまま外で騒がれて警察沙汰になるよりはマシだ。
「……入れよ。残り物でいいなら食わせてやる。食ったらすぐ帰れよ」
「! かたじけない、マスター!」
部屋に入ると、ポチが「うわ、変なのが来た」と露骨に嫌な顔をして、五右衛門の中に潜り込んだ。
俺はジークをちゃぶ台の前に座らせ、キッチンに立った。
冷蔵庫にあるのは、昨日の残りの豚ロース薄切り肉と、使いかけの玉ねぎ。
パパッと作れるものといえば、これしかない。
「『生姜焼き』でいいか?」
「ショウガヤキ……? 東方の島国の料理ですか。頂いたことはありませんが、毒でなければ何でも」
俺はフライパンを火にかけ、豚肉を広げて焼く。
脂身から出た油で、薄切りにした玉ねぎもしんなりするまで炒める。
肉の色が変わったら、合わせておいたタレを一気に流し込む。
醤油、酒、みりん、砂糖。そしてたっぷりのすりおろし生姜。
ジュワアァァァァッ!!
醤油が焦げる香ばしい匂いと、生姜の爽やかな刺激臭が狭い部屋に充満する。
これぞ、日本の定食屋の香りだ。
最後にタレを煮詰め、肉にしっかりと絡める。
千切りキャベツを山盛りにした皿に、熱々の肉をドサッと乗せる。
フライパンに残ったタレも、余さずにかける。キャベツがタレを吸ってしんなりするのがまた美味いのだ。
丼飯と味噌汁を添えて、完成。
「食え」
「……これが、ショウガヤキ……」
ジークは箸をぎこちなく持ち、肉と玉ねぎをまとめて掴んだ。
そして、口に運ぶ。
「……っ!!」
咀嚼した瞬間、カッ! と目を見開いた。
「なんだこれは!? 辛味と甘味、そして塩気のバランスが絶妙だ! 豚肉の脂の甘さを、この茶色いソースが極限まで引き立てている!」
「ご飯に乗せて食ってみろ」
言われるがまま、ジークは肉を白飯にバウンドさせ、タレの染みた米ごとかき込んだ。
「美味い!! なんだこの破壊力は! 魔力が……身体の奥底から湧き上がってくるようだ!」
ただの糖質とタンパク質と塩分だ。
俺は冷蔵庫からマヨネーズを取り出し、彼の皿の脇にニュッと絞った。
「味変だ。つけてみろ」
「この白い物体を……?」
ジークは恐る恐る、生姜焼きにマヨネーズを少しつけ、口に入れた。
その瞬間、彼の背後に稲妻の幻影が見えた気がした。
「……罪の味がする」
「だろ?」
「濃厚なコクと酸味が加わり、暴力的なまでの旨味に進化しました。……マスター、貴方は天才か?」
ジークは一心不乱に箸を動かし始めた。
さっきまでの気取った態度はどこへやら、口の周りをタレだらけにして丼飯をかき込んでいる。
その姿は「雷帝」ではなく、ただの食いしん坊な若者だった。
やれやれ。
俺がコーヒーを淹れようとした時、インターホンが鳴るより早く、ドンドンドン! とドアが叩かれた。
「ちょっと悠作! いるんでしょ! 開けなさいよ!」
「……みのりか」
この暴力的なノックと声。間違いない、伊藤みのりだ。
俺はドアを開けた。そこには、いつものパンツスーツ姿で、眉を吊り上げたみのりが立っていた。
「おはよう、悠作。ライセンス更新の手続きに来たんだけど……」
言いかけて、みのりの言葉が止まった。
彼女の視線が、部屋の中――正座して白飯をかき込む金髪の男に釘付けになる。
「……は? なんでジークがいんの? しかもなんで普通にご飯食べてんのよ!?」
「おかわり!」
「自分でよそえ」
俺はジークを一瞥し、頭を抱えるみのりに向き直った。
「すまん、変なのが居座っててな。用事ってのは手続きだけか?」
「そうよ。……でも、この状況じゃ無理ね。私の胃が死ぬわ」
「だよな。場所を変えよう。今すぐに」
俺はサンダルを突っ掛けた。
このままここにいたら、ジークの「弟子入り問答」が再開してしまう。
それに、久しぶりにみのりと話したいこともあった。
「おいジーク。食ったら食器は洗って帰れよ。絶対に帰れよ」
「ま、待ってくださいマスター! まだ修行の申し込みが!」
「五右衛門、見張ってろ!」
『合点でヤンス!』
俺はみのりの手首を掴み、強引にアパートの外へと連れ出した。
駅前のカフェ。
平日の午前中ということもあり、店内は空いていた。
俺たちは奥のボックス席に座り、とりあえずコーヒーを注文した。
「……はぁ。ほんと、あんたの周りってロクなこと起きないわよね」
「否定はしない。……餌付けされた野良犬が増えただけだと思ってくれ」
俺は苦笑しながらコーヒーを啜った。
みのりは「野良犬って……S級よ?」と呆れつつ、タブレットを取り出して事務的な説明を始めた。
S級昇格に伴う報酬の増額、アクセス権限の拡大、そして協会からの専属契約のオファー。
一通りの説明が終わると、みのりはタブレットを閉じ、大きく息を吐いた。
「ふぅ……。これで事務手続きは完了。お疲れ、S級探索者・鈴木悠作」
「よしてくれ。俺はただの荷物持ちだ」
「いつまで言ってんのよ。もう通用しないわよ、それ」
みのりがニカっと笑う。
仕事モードの険しさが抜けたその笑顔を見ると、俺も少し肩の力が抜けた。
「……なあ、みのり。この後、時間あるか?」
「え? あー……まあ、今日は直帰予定だから、このまま上がれるけど」
「なら、少し付き合ってくれないか。……美味い店、見つけたんだ」
俺の言葉に、みのりの目が丸くなった。
そして、みるみるうちに頬が朱に染まり、疑るような目で俺を見てくる。
「……はあ? それ、デートの誘いってことでいいわけ?」
「まあ、そうなるかな。いつも迷惑かけてるお詫びと、昇格祝いってことで」
みのりは口元を押さえ、少し視線を泳がせた後、小さく頷いた。
「……行くわよ。タダ飯なら付き合ってあげる。……昇格祝い、期待してるから」
俺が案内したのは、路地裏にある隠れ家的な洋食屋だった。
ランチタイムを過ぎているので、客は俺たちだけだ。
「へえ、いい雰囲気じゃない」
「だろ? ここのデミグラスソースが絶品なんだ」
俺たちが注文したのは、名物の『特製オムライス』。
ふわふわの卵の上に、黒に近い濃厚なデミグラスソースがかかっている。
みのりはスプーンで一口食べると、驚いたように目を見開いた。
「……んっ! 何これ、美味しい……! 卵トロトロじゃない」
「胃薬ばっかり飲んでる胃には、こういう優しいのが一番だろ」
「うっさいわね……。誰のせいで胃が荒れてると思ってんのよ」
みのりは憎まれ口を叩いたが、その表情は協会で見せる疲れた顔とは別人のように明るかった。
俺たちは、仕事の話抜きで色々な話をした。
ポチの成長具合、ゆき子のアパート占拠問題、すずの意外な天然エピソード。
話しているうちに、俺は改めて思った。
彼女は、俺の周りの「規格外」な連中の中で、唯一の常識人であり、俺が一番自然体でいられる相手なのかもしれない。
「……あのさ、悠作」
食後の紅茶を飲んでいる時、みのりが改まった様子で切り出した。
「私、担当があんたで良かったのかもね」
「そうか? 胃痛の原因だろ?」
「ま、否定はしないけど。……でも、退屈はしなかった。毎日が驚きの連続で、ハラハラして……でも、あんたが作る料理や、何気ない優しさに触れるたびに、頑張ろうって思えたのよ」
みのりは真っ直ぐに俺を見て言った。
その瞳は潤んでいて、揺るがない信頼の色があった。
「あんたの背中、私が守ってあげるわよ。……書類仕事と隠蔽工作でね」
「はは、頼もしいな。……よろしく頼むよ、最高のパートナー」
俺たちはグラスを軽く合わせた。
甘い雰囲気が漂う。
アパートでのドタバタを忘れ、穏やかな時間が流れる――はずだった。
その時、俺の脳内に直接、焦ったような声が響いた。
魔法契約を結んでいる『五右衛門』からの念話だ。
『旦那! 大変でヤンス! あのクマパンツ男が「食後の運動だ」とか言って、アパートの壁をぶち抜いてトレーニングを始めやがったでヤンス!』
『あと、純子の嬢ちゃんがライフル持って屋上に陣取ったでヤンス! 戦争でヤンス! 早く帰ってきて!』
「…………」
俺は無言で、持っていたティーカップをソーサーに戻した。
みのりが「また?」と言いたげに首を傾げる。
「どうしたのよ?」
「いや……。どうやら俺の『日常』は、まだ遠いみたいだ」
俺は苦笑し、伝票を掴んだ。
「行くぞ。……トラブル発生だ」
デートはこれにて終了。
だが、みのりと過ごした短い時間は、俺にとってS級ライセンスよりも価値のある報酬だった。
俺たちは店を出て、戦場へと走り出した。
夕日が、俺たちの背中を長く伸ばしていた。




