第27話 S級へのラストスパート
金曜日の朝。
カオスを極めた温泉慰安旅行から二日が経ち、俺、鈴木悠作のアパート『ひまわり荘』203号室には、束の間の日常が戻ってきていた。
玄関ドアは、先日しずかが破壊した後、彼女自身が持ち込んだ鋼鉄製のプレートで補強修理されている。見た目は要塞の入り口だが、機能はしている。
「……おはようございます、悠作さん」
その厳ついドアを開けて入ってきたのは、スーツ姿の伊藤みのりだった。
彼女の顔は真剣そのもので、手には協会の紋章が入った重厚な封筒が握られている。
「……来たか」
俺は箸を置いた。
今まさに、朝食の『厚焼き玉子サンド』を食べようとしていたところだったが、食欲が一気に減退するのを感じた。
「ええ。正式な『S級探索者昇格試験』の最終通知書よ」
みのりが封筒をちゃぶ台に置く。
部屋に居候しているメンバー――ゆき子、瞳、しずか――が一斉に注目する。
足元で玉子サンドのパンの耳をねだっていたポチも、空気を読んで「クゥン」と鳴いた。
「試験日は明後日、日曜日よ」
「急だな。……で、内容は?」
「開封するわよ」
みのりがペーパーナイフで封を切る。
中から出てきた書類には、試験内容と判定基準が記されていた。
『一次審査:書類選考(免除)』
『二次審査:実技試験(ダンジョン攻略)……合格(免除)』
『三次審査:筆記試験および最終面接』
「……実技は?」
「以前話した通りよ。一昨日の温泉ロケ……あの配信の戦闘記録が、審議会で正式な実技データとして受理されたわ」
みのりが胸を張る。
あのハチャメチャな動画が試験代わりになったのか。
まあ、S級ポーターのしずかが整地し、A級のすずや瞳が暴れ回る中で、俺が平然としていたのだから、実力の証明には十分すぎるほどだったらしい。
「裏で相当根回ししてくれたんだろ? ありがとな、みのりちゃん」
「ふふ、感謝しなさいよ。……でも、問題はここから」
みのりが指差したのは、残りの項目だ。
『筆記試験』と『最終面接』。
「悠作、あんたの実力は申し分ないけど……筆記と面接はガチよ。特に面接は、協会の重鎮たちが『品格』を見るから、作業着で『あー、だるい』なんて言ったら即不合格よ」
「……面倒くさい。全部免除にしてくれよ」
「ダメに決まってるでしょ! S級は国の顔にもなるんだから!」
俺は頭を抱えた。
机に向かって勉強なんて、何年ぶりだ。
それに、偉そうな爺さんたちの前で作り笑いをするなんて、想像しただけで蕁麻疹が出る。
「大丈夫です! 私たちがついています!」
突然、玄関の方から元気な声がした。
食材の買い出しに来ていたトップランカー、高橋すずだ。
その後ろには、またしても集金に来た骨董店主・加藤茜、そしてシフト前に寄ったというコンビニ店員・山口純子の姿もあった。
全員集合。
狭い部屋に7人の女性と一匹の魔獣。酸素が薄い。
「悠作さんをS級にするためなら、全力でサポートします! ……私、面接対策の教官をやりますから!」
すずが鼻息荒く宣言する。
すると、他の連中も次々と立ち上がった。
「筆記試験の傾向と対策は、私が分析済みです。過去10年分の出題パターンから、最適解を導き出しました」
瞳が分厚いファイルをドンと置く。
「暗記効率を最大化するための『脳活性化ドリンク』も用意してあります。味は……多少刺激的ですが」
「遠慮しておく。腹を壊したくない」
俺が拒否すると、今度はゆき子が踊りながら前に出た。
「試験なんてノリっしょ! テンション上げてけば合格間違いなし! アタシが『合格の舞』を踊ってあげる!」
「邪魔なだけだ」
「えー、ひどーい!」
さらに、上座で電卓を叩いていた茜が口を挟む。
「面接用のスーツは、当店で手配させていただきますわ。S級にふさわしい、最高級のダンジョン・シルクを使ったオーダーメイド……もちろん、ローンに追加しておきますわね」
「……吊るしのスーツでいいよ」
「ダメですわ。見た目が9割ですもの。資産価値を高めませんと」
外堀が埋められていく。
彼女たちにとって、俺のS級昇格はもはや既定路線であり、自分たちが関わることで「実績」を作ろうとしているのが見え見えだ。
純子に至っては、笑顔で物騒なことを呟いている。
「試験会場までのルート上の不審者は、私が全て『排除』しておきますね♡ 遅刻なんてさせませんから」
「……信号機くらいにしとけよ」
カオスだ。
これから試験日までの二日間、この部屋が地獄の合宿所になる未来が見えた。
「……はぁ」
俺はため息をついた。
勉強、面接練習、衣装合わせ。
逃げ場はない。
「悠作」
その時、低い声が俺を呼んだ。
山田しずかだ。
彼女は部屋の隅に置いていた鋼鉄製コンテナを背負うと、俺を見下ろした。
「座学も大事だけど、身体が鈍っては意味がないわ。基礎体力の維持も試験のうちよ」
「……まあ、そうだな」
「行きましょう。トレーニングに付き合ってあげる」
「トレーニング?」
しずかはニヤリと笑った。
「外の空気を吸いながら、いい汗をかきましょう。……拒否権はないわよ?」
その言葉は、今の俺にとって一番魅力的な提案に聞こえた。
この酸素の薄い部屋で詰め込み勉強をさせられるよりは、体を動かしている方がマシだ。
「……わかった。付き合うよ」
「決まりね」
しずかが嬉しそうに微笑む。
背後で「あ、しずかさん抜け駆け!?」「ズルイです!」という声が聞こえたが、俺は聞こえないフリをしてサンダルを突っかけた。
俺たちがやってきたのは、アパートから数キロ離れた場所にある、広大な河川敷の公園だった。
平日ということもあり、人はまばらだ。
「……で、何をするんだ?」
「これよ」
しずかは背負っていたコンテナを下ろし、中から何かを取り出した。
それは、重厚な革で作られた『ウェイトベスト』だった。
「これを着て。総重量50キロよ」
「……地味だな」
「基礎こそが最強の武器よ。さあ、まずはランニングから」
俺はベストを装着した。
ズシリとくる重み。だが、五右衛門のサポートなしでも、この程度なら苦にはならない。
しずかはコンテナを背負ったまま、軽い足取りで走り出した。
「行くわよ!」
「へいへい」
俺たちは並んで走り出した。
風が心地よい。
アパートの喧騒から離れ、体を動かすのは久しぶりの解放感があった。
10キロほど走ったところで、休憩をとることになった。
土手に腰を下ろし、しずかが持参したスポーツドリンクを渡してくれる。
「……いいペースね。息一つ上がっていないじゃない」
「まあな。荷運びは本職だからな」
「ふふ、そうね。……ねえ、悠作」
しずかが汗を拭いながら、俺の方を見た。
運動後の上気した肌が、健康的な色気を放っている。
「私、貴方とこうして二人で過ごすの、初めてね」
「そうだな。いつもは誰かしら騒がしいのがいるからな」
「……悪くないわね、こういうのも」
しずかは遠くの川面を見つめ、穏やかに言った。
「私、ずっと一人で重い荷物を背負ってきた。S級なんて肩書きがつくと、周りは誰も手伝ってくれなくなるの。『彼女なら大丈夫だ』って」
「……」
「でも、貴方は違った。あの時、私の荷物を支えてくれた。……あんなに軽々と」
彼女の声が少し震える。
強靭な肉体の内側にある、孤独な少女のような一面。
「だから、悠作。……S級試験、絶対に受かってね」
「……ああ」
「貴方がS級になったら、もっと重い荷物を背負わされることになるわ。でも、大丈夫」
しずかは俺の肩に、自分の肩をコンとぶつけた。
「私が半分、持ってあげるから。……貴方の荷物持ちとしてね」
それは、不器用だが、何よりも力強い告白だった。
俺は背中のウェイトベストの重みを感じながら、小さく頷いた。
「……頼りにしてるよ」
「ええ。任せておきなさい」
しずかが嬉しそうに笑う。
二人の間には、言葉よりも確かな「重力」という絆があった。
「……さて。腹も減ったし、飯にするか」
「賛成。私、お腹ペコペコよ」
俺たちは近くの定食屋に入り、カツ丼と大盛り蕎麦のセットを平らげた。
洒落たデートではないが、今の俺たちにはこのカロリーが必要だった。
午後、アパートに戻ると、そこは再び地獄絵図だった。
「遅いですよ悠作さん! 勉強の時間です!」
「師匠! ダンスの振り付け考えたから見て!」
「採寸の続きをしますわよ! 股下を測らせてくださいませ!」
瞳、ゆき子、茜が待ち構えていたかのように群がってくる。
すずとみのりも「面接練習しましょう!」と鬼の形相だ。
純子は「不審者はいませんでしたか?」と物騒な確認をしている。
「……はぁ」
つかの間の休息は終わった。
俺は覚悟を決めた。
「わかった、やるよ。全部やってやる」
俺は参考書を開き、メジャーを持った茜に身を任せ、ゆき子のダンス指導を受け入れた。
しずかは部屋の隅で、満足げにプロテインを飲んでいる。
ポチはしずかの筋トレグッズを新しいおもちゃだと思ってガリガリと噛み砕き、瞳の参考書を枕にして爆睡していた。
「……試験より、こいつらの相手をする方が疲れる」
俺の悲痛な独り言は、女性たちの熱気にかき消された。
S級へのラストスパート。
それは、俺の平穏な生活への、最後のお別れの儀式でもあったのかもしれない。




