第24話 七つ巴の修羅場
火曜日の夜。
協会本部でのS級昇格試験の筆記および面接という、マスコミと上層部に囲まれた地獄の精神的拷問を終え、俺はアパート『ひまわり荘』へと帰還した。
体は鉛のように重い。精神的にも完全に摩耗している。
だが、玄関の前まで来た瞬間、中から漂ってくる異常な気配と匂いに、俺は更に重いため息を吐き出すことになった。
「……またか」
俺は重い足取りで玄関のドアノブに手をかけ、ゆっくりと押し開けた。
隙間から漏れ出る眩い光と喧騒。
そこには、物理法則を無視したような人口密度の空間が広がっていた。
「あ、鈴木さん! 面接お疲れ様でした!」
エプロン姿でキッチンに立っているのは、A級トップランカー・高橋すず。
彼女の手には菜箸ではなく、高級デパートのロゴが入った紙袋が握られている。ちゃぶ台の上には、彼女が買ってきた色とりどりの高級惣菜が所狭しと並べられていた。
「今日は特選和食御膳です! 私が厳選した老舗の味ですよ!」
「……おう。料理はしないって約束だもんな」
「はい! 私が作るとキッチンが氷結するか爆発するので、食べる専門と調達係に徹します!」
潔い。彼女なりの「ご飯担当」としての最適解なのだろう。
「師匠〜! 遅いよ〜! アタシ足が痺れてきた!」
部屋の真ん中でファッション誌を広げているのは、ギャル探索者・山本ゆき子。
彼女の膝の上では、ポチがへそ天で爆睡している。一見ほのぼのとした光景だが、ゆき子の太腿は小刻みに震え、顔には脂汗が滲んでいた。
「……重いのか?」
「当たり前っしょ! こいつ、寝ると質量操作が切れて漬物石みたいに重くなるんだもん! 200キロはあるよ!」
「なら下ろせよ」
「やだ! これはB級探索者としての筋トレなの! 師匠に認めてもらうための修行!」
根性があるのか馬鹿なのか分からない。
「……歩行リズムに乱れあり。精神的疲労蓄積度90%。推奨:即座の糖分とアルコールの摂取」
壁際でタブレットを操作しているのは、白衣の特任准教授・中村瞳。相変わらずのデータ収集癖だ。
「鈴木悠作、お帰り。……ふぅ、今日の現場は荷物がヘビーだったわ」
窓際でプロテインをシェイクしているのは、S級ポーター・山田しずか。彼女の背負っていた巨大コンテナは、絶妙なデッドスペースに完璧なパッキングで鎮座している。
「あら悠作様、お疲れ様ですわ。S級昇格に伴う今後の資産運用プランを計算しておきましたわよ」
上座で目にも留まらぬ速さで電卓を叩いているのは、骨董店主・加藤茜。今日も商魂たくましい。
「う〜……仕事終わりのビールが五臓六腑に染み渡るぅ……。悠作さん、面接官満場一致でのS級合格おめでとう! これで私の仕事も一つ片付いたわ!」
そして、テレビの前で既に出来上がっているのは、協会職員・伊藤みのり。
すず、ゆき子、瞳、しずか、茜、みのり。
合計6人。
狭い1Kの部屋に、個性も職業もバラバラな美女たちがひしめき合っている。酸素が薄い。そして何より、視覚的な情報量が多すぎる。
「……俺の家は、いつから女子寮になったんだ?」
俺は安全靴を脱ぎながら呟いた。
誰も帰ろうとしない。むしろ、ここが自分たちの前線基地であるかのように振る舞っている。
「さあ鈴木さん、座ってください! ビール冷えてますよ!」
「師匠、この雑誌の秋コーデどう思う?」
「……夕食のカロリー計算、完了しました」
「鈴木悠作、私のプロテイン飲む?」
「おやおや、まずはご返済の確認が先ですわよ?」
「だーかーら! 今は飲む時間なの! 乾杯!」
喧々囂々。
彼女たちの声が鼓膜を打つ中、俺は五右衛門を背にして力なく座り込んだ。
平穏とは程遠い。だが、不思議と居心地の悪さは感じないのが、俺の感覚もすっかり毒されている証拠かもしれない。
その時だった。
ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴った。
また客か? これ以上人口密度が増えたら本当に床が抜けるぞ。
「……はーい」
すずが小走りで玄関に向かう。
そこには、爽やかな笑顔を浮かべた女性が立っていた。
「こんばんはー! 『ダンジョンマート』でーす! ご注文の品をお届けに上がりました!」
コンビニの制服を着た、黒髪ロングの清楚な美女。山口純子だ。
手には大きなレジ袋を提げている。
「あ、純子ちゃん! わざわざありがとう!」
「いえいえ! お店が忙しくて抜け出せなかったので、私が直接配達しちゃいました!」
純子はニコニコと笑いながら、部屋に入ってくる。
これで7人目。キャパシティが完全に限界を突破した。
「悠作さん、お待たせしました! 追加のビールと、おつまみセットです!」
「おう、悪いな。……って、俺、何も頼んでないぞ?」
「ふふっ、わかってますよぉ。悠作さんの顔を見れば、ビールを切らしていることも、今日は何が食べたいかもわかりますから」
純子は手際よくビールを冷蔵庫に入れ、おつまみをテーブルに広げた。
その甲斐甲斐しすぎる動きに、他の女性陣が一瞬動きを止める。
生活に根ざした「できる女」のオーラを強烈に感じ取ったのだ。
「あら、新しいお仲間?」
茜が目を細める。
「コンビニの店員さん? 可愛いー!」
ゆき子が無邪気に言う。
だが、純子の目は全く笑っていなかった。
彼女は部屋を見渡し、6人の女性たちを一人一人、狙撃手のように値踏みして観察した。その瞳の奥には、氷点下の冷徹な光が宿っている。
「……へぇ。随分と賑やかですね、悠作さん」
純子は俺の隣にスルリと座り、自然な動作で俺の肩に触れた。距離が異常に近い。
「皆さん、悠作さんと仲が良いんですねぇ。……でも」
純子は口元に妖艶な笑みを浮かべ、強烈な爆弾を投下した。
「悠作さんの購買レシートの履歴から、過去3年分の生活習慣すべてをデータベース化して把握しているのは……私だけですけどね?」
ピシリ。
部屋の空気が凍りついた。
「……え?」
すずの手から箸が滑り落ちそうになる。
「毎日何時に来店して、何を買って、どんな顔で帰っていくか。体調が悪い時は消化に良いものを、元気な時はガッツリしたものを……。悠作さんの体調管理は、私が一番完璧に掌握できている自信があります」
純子は悪びれもせず、スマートフォンを取り出し、画面に表示された緻密なグラフを見せつけた。
「ほら。去年のクリスマスイブは、チキンと缶ビールを買って一人で過ごしましたよね? 一昨年の誕生日は、プレミアムビールを一本だけ贅沢してましたよね? ……ふふ、全部知ってますよ。貴方の歴史を」
重い。
愛の質量が、物理的に重すぎる。
俺は部屋の温度が急激に下がったのを感じた。最強の探索者たちですら、この生活インフラを握りしめた執着心のバケモノを前にして、明らかなドン引きの表情を浮かべて戦慄している。
「さあ悠作さん、今日はイカの燻製ですよね? 面接で疲れた日はこれを選ぶ確率が87%だって、データに出てますから」
純子は袋を開け、俺の口元にイカを差し出した。
俺は冷や汗を流しながら、それを食べた。美味い。だが、背筋が死ぬほど寒い。
こうして、7人目の守護天使が正式に参戦し、俺のアパートは名実ともに逃げ場のない修羅場と化したのだった。
★★★★★★★★★★★
喧騒が続く中、俺は息苦しさを感じて立ち上がった。
酒も料理も美味いが、常に全方位からの視線と牽制に晒されている状況は、S級面接以上に精神を削る。少し、外の空気を吸いたかった。
「……ちょっと、外の自販機まで行ってくる」
「えっ、何か買い忘れですか? 私が持ってきますよ?」
純子が即座に反応する。
「いや、いい。……風に当たりたいだけだ。すぐに戻る」
適当な理由をつけて、俺は逃げるように部屋を出た。
背後で「あ、私も行く!」「悠作さん待って!」という声が聞こえたが、無視して階段を降りる。
夜の住宅街。
冷たい秋風が、火照った頬を撫でる。
アパートから少し離れた公園のベンチに座り、俺は深く息を吐き出した。
「……はぁ。疲れる」
自販機で買ったブラックコーヒーを開ける。静寂が心地よい。
ポチの散歩コースでもあるこの公園は、夜になると人通りが途絶え、俺だけの隠れ家になるはずだった。
「……心拍数、および血圧が正常値まで低下しましたね」
隣から、極めて冷静な声が聞こえた。
ビクッとして横を見ると、ベンチの端に、白衣を着た中村瞳が座っていた。
「……お前、いつの間に」
「貴方が部屋を出た直後です。解析眼で行動パターンと歩幅から目的地を予測し、最短ルートで先回りしました」
瞳はタブレットを見せつけた。
そこには、俺のストレス値のバイタルグラフが表示されている。部屋にいる時は真っ赤だったグラフが、今現在は緑色の安定値を示していた。
「……ストーカーもここまで来ると感心するよ」
「研究熱心と言ってください。……それに、私も少し、あの空間の非論理的な熱量と愛憎に当てられて疲弊しました。データ処理が追いつきません」
瞳は小さくため息をつき、眼鏡を外した。
素顔の彼女は、マッドサイエンティストというよりは、どこか儚げな美少女に見えた。月明かりに照らされた横顔が、妙に大人びて見える。
「……隣、いいですか?」
「もう座ってるだろ」
「距離の問題です。……もう少し、近くで微細なバイタルデータを取らせてください」
瞳は俺の方にスリッと詰め寄った。
肩が触れ合う距離。彼女から漂うのは、いつもの薬品の匂いではなく、微かなシャンプーの甘い香りだった。
「……鈴木さん」
「ん?」
彼女は夜空を見上げながら、ポツリと言った。
「私、自他の感情や生理的衝動というものは、すべて生化学的データとして完璧に解析できるものだと思っていました。ドーパミンやセロトニンの分泌量さえ測定すれば、人間の行動は完全に言語化できると」
「まあ、そんなもんだろ。お前はいつもそうやって数式で片付けてるじゃないか」
「ええ。でも、貴方を見ていると……私自身の生体反応に、未知のエラーが起きるのです」
瞳は俺の方を向き、眼鏡を外した真っ直ぐな瞳を向けた。
「貴方の作る料理を食べた時。貴方の戦い方を見た時。そして今、こうして貴方の隣にいる時……私の心拍数、体温、交感神経の活性化度合い……そのすべてが、既存のどんな化学反応式にも当てはまらない異常値を示しています。完全に論理が破綻したバグです」
彼女の細く冷たい手が、俺の手の甲にそっと重ねられた。
「でも、不思議ですね。私はこの非論理的なエラーを、修正したくないと思っている自分に気づきました。……むしろ、もっとこのバグを発生させたいとすら感じている」
「……」
「教えてください。この計算式を。……いいえ、まだ答えは出さなくていいです。ただ、この未知のバグの正体が完全に解明できるまで、貴方の隣の特等席は、誰にも譲るつもりはありませんから」
それは、感情を数式でしか理解できなかったマッドサイエンティストなりの、精一杯の恋の定義づけだった。
「……難しく考えすぎだ」
俺は彼女の手を握り返したわけではないが、振り払うこともしなかった。
「腹が減ったら食う。眠くなったら寝る。心地いいと思ったら、そこにいる。……それだけだよ」
「……シンプルですね」
「ああ。世の中、数式で割り切れないことの方が多いんだ」
瞳はふわりと笑った。
いつもの冷笑や狂気を孕んだ笑みではない、純粋で柔らかな笑顔。
「……そうですね。……今のこの胸の動悸も、既存の数式では到底表せそうにありません」
彼女は俺の肩に、こつんと頭を預けた。
静かな時間。アパートの喧騒が嘘のようだ。俺たちはしばらくの間、言葉もなく夜風に吹かれていた。
これがデートと呼べるものなのかは分からない。
だが、悪くない時間だった。騒がしい居候たちとの生活の中で、こうした静寂もたまには必要だ。
「……そろそろ帰るか」
「はい。本日の静的データの収集は、これで十分です」
瞳は少し名残惜しそうに、しかし満足げに立ち上がった。
俺たちは並んでアパートへの道を戻る。
その途中、瞳が俺の作業着の袖をそっと掴んだまま離さなかったことに、俺は気づかないフリをした。




