第18話 天才の食卓事情
金曜日、昼下がり。
練馬ダンジョン、第8階層。
薄暗い洞窟の中に、俺の足音と、背後から聞こえるブツブツとした不気味な呟きだけが響いていた。
今朝、アパートのエントランス前で中村瞳が展開した『重力結界』に捕まった俺は、莫大なアパート修繕費という現実的な恐怖から、実力行使での突破を諦めざるを得なかった。結果、「本日のダンジョン探索に同行させ、行動データを収集させる」という理不尽な妥協案を呑むことで、なんとか結界を解除してもらったのだ。
「……歩幅75センチ、完全に一定。呼吸リズム、乱れなし。体表面からの魔力放出量、測定不能レベルで微弱……やはり異常です。この環境下で魔力による肉体強化を行っていないとすれば、計算が全く合いません」
背後霊のようにピタリと張り付いているのは、俺の日常を脅かす新たな頭痛の種、中村瞳だ。
彼女は純白の実験用白衣を翻し、手にしたタブレット端末を高速で操作しながら、俺の一挙手一投足をデータ化し続けている。
「……おい。いつまでついてくる気だ」
「必要なデータが十分に揃うまでです。貴方の行動パターン、戦闘時の思考アルゴリズム、そして生体反応……そのすべてを数式として解明するまでは、決して離れません」
瞳は無表情のまま中指で眼鏡の位置を直し、冷徹に言い放った。
彼女のスキル『解析眼』は常にフル稼働しており、俺の筋肉の微細な動きまで丸裸にしようとしているらしい。背中に突き刺さる探求心の視線が、やりにくいことこの上ない。
ポチは「グルゥゥ……(なんか嫌な匂いがする)」と俺の肩で低く唸り、五右衛門は『旦那ァ、あの女のジロジロ見る視線、どうにも気に食わねえでヤンス。布のプライバシーの侵害でヤンスよ』と、普段の威勢はどこへやら、布の中に引きこもっている。
「……はぁ」
俺は深いため息をつき、前方から現れたオークに向かって歩みを止めずに進んだ。
豚頭の怪物が雄叫びを上げ、太い丸太のような棍棒を振り下ろしてくる。
俺は表情一つ変えず、すれ違いざまに腰の解体ナイフを一閃させた。
ザンッ。
オークの太い首が滑り落ち、巨大な胴体が地響きを立てて崩れ落ちる。ただのいつもの作業だ。
「……ッ!」
背後で、瞳が鋭く息を呑む気配がした。
「今の攻撃……初速が音速を超えていましたが、衝撃波が一切発生していません。空気抵抗を『切断』している……? いえ、空間そのものの摩擦を完全に殺して滑っているような……」
彼女はタブレットに猛烈な勢いで数値を打ち込んでいく。カチャカチャという画面を叩く音が洞窟に響く。
「鈴木さん! 今の感覚、言語化できますか!? 筋肉のどの部位から始動しましたか!? 魔力回路の瞬間的な接続パターンはどうなっていますか!?」
「……知らん。適当に振ったら死んでた」
「適当!? そんな非論理的な解などあり得ません! もう一度お願いします! 今度は全行程をスローモーションで!」
無理を言うな。
俺は無視して足元の死骸から魔石を回収した。この調子で一日中つきまとわれるのかと思うと、古傷の腰痛とは別のベクトルで強烈な頭痛がしてくる。
探索を開始して、数時間が経過した頃だった。
唐突に異変が起きた。
ドサッ。
背後で、何かが崩れ落ちる重い音がした。
振り返ると、瞳が白衣を汚しながら地面に倒れ伏していた。
「おい、どうした!?」
俺は慌てて駆け寄る。
敵の奇襲か? 足元のトラップか? いや、気配察知にモンスターの反応はない。
瞳の肩を抱き起こすと、彼女の体は驚くほど軽く、そしてひどく冷たかった。
「……す、みません。少し……眩暈が……」
「怪我か? どこをやられた?」
「いえ……ただの、深刻なエネルギー不足です……」
「は?」
瞳は震える手で、白衣のポケットから何かを取り出した。
それは、すっかり中身が空になったゼリー飲料のパッケージだった。
「……ここ3日ほど、研究室に籠もって没頭していて……摂取したカロリーは、これを2つ飲んだきりで……」
「……」
俺は絶句した。
3日でゼリー2つ。しかも、ダンジョン探索という高負荷な環境下で、脳をフル回転させて解析スキルを限界まで使い続けていたのだ。ガス欠を起こして当然だ。
「アホなのか天才なのかハッキリしろ」
「対象の解析と思考に脳のカロリーを使いすぎて……固形物を咀嚼・消化するためのリソースを割くのを、完全に忘れていました……」
瞳はぐったりと俺の腕にもたれかかる。
このままでは、彼女は栄養失調でショック死するか、匂いに釣られたモンスターの餌になるかの二択だ。いくら鬱陶しいストーカーとはいえ、目の前で野垂れ死にさせるわけにはいかない。
「……まったく。最高に世話の焼けるモルモットだ」
俺は深いため息をつき、背中の五右衛門を開いた。
中から携帯用の小型魔導コンロとコッヘル、そして予備の水と食材を取り出す。
「ここで少し休憩する。ポチ、周囲の警戒だ」
「ワフッ!(了解!)」
俺はその場で、即席の野外調理を開始した。
今の瞳に必要なのは、即効性のあるエネルギーと、冷え切った体を内側から温める塩分。そして何より、低下した生存本能を無理やりにでも引き上げるような強烈な旨味だ。
メニューは『鯖の味噌煮定食』に決定。
もちろん、ダンジョン内で一から魚を煮込む時間などないので、秘密兵器を使う。
高級缶詰『金華さばの味噌煮』だ。これだけでも十分に美味いが、俺流のアレンジを加えることで、極限状態の体に染み渡る極上の山飯へと昇華させる。
コッヘルに鯖缶を汁ごと空ける。
そこに、タッパーに入れて持参したスライス生姜と、斜め切りにした長ネギをたっぷりと投入する。
さらに、ここが重要なポイントだ。隠し味として、バターをひとかけら。そして、一味唐辛子を少々振りかける。
魔導コンロに火を点ける。
グツグツと濃厚な味噌ダレが煮立ち、バターが溶け出して黄金色の美しい油膜を作る。
味噌の香ばしさとバターの重厚なコク、さらに生姜の爽やかな香りが熱気と共に混ざり合い、空腹の限界を容赦なく抉ってくるような、暴力的に濃厚な匂いが洞窟内に充満した。
もう一つの鍋でパックご飯を素早く湯煎し、シェラカップでお湯を注ぐだけの即席味噌汁を作る。
所要時間、わずか5分。即席・鯖味噌バター定食の完成だ。
「……おい。起きろ」
俺は瞳の上半身を支えたまま、出来立ての鯖味噌を彼女の顔の前に差し出した。
「……匂い……?」
「飯だ。食わないと死ぬぞ」
瞳は焦点の定まらない虚ろな目でコッヘルの中を見た。
茶色い煮込み。見た目は決して華やかではない。
しかし、彼女の鼻がピクリと動く。極限状態に陥った肉体の生存本能が、立ち上るその香りに激しく反応したのだ。
「……いただきます」
彼女は震える手で割り箸を持ち、鯖の身を大きくほぐして口に運んだ。
パクッ。
「…………ッ!!」
瞬間。
瞳の虚ろだった瞳孔がカッと限界まで見開かれた。眼鏡の奥の眼球に、閃光のような輝きが宿る。
「……な、なんですか、これは……?」
彼女は信じられないものを見るような、驚愕の色に染まった目で鯖味噌を見つめた。
「脳の血管が急激に拡張していく……。ドーパミン、エンドルフィン、セロトニンが、異常な数値で奔流となって分泌されています……。たかが保存食の缶詰なのに、なぜこんなに……私の脳が激しい快楽信号を発信しているんですか……?」
「腹が極限まで減ってるからだろ。あとバターだ。良質な脂質と糖質と塩分の組み合わせは、疲労困憊の脳には特効薬みたいなもんだ」
「いえ、違います! ただのカロリー摂取による生理的反応の範疇を超えています!」
瞳は叫び、無表情だった仮面を完全に脱ぎ捨てて、猛烈な勢いで食べ始めた。
熱々の白飯に鯖味噌をたっぷりと乗せ、汁ごとかき込む。
味噌の深いコクとバターの風味が淡白な白飯と完璧に絡み合い、口の中で強烈な旨味の連鎖反応を起こす。生姜とネギが後味をスッキリと引き締め、いくらでも食べ進められる。
「んん〜っ! 美味しい! なにこれ、美味しいです!」
瞳の白い頬がカッと紅潮し、眼鏡が熱気と湯気で白く曇る。
そこにあるのは冷徹な研究者の姿ではなく、ただ「美味しい」という原始的な感情に支配された、一人の空腹な女性の顔だった。
「この味の構成……塩分濃度、旨味成分の相乗効果、加熱によるメイラード反応。そのすべてが私の計算を超えた完璧なアルゴリズムで構築されています。理解できない。たかが缶詰の再加熱で、どうしてこれほどの依存性を生み出せるんですか……?」
「ただの料理好きなおっさんの思いつきだよ」
俺は苦笑いしながら、むせる彼女に水の入ったペットボトルを渡した。
あっという間に完食。
瞳は空になったコッヘルを愛おしそうに抱きしめ、恍惚とした表情で俺を見た。
「……鈴木さん。仮説を修正します」
「何をだ」
「貴方の身体データだけでなく、『料理データ』の継続的なサンプリングが今後の研究に不可欠です。貴方の作る食事は、人類の栄養学を、いえ、脳科学の常識を革新する『未知のオーパーツ』です」
瞳の目が、これまで以上にギラギラと、狂気を孕んで輝き始めた。
ストーカーとしての熱量が、数倍に跳ね上がった音がした。
「これから毎日、貴方の食事を臨床データとして提供してください。これは研究の一環です。拒否権はありません」
「……勘弁してくれ。俺は飯屋じゃない」
俺は頭を抱えた。
だが、とりあえず彼女の命は救えたようだ。
瞳が自力で動けるまで回復したのを確認し、俺たちは目的の魔石をいくつか回収して、早々にダンジョンを後にした。
★★★★★★★★★★★
地上に戻ると、空はすでにオレンジ色に染まり、夕暮れ時になっていた。
ダンジョン出口の広場で、瞳が名残惜しそうに俺を見る。
「では、私は一度大学の研究室に戻り、本日のデータを整理します。……明日の朝、また朝食のサンプリングに伺いますので」
「来るなと言っても来るんだろ。勝手にしろ」
俺はシッシッと手を振って彼女を追い払った。
さて、これでやっと一人の時間が……。
「あ、鈴木さーん!」
不意に、聞き覚えのある声がした。
広場に設置されたベンチから、一人の女性が立ち上がり、こちらに大きく手を振っている。
帽子とサングラスで入念に変装した、高橋すずだ。
「……げっ」
「『げっ』とは何ですか! 約束通り、今日の晩ご飯の買い出しに付き合ってもらおうと思って、ここでずっと待ってたんですよ!」
すずは小走りで駆け寄ってくると、少しむくれたように頬を膨らませた。
そういえば、今日の夕方は彼女と晩飯の買い出しに行く約束をしていたのだった。すっかり忘れていた。
「……悪かったよ。ちょっと仕事と、想定外の厄介事が長引いてな」
「もう、仕方ないですね。……でも、無事でよかったです」
すずは俺の疲れた顔を見て、ふわりと優しく笑った。
サングラスを外したその瞳は、夕日を反射してキラキラと輝いている。
「行きましょう、鈴木さん。美味しいお肉とお酒、一緒に選びに行きますよ!」
「ああ。……荷物持ちは任せろ」
俺たちは並んで、近所の商店街へと歩き出した。
魚屋、酒屋、そして八百屋。
すずは帽子とサングラスで変装しているものの、その隠しきれないオーラと抜群のスタイルの良さから、時折すれ違う人々が次々と振り返る。
「このワイン、絶対和食に合いますよ! あ、こっちの日本酒も捨てがたいですね……」
「両方買えばいい。今日はすずが食材費を出してくれるんだろ」
「ふふ、任せてください!」
心底楽しそうな彼女とは裏腹に、俺の胃はキリキリと痛んでいた。
通行人の「モデルの撮影か?」「すげえ美人」というヒソヒソ声が耳に容赦なく突き刺さる。目立って仕方がない。完全な針のむしろだ。
平穏な定時退社を望む俺にとって、トップランカーの美女と並んで歩くなど、ただの過酷な罰ゲームでしかなかった。
「……鈴木さん」
両手いっぱいに買い物を終え、帰り道の公園で。
すずがベンチに座り、自販機で買った缶コーヒーを飲みながらぽつりと呟いた。
「私、こうやって誰かと並んで何気ない買い物をするの、すごく久しぶりです」
「そうなのか?」
「はい。いつも訓練か、ダンジョンか、撮影ばかりですから。……普通の女の子みたいな時間、すごく新鮮で」
彼女は温かいコーヒーの缶を両手で包み込み、俺を見た。
「ありがとうございます。付き合ってくれて」
「……俺は終始、周りの視線が気になって胃が痛かったがな」
俺が心底疲れた顔でぼやくと、すずは「ふふっ、すみません」と嬉しそうに笑った。
その純粋な笑顔は、どんな魔導具よりも輝いて見えたが、俺の平穏を脅かす厄介な爆弾にしか思えなかった。
――ピピ、タタタタッ。
ふと、俺の背筋にゾクリと不快な悪寒が走った。
気配察知のスキルが、少し離れた茂みの陰から、凄まじくねっとりとした視線と、タブレット端末を高速でタップする微かな音を拾い上げたのだ。
(……まだストーキングしてデータを取ってやがるのか、あの研究バカ)
茂みの奥から向けられる極太の解析眼の気配に胃をさらに痛めながら、俺は冷めた缶コーヒーを無言で煽り続けた。




