第13話 エピローグ
金曜日の夜。
一週間という戦いを終えたサラリーマンたちが、ネクタイを緩め、ネオンの瞬く街へ癒やしを求めて繰り出す時間帯。
俺にとっても、それは例外ではない。
思えば、ひどく慌ただしい一週間だった。
18階層でカイトたちに追放されたのを皮切りに、ポンコツドローンのせいでネット上で顔も知らない連中に騒がれ、数千万の借金を背負い、みのりに捕獲され、挙句の果てにS級昇格試験のシード権まで押し付けられる羽目になった。
俺の望む小市民的なキャパシティを、完全にオーバーしている。
「……今日は飲むぞ。誰の指図も受けずにな」
俺は駅前の喧騒から少し離れた裏路地に入り、赤提灯が風に揺れる大衆居酒屋『赤のれん』の暖簾をくぐった。
ここは安くて美味い、労働者たちの聖地だ。最近できたような小洒落た個室居酒屋も悪くはないが、こういう雑多な熱気とタバコの煙が入り混じる空間で、熱々のモツ煮込みをつつきながら瓶ビールを煽る方が、今の俺の気分には合っていた。
入り口近くのカウンターの端席を陣取り、おしぼりで顔を拭きながらいつものセットを注文する。
サッポロの赤星の大瓶と、よく煮込まれたモツ煮、そして自家製のポテトサラダ。
五右衛門は小さく畳んで膝の上に置き、ポチはアパートで留守番をさせている。
(出発前、恨めしそうな声で鳴いていたが、流石に居酒屋にフェンリルは連れ込めない)
久しぶりの、完全なソロ活動である。
「くぅ〜っ! 染みるわ……」
よく冷えたビールが、一週間のダンジョンの埃とストレスを洗い流すように喉を駆け抜けていく。
モツ煮込みのネギを多めに掬って口に運べば、根菜の甘みとモツの脂が味噌の風味と絡み合い、胃の底からじんわりと温かさが広がった。
周囲のサラリーマンたちの愚痴や、テレビから流れるプロ野球中継の音が、心地よいBGMとなって耳を撫でる。
平和だ。これこそが俺の求めていた日常だ。この一杯のために、俺は面倒な労働に耐えているのだ。
――ガララッ。
入り口の引き戸が開き、一人の客が入ってきた。
その瞬間、店内の空気がほんのわずかに、微小な波紋を打つように変わった気がした。
酒に酔った常連客たちは気づいていないようだが、俺の気配察知のスキルが、無意識下で微かな反応を示したのだ。
(……なんだ? ただの酔客じゃないな)
入ってきたのは、一人の女性だった。
季節外れのトレンチコートの襟を深く立て、目深に帽子を被り、顔の半分以上を覆うような黒縁メガネと大きなマスクをつけている。
怪しい。完全な不審者スタイルだ。
だが、その立ち居振る舞いには一切の無駄がなく、歩き方の重心移動は足音すら立てないほど洗練されている。隠しきれない魔力の質と体幹の強さが、彼女がただの一般人ではないことを雄弁に語っていた。
彼女は店内をキョロキョロと見回し、カウンターの端で一人飲んでいる俺を見つけると、マスクの下で明確に口元を緩める気配を見せた。
そして、空いている他の席には目もくれず、迷わず俺のすぐ隣の席へと座った。
「……ここ、空いてますか?」
声をかけられた。
澄んだ、よく通る声。どこかで聞いたことがあるような気がする。
「ああ、空いてるよ」
「ありがとうございます。……ふぅ」
彼女は席に着くなり、周囲を一瞥してから、帽子とマスク、そして黒縁メガネを外した。
現れたのは、油でベタつく赤提灯の居酒屋には似つかわしくない、端正で凛とした顔立ちだった。
輝くような金髪は、今は魔法か何かで黒く染められているようだが、根元や光の加減で本来の色彩が微かに透けて見えている。意思の強そうな切れ長の瞳が、真っ直ぐに俺を捉えていた。
(……げっ)
俺は口に含んだビールを吹き出しそうになるのを、気管を閉めて必死で堪えた。
間違いない。
高橋すずだ。
なぜこんなところに? というか、なんで俺の隣に座っている?
「……お久しぶりです、鈴木さん」
すずは、獲物を見つけた狩人のような、あるいは憧れの対象を前にしたような、ひどく熱っぽい視線を俺に向けてきた。
「……人違いじゃないですかね? 俺はただのしがない工場勤務でして」
「誤魔化しても無駄です。貴方のその背中の筋肉の付き方、そして重心の置き方……動画で、何百回も確認しましたから。私の目は誤魔化せませんよ」
すずは自信たっぷりに断言した。
どうやら逃げ道はないらしい。俺は観念して、重いため息を吐き出した。
「……何しに来たんだ、トップランカーがこんな店に。マスコミに追われてるんだろ」
「階級なんて関係ありません。……それに、貴方に比べれば、私なんてまだまだひよっこですから」
すずは真剣な表情で言い、店員にウーロン茶を注文した。
酒は飲まないらしい。アスリート並みにストイックな生活をしているのだろう。
「単刀直入に言います。……私と、付き合ってください」
「ぶふっ!!」
今度こそ、俺はビールを盛大に噴き出しそうになり、慌てて口を手で覆ってむせた。
ゴホッ、ゲホッ。店内の客が何事かとこちらを見る。
「お、おい! 何言ってんだ!? 声がでかい!」
「あ、すみません。言葉が足りませんでしたね」
すずは頬をほんのりと赤らめ、コホンと小さく咳払いをした。
「『ダンジョン探索』に付き合ってください、という意味です。……貴方のあの技術、剣筋、そして物理法則を無視したかのような身体の使い方……もっと近くで見たいんです。いえ、私に教えていただきたいんです!」
どうやら、色恋沙汰ではなく弟子入り志願(あるいは共闘の依頼)のようだ。
紛らわしい言い方をするな。寿命が縮む。
「断る。俺はソロが気楽でいいんだ。誰かと組むと、ペースが乱れる」
「そんなこと言わないでください。……お願いします! 一度でいいんです! 私、どうしても超えられない壁があって……貴方の動きを見て、これだ! って思ったんです!」
すずが身を乗り出してくる。
その整った顔が、俺の鼻先数十センチの距離まで迫る。
柑橘系の爽やかな香水の匂いがした。居酒屋の醤油とモツの匂いとは別世界の香りだ。
「……はぁ。わかった、わかったから少し離れろ。目立つ」
「じゃあ、OKですか!?」
「今度な、今度。協会から昇格試験を受けるよう言われてるんだ。それが終わって、色々と落ち着いたら考えてやる」
「昇格試験……! さすがです、やはり協会も貴方を放っておかなかったんですね!」
すずは目を輝かせ、まるで自分のことのように喜んだ。
普段のクールなイメージとは程遠い、年相応の無邪気な女の子の顔だ。
「約束ですよ? ……それまでは、私が貴方の『壁』になります」
「壁?」
「はい。マスコミや、売名目的の変な探索者が寄り付かないように、私が牽制しておきます。……貴方の隣は、まだ誰のものでもないんですよね?」
すずは上目遣いで俺を見る。
その言葉には、ダンジョンにおける前衛・後衛のポジション以上の、何か別の意味が含まれているような気がしたが、深く考えると面倒なことになりそうなので、俺はあえて鈍感なふりをした。
「……まあ、独り身だしな」
「ふふっ。言質、取りましたよ」
すずは嬉しそうに笑うと、割り箸を割り、俺が注文したポテトサラダを勝手に一口食べた。
「あ、これ美味しいですね。手作りですか?」
「人のツマミを勝手に食うな。……ここの大将のポテサラは絶品なんだ」
目を丸くして喜ぶ彼女を見て、俺はこれからの前途多難な日々を予感して、頭を抱えたくなった。
★★★★★★★★★★★
その和やかな様子を、店外からじっと見つめる視線があった。
居酒屋から300メートルほど離れた、雑居ビルの屋上。
冷たい夜風に吹かれながら、山口純子は愛用の対物魔導ライフル『ブラック・ウィドウ』のスコープを覗き込んでいた。
倍率20倍の高精度レンズ越しに、居酒屋のカウンター席が鮮明に見える。
楽しそうに談笑する悠作と、その隣で顔を赤らめてポテトサラダを食べている変装した女。
「……あらあら」
純子の声は、ひどく冷たかった。
トリガーにかけた指が、ピクリと不規則に動く。
「変装していてもバレバレですよ、高橋すずさん。……私の悠作さんに、随分と馴れ馴れしいじゃありませんか」
純子は知っている。
すずがネット配信で悠作を擁護したこと。そして、彼女が悠作に対して、単なるトップランカーとしての興味以上の感情を抱き始めていることを。
純子の瞳から、普段の愛くるしい光が完全に消え失せる。
スコープのレティクルが、すずの眉間に吸い寄せられるように重なった。
風速よし。湿度よし。魔力充填率100%。
指先に少し力を込めるだけで、あの綺麗な顔をスイカのように吹き飛ばすことができる。
「……泥棒猫が一匹。威嚇射撃が必要かしら?」
純子は独り言ちる。
内側からドロドロと漏れ出しそうになる殺意の波動を、深呼吸で必死に抑え込む。
今ここで撃てば、悠作のせっかくの楽しい晩酌を台無しにしてしまう。
それに、店内で発砲騒ぎが起きれば、警察やマスコミが殺到し、悠作に多大な迷惑がかかる。彼が何よりも望んでいる「平穏」を、自分の手で壊すわけにはいかない。
「……今回は見逃してあげます。悠作さんの、あのリラックスした笑顔に免じて」
純子はスコープから目を離し、ふぅと息を吐いた。
しかし、その口元に浮かんだ笑みは、決して穏やかなものではなかった。
「でも、次はわかりませんよ? 悠作さんの『隣』は……ずっと前から見守っていた私が一番、相応しいんですから」
彼女はスマホを取り出し、スケジュールアプリを開く。
そこには、悠作の出勤時間、ゴミ出しの曜日、ダンジョンに潜る頻度、そしてよく行くスーパーの特売日まで、彼の行動パターンがびっしりと記録されていた。
「これからはもっと、監視を強化しないといけませんね。……ふふっ、忙しくなりそう♡」
純子はライフルを手際よく分解し、専用のケースに収めると、夜の闇に溶けるように静かに姿を消した。
★★★★★★★★★★★
一時間後。
居酒屋を出た俺とすずは、駅前の交差点で別れた。
「送りますよ」と言うすずを、「ただでさえ目立つんだからやめろ。明日も朝早いんだろ」と丁重に断り、俺は一人で夜道を歩いていた。
適度に回ったアルコールが、冷たい夜風と合わさって心地よい。
「……静かに暮らしたいだけなんだがなぁ」
俺は夜空を見上げて、誰に言うでもなく呟いた。
東京の空は明るすぎて星は見えないが、雲の隙間から細い月が顔を出している。
見慣れた住宅街の景色。
角を曲がれば、俺の住むボロアパート『ひまわり荘』が見えてくる。
窓の向こうでは、きっとポチが「早く帰ってこい」と扉の前で待っていることだろう。明日の朝飯は、少し奮発してあいつの好きな肉を多めに焼いてやるか。
面倒事は絶えないが、それでも俺の日常は続いていく。
俺はアパートの階段を目指して、少しだけ足取りを速めた。




