第13話 エピローグ
金曜日の夜。
一週間という戦いを終えた戦士たちが、癒やしを求めて街へ繰り出す時間帯。
俺、鈴木悠作にとっても、それは例外ではない。
激動の一週間だった。
追放され、バズり、借金を背負い、カイトたちに襲撃され、みのりに捕獲され、S級昇格試験を受ける羽目になった。
あまりにも濃密すぎる。俺の人生のキャパシティを軽くオーバーしている。
「……今日は飲むぞ。誰にも邪魔されずにな」
俺は駅前の喧騒から少し離れた、赤提灯が揺れる大衆居酒屋『赤のれん』の暖簾をくぐった。
ここは安くて美味い、おっさんの聖地だ。
おしゃれな個室居酒屋もいいが、こういう雑多な雰囲気の中で、モツ煮込みをつつきながら瓶ビールを煽るのが、俺の性に合っている。
カウンターの端席を陣取り、いつものセットを注文する。
大瓶と、煮込み、そしてポテトサラダ。
五右衛門は畳んで膝の上に置き、ポチは家で留守番だ。
久しぶりの、完全なソロ活動である。
「くぅ〜っ! 染みるわ……」
冷えたビールが喉を駆け抜ける。
周囲のサラリーマンたちの愚痴や笑い声が、心地よいBGMとなって耳を撫でる。
平和だ。これこそが俺の求めていた日常だ。
――ガララッ。
入り口の引き戸が開き、一人の客が入ってきた。
その瞬間、店内の空気がほんの少しだけ変わった気がした。
常連客たちは気づいていないようだが、俺の「殺気感知」センサーが反応したのだ。
(……なんだ? ただの客じゃないな)
入ってきたのは、一人の女性だった。
季節外れのトレンチコートの襟を立て、深く帽子を被り、顔の半分を覆うような黒縁メガネとマスクをつけている。
完全な不審者スタイルだ。
だが、その立ち居振る舞い、歩き方の重心移動、そして隠しきれないオーラが、彼女が「一般人」ではないことを雄弁に語っていた。
彼女は店内をキョロキョロと見回し、カウンターの端にいる俺を見つけると、マスクの下で口元を緩めた。
そして、迷わず俺の隣の席へと座った。
「……ここ、空いてますか?」
声をかけられた。
澄んだ、鈴のような声。どこかで聞いたことがある声だ。
「ああ、空いてるよ」
「ありがとうございます。……ふぅ」
彼女は席に着くと、帽子とマスクを外した。
現れたのは、場末の居酒屋には似つかわしくない、息を呑むような美貌だった。
輝くような金髪。
意思の強そうな切れ長の瞳。
そして、テレビや動画サイトで見ない日はない、あの顔立ち。
(……げっ)
俺はビールを吹き出しそうになるのを必死で堪えた。
間違いない。
「氷剣の女帝」こと、A級探索者・高橋すずだ。
なぜここに?
というか、なんで俺の隣に?
「……お久しぶりです、鈴木さん」
すずは黒縁メガネの奥から、熱っぽい視線を俺に向けてきた。
その目は、獲物を見つけた肉食獣のようでもあり、憧れのアイドルを前にした少女のようでもあった。
「……人違いじゃないですかね?」
「誤魔化しても無駄です。貴方のその背中、そして筋肉の付き方……動画で何度も確認しましたから。私の目は誤魔化せません」
すずは断言した。
どうやら逃げ道はないらしい。
俺は観念して、ため息をついた。
「……何しに来たんだ、トップランカー様がこんな店に」
「『様』なんてつけないでください。……貴方に比べれば、私なんてひよっこです」
すずは真剣な表情で言い、ウーロン茶を注文した。
酒は飲まないらしい。ストイックだ。
「単刀直入に言います。……私と、付き合ってください」
「ぶふっ!!」
今度こそ、俺はビールを吹き出した。
店内の視線が一斉に集まる。
俺は慌てておしぼりで口を拭い、声を潜めた。
「お、おい! 何言ってんだ!? 声がでかい!」
「あ、すみません。言葉が足りませんでした」
すずは頬を赤らめ、コホンと咳払いをした。
「『探索』に付き合ってください、という意味です。……貴方のその技術、剣筋、そして身体の使い方……もっと近くで見たいんです。いえ、教えていただきたいんです」
どうやら、求愛ではなく弟子入り志願のようだ。
紛らわしい言い方をするな。寿命が縮む。
「断る。俺はソロが気楽でいいんだ」
「そんなこと言わないでください。……お願いします! 一度でいいんです! 私、どうしても超えられない壁があって……貴方の動きを見て、これだ! って思ったんです!」
すずが身を乗り出してくる。
伊達メガネがずり落ち、その整った顔が至近距離に迫る。
いい匂いがした。柑橘系の香水か。
居酒屋の煮込みの匂いとは別世界の香りだ。
「……はぁ。わかった、わかったから離れろ。目立つ」
「じゃあ、OKですか!?」
「今度な、今度。協会からS級の試験を受けるよう言われてるんだ。それが終わったら考えてやる」
「S級試験……! さすがです、やはり協会も貴方を放っておかなかったんですね」
すずは目を輝かせ、まるで自分のことのように喜んだ。
クールな「女帝」のイメージとは程遠い、年相応の女の子の顔だ。
「約束ですよ? ……それまでは、私が貴方の『壁』になります」
「壁?」
「はい。マスコミや変な虫がつかないように、私が牽制しておきます。……貴方の隣は、まだ誰のものでもないんですよね?」
すずは上目遣いで俺を見る。
その言葉には、探索者としての意味以上の何かが含まれているような気がしたが、鈍感な俺にはよくわからなかった。
「……まあ、独身だしな」
「ふふっ。言質、取りましたよ」
すずは嬉しそうに笑い、俺の注文したポテトサラダを勝手に一口食べた。
「あ、美味しい」と目を丸くする彼女を見て、俺はこれからの前途多難な日々を予感して、頭を抱えたくなった。
★★★★★★★★★★★
その様子を、店外からじっと見つめる視線があった。
居酒屋から300メートルほど離れた、雑居ビルの屋上。
夜風に吹かれながら、山口純子は愛用の対物ライフル『ブラック・ウィドウ』のスコープを覗き込んでいた。
倍率20倍のレンズ越しに、居酒屋のカウンター席が鮮明に見える。
楽しそうに談笑する悠作と、その隣で顔を赤らめてポテトサラダを食べている変装した女。
「……あらあら」
純子の声は、氷点下のように冷たかった。
トリガーにかけた指が、ピクリと動く。
「変装していてもバレバレですよ、高橋すずさん。……私の悠作さんに、随分と馴れ馴れしいじゃありませんか」
純子は知っている。
すずがネット配信で悠作を擁護していたこと。
そして、彼女が悠作に対して、単なる尊敬以上の感情を抱き始めていることを。
「『氷剣の女帝』でしたっけ? ……私のスコープの前では、ただの的に過ぎませんけどね」
純子の瞳から、ハイライトが完全に消える。
スコープのレティクルが、すずの眉間に吸い寄せられるように重なる。
風速よし。湿度よし。
指先に少し力を込めるだけで、あの綺麗な顔をスイカのように吹き飛ばすことができる。
「……泥棒猫が一匹。威嚇射撃が必要かしら?」
純子は独り言ちる。
殺意の波動が漏れ出しそうになるのを、深呼吸で抑え込む。
今ここで撃てば、悠作の楽しい晩酌を台無しにしてしまう。
それに、店内で発砲騒ぎが起きれば、悠作に迷惑がかかる。
「……今回は見逃してあげます。悠作さんの笑顔に免じて」
純子はスコープから目を離し、ふぅと息を吐いた。
しかし、その目は笑っていなかった。
「でも、次はわかりませんよ? 悠作さんの『隣』は……私が一番、相応しいんですから」
彼女はスマホを取り出し、スケジュール帳を確認する。
『悠作さん観察日記』と書かれたフォルダには、彼の行動パターンがびっしりと記録されていた。
「これからはもっと、監視を強化しないといけませんね。……ふふっ、忙しくなりそう♡」
純子はライフルを分解し、闇に溶けるように姿を消した。
彼女の歪んだ愛情は、まだ誰にも気づかれていない。
★★★★★★★★★★★
居酒屋を出た俺とすずは、駅前で別れた。
「送ります」と言うすずを、「目立つからやめろ」と丁重に断り、俺は一人で夜道を歩いていた。
ほろ酔いの頭に、夜風が心地よい。
カイトたちとの因縁は終わり、俺の潔白は証明された。
だが、それは終わりの始まりに過ぎない。
S級への昇格、有名になりすぎたことによる弊害、そして……なぜか俺の周りに集まり始めた、一癖も二癖もある美女たち。
「……静かに暮らしたいだけなんだがなぁ」
俺は夜空を見上げて呟いた。
星が綺麗だ。
明日はどんなトラブルが待っているのか。
五右衛門の借金を返し終わるのが先か、俺の胃に穴が開くのが先か。
アパートの窓に明かりが見える。
ポチが待っている。
まあ、とりあえずは帰って寝よう。
明日は明日の風が吹く。
俺は足取りを少しだけ速めた。
カオスで賑やかな日常へ向かって。




