第五章 シオという名
「我らは……海の民。昔の名を、あなたたちが失くしただけ」
球体の内側で、その存在はゆっくり言葉を整えた。音は水の膜を透過し、潜航艇のスピーカーへ変換され、わずかな遅延ののち人間の耳へ落ちてくる。
顔立ちは人に近い。だが目の表面に透明な膜があり、頬には鰓の裂け目がある。髪は水草のように揺れ、指の間には薄い膜がある。呼吸の仕方が違う。海の中で生きる身体の合理が、そのまま形になっていた。
リク・カナタは自分の手のひらを見た。乾いた皮膚。塩を弾く指。陸でしか成立しない身体。
「あなたの名前は?」
彼がそう問うと、相手は一拍置いて答えた。
「シオ。潮。あなたたちの言葉で、いまはそれが近い」
ミラ・ユズリハは、息を呑む音を抑えきれなかった。潮。海の満ち引き。地球で、陸が海を押しのけるために利用してきた現象でもある。
「地球から来たと言ったわね。あなたたちは……地球人なの?」
シオは目の膜を静かに閉じた。瞬きが、祈りに見える。
「地球には、かつて海で暮らす者がいた。海が家で、海が身体で、海が歴史だった。だが海が毒になった。海が毒になれば、我らは生きられない。だから去った」
「いつ、去った?」
リクの声は、冷静を装っていたが、喉の奥が熱い。
「……十万年ほど前」
その答えは、時間の刃だった。十万年。陸の文明が何度も興っては崩れ、言葉が変わり、宗教が変わり、地形すら変わる長さ。
ミラは口を開いたが、声が出なかった。学者としての言葉が、現実の前で凍った。
「記録は?」ミラがやっと絞り出す。「あなたたちの記録は、どこに?」
シオは淡々と答えた。
「残した。残したが……海は飲み込む。陸は燃える。記録は薄い皮だ。時が剥がす」
その言い方には責める色がない。責める必要がない、という諦念がある。
ミラはその諦念に、背筋が冷えた。陸はいつも、忘れることで生き延びてきたのだ。
潜航艇の後ろで、護衛兵が小さく動いた。緊張に耐えられず、手が武器へ行きかける。
それを見て、シオの視線が護衛兵の手ではなく、護衛兵の喉へ向かった。呼吸。そこに脆さを読む目だった。
「撃たなくていい」リクが護衛兵に短く言う。「ここで撃てば、地球の続きをまた始める」
シオは、少しだけ首を傾けた。
「地球……まだ、あるのか」
その問いが、刀のようにリクの胸へ刺さる。
ある。だが、あるだけだ。汚れて、痛んで、まだ人がしがみついているだけの星。
「ある。まだ人もいる。だから、私たちは逃げてきた」
言い切った瞬間、リクは気づく。自分の言葉が、十万年前の彼らと重なっていることに。
沈黙が落ちた。海の沈黙は深い。
やがてシオが言った。
「なら、あなたたちは次の問いを持つべきだ。『逃げた先で、同じことをしない方法』を」
ミラが震える声で返す。
「だから、話したい。教えて。あなたたちがどうやって生き延びたのか。どうやって海を守ったのか」
シオは一度、潜航艇の窓の外――暗い海を見た。
「守った、という言葉が既に危うい。海は守る対象ではない。海は、共にいるものだ」
その言葉が、リクの胸に残った。守る、という上からの姿勢。救う、という所有の衝動。地球を壊してきたのは、いつもそれだった。
「まず、会うべき人がいる」
シオはそう告げる。
「長老ナギ。あなたたちが来たことは、海の均衡を揺らす。歓迎では済まない。だが……拒絶だけでも終われない」
リクは頷いた。
「私たちも同じだ。拒絶したくない。だが、同じ過ちを繰り返す恐怖がある」
シオの目の膜が薄く揺れた。
「恐怖を持てる者だけが、設計を学べる」
潜航艇はゆっくりと海底都市へ導かれていった。
脈打つ光の回廊。曲線の壁。呼吸するような構造物。
それは文明だった。
そして――忘れられた人類の片割れが、確かにそこに生きていた。




