第二章 青の候補天体
宇宙は、静かすぎる。
静かすぎて、人間の脳が勝手に音を作る。血の流れる音。呼吸の擦れる音。眠れない誰かが布を引く音。
《アラヤ》は、静寂を運ぶ棺ではない。生き延びるための箱だ。生き延びる箱は、音で満ちている。
航行三十七日目。
《オルド》の声が艦橋に落ちた。
「候補天体、第三十七番を捕捉。観測を開始します」
観測窓に、青い球が浮かぶ。
地球の青と似ているのに、違う。
汚れの膜がない。雲が透明で、光が深く沈む。
ミラが息を吸う音がした。
「……海の色」
その言葉に、艦橋の誰もが黙った。地球では禁句に近い。海は、見ないものだった。思い出すと痛いものだった。だから“海の色”は、希望と同時に恐怖を呼ぶ。
リクは冷静に指示を出す。
「詳細スキャン。陸地比率、気圧、毒性、重力、放射線、全部」
《オルド》が応答する。
「海洋比率、九十八・六パーセント。陸地は点在。大気組成、基準内。重力、地球比一・〇二。放射線、低」
「生命反応は?」
「微弱だが検出。集中している。海中深部。パターンは人工物の可能性」
人工物。
その一語で、希望が別の形に変わる。
無人なら、倫理はまだ単純だった。
有人なら、倫理は一気に重くなる。
霧島ハヤトが言った。
「海中深部。つまり、居るとしても上は空いてる。浮上拠点なら争わない」
ミラが首を振る。
「“空いてる”は、こちらの都合よい解釈よ。海を家にしている存在なら、上も下も全部“家”かもしれない」
二人の言葉がぶつかる。
ぶつかっているのは、思想だ。地球の思想が、宇宙で剥き出しになる。
リクは一歩引いて言った。
「だから確認する。奪わないために、まず知る」
“知る”は、暴力にもなる。観測の名で支配できる。だからこそ、知り方を選ぶ必要がある。
《オルド》が続けた。
「海中深部に、周期的な電磁変動。脈動光の可能性。構造物の輪郭、推定」
ミラの指がタブレットの縁を強く掴む。
「脈動……生体的」
霧島が低く笑う。
「生体でも人工でも、どっちでも嫌だな。嫌っていうか、怖い」
怖い、と言えるのが霧島の強さだった。
怖さを隠す者は、判断を誤る。
リクは決める。
「着陸はしない。浮上式プラットフォームを投下。偵察艇を出す」
ミラが即座に条件を付けた。
「距離を保つ。武装は最低限。交戦規定は“回避が最優先”。そして記録は全て共有。誰かが消せない形式で」
リクは頷いた。
「了解。偵察は、地球の続きにしないための作業だ」
艦橋のモニターに、偵察艇のシルエットが映る。
小型。俊敏。帰投を前提に作られた形。
霧島が搭乗前にリクへ言った。
「艦長代行。もし向こうが“人”なら、最初の印象が全てになります」
「分かってる」
「いや、分かってない人が多いんです。相手が怖いと、銃口が先に出る」
霧島は自分の胸に手を当てる。
「俺も例外じゃない。だから、最初に言っておきます。俺は撃たないために行きます」
その言葉は誓いではなく、自己拘束だ。
拘束こそが、人間を正しくする。リクは第一章で学んだばかりだった。
偵察艇が切り離される。
黒い宇宙へ滑り、やがて青い大気へ吸い込まれていく。
《オルド》が淡々と告げる。
「通信リンク確立。降下シーケンス、正常」
霧島の声が返る。
「了解。……海、でけえな」
その一言に、艦橋の誰もが少し笑った。
笑えるうちは、まだ保っている。
だが次の瞬間、ミラが小さく呟いた。
「もし海が家の人たちだったら……私たちは、どこに立つの?」
リクは即答しない。
答えは、綺麗に言った瞬間に嘘になるからだ。
観測窓の青は、美しい。
美しさは人を救う。
同時に、美しさは人を奪わせる。
地球がそれを証明してきた。
リクは静かに言う。
「立つ場所は、向こうが決める。こちらは踏み込まない形を探す」
それは理想論に聞こえる。
だが理想を捨てた現実は、必ず破滅に向かう。
だから理想を“仕様”に落とす。
その作業が、いま始まった。




