第一章 出航許可
航宙艦の艦橋は、明るすぎない。
人間の目に優しい照度――というより、疲労を隠さないための照度だった。白い光は人を強く見せる。薄い光は、人を正直にする。
艦長代行リク・カナタは、観測窓の前で地球を見た。
灰色の膜が地表を薄く包み、海は鈍い光しか返さない。大気の散乱が、星の輪郭をわずかにぼかしている。見慣れたはずの故郷が、遠い病室の窓みたいに見える。
「出航許可、まだ降りないの?」
副長ミラ・ユズリハが背後で言った。声を低く抑えている。艦橋の空気を乱さないための癖だ。だが抑えた声ほど、焦りが伝わる。
「評議会は最後まで揉める」
リクは視線を外さないまま答えた。
「揉めるのが仕事みたいなもんだ」
ミラがタブレットを胸に抱える。そこには燃料計画、補給計画、居住ブロックの酸素循環、食糧培養槽の稼働曲線――そして、出航を遅らせれば遅らせるほど全てが崩れる計算が詰まっている。数字は嘘をつかない。嘘をつくのは、数字を都合よく切り取る人間だ。
艦橋の中央で、船内AIが淡々と告げた。
「外部通信、評議会回線。優先度A。受信します」
機械音声は感情を持たない。その分、聞く者の感情を増幅させる。
映像には、窓のない会議室が映った。円卓。多すぎる肩書。誰かが咳払いをする音。
城戸評議長の顔が、硬い壁のように現れる。
「艦長代行リク・カナタ。出航計画の再提出を求める。目的地候補の選定基準が曖昧だ」
曖昧。そう言って足を止めるのが政治だ。足を止めれば、誰かが得をする。
リクは返した。
「基準は明確です。人が生存できる環境。補給可能性。航行距離。これ以上の確度は現地でしか得られません」
「現地で得る、とは危険を受け入れるということだ」
「危険を受け入れなければ、地球で死にます」
会議室が静かになる。
沈黙は反論ではない。責任を押し付ける準備だ。
別の評議員が割り込む。
「地球に残る者への支援は? 逃げる者だけが生き残るのか?」
リクは一瞬、言葉を選んだ。ここで怒れば、ただの若造にされる。ここで泣けば、情緒で片付けられる。だから、事実だけを置く。
「《アラヤ》の積載は限界です。残留者の支援物資を積めば、航続距離が落ち、移住先を見つける確率も落ちます。確率が落ちれば、全員が死ぬ」
数字は残酷だ。だが残酷さを隠して決めるほうが、もっと残酷だ。
ミラが横から補足した。
「残留者支援は、衛星軌道の自律供給システムの改修で継続できます。私たちは逃げるのではなく、次の支援拠点を探しに行くんです」
“逃げではない”と名付けないと、人間は心が折れる。
その弱さを、ミラは理解している。
城戸が短く言う。
「出航許可を与える。ただし条件がある」
条件。来た。
「第一に、外部生命体との接触は最小限。第二に、発見した資源は地球法の枠組みに従い報告すること。第三に――」
第三に何が来るか、リクは予測していた。
“成果は国家に帰属する”。
つまり、見つけたものは最終的に評議会の手に渡る。
それが地球の政治だ。
「第三に、艦内記録は評議会監査対象とする」
思ったより露骨だ、とリクは感じた。記録を握る。記録を握れば、物語を作れる。物語を作れば、責任を回避できる。
リクは即答しなかった。
代わりに、艦橋の端に置いた小さな金属片を指で撫でた。祖父の遺品。波紋の刻印。意味の分からない欠片。
祖父は言った。「これは海の記憶だ」と。
海の記憶が、なぜ自分の手元にあるのか。
その答えが、いま目の前の条件と繋がっている気がした。
ミラが小声で言う。
「受けるしかない。でも、受けたままにはしない」
リクは頷いた。
「記録は残す。誰にも消せない形で。……艦内だけじゃなく」
ミラは理解した目をした。まだ言葉にしない。言葉にした瞬間、監査に拾われる。
リクは会議室へ向けて言った。
「条件、了承します。出航準備に入ります」
城戸は満足そうに頷く。勝った気になっている。
だが勝負は、宇宙で決まる。
通信が切れた瞬間、艦橋の空気が少しだけ緩んだ。
緩んだ空気の中で、霧島ハヤトがいつの間にか立っていた。偵察班長。表情の薄い男。
「許可、出ましたね」
「条件付きでな」
霧島は肩をすくめる。
「条件ってのは、破るためにあるんでしょう。破るっていうか……越える、か」
リクは霧島を見た。
「越えるなら、戻ってこい。帰投できない偵察はただの自殺だ」
霧島は笑った。怖さを誤魔化す笑いではない。覚悟の笑いだった。
「了解。見たまんまを持って帰ります」
出航前の最後の一時間。
居住ブロックでは、家族が別れを交わしている。泣き声も怒鳴り声も、扉一枚で遮られる。遮られても、艦の壁は震える。
リクは艦長席に座り、シートベルトを締めた。身体が固定されると、心が自由になる。逆だと人は思っている。
固定されない心は、余計な方向へ散る。
《オルド》が言う。
「全区画、加圧正常。燃料圧力正常。外部ハッチ閉鎖。出航カウントを開始します」
数字が下がる。
十。九。八。
リクは地球を見た。
七。六。
灰色の星。
五。四。
その灰色の下に、まだ人がいる。
三。二。
その人々の中に、祖父がいた。
一。
「出航」
《アラヤ》は震え、そして静かに地球を離れた。
轟音ではない。音のない離陸。
重力だけが、別れを実感させた。
リクは心の中で呟いた。
――海の記憶。いまはそれだけが、未来の鍵に見える。




