エピローグ 潮の記録
旧灯台の沖合に、青が戻る。
それは昔の青ではない。十万年前の青でも、誰かが写真に残した青でもない。
浄潮帯の境界で、海が自分の呼吸を取り戻すときにだけ現れる青――脈動する光を内側に抱えた、少し硬い青だ。
ナオはその青を、毎晩見に来た。
海岸線はまだ茶色い。風はまだ金属の匂いを含む。だが、臭いが薄い夜が増えた。
「増えた」
その事実が、少年の胸に小さな余白を作った。余白は、未来のための席だ。
葛城レンは、表に出られないまま生きている。
だが“表に出られない”ことが致命傷ではなくなった。
潮汐碑があるからだ。
誰かが彼を消そうとすれば、消そうとした痕跡が残る。残る痕跡は、別の誰かの武器になる。
透明化は、弱者にとって初めての防具だった。
共同運用委員会は、うまくいっているとは言えない。
争いは尽きない。分配は揉める。規制は痛い。生活はすぐには変わらない。
それでも――議事は刻まれ、改竄は痕跡として露出し、隠蔽はコストとして跳ね返る。
地球は初めて、「忘れる」以外の方法で安定しようとしていた。
リク・カナタは海を見て、祖父の金属片を思い出す。
欠片が、いまは杭になった。
杭は、誰かを縛るためではない。次の過ちを縛るためだ。
シオは海へゆっくり入る。
海人間が地球の海に触れる儀式は派手ではない。言葉も、音楽も、旗もいらない。
ただ、水を撫でる。
水が、撫で返す。
それだけで十分だと、彼女は知っている。
《オルド》が、いつもの無機質な声で告げる。
「回復余地、継続。浄潮帯、拡張。排出抑制、段階移行。社会安定指数、微増」
数字は小さい。だが数字が小さいときほど、人は慎重になれる。
リクは潮汐碑に手を置き、最後の一文を黙読した。
海を捨てるな。陸を憎むな。忘れるな。
忘れないために、記録する。
記録するために、合意する。
合意するために、相手を知る。
相手を知るために――海と陸は、また会う。
波が寄せ、引く。
その繰り返しは、復讐ではない。
再起動のリズムだ。
(了)




