第十章 帰還船《カイリク》【改稿版】
浮上都市の上空に、長い影ができた。
影は雲ではない。雲なら風でちぎれる。影は動かず、じっと海面を押さえつけるように伸びていた。造船用の軌道クレーン。《アラヤ》が運んできた最後の資材と、海人間が育ててきた生体素材を繋ぐための、巨大な手だ。
ここは境界だった。
海と陸の境界。
過去と未来の境界。
そして――逃げた者と、帰る者の境界。
リク・カナタは浮上都市の外縁で、波の音を聞いていた。波は規則正しくない。規則正しくないから、海は生きている。地球の海が死にかけていた頃、波の音はどこか単調だった。泡が化学で固まり、潮が重く、海が「抵抗する力」を失っていたのだと、いまになって分かる。
背後で足音が止まった。
霧島ハヤトが来た。
「船、形になってきたな」
「形だけなら、いくらでも作れる」リクは答えた。「問題は、帰った後だ」
霧島は短く笑う。
「帰った後に“誰が握るか”だろ。握られたら終わりだ」
造船区画の中心、淡く脈打つドームがあった。縮小型《浄潮炉》の培養室だ。
海人間の技術者たちは、装置を「機械」とは呼ばなかった。
「育てる」と言った。
ミズクイは生き物だ。反応場の網は、海水の化学と同調する繊細な秩序だ。乱暴に扱えば壊れる。壊れれば戻らない。
陸人間の技術者は最初、仕様書に落としたがった。だがナギは首を振った。
「海は規格に従わぬ。規格が海に従う」
その言葉が、造船の方針を決めた。
《カイリク》は、独占を前提に設計されていない。
単独運用できないように作られている。
起動鍵は二重。陸側の生体署名と、海側の生体署名が揃わなければ、浄潮核の反応場は開かない。
自由が地球を壊したのなら、不自由は再生の条件になる。
ミラ・ユズリハが培養室の前で立ち止まり、透明な隔壁越しに光を見る。
「この光……地球の海で見たかった」
「見られる」リクが言う。「ただし、見た後も消えないようにしないといけない」
ミラは頷いた。
「だから記録。だから公開。だからログよ」
《オルド》の声が船内に流れた。
「地球側通信、断片受信。沿岸浅海域における反応光、確認。回収部隊の動き、確認。情報統制の兆候、確認」
ミラの目が鋭くなる。
「レンのログだわ。……彼、動けたのね」
出発前夜、潮汐碑の前に両方の民が集まった。
誰も祝賀の声を上げない。これは勝利ではない。贖いの開始だ。
長老ナギは言った。
「地球を所有するな。救う者になろうとするな。ただ地球の一部として責任を負え」
リクは短く返す。
「了解」
シオが一歩前へ出た。
「十万年前、我らは地球を去った。去るしかなかった。だが去ることで、地球の海を置き去りにした。置き去りにした痛みを、我らはここで学んだ。戻るのは、赦しを得るためではない。責任を引き取るためだ」
潮汐碑の最後の一文が、改めて読み上げられた。
海を捨てるな。陸を憎むな。忘れるな。
その文は、詩ではなく規程だ。
忘れた瞬間、また始まる。だから忘れない仕組みを、最初に刻む。
《カイリク》は軌道へ上がる。
やがて前方に灰色の点が現れる。地球。
雲は濁り、沿岸は茶色く縁取られ、夜側の光は密集して歪んでいる。
《オルド》が告げた。
「海洋汚染指数、高。大気汚染指数、高。だが局所生態反応、残存。回復余地あり」
回復余地あり。
その四文字が、誰かの喉から嗚咽を引き出した。
着地点が見えた。旧灯台の影。そこに人影――ナオとレン。
そして、その周辺を囲むように動く影――警備隊。
「来る」霧島の声が低い。「二分以内」
ミラが言った。
「時間を稼ぐ。刻む」
リクは頷き、携行型刻印ユニットを起動した。
媒体は石ではない。
地球の沿岸で拾った廃材と、海人間の生体樹脂を混ぜた新素材。削っても燃やしても痕跡が残るよう設計されている。
刻む内容は、条文だけではない。
浄潮炉の原理、母海図の役割、運用条件、共同鍵、監視ログ、改竄検知。
そして――誰が何をしたかが残る形式。
消す者の名が、消そうとした痕跡として残る形式。
指揮官が叫ぶ。
「装置を引き渡せ! 国家管理だ!」
霧島が前へ出る。武器を構えない。だが退かない。
「これは回収物じゃない。公開記録だ」
封鎖の外側に人が集まっていた。
透明化された世界では、視線は権力の天敵だ。
指揮官の無線が鳴った。
「……回収は中止だ。状況が公開されすぎている」
リクは海を見た。
まだ灰色だ。
だが海面には微かな光がある。
シオが隣で言った。
「海は終わっていない」
リクは答える。
「終わらせない。今度こそ」
《カイリク》の帰還は、戦いではなく、仕様の提示だった。
誰も英雄にならない。誰も救世主にならない。
ただ――過ちを繰り返せない構造を、地球に埋め込む。
それが帰還の意味だった。




