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軍国少年の幻想

作者: 滝 城太郎

男女を問わず若者たちが軍国主義に熱狂し、軍人、独裁者をアイドル視する時代があったとは、今の若い世代にはにわかに信じがたいだろうが、強制や圧力でもなく優秀な人材がこぞって争いに身を投じたのにはしかるべき理由がある。一人の軍国少年がエリート軍人への階段を昇ってゆく中で、いかにして死の恐怖を知り、生の大切さに気付いていったか、これは実話に基づくエッセイである。

 先日NHK広島放送局が被爆体験をVR化したという新聞記事を読んだ。戦争の時代を実体験した語り部が少なくなってゆく中、悲劇の時代の記憶を風化させず、ある種の反面教師として次世代へと継承してゆく試みは非常に有意義であると思う。

 私は昭和四十年代生まれで、親の世代も従軍経験がなく、戦争について語ることがなかったせいか、かつて日本が軍事大国だったという認識を持ったのは小学校入学後だったと記憶する。

 私が生まれ育った大分市の王子中町は、近所の電停から大分駅まで6駅、商店街まで5駅ほどの下町で、市街地までは子供の活動域だった。そのおかげというべきか、昭和四十年代の終りくらいまでは、地方で暮らす同世代の多くにとってはとっくに風化して見たこともない戦争の傷跡に触れる機会があった。駅前から広がる産業通りの地下通路奥にはルンペンが鎮座していたし、竹町商店街には軍帽に白衣の傷病軍人が立っていた。

 現代のように義手や義足は発達していなかったので、映画で観る海賊さながらの鋼鉄の鉤爪や足がいかにも物々しく、年端のゆかない子供にとっては、興味津々であるのと同時に怖さもあり、近づいて首から提げている箱にお金を入れたり、話しかけたりすることはなかった。母親からは「癖になるから、お金をあげたりしたらダメ」と言われていたので、身体が不自由なぶん、多少同情するところがあっても、同世代の子供たちにとっては傷病軍人もルンペンと変わらない存在だった。

 ジローズの『戦争を知らない子供たち』がヒットし、インパクトのある歌詞が頭にこびりつくほどになっても、まだ日本が経験した戦争の悲惨さを知らず、転校先の小学校の校長が元海軍将校だったと知っても、太平洋戦争などどこの国の話という感覚だった。

 まだ日常生活の中に断片的に太平洋戦争の遺物(生きた証拠というべきか)が混在している時代でさえ、学校教育の戦争について学ぶ機会がなければ、私たちの戦争に対する危機感は希薄だったことを考えると、戦時生活体験を持つ人から直接話を聞く機会が減っている今の世代に、よりリアリティのある体験談を広めてゆく作業は、同じ過ちを繰り返させないためにも重要な取り組みである。

 前置きが長くなったが、私は小学校高学年くらいにドイツ軍の戦闘機、戦車のプラモデル作りにはまったのを機に、戦争の実態にも関心を持ち始め、様々な人から戦争体験を伺う機会に恵まれた。その中でもとりわけ興味深く、自分なりに良い勉強になったと感じたのは、世間一般に流布されている話以外の裏面史的な体験談だったので、終戦から八十年を機にミリタリーマニアのみならず、戦争の実態に関心を持っている人、まだ知らないことが多いビギナーの方にも是非紹介しておきたいと思い立った。

 又聞きではなく全て一次体験者から聞いたものだが、時代が古いものだけに細部に記憶違いがあるかもしれない。希少性がなくつまらなければ御容赦を。


 十年以上前の話だが、私の近所に戦艦大和に乗船したことがあるという元大日本帝国海軍将校が住んでいたので、是非会って話をしてみたいという好奇心にかられ、知人を通じて段取りをつけてもらい、ご自宅で直接話しを伺う機会を得た。

 居間には大きな戦艦大和の模型があり、この伝説の巨艦に乗艦して訓練を受けたことのある数少ない海軍軍人としての矜持を感じたが、元軍人にありがちな軍国主義を美化したようなところもなく、その時代を生きた若者の心情を率直に語ってくれた。

 その方(仮にAさんとする)は、海軍兵学校出身のばりばりのエリート軍人だった。

 当時の海軍兵学校は東京帝国大学以上の難関で、東大級の頭脳プラス体育学部級の体力、運動能力が必要だった。したがって学習能力だけに特化したガリ勉少年には縁がなく、一般的なガリ勉諸君が東大、京大、医学部を目指すのを尻目に、知力、体力に恵まれた選ばれし者だけが海軍兵学校や陸軍兵学校を受験した。

 陸軍兵学校もエリートには違いないが、太平洋戦争直前の日本海軍の軍事力は世界一と評価されていたこともあって、海兵こそ究極のエリートという風潮があった。

 広島の江田島で全寮生活を送るため、自由は制限されているとはいえ、学生だけに夏休みや年末年始には帰省する学生が大半で、その際も詰襟の海軍兵学校の制服姿はいやがおうにも目立った。

 現代では考えられないが、学生の身分で腰に短剣をつるすことが許されていたため、優越感も格別だったに違いない。とりわけ地方の村や町では地元の誇りとされ、地元の名士たちが合格祝賀会を主催してくれたり、帰省時にはわざわざ最寄駅に集った地元民たちから芸能人のような出迎えを受けることもあったというが、今日ハーバード大を首席で出ても、これほどの扱いを受けることはありえない。国を挙げてこれだけ特別扱いしてくれるのであれば、優秀な学生たちのプライドも大いに触発されたことだろう。

 今日の我々の目から見れば、自他共に認めるほどの優秀な頭脳を持っていれば、生命に関わるリスクが高い軍人よりも高級官僚や一流商社、軍需産業あたりを目指しそうなものだが、その時代の教育によって若者たちには現代とは別の価値観が植え付けられていた。教育による刷りこみとは恐ろしいもので、旧制中学生くらの年頃になると、今日の我々には心情の想像がつきかねる自爆テロリストたちの信心深さと同じく、「国家のため、天皇陛下のためなら死ねる」という覚悟ができるのだそうだ。

 もっとも、特攻兵に選ばれたものの死にたくなかったという証言も多く残っているように、いくら軍国主義一色の時代とはいえ、軍国主義や戦争には賛同しても、無駄死にはしたくないと思っていた若者は少なからずいたはずである。ましてや高い倍率を潜り抜けて選ばれた航空兵のようなエリートが、言行に説得力のない高級軍人たちがひねり出した「大義のために」というご都合主義的な合言葉にそう簡単に丸め込まれるとは思えない。

 馬鹿馬鹿しいとわかっていながら、一種の同調圧力によって「天皇陛下のためなら死ねる」と口裏を合わせざるを得なかったのではないかと推測した私は、Aさんに「ズバ抜けた秀才だったのに、なぜ死と隣り合わせの軍人を選んだのですか」「死ぬのが怖くなかったんですか」と尋ねると、Aさんは「国のために戦って死ぬのが真の男だという教育を受けていたので、本当にあの頃は死ぬのが怖いなんて思ったことがなかったんだよ」と少しはにかみながら答えてくれた。

 まるで他人事のように、「信じられないだろ、だけどそうだったんだよ」と念を押すAさんの言葉の裏には「だけど、今は違う。死ぬのが怖くないなんてありえない」という思いが読み取れた。

 Aさんは日本の連戦連勝によって軍国主義が最高に盛り上がっていた昭和十七年に海軍兵学校に入学(七十四期生)したが、その翌年から戦局は悪化の一途を辿り、兵員不足もあって昭和二十年三月には就学期間を残したまま繰上げ卒業となった。(大学生の繰上げ卒業は、兵員不足を補う目的で昭和十六年度の卒業生を三ヵ月早めたことから始まり、翌年には六ヵ月、さらには一年と徴兵猶予は短縮の一途をたどった)

 平和な時代であれば、海軍兵学校で卒業までこぎつけた学生たちは、人生最高の時を噛みしめていてもおかしくない。キャリア軍人としての輝ける前途は言うまでもないが、彼らにとっての最大のお楽しみの一つに卒業後の遠洋航海があったからだ。

 大日本帝国の支配領域が北は樺太、千島列島から南はインドネシアのジャカルタまで及んでいた頃は、旧制中学(現在の高校)の中には修学旅行が朝鮮半島や台湾というところもあったが、海兵の場合は実質的には実戦演習の一環だったとはいえ、朝鮮、台湾はおろか卒業順位上位者には大型戦艦に乗船してアメリカ、ヨーロッパをめぐる数ヶ月の豪華版が用意されていた。

 世界に誇る日本海軍の巨艦の艦橋からシンガポールやマルセイユ、サンフランシスコの市街を睥睨する自分の姿を想像するだけで血湧き肉踊る思いだっただろう。庶民に海外旅行は夢だった時代である。海兵の生徒にとってはこれが修学旅行であり、卒業時の特典として若者たちが海兵に憧れる要素の一つでもあった。

 ところが、領海の制空権も制海権も奪われた昭和二十年に遠洋航海なと不可能である。結局、現存艦艇で近海での実戦演習となり、Aさんはたまたま温存されていた大和に配属されることになった。

 日本の最新鋭艦である大和は、「大和ホテル」の異名を頂戴するほど豪華な艦で、悠々とベッドで就寝できるうえエアコンまで完備されていた。狭く湿気が多くて暑苦しい潜水艦とは雲泥の差である。

 七十四期生は三月初めに配属が発表されると、三月三十日の卒業式が略式で行われた後、各自が配属の艦艇に乗艦した。大和に配属されたのは四十名だけなので、Aさんの卒業成績は上位だったのではないかと推察する。

 七十四期生が大和に乗艦した頃は、大和が繋留されている呉上空はしゅっちょう敵機が飛び交っており、名目上は訓練でも完全な実戦配備だった。すでに天一号作戦(いわゆる沖縄特攻)も発令されていたことから、訓練生はそのまま大和とともに出撃し、二度と故郷の地は踏めないことを覚悟していたという。ただし、これは勇気や度胸という心情とは関係なく、巷では不沈艦と言われている大和も航空戦

が主流の時代においては、時代遅れでたいした戦果もあげられずに沈没するのがオチ、という諦めに近い覚悟だったらしい。エリート軍人だけに、大本営発表など歯牙にもかけず、戦況の正確な分析ができていたのだろう。


 ところが、出航前に七十四期生は全員退艦するよう艦内アナウンスがあった。

 すでに覚悟を決めていたAさんら七十四期生は、先輩たちに「一緒に連れていって下さい」と直談判したそうだが、「お前だちは残ってやらんといかんことがあるから」と一蹴されている。

 Aさんは、訓練中は理不尽なまでの鉄拳制裁が日常茶飯事だった鬼のような先輩方が、見送り時に「死ぬのは俺たちだけでたくさんだ」と諭すような口調で言い切った時のことが忘れられないと仰った。

 本来は海兵卒のエリート将校が口にすべきではないせりふである。

 特攻では同調圧力があったという話も聞くが、生き残ることを恥と見なさず、生きて国の役に立つことが正しい道であることを説いてくれる先輩軍人もいたのである。皆が皆、軍上層部に忖度して軍国主義に追従していたわけではなかったのだ。

 このように書くと、いかにも美談っぽいが、現実はもう少しどろどろしていた。実は七十四期生の中には、下船が通達されたことで「死ななくてすんだ」とほっとしていた者もいて、せっかく命拾いしたのだから、わざわざ同乗を申し出る必要はないのではないかという声もあったらしい。

 その一方で、送り出される方も古参兵や新たに大和に配置された水兵の中には、居残りになった士官候補生たちに対して恨みがましい視線を送る者もいたらしく、勇ましい別れの門出も人間臭く芝居がかったところもあったようだ。しかし、Aさんら七十四期生の大半は、まだ大儀のためなら死をも辞さない侍スピリッツは旺盛だった。


 大和を下船させられた七十四期生は新たに任務のためあちこちに散っていったが、Aさんらは山口県柳井市の海軍潜水学校に送られ、特攻訓練に回された。それもよりによって悪名高き人間魚雷回天の乗務員だった。

 回天は艦首に魚雷が設置された一人乗りの小型潜水艦で、敵艦に体当たりする目的で製作されているため、外からハッチを閉じられたら、事故で座礁しても内部からの脱出は不可能である。しかも進路の確保は視野の狭い潜望鏡だけで行うため、浅瀬で誤って艦首から岩にでも衝突しようものなら一巻の終りというチープでデリケートな特攻兵器であった。

 Aさん曰く、内部は狭くてしょっちゅう計器類に肘や頭をぶつけてあちこち痛いうえ、視界が悪すぎて自爆してしまう恐怖に常に晒され、相当なストレスだったとのことだ。戦艦大和で死ぬ覚悟ができていたのに、薄暗い自爆用潜水艦の中に閉じ込められているうちに、恐怖心が湧いてきたというのは非常に興味深い。

 おそらく回天では特攻に成功する可能性がほとんどないことをほどなく悟り、「意味の無い死」が頭に浮かんだとき、何のために生まれ、ここまで切磋琢磨して出世競争を生き抜いてきたのか、人生の意味がわからなくなり、戦争の中で高揚していた闘争心に冷や水を浴びせられた気分になったのだろう。

 訓練生の中には自爆や機関の故障により戦わずした亡くなった者もいたらしいが、幸いというべきか、潜水学校周辺への空襲が厳しくなったのを機に、Aさんは福岡市早良区の百道浜での沿岸警備任務に配置転換され、事なきを得ている。

 沖縄が陥落し、米軍の九州上陸の噂が飛び交う中、日本軍は主要都市周辺の海岸沿いに通称「タコ壺」と呼ばれる一人用の塹壕を掘り、上陸作戦に備えていた。

 Aさんが砂浜に掘られた塹壕での警備任務についたのはもう暑い盛りで、前線の将兵たちのよううに血で血を洗うような激務とは無縁な代わりに、砂浜の焼けるような暑さの中でただ一人でじっとしているだけの退屈な毎日も、特攻訓練とは別の意味で苦痛だったという。

 海軍兵学校卒業後も全く実戦の機会がなく、いい意味で生命をおびやかすような危険な目に遭うことのないまま終戦を迎えつつあった八月八日の午前中、突如米海軍航空隊が福岡市上空に現れ、沿岸守備隊は対空砲火を浴びせはじめた。

 すると何機かの米軍戦闘機(おそらく八幡空襲に向っていた爆撃機の護衛戦闘機ではないかと思われる)がタコ壺で機銃を構えている守備隊に機首を向けるや一斉に機銃掃射してきた。これが初めての実戦だったAさんは、タコ壺から頭だけ出して向ってくる戦闘機に照準を合わせて引き金を引いてみたものの、時速600kmで急接近する飛行物体を地上から射撃して撃墜するというのは神業に近く、かすりもしない。なにしろ引き金を引いて何秒もたたないうちに、機銃口から紅蓮の火花を散らしながらパイロットの顔がわかるほど敵機が目の前まで接近してくるため、照準に見入っていると射角が追いつかないのだ。

 砂浜にミシン目のような弾痕を残してあっという間に頭上を通過した敵機が、再び舞い戻ってくると、もう恐怖のあまり腰が引けてしまい、照準も見ずに当てずっぽうに一連射撃を加えた後は、頭を抱えてタコ壺にもぐりこんで、ただひたすら敵機が去るのを待ったという。

 銃火が去り、タコ壺から顔を出して周囲を見てみると、これが初めての実戦経験の仲間たちは、みんな怖気づいてタコ壺にもぐっていたらしく、ほっとしたそうだ。

この間まで「国のためなら死ねる」などとうそぶいていた連中が、揃いも揃って恐怖に顔を引きつらせているのだから世話はない。

 四六時中、砲弾や銃弾が飛び交う最前線だったら、おそらくこんな気持ちにはならなかったはずだ。なぜなら、いつどこから弾が飛んできてもおかしくない場所にいると、自分に照準を合わせている相手を認識する余裕もないため、「殺される」と感じる恐怖の瞬間がわからないからだ。

 

 私の大学時代のアルバイト先の管理職に、太平洋戦争に従軍経験のある再雇用の方がいて、戦時中の経験談を伺ったことがあるが、中国大陸での敵小隊との銃撃戦の話はとてもリアリティがあった。

 広い草原のようなところに横一列で広がった両軍が互いに発砲しながら次第に距離を詰めてゆくと、相手の顔まではっきり見えてくるのだそうだ。ただし、駆け足で前進しながら小銃を発砲したところで、銃弾は上下左右にブレまくって正面にいる狙った相手にそう簡単に当たるものではない。その一方で互いに乱射しているぶん、予期せぬ方向から銃弾が飛んできて、並んで前進している左右の兵隊がバタバタと倒れてゆく。時に自分が発砲したタイミングで前方にいる敵兵が倒れることもあるが、自分の銃弾という確信がないため、殺したかもしれないという罪悪感もわかなかったという。

 自身の周囲にも着弾はあるが、突撃中は気分がハイになっているうえ、自分が誰かに銃で狙われているという実感が欠如していることもあって、恐怖で足がすくむこともなかったらしい。

 どちらかが撤退した時点で撃ち合いは終り、生き残ったら生き残ったで、運が良かっただけという解釈で、今度弾に当たったらどうしようなどと心配してもはじまらないという感覚で戦場での日々を過ごしていたそうだ。したがってこの方は、今でも死ぬことはそれほど怖いとは思わないと断言していた。

 両者の生命に関する価値観の違いは他人からの殺意をいかにリアルに感じたかに依る。

 小銃での近距離の撃ち合いも怖いが、誰が誰を狙っているかわからないうえ、被弾しても死ぬとは限らない。それに対して、戦闘機の機銃は無慈悲な鋼鉄の殺戮兵器である。圧倒的に有利な上空から標的に狙いをつけて撃ってくるため、狙われている方もそれがわかり、死の恐怖に苛まれるのは必定であろう。しかも米軍戦闘機の機銃は13.5mmが一般的だから、被弾すれば腕や足が吹っ飛ぶほどの殺傷能力があり、胴体を直撃すれば即死は免れない。しかも戦死者の死に様も惨いものとなる。これほどの破壊力を至近距離で見せつけられ、自分も狙われてたまたま命拾いをしたとしたら、まともな神経の持ち主ならば、これまで愛国心という名のオブラートに包まれてあまり実感が湧かなかった死が現実的なものとして脳裏に浮かび、生命を失うことの虚しさと恐怖を痛感するはずだ。

 つまり「狩られる」という実体験は、生態系における人間と捕食獣の立場を逆転させたのど同様に、知性ある動物にとって遺伝子に記憶されるほどの危機感、恐怖感を助長する因子になりうるということだ。大切なもののために勇気を持って闘うことは、人間の資質として重要であるが、闘争心がエスカレートしすぎると、無駄な争いやそれに伴う非業の死を生みだす可能性もある。

 確かに自制心はその大きな抑止力になるかもしれない。しかし善意というのはご都合主義的に移ろいやすく、人間は本能的に自分ファーストなところがある点は否めない。したがってネガティブな考え方かもしれないが、殺される恐怖と殺戮を行うことに対する罪悪感が精神の免疫として育まれない限り、政治的、経済的利益が絡んだ殺し合いを断固として拒む国民性を確立するのは至難の業だろう。

 命知らずのガチガチの軍国少年だったAさんが、次第に死の恐怖に目覚めていった経緯は、人に殺意を伴った争いに嫌悪感を持たせる一つのヒントであるように思う。そういう意味でも、戦時中の実写映像のAIを用いたカラー編集や、それらを元にした体験ARの作成などが、これからの国防というものに対する認識の再考や平和教育の新たなアプローチ方法に繋がってゆくことを期待したい。


引き続き終戦記念日くらいまでに戦争関係の意外なエピソード交えたエッセイを掲載したいと考えていますが、一般常識が覆るような事実をご存知の方がいらっしゃいましたら、ご紹介下さい。

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