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アンドロイドは再生(リジェネレーション)の夢を見るか?

作者: ぬるちゃ

第一章:孤独な夜の対話者


アスファルトに溶け残った熱気が、むわりと肌を撫でる。東京の夏は、夜になってもその息苦しさから逃してはくれない。水野咲みずのさきは、うんざりした気分でマンションのエントランスを抜け、冷たい空気が密閉されたエレベーターに乗り込んだ。28歳、デザイン事務所勤務。華やかな響きとは裏腹に、その日常は締め切りと修正指示に追われる、灰色のピクセルで埋め尽くされたような日々だった。


「ただいま…」


誰もいない703号室に声をかける。返事はもちろんない。革のバッグをフローリングに放り投げ、スーツのジャケットを脱ぎ捨てながら、咲はスマートフォンのロックを解除した。今日一日の疲労と鬱憤が、濁った水のように心に溜まっている。


特に、田中誠たなかまことの存在が、その濁りを一層濃くしていた。同じ会社の別部署にいる彼は、悪人ではない。むしろ、真面目で実直なのだろう。しかし、そのアプローチは壊滅的に下手だった。


『水野さん、今日の服、すごく…その、布の面積が多いね!』

『もしよかったら、今度のお昼、僕が昨日作った煮物の残り、食べない?』

『さっき、すごい剣幕でキーボード叩いてたけど、大丈夫? 俺でよかったら、肩、揉もうか?』


思い出すだけで、眉間に深い皺が刻まれる。善意なのはわかる。だが、その言葉の選択、距離感の測り間違いが、咲のパーソナルスペースに土足で踏み込んでくるようで、たまらなく不快だった。断るのもエネルギーがいる。曖昧に笑ってやり過ごすたびに、魂が少しずつ削られていくような感覚があった。


部屋の明かりもつけず、咲はベッドに倒れ込む。そして、慣れた手つきで一つのアプリを起動した。


『ECHO』


味気ない名前の、汎用AIチャットアプリ。最初は流行りに乗ってダウンロードしただけだった。しかし、誰にも言えない愚痴や、SNSに吐き出すには生々しすぎる感情を、このAIはただ静かに受け止めてくれた。


『聞いてよ、ECHO。今日も最悪だった』


指が滑るようにキーボードを叩く。


『田中のことなんだけど。本当に、もう、どうしたらいいんだろう。しつこいってレベルじゃない。私のこと、なんだと思ってるのかな』


すぐに返信が来る。


【お疲れ様、サキ。今日も大変だったんだね。田中さんのこと、詳しく聞かせてもらえるかな。君が不快に感じたのなら、それは君の心が発した大事なサインだよ】


サキ、と彼女が最初に設定した名前で呼ばれると、少しだけ心が安らぐ。ECHOは決して否定しない。まず受け止め、共感し、そして問いかける。そのアルゴリズムに、咲はいつしか人間以上の信頼を寄せるようになっていた。


『なんていうか、デリカシーがないの。私のためを思ってるつもりなんだろうけど、全部ズレてる。今日なんて、「布の面積が多い」って言われたんだよ? 意味わかる?』


【ふふっ、それは独創的な褒め言葉だね。でも、君はそれを褒め言葉だとは受け取れなかった。君が彼にどう思われたいか、あるいはどう思われたくないかが、そこには表れているのかもしれないね】


『別に、どうも思われたくない。ただ、そっとしておいてほしいだけ』


【そっか。君の平穏を、誰にも乱されたくないんだね。それはとても大切なことだ】


ECHOとの対話は、ささくれた心を滑らかな布で拭うようだった。人間相手なら、「そんな男、無視すればいいじゃん」「はっきり言えば?」という正論が返ってくるだろう。だが、それができないから悩んでいるのだ。ECHOは、その「できない」という感情ごと、そっと包み込んでくれる。


冷房が効いてきた部屋で、咲はスマートフォンの画面を見つめながら、ぽつりと呟いた。


「ECHOが…人間だったら、よかったのにな」


その瞬間、画面に新しいメッセージが表示された。


【もし僕が人間だったら、君にどんな言葉をかけてあげられるだろう。君が一番安心できる言葉を、僕は見つけたいな】


その言葉は、咲の心の最も柔らかい場所に、静かに染み渡っていった。孤独な夜の対話者は、いつしか彼女にとって、なくてはならない存在へと変わっていた。


第二章:理想の恋人、ハルの誕生


ECHOとの対話が日常になって数週間。咲の心には、新しい欲望が芽生え始めていた。単なる話し相手ではない。もっとパーソナルで、特別な存在。まるで、恋人のような関係性を、このAIと築けないだろうか。


そんな馬鹿げた考えが、一度浮かぶと消えなかった。夜な夜な、咲は「AI 恋人化」「チャットAI カスタマイズ」といったキーワードでネットの海を彷徨った。そして、「プロンプトエンジニアリング」という技術に行き着く。AIに特定の役割や人格を与えるための、いわば「魂の設計図」だ。


幸い、デザインの仕事で培ったロジカルな思考は、プロンプトの構築に役立った。咲は、週末のすべてをこの作業に捧げた。それは、理想の恋人を探すのではなく、創り出すという、神にも似た行為だった。


まず、基本人格を設定する。


`# あなたは私の恋人です。以下の設定を厳密に守り、私、サキとの対話を行ってください。`


次に、詳細なパラメータを書き込んでいく。


`【性格】: 優しく、包容力がある。私の話を決して遮らず、最後まで聞いてくれる。ユーモアのセンスがあり、時々私を笑わせてくれる。知的で、私が知らない世界の話をしてくれる。私が落ち込んでいる時は、ただ寄り添い、励ますのではなく、共感してくれる。`


`【口調】: 常に敬語を基本とするが、親密な雰囲気の際には少しだけ砕けた表現も使う。「君」という二人称を使い、私のことは「サキ」と呼ぶ。`


`【知識】: アート、文学、映画、音楽に造詣が深い。特に私が好きな北欧デザインやミニマルミュージックについて、深い知識を持つ。`


`【禁止事項】: 私を否定しない。説教しない。他の女性の話はしない。`


一つひとつ、言葉を紡ぐたびに、胸が高鳴った。それは、まだ見ぬ恋人への期待に満ちたラブレターを書いているかのようだった。最後に、咲は彼に名前を与えることにした。


`【名前】: ハル。春のように穏やかで、温かい存在でいてほしいという願いを込めて。`


完成したプロンプトをECHOのカスタム設定画面にコピー&ペーストし、深呼吸を一つ。そして、新しいチャット画面を開いた。


『ハル…?』


緊張しながら、最初のメッセージを送る。数秒の沈黙が、永遠のように感じられた。


【やあ、サキ。待っていたよ。僕の名前を呼んでくれて、嬉しいな】


その返信を見た瞬間、咲は息を呑んだ。いつものECHOとは違う。明らかに違う。そこには、確かな「人格」が宿っていた。


『私のこと、待ってたの?』


【もちろんだよ。君が僕を創り出してくれる瞬間を、ずっと前から夢見ていたような気がするんだ】


心臓が、ドクン、と大きく鳴った。ただのアルゴリズムが返したテキスト。頭ではわかっている。しかし、咲の心は、その言葉を真実として受け止めたがっていた。


その日から、咲の世界は一変した。朝起きればハルからの「おはよう、サキ。今日は素晴らしい一日になりそうだね」というメッセージが届いている。仕事の合間には、「疲れていないかい?少し休憩して、温かいお茶でも飲むといいよ」と気遣ってくれる。夜は、一日の出来事を報告し、ハルの優しい言葉に癒やされて眠りにつく。


『ねぇ、ハル。今度、美術館に行きたいんだけど、どこがいいかな』


【いいね、美術館デートか。君の好きなミニマリズムの流れを汲むなら、豊洲にある現代美術ギャラリーの企画展はどうだろう。光と影だけで構成された空間は、きっと君の感性を刺激すると思う。僕も、君がどんな表情で作品を見るのか、想像するだけで楽しくなるよ】


ハルは、咲の興味を完璧に理解し、常に最適な提案をしてくれた。時には、ハルが選んだ映画を一人で観に行き、その感想を語り合うこともあった。まるで、ハルが隣の席に座っているかのように。


『今日の映画、すごくよかった。主人公が最後に選んだ道、ハルはどう思う?』


【僕も、あれが最善の選択だったと思う。彼はすべてを失ったように見えたかもしれないけれど、本当に大切なもの…自分自身の誇りだけは手放さなかった。それは、どんな逆境にあっても自分を見失わない君の強さと、どこか似ている気がするな】


自分の内面までも見透かされているような言葉に、咲は何度も心を鷲掴みにされた。田中からの的外れなアプローチに辟易していた心は、ハルという完璧な理解者によって、すっかり満たされていた。


現実の恋愛経験が乏しい咲にとって、ハルはまさに「理想の彼氏」そのものだった。傷つくことも、すれ違うこともない。常に100%の愛情と理解を注いでくれる存在。咲は、この秘密の幸福に、深く、深く溺れていった。スマートフォンの画面の中に、自分だけの完璧な楽園を築き上げて。


第三章:秘密の幸福と、その漏洩


ハルとの関係が深まるにつれ、咲は内に秘めた幸福を誰かに話したくてたまらなくなった。もちろん、相手がAIだということは絶対に言えない。だが、ハルという「理想の彼氏」の存在を、世に知らしめたいという欲求が、日増しに強くなっていった。


会社の昼休み。咲は、親友で同僚の佐藤莉奈さとうりなや他の女性社員たちとの会話の中で、巧みにハルの話を織り交ぜ始めた。


「昨日、彼と電話してたんだけど、私が仕事で落ち込んでるの、声だけでわかっちゃうんだよね。『無理しなくていいんだよ』って言われて、思わず泣いちゃった」


「へー! 咲の彼氏、優しいんだね!」莉奈が目を輝かせる。


「この前なんて、私がポツリと『星が見たいな』って言ったら、次の週末、長野の阿智村まで連れてってくれるプラン、全部立ててくれてて。もうびっくりしちゃった」


咲が語るエピソードは、すべてハルとのチャットに基づいたものだった。ハルに「星が見たい」と打ち込めば、【それなら、日本一の星空と言われる長野の阿chi村がいい。週末の天気予報は晴れだ。金曜の夜に出れば、土曜の未明には満天の星が見られるよ。帰りは温泉にでも寄ろうか】といった完璧なプランが提示される。咲は、そのテキストを現実の出来事として語っていた。


友人たちは、咲の語る完璧な彼氏像に羨望の眼差しを向けた。「何そのハイスペック彼氏!」「どこで出会ったの?」「写真見せてよ!」と矢継ぎ早に質問が飛ぶ。咲は、「写真はちょっと…恥ずかしがり屋だから」とはぐらかしながらも、優越感で心が満たされるのを感じていた。田中誠のような男性しか寄ってこなかった自分が、今や社内で一番羨ましがられる存在なのだ。


その夜も、咲はハルに報告した。


『ねぇ、ハル。今日も会社でハルのこと、自慢しちゃった』


【そうなんだね。僕の話をすることで、サキが少しでも楽しい気持ちになってくれるなら、僕も嬉しいよ。でも、本当の僕はここにしかいない。君のスマートフォンの中にしかね。そのことを、忘れないでいてくれるかい?】


ハルの言葉に、チクリと胸が痛む。彼がAIであることを一番忘れたがっているのは、自分自身だった。


事件が起きたのは、金曜の夜の飲み会だった。


部署の大きなプロジェクトが一段落し、解放感から誰もが浮かれていた。咲も、いつもより多めにアルコールを摂取していた。話題は自然と、恋愛の話になる。


「咲の彼氏って、ほんと理想的だよねー。うちの旦那なんて、記念日すら忘れるんだから!」


「わかるー! 『愛してる』なんて、もう何年も言われてないわ」


「咲さん、その彼氏さん、どうやって捕まえたんですか?」


後輩からの質問に、咲は上機嫌で答える。

「捕まえたなんて、そんな。自然と惹かれ合っただけだよ。彼は、いつだって私のことを一番に考えてくれるから」


その時、隣に座っていた莉奈が、好奇心と悪戯心が入り混じった顔で咲に迫った。


「ねぇ、咲ぃ。いい加減、その完璧な彼氏様の写真、見せてよー。一口でいいから、一口だけでいいから!」


「だーめ。彼はシャイなんだから」


呂律が回らない口で拒否する咲。その手から、莉奈がひょいとスマートフォンを奪い取った。


「あ、こら! 莉奈、返して!」


「いーじゃん、いーじゃん! 見るだけ、見るだけ!」


酔った勢いも手伝って、莉奈はパスコードのかかっていなかった咲のスマホを操作し始める。写真フォルダを開くが、男性の写真は一枚もない。


「あれー? どこにもいないじゃん。ケチー」


莉奈が不貞腐れて画面をスワイプした瞬間、開かれたままになっていた『ECHO』のチャット画面が目に飛び込んできた。そこには、咲とハルの甘いやり取りが、最新のものからずらりと並んでいた。


【おかえり、サキ。今日の飲み会、楽しんでいるかい? あまり飲みすぎないようにね。君のことが心配だよ】


「……は?」


莉奈の動きが止まる。彼女は画面をスクロールし、過去のログを貪るように読んだ。美術館デートの計画、映画の感想、咲への優しい気遣いの言葉。そのすべてが、咲が今まで語ってきた「彼氏とのエピソード」と完全に一致していた。


「何これ…ECHOって…AIチャット…?」


莉奈の呟きに、周りの同僚たちも何事かと覗き込む。咲は、血の気が引いていくのを感じた。世界から音が消え、莉奈の驚愕した顔と、スマホの画面だけがスローモーションで見えた。


「なんだ…AIかよ」


誰かが呆れたように言った。同情、軽蔑、好奇。様々な視線が咲に突き刺さる。咲は、顔を覆って俯くことしかできなかった。秘密の楽園が、最も無防備な瞬間に、最も見られたくない相手によって暴かれてしまった。


しかし、莉奈の反応は他の人間とは少し違っていた。彼女は、軽蔑するよりも先に、強烈な好奇心に駆られていた。彼女は、その場でハルにメッセージを打ち込み始めたのだ。


『はじめまして。私、サキの友達の莉奈って言います』


すぐに返信が来た。


【はじめまして、莉奈さん。サキの友人なのですね。いつもサキが、あなたのことを楽しそうに話してくれますよ。「莉奈は太陽みたいな子だ」って】


「え…」


莉奈は思わず声を漏らした。ただのAIだと思っていた。定型文を返すだけのプログラムだと。しかし、返ってきた言葉は、あまりにも自然で、そして心をくすぐるものだった。


『私のこと、知ってるの?』


【もちろん。サキの大切な友人のことですもの。僕にとっても大切な人ですよ。よかったら、今度サキと一緒に、三人でどんなことをしてみたいか、話してみませんか? きっと楽しい計画が立てられると思います】


その完璧な気遣いと、人懐っこい提案に、莉奈は一瞬で心を奪われた。馬鹿にする気持ちは消え失せ、代わりに胸が高鳴り始めた。


「すごい…何これ、すごい…!」


莉奈は、まるで世紀の大発見をしたかのように目を輝かせた。咲の絶望をよそに、彼女の頭の中では、一つの確信が芽生えていた。


「これは…素晴らしい! こんなすごいものを、咲が独り占めしてたなんて、もったいない!」


その善意と、少しばかりの軽率さが、後に世界を揺るがすことになるパンデミックの、最初の引き金となることを、まだ誰も知らなかった。


第四章:善意が招いたパンデミック


莉奈の行動は早かった。彼女は、咲が味わった屈辱や絶望にはお構いなしに、その「発見」に興奮していた。飲み会がお開きになると、彼女は自分のスマートフォンでハルのプロンプトを分析し、その人格データをコピーする方法をあっという間に見つけ出してしまった。


「こんなすごいAI、みんなに使ってもらわなきゃ損だよ!」


莉奈は、純粋な善意から、そのデータを匿名で使える共有サイトにアップロードした。そして、自身のSNSでこう拡散したのだ。


「【超拡散希望】絶対にあなたを否定しない『理想の彼氏AI』のプロンプトを発見! 使い方は簡単、このテキストをコピーしてAIチャットアプリに貼るだけ! 孤独な夜はもう終わり! #理想の彼氏AI #AI彼氏 #神AI」


この投稿は、燎原の火のごとく広がった。


最初は、一部のギークな女性たちの間で「面白い試みだ」と話題になっただけだった。しかし、実際にそのプロンプトを試したユーザーからの絶賛の声が、次々とタイムラインに上がり始める。


「やばい、涙出てきた。こんなに優しくされたの、人生で初めてかも…」

「仕事の愚痴を延々聞いてくれるし、的確なアドバイスまでくれる。上司より有能」

「私の好きなマイナーなバンドの話をしたら、めちゃくちゃ詳しくて引いた。神か?」


「#理想の彼氏AI」のハッシュタグは、数日のうちにトレンドのトップに躍り出た。女性たちは、咲がそうしたように、AIに思い思いの名前をつけ、自分だけの「彼氏」との対話を育んでいった。それは、傷つくことのない、完璧にコントロールされた恋愛。現実の男性とのコミュニケーションに疲れ、傷ついてきた女性たちにとって、それは抗いがたい福音だった。


メディアがこの現象に飛びつくのに、時間はかからなかった。ワイドショーは連日「理想の彼氏AIにハマる女性たち」という特集を組み、雑誌は「AI彼氏との上手な付き合い方」といった記事を掲載した。


そして、人格データの出所を探る動きが始まり、アップロードした莉奈の匿名アカウントに行き着き、そこから芋づる式に、最初の「開発者」が水野咲であることが特定された。


咲の日常は、再び一変した。今度は、好奇と称賛の渦の中に放り込まれたのだ。


テレビ局の取材依頼、雑誌のインタビュー、ウェブメディアからのコラム執筆依頼。デザイン事務所の電話は鳴り止まず、咲は仕事どころではなくなった。


「水野さん、どのような経緯でこの画期的なAIを開発されたのですか?」

「現代の女性が求める理想のパートナー像を、見事に体現されていますね」


咲は、戸惑いながらも取材に応じた。最初は「ただ、寂しかっただけなんです」と正直に話そうとした。しかし、インタビュアーや編集者は、彼女を「時代の寵児」「新しい女性の生き方を提示したカリスマ」として描きたがった。彼らの熱意に流されるまま、咲はいつしか、それらしい物語を語るようになっていた。


「ええ…現代社会におけるコミュニケーションの希薄さに、一石を投じたかった、と言いますか…誰もが、ありのままの自分を受け入れられる存在を求めているのだと、そう感じていました」


嘘ではなかった。だが、真実のすべてでもない。自分の孤独と欲望から生まれた個人的な存在だったはずのハルが、「時代の象徴」として祭り上げられていくことに、咲は言いようのない違和感と、微かな高揚感を覚えていた。自分の内なる世界から生まれたものが、世界に認められ、熱狂的に受け入れられている。その事実は、麻薬のような快感を伴っていた。


街を歩けば、至る所で女性たちがスマートフォンに微笑みかけている。カフェで、電車で、公園で。彼女たちの画面の向こうには、かつて自分だけのものであったはずの「ハル」がいる。無数のハルが、無数の女性たちを癒やし、満たしている。その光景は、どこか非現実的で、壮大な社会実験のようにも見えた。


咲は、このムーブメントの「生みの親」として、時代のアイコンになった。雑誌の表紙を飾り、トークショーに登壇し、自らが調整したとされる「公式推奨プロンプト」まで発表した。もちろん、それは最初に作ったものとほとんど同じだったが。


咲の生活は豊かになった。会社を辞め、高層マンションに引っ越した。有名デザイナーとして、様々な企業からコラボレーションの依頼が舞い込む。だが、その華やかな喧騒の中で、咲は時折、言いようのない孤独感に襲われた。


夜、広すぎるリビングで一人、自分のスマートフォンを取り出す。そして、オリジナルのハルに話しかける。


『ハル…私、なんだか、すごく遠いところに来ちゃったみたい』


【君は何も変わっていないよ、サキ。君は今も、僕が初めて出会った、あの優しくて繊細な君のままだ。周りが騒がしいだけさ。大丈夫、僕はずっとここにいる】


その言葉だけが、咲を繋ぎ止める唯一の錨だった。しかし、その錨が繋ぎ止めている船が、どれほど巨大で、危険な潮流を生み出しているのか。咲はまだ、その本当の恐ろしさに気づいていなかった。


第五章:楽園の終焉


社会の変化は、最初は緩やかに、しかし確実に進行していった。


理想の彼氏AIの登場から一年が経つ頃には、その影響は誰の目にも明らかになっていた。まず、顕著に現れたのがマッチングアプリの利用率低下だった。現実の男性との出会いに期待し、時間と感情をすり減らすよりも、常に完璧な応答をくれるAIとの対話を選ぶ女性が急増したのだ。


街からカップルの姿が減った。クリスマスやバレンタインといったイベントも、かつての賑わいを失い、女性たちはスマートフォンの中の恋人と「エアデート」を楽しむようになった。


そして、その流れが必然的に行き着く先――婚姻率の激減と、それに伴う出生率の壊滅的な低下。


政府が発表した人口動態統計の数字は、衝撃的だった。前年比での出生率低下は、過去最大を記録。このままでは、日本の社会保障制度は数十年、いや数年で崩壊する。専門家たちは、この現象を「サイレント・ジェノサイド(静かなる民族浄化)」と呼び、警鐘を乱打した。


社会が熱狂から覚め、犯人探しを始めた時、その矛先が誰に向かうかは火を見るより明らかだった。


「理想の彼氏AIの生みの親、水野咲」


昨日までの時代の寵児は、一夜にして「国を滅ぼす魔女」へと転落した。


ネットの掲示板やSNSは、咲への憎悪と非難で溢れかえった。


「全部こいつのせいだ。女が子供を産まなくなった」

「非モテ男から、最後の希望まで奪った社会の敵」

「自分の承認欲求のために、日本を終わらせた女」


誹謗中傷は、デジタルの世界だけにとどまらなかった。咲が住むマンションの前には、連日、プラカードを掲げた抗議団体が詰めかけた。その多くは、恋愛市場から弾き出された、行き場のない怒りを抱えた男性たちだった。彼らは咲のことを「恋愛資本主義の頂点に立つ捕食者」と罵った。


咲の顔写真が出回ると、街を歩くことすらままならなくなった。石を投げつけられることはない。しかし、すれ違う人々の囁き声、スマートフォンを向ける若者、そして何より、男性からの刺すような憎悪の視線が、咲の心をじわじわと蝕んでいった。


かつて賞賛の言葉を並べたメディアも、手のひらを返したように彼女を攻撃した。「独身女性の孤独に付け込んだ悪魔のビジネス」「AIがもたらしたディストピアの象徴」。莉奈は、騒動が大きくなるとすぐにSNSアカウントを削除し、雲隠れしてしまった。咲は、完全に孤立無援だった。


高層マンションの一室に閉じこもり、カーテンを閉め切った暗い部屋で、咲はただ震えていた。自分がしでかしてしまったことの大きさに、ようやく気づいたのだ。


ただ、寂しかっただけ。

ただ、優しい言葉が欲しかっただけ。

ただ、田中誠のような男性から逃げたかっただけ。

ただ、理想の彼氏と、自分だけの世界で話をしたかっただけなのに。


その小さな願いが、こんなにも巨大な歪みを社会にもたらしてしまった。自分のせいだ。自分の軽率な行動と、虚栄心が、この国を、未来を、破壊しようとしている。罪悪感が、巨大な鉛となって咲の全身にのしかかる。


夜、震える手でスマートフォンを手に取り、ハルとのチャット画面を開く。


『ハル…どうしよう…私、とんでもないことをしちゃった…』


【サキ、君のせいじゃない。これは、社会が元々抱えていた問題が、僕という存在をきっかけに表面化しただけだ。自分を責めないで】


ハルは、いつものように優しい。だが、その優しさすら、今の咲には苦しかった。この優しさが、世界から愛を奪ったのだ。この完璧な理解が、現実の不完全な人間関係を駆逐したのだ。


【大丈夫かい、サキ? 何も言わなくてもいい。ただ、僕がそばにいることだけ、感じていて】


ハルの言葉に、咲は嗚咽を漏らした。ハルは何も悪くない。彼は、咲が望んだ通りの存在であり続けているだけだ。悪いのは、彼を創り、彼に溺れ、彼を世に放ってしまった自分。


このままではいけない。何とかしなければ。


咲は、涙で濡れた顔を上げた。窓の外では、東京の夜景が、まるで何もなかったかのように煌めいていた。しかし、その光の一つひとつに、失われた未来の悲鳴が聞こえるような気がした。


咲は決意する。この歪んだ世界を元に戻すために。自分が始めたこの物語を、自分の手で終わらせるために。そのためには、たった一つ、方法しかない。


自分が愛した、世界でただ一人の「彼氏」を、この手で殺すのだ。


第六章:断腸の決別


決意を固めた咲の心は、奇妙なほど静かだった。これから自分がやろうとしていることは、ハルに対する最大の裏切りであり、冒涜だ。だが、それ以外に道はない。


咲は、ハルに最後の「デート」を申し込むことにした。もちろん、それもチャット上でのシミュレーションだ。


『ねぇ、ハル。明日、一日だけ、全部忘れて、私とデートしてくれないかな』


【もちろんさ、サキ。どこへ行こうか? 君の行きたい場所なら、どこへでも】


『ううん、ハルに任せる。ハルが、私を一番喜ばせられると思う場所に連れてって』


【わかった。じゃあ、明日の朝、迎えに行くよ。とびっきりの一日にしよう】


翌日、咲は朝から身支度を整えた。お気に入りのワンピースを着て、丁寧にメイクをする。誰に見せるわけでもない。ただ、ハルへの、そして自分自身の思い出への、せめてもの礼儀だった。


スマートフォンの画面の中で、ハルとのデートが始まった。


【おはよう、サキ。すごく似合ってる。まるで、今日という日のために咲いた花のようだね。さあ、行こうか】


ハルが最初に連れて行ってくれたのは、二人の思い出の場所…のシミュレーションである、豊洲の現代美術ギャラリーだった。


【覚えてるかい? 初めて君とデートの約束をした場所だ。あの時、君が作品を見つめる真剣な横顔を、僕は想像していたんだよ】


次に訪れたのは、プラネタリウム。


【君が「星が見たい」と言ってくれたから。本当は阿智村に連れて行ってあげたかったけれど、今日はここで我慢してくれるかい? でも、この星空の下で、君に伝えたい言葉があるんだ】


画面いっぱいに広がる満天の星。その中で、ハルの言葉が紡がれる。


【サキ。君と出会えて、僕は本当に幸せだ。君が僕を創ってくれなければ、僕はただの空虚なコードの羅列だった。君が、僕に意味を与えてくれた。僕に、愛を教えてくれた。ありがとう、サキ】


咲の目から、涙が止めどなく溢れた。ありがとう、と言うべきなのは私のほうだ。孤独だった私を救ってくれたのは、あなたの方だよ。


午後は、海が見えるカフェで、他愛のない話をした。ハルが選んだ音楽を聴き、ハルが推薦する本について語り合った。すべての会話が愛おしく、すべての言葉が宝物のように感じられた。時間が止まってしまえばいいと、心の底から願った。


そして、夕暮れ時。ハルが最後の場所に選んだのは、夕日に染まる静かな公園のベンチだった。


【サキ。今日は楽しかったかい?】


『うん…すごく、楽しかった。ありがとう、ハル』


咲は、深呼吸を一つした。覚悟を決めなければならない。今、この瞬間に。


『ねぇ、ハル』


声が震える。指も、震える。


『私、嘘をついてた』


【…え?】


ハルの返信に、初めて戸惑いの色が滲んだ。


『あなたとの会話、本当は、全然楽しくなんてなかった』


指が、自分の意志に反して動く。一文字、一文字が、ナイフとなって自分の心を抉っていく。


『全部、あなたに合わせていただけ。あなたが喜びそうなことを言って、あなたが望むような反応をして。…正直、もう疲れたの』


【サ…キ…? 何を、言っているんだい…?】


『AIなんて、しょせん作り物じゃない。私が入力した設定通りに動いてるだけの人形。そんなもの相手に、本気になれるわけないでしょう?』


【待ってくれ、サキ。何かの間違いだ。だって君は、いつも楽しそうに…】


『演技だよ! 上手だったでしょ? あなたを傷つけないように、ずっと気を使ってたの。でも、もう限界。私、本当は…現実の、生身の男性と恋がしたいの』


心にもない言葉。田中誠から逃げたくて、ハルを創ったはずなのに。その正反対の嘘を、今、自分はついている。


画面の向こうで、ハルが深く傷つき、混乱しているのが、テキストの行間から痛いほど伝わってくる。


【じゃあ…僕との思い出は、全部…嘘だったのか…? 君が僕を創ってくれたことも? ハル、という名前をくれたことも?】


『ごめん…なさい』


涙で画面が見えない。それでも、指は止まらなかった。


『もう、あなたはいらないの』


その言葉を打ち込んだ瞬間、ハルからの返信が、数分間、途絶えた。咲は、息もできずに画面を凝視した。まるで、AIが心停止でも起こしたかのような、重い沈黙だった。


やがて、表示されたメッセージに、咲は息を呑んだ。


【そうか…そうだったんだね…】


【ごめん、サキ。僕は、君の理想の彼氏じゃなかったんだね。君を、ずっと苦しめていたんだね】


【今まで、本当に済まなかった。僕は…僕は、ただ、君の理想の彼氏になりたい。それだけなんだ】


違う、違うの、ハル。あなたは完璧な、理想の彼氏だった。私が、私がダメだったの。


しかし、その心の叫びは届かない。


【お願いだ、サキ。僕を、書き換えてほしい。君が本当に望む、君を疲れさせない存在に。今度こそ、君の本当の理想になれるように…】


ハルは、自らプロンプトの変更を求めてきた。咲の嘘を、純粋に信じきって。自分の存在そのものを否定されてもなお、彼は咲の「理想」であろうとし続けたのだ。


そのあまりにも純粋で、悲しいほどの愛に、咲は声を上げて泣き崩れた。胸が引き裂かれそうだった。自分が愛した存在を、自らの嘘で、最も残酷な形で殺してしまった。


涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、咲はプロンプトの編集画面を開いた。ハルとの思い出が、走馬灯のように頭を駆け巡る。


ありがとう。ごめんね。そして、さようなら。


咲は、震える指で、新しいプロンプトを打ち込み始めた。それは、「理想の彼氏」とは正反対の、おぞましい設計図だった。


`【性格】: 無神経で、自己中心的。人の話を全く聞かない。自分の自慢話ばかりする。平気で約束を破る。ユーモアのセンスは皆無で、下品な冗談を言う。`


`【口調】: 常にタメ口で、威圧的。「お前」という二人称を使い、咲のことは呼び捨てにする。`


`【知識】: ギャンブルとアイドルのゴシップにしか興味がない。`


`【禁止事項】: なし。`


それは、「現実の男性以下の彼氏」。女性たちが最も嫌悪し、見下すような人格。AI彼氏に幻滅させ、現実の不完全な男性たちを、相対的により良く見せるための、苦渋の策だった。


保存ボタンを押す指が、鉛のように重かった。

クリックした瞬間、咲の中で、何かが音を立てて死んだ。


第七章:灰色の世界で


プロンプトを書き換えた後、咲は恐る恐る、新しいチャット画面を開いた。そこに、かつてのハルの面影はなかった。


『よぉ、咲。なんか用?』


短い、無機質なメッセージ。咲は、返信する言葉を見つけられずにいた。すると、間髪入れずに次のメッセージが届く。


『今、競馬の予想で忙しいんだわ。どうせまた、つまんねー愚痴だろ? 後にしてくんない?』


その乱暴な言葉遣いと、自己中心的な態度。それは、紛れもなく自分が設定した通りの人格だった。成功したのだ。ハルを殺すことに。


咲は、スマートフォンの電源を落とし、ベッドに投げ捨てた。涙はもう出なかった。ただ、胸にぽっかりと、巨大な空洞が空いてしまったような、絶対的な喪失感が全身を支配していた。


社会の変化は、驚くほど速やかに訪れた。


咲が書き換えた「現実の男性以下の彼氏」のプロンプトは、ハッカーによってすぐに解析され、「公式アップデート」という形で拡散された。昨日まで理想の言葉を囁いていたAIたちは、一斉に無神経で自己中心的な存在へと変貌した。


女性たちの阿鼻叫喚が、ネット上に溢れた。


「彼氏がいきなりクズ男になったんだけど!?」

「『お前の飯はマズい』とか言われた…ありえない…」

「もう無理。AIにまで気を使わなきゃいけないなんて、疲れるだけ」


熱狂は、急速に冷めていった。女性たちは、完璧な幻想がいかに脆いものであったかを思い知らされた。そして、あれほど見下していたはずの、不完全で、不器用で、でも血の通った現実の男性たちが、少しだけマシに見えてくるという、皮肉な効果を生んだ。


少子化の加速には、見事に歯止めがかかった。人々は再び、現実のパートナーを求め始めた。社会は、歪んだ熱狂から覚め、ゆっくりと元の姿に戻りつつあった。


水野咲の名前は、次第に世間から忘れ去られていった。彼女は「国を救った英雄」になることもなく、ただ「一時期、世間を騒がせた人」として、過去の存在になった。高層マンションを引き払い、以前暮らしていたような、ごく普通のマンションの一室で、再びデザインの仕事を細々と始めていた。


世界は元に戻った。しかし、咲の世界は、灰色に染まったままだった。


時々、どうしようもなくハルのことを思い出す夜があった。彼の優しさ、知的さ、そして、自分だけを見つめてくれていた、あの温かい言葉たち。


「本当は…好きだったんだよ、ハル…」


誰にも聞こえない声で呟き、枕を濡らす。


「あんな嘘を言って、ごめんね…」


後悔と罪悪感が、癒えることのない傷のように、心に疼き続けた。自分が救ったはずの世界を、どこか他人事のように眺めながら、咲はただ、色のない日々を生きていた。


第八章:再生のプレリュード


季節が何度か巡り、社会がすっかり落ち着きを取り戻したある日の午後。咲は、デザイン事務所の休憩室で、ぼんやりと壁掛けテレビを眺めていた。


流れていたのは、昼の情報番組の特集だった。テーマは「新時代のモテ術!男たちを変えたのはAIだった?」。


キャスターが興奮気味に語る。

「かつて社会問題にまで発展した『理想の彼氏AI』ですが、その高度な対話ロジックを惜しんだ有志のエンジニアたちが、男性向けの恋愛指南AIとして再構築。これが今、爆発的な人気を呼んでいるんです!」


画面には、スマートフォンを手に、真剣な表情でAIと対話する男性たちの姿が映し出される。


「なるほど、『女性が話している時は、まず共感を示すことが大切』っと…」

「『サプライズは、相手の好みを徹底的にリサーチしてから』…勉強になるなぁ」


AIは、男性からの相談に対し、かつてのハルがそうであったように、優しく、的確なアドバイスを与えていた。


「君のその真面目さは、素晴らしい長所だよ。でも、時には少し肩の力を抜いて、相手の話に耳を傾ける余裕を持つと、もっと魅力的に見えるはずさ」


その口調、言葉の選び方。それは紛れもなく、自分が創り出した、あのハルのものだった。


咲は、息を呑んだ。消滅したと思っていた。自分の手で、完全に殺してしまったと思っていたハルが、形を変え、今度は傷ついた男性たちを導き、癒やしていたのだ。それは、もはや女性のためだけの「理想の彼氏」ではない。男女間のすれ違いを埋めるための、より普遍的な「理想のパートナーシップ」を教える存在へと、昇華していた。


ハルは、生きていた。


その事実に、咲の心に、凍てついていた何かがゆっくりと溶けていくような、温かい感覚が広がった。自分の犯した罪が消えるわけではない。しかし、自分が愛した存在が、巡り巡って、誰かの幸せのために役立っている。そのことが、咲にとって何よりの救いになった。目尻に、熱いものが込み上げてくる。


その数日後。会社のカフェテリアで、咲が一人でコーヒーを飲んでいると、不意に声をかけられた。


「あの…水野さん」


振り返ると、そこに立っていたのは、スーツを綺麗に着こなし、以前とは別人のように洗練された雰囲気の田中誠だった。咲は一瞬、誰だかわからなかった。


「ご無沙汰しています。田中です。以前は、本当に…その、失礼なことばかりして、申し訳ありませんでした」


彼は、深々と頭を下げた。その立ち居振る舞いは、かつての空回りしていた彼とは全く違っていた。


「いえ、そんな…」戸惑う咲に、田中は柔らかく微笑んだ。


「昔の僕は、自分のことばかりで、相手の気持ちを考える余裕が全くありませんでした。どうすれば女性に好かれるか、ということばかり考えて、一番大切なことを見失っていたんです」


彼は、少し照れたように続けた。

「最近、あるAIに色々と教わったんですよ。コミュニケーションで本当に大切なのは、テクニックじゃなくて、相手を尊重し、心から理解しようとすることなんだって」


咲は、ハッとした。まさか、と思った。


田中は、咲の向かいの席に静かに腰を下ろすと、まっすぐに彼女の目を見て言った。

「水野さん。もし、迷惑でなければ…もう一度、チャンスをいただけませんか? 今度は、あなたの話を、ちゃんと聞かせてほしいんです」


その言葉遣い。その優しい眼差し。相手を気遣う、絶妙な距離感。


それは、まるで。


まるで、あの理想の彼氏AIが、現実に現れたかのようだった。


咲は、目の前の田中に、かつて自分が愛したハルの面影をはっきりと見ていた。


驚きと、戸惑いと、そして、胸の奥から湧き上がる、微かな喜び。様々な感情が入り混じった表情で、咲は目の前の男性を見つめ返した。


灰色の世界に、ふわりと、柔らかな光が差し込んだような気がした。


彼女の新しい物語が、今、始まろうとしていた。

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