第捌捌話 『瓦礫ノ上ノ晩餐会・拾壱』
「アタシも行かなきゃ!」
仄をハンマー投げの要領で飛ばした緋奈はすかさず魔王のもとに走ろうとしていた。
しかし右足を踏み込んだとき、
グキャ!
と片足に力が入らなくなり、倒れてしまう。それを機に体のいたるところが痛み始め、内出血を起こしていく。
(うそっ! 『血継写し』の反動⁉ ここで⁉)
血継写しは血を吸った人の権利を一時的に使用することができるという能力。この能力は代償もある。それがいま彼女が起こした内出血。使用した血や血管が血継写しの終了とともにダメージとしてフィードバックするのだ。
膝をつき、体中に走る痛みを抑えながら耐え忍ぶ緋奈。通常ならば筋肉痛程度の傷だが、『勇者』の血という強力なものの反動は緋奈が想定していたよりもきつい。
反動に耐え抜きながら、遠くで戦う三人の勝利を願う。
燐の龍咬・八牙閃、仄の燎魔尽煤焱により魔王は停止。その光景を見た緋奈は緊張の糸が切れたのか、緋奈は意識がもうろうとし始めた。
だが次の瞬間彼女に危機感が走る。草食動物が肉食動物に視線を向けられた時のような予感。
かろうじて前を向けば、魔王がこちらに向かってきていた。頭から腹にかけて巨大な口を開けたおぞましいバケモノが。
(逃げなきゃ……)
そう思った彼女だが指一本すら動かせない。
(どうしよう!)
バケモノは依然として殺意を向けて走ってくる。恐怖が緋奈を支配し、彼女の鼓動が加速する。
魔王の背後では走り始めている燐ら三人の姿。だが絶対に間に合わない。
(誰か……)
涙が彼女の瞼にたまり、声にならない叫びが頭に木霊する。
(誰か助けて!)
突如少女の涙とせん妄で朧気だった視界が暗くなる。
まるでなにかが少女の前に出現したような、何かが少女の前に立ったような……
誰かが魔王と少女の間に割り込んだような。
「……攫命の鉛玉」
鬼気迫る表情で詠唱を行う勇者は片足でブレーキをかけながら、ない左の上腕にアサルトライフルの銃身を置き、右手の指で引き金に指を添える。
振り下ろされる魔王の腕に全く臆することなく、勇者は照準を一瞬で魔王の額に定め、引き金を引いた。
「必殺弾」
鈍い音が戦場に響き渡るとともに魔王の額に風穴があく。
魔王は剛腕を伸ばし、すがるように正義へと向けるが届かない。
バキン! とその風穴を中心に魔王の身体全体にヒビが入った。ガラスの彫刻にくぎを刺したときのように。
戦場から音が消える。
誰も動かない。まるでパノラマのようだ。ただその瞬間で世界が停止したよう。
だがゆっくりと戦場は動き始める。最初は正義の息を吐く音から。続いてアサルトライフルを構え終える音、正義の後ろにいる緋奈の呼吸音。
そして魔王から発せられる声。それはハングのものではない。感覚として言っている意味は分かるが、耳に聞こえる情報はまるで風のような、雷のような、自然音のようだ。
〈…………未だ果てず我が野望。またもや、またもや勇者に阻まれるとは。だがいつかは、全てを飲み乾してくれよう。我が力と、意志をもって……全ての世界を闇に染める。勇者よ……覚えておくがいい。我は、開闢と終焉の魔王なり〉
ハング、いやその中身が破暁隊に言葉を紡ぐにつれどんどんとハングの身体にひびを入れていく。そしてついには……
パリン!
砕けた。氷の結晶のように。
正義が亡骸を見れば、それはおよそ生命の死骸とは思えない。皮膚の下はすべて黒一色。まるで菌に体の中身をすべて胞子に変えられた冬虫夏草のようだ。
かつて魔王だったものを見つめる正義へ、仄、涼也、燐の三人が集まる。
「正義さん!」
「正義ィ!」
「正義くん! 無事だったのかい⁉」
ハングが衝撃波を放ってから正義の連絡がなかったことで不安であった涼也の質問に正義は一息ついて説明し始める。
「ああ、あのとき…………」
***
ハングが衝撃波を放った時に倒壊したビルの中に正義はいた。
涼也の思った通り、一瞬で訪れた衝撃波を正義は回避することができず、倒壊したビルに巻き込まれてしまい、がれきの中で気を失っていた。
彼が目を覚ましたきっかけは、蒼京全体に響き渡った轟音。そう、翔真が円盤を破壊した音である。
燐と同じタイミングで正義も目を覚ましたのだ。
しかし瓦礫の中でいったいどこにいるのかすらわからない。それどころか瓦礫に挟まれるという正義にとってはトラウマそのものともいえる状態で、正義は恐怖でしばらく動けなかった。
(怖い……いやだ……俺は死ぬのか……? いやだ……いやだ……)
まったく動けない中、正義の耳に入る叫び声。
それはハングが上げたものであった。おおよそ勝利の雄たけびだとかそういったものではない。耳を澄ませばほんの少しだけ戦闘音が聞こえてくる。
正義は、破暁隊の仲間が未だ戦っていると気づく。その事実を感じたとき、正義の恐怖が薄れ、それどころか怒りが湧いてくる。
ただそれは魔王に対する怒りではなく、己自身への怒り。
「あのときとは違うんだ……」
「あのとき」。それは10年前、東京テロで無力に瓦礫に挟まれた幼少期の嫌な思い出。
だが今は無力ではない。勇者となり、戦場にいる。魔臣を倒す力を持っている。
ただここで助けを待つだけか。
(そんなわけがあるか。俺は勇者・晴宮正義だ……こんなところで……この俺が終わっていいわけねえだろうが!)
歯を食いしばり、全身に力を込める。どこでもいい。自分を覆いつくしているビルの瓦礫が動いてくれれば。
(どこだ……早く出ねえと! 早く!)
左目の下にある傷が痛む。だがそれとともに力があふれ出る。
「おらぁ!」
何分かかったか。溺れていた人間が水面から顔を勢いよく出すように、正義は力強くがれきから脱出。
すぐに戦場を見れば、ハングと仄、涼也、燐の三人が戦っている。
戦は佳境。早く参戦して破暁隊に援軍に行かなければならない。
そう思った正義だが、視界の端に彼女が映る。権利の反動で動けない緋奈だ。
迷うことなく、正義は走った。
緋奈のほうに。
魔王への、魔王軍への怒りや殺意はある。しかし彼は彼女を助けようと考えた。
そして次の瞬間にハングは緋奈のほうへ走り始める。それを察知した正義はすぐさま加速。
今の位置ではハングに確実に仕留めることはできないと考えた正義は必ずハングにあたるかつ至近距離で狙える場所、緋奈とハングの間に立ったということだ。詠唱を唱えながら。
***
「…………ってことで、なんとか緋奈……さんをたすけることができたってわけだ」
落ち着きを取り戻しながら説明する正義。
「なるほど。だが君がいてよかった。僕たちじゃあ間に合わなかったから」
安堵の表情を浮かべる涼也とその後ろで歓声を上げる仄と燐。
「俺様たち……魔王を倒したってことだよなあ⁉」
「ええ、これは偉業ですわ!」
疲れをまるで知らないのか腕を上下に振って喜ぶ燐と腕を動かせないなりに体を振って喜びを表現する仄。涼也も彼らのかわりに総司令部へ連絡を行う。
混濁とした意識の中、今度は緋奈が質問する。
「……なんで」
「なんでって、さっき言ったろ?」
「そうじゃないの……」
どんどんと緋奈に眠気が襲っていく。しかし眠る前にそれだけは正義に聞きたかった。
「魔王を倒したかったんでしょ? なんでアタシを助けたの?」
緋奈の記憶では涼也の言葉で正義は瓦礫の山には入らないということだった。だからこそ正義が緋奈の前に現れたことに最初に出た感情は驚き。なぜここにいるのかという疑問だ。
彼女の質問に正義はすぐには答えない。頭の中の考えを必死にまとめる。
「……瓦礫から抜け出したとき、俺には二つの選択肢が見えた。三人の援軍に行くか、涼也のお願いを無視して緋奈さんを助けるか。確かに魔王を倒したかったさ。でもやっぱり俺は……人を助けたい」
魔王戦が始まって直後、正義に問いかけた言葉。
——ではもし、どちらかしか選べないとすれば……お前はどうする?
そのときはわからなかったが、実際に正義が行動を起こして気づいた。そして思い出した。学校に魔人が襲ってきたときも、破暁隊が初出撃のときも、正義は真っ先に助けようとした。
「声」に対して、正義ははっきりと答えられる。どちらかと問われれば、人を助ける方を選ぶ、と。
それだけではない。
「それに……緋奈さん言ったじゃないか」
「言った?」
「一ヶ月前『次からはアタシを助けるか迷うくらいならさっさと来なさいよね』って。その言葉が多少なり俺を動かしたんじゃないかな」
「え……」
冗談めかしい彼の言葉に落ち着いていた緋奈の鼓動が再加速する。
もちろん彼女の言葉を完璧に覚えていたわけじゃない。むしろ思い出したのは助け出した後だ。けれど、緋奈にとって照れ隠しのため突然言った言葉を、目の前の少年は大事そうに覚えていたことに動揺を隠せない。
素直になってはならない。女王様として生きてきた勘がそう告げる。
だからこそ聞いてしまった。逃げ穴と思って掘った、墓穴を。
「……ぐ、軍人がそんな感情で動いてよかったの……」
緋奈はぷいと顔をそむけてそう言った。助けてもらったのは本当に嬉しい。だけどお礼なんて言える性格じゃない。問いただすように見せかけて、照れを誤魔化した。
「まあな。あの瞬間に緋奈さんを助けられたのは俺しかいなかったんだ。なら、それをやらない理由はない」
その言葉で、緋奈はもはや言い訳のしようがないほど顔が赤くなる。なぜならその言葉はあまりにも似ていたから。彼女が大好きだった、祖父に。
『ワシしかできんのだ。なら、それをやらん理由がない』
ついに祖父と正義が重なる。もう言い逃れも言い訳もできない。
困惑、緊張、興奮、そして戦闘の疲労と傷で、緋奈は意識を失った。
「緋奈さん⁉ 大丈……夫…………」
バタン、と今度は正義が疲労でダウン。転倒する。
「正義君! しっかり……」
正義を心配する涼也の背後で、バタバタと音が鳴る。後ろを振り向けば、燐と仄も倒れてしまった。
続いて涼也も足の力が抜け、座り込んでしまう。
「うん、どうやら、僕も思っていた以上に疲れてしまったみたいだね」
すると上空から巨大な影を落とす一人の兵士が。
涼也はそれに気づく。
「うん、タイミングがいいね。お願いだけど、僕たちを連れてってくれないかな。御覧の通り、誰も動けなくなってしまってね」
兵士は頷くと、六つの手を使って彼らを運ぶ。
蒼京における激しい魔王戦は、一発の銃声で幕を閉じた。
いや、魔王の脅威という永遠に続くかもしれなかった夜は、破暁隊によって明かすことができたのだ。
魔王を倒した五人には、戦いの終わりが告げられる。体の奥底から聞こえる託宣で。
『『『『『レベルが上がりました』』』』』
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長かった魔王戦終了です! ただ戦争は終わりません。
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