第捌弐話 『瓦礫ノ上ノ晩餐会・陸』
「ワレは混沌だ」
魔界において、その魔人はひたすら戦場に混沌をもたらした。
生まれた瞬間からその狼魔人は孤独であった。両親は他の魔人に殺されたのか、はたまた両親がここに彼を捨てたのかはわからない。ただ最初の記憶にあったのは、谷底で死の淵をさまよっていたこと、そしてどうしようもなく飢えていたことだ。
ナニカを食べたい。
ナニカを腹に入れたい。
飢餓の中で何分か、何時間かさまよった。その時間は永遠のようであり、だが記憶では一瞬だ。
混濁とした記憶の中、次の瞬間には何かにかぶりついていた。幼少期のころ、とくに何百年も生きている魔人の記憶というものは全く朧気で、確実なことは言えない。けれど最初に口にしたものだけは、その狼魔人は覚えていた。
それは一匹のトカゲであった。
おそらく子供のトカゲだったのだろう。とても小さなトカゲ。けれど幼い魔人の腹を満たすには十分な大きさのトカゲ。
そのトカゲを食べたことでその魔人は何日か生きることが、動くことができるようになった。
トカゲを食べた狼魔人はただひたすらに谷底を歩いた。
それしかやることがなかったから。歩いていけばいつかは谷から脱出できるかもしれない。希望とか、願いだとかそういったものではない。当時の魔人にとって生きていくことと歩くことが同義だったという表現が正しいだろう。
谷底には、飢えをしのぐくらいならなんとかなるくらいには生物がいた。
食べる、歩く、休む。食べる、歩く、休む。食べる、歩く、休む。
ただそれだけがその魔人にとっての人生であった。
約二十年。もしかしたらもっと長いかもしれない。
その年月をかけて魔人は谷底から脱出した。
谷底から這い上がったその魔人はその後も前に進み続けた。たった一本の谷底を進んできた魔人にとってほかに選択肢がなかったからだ。
外に出た魔人が最初に倒したのは、
魔人の何倍もある巨大なドラゴンであった。
魔人は知らなかったが、魔人が堕ちた谷は地獄の一閃と呼ばれる、魔界で最も大きい谷であった。その中では魔界の全土にある谷へ落ちたあらゆる生物が谷底で蟲毒の如く殺し合いが置き、強者のみが生き残るようなところであったのだ。最初にその魔人が食べたトカゲもその成体になれば音速を超える速度で移動する種。
そこで二十年も生きてきたのだから、その魔人はもはや魔臣を超えるほど強くなっていた。
だが強さの代わりに得たものは、「果てしない食物への執着」。ただ食べたいという渇望が、その魔人への根底にへばりついていた。
谷底で備わった、強いものほど美味いという価値観、逃げ場などないそこで立ち向かうしか選択肢のない場所でのもと、魔人はただひたすらに進み、喰らった。戦場も、国も、都市も、目の前にあるものはすべて壊し、喰らった。
魔人の目の前に立ち向かうものはいなくなったが、その代わりに後に続く者が増えた。魔人に食料を貢ぐ代わりに栄光と勝利を約束される。そのうわさを聞きつけ、一万を超える魔人が彼のもとに集まったのだ。
侵略国家ファザリオンの誕生である。
国家が誕生して五年後、魔人のもとにフードを被った魔人が現れた。顔は見えず、どんな人物かはわからなかった。
魔人は言う。
「魔王にならないか?」
魔人の問いの意味を狼魔人は聞く。
「魔王?」
「ああ。あの谷で生き延び、そしてこの規模の国を作った魔人だ。我々と契約し、魔王になる気はならないか?」
「……魔王になれば、もっと強くなるか?」
「ああ。より強くなる。そしてもっといい食物に出会える」
フードの魔人の言葉を聞いたその魔人は笑う。ちょうど貢いでくれる食物にも飽きてきたところだった狼魔人にとってその一言は魅力的であった。
「わかった。魔王になってやろう」
「よし。だが貴様には名前がない。我々の契約者となった以上、名前を主より授かることができる」
「名前?」
狼魔人は二十年名前もなくさまよっていた。ないものやほしいものはすべて奪って生きてきた。だからその名前は彼が始めて授かったものともいえよう。
魔王ガダンファルはそうして生まれた。
***
しかし今はどうだ。
圧倒的な力で侵略を続けてきた、目の前の魔人、魔将、魔臣をすべて喰らってきたというのに、ただの人間数名にやられそうになっている。これが魔王のあるべき姿なのだろうか。
ガダンファルがそう思うと怒りが湧いてくる。ただひたすらに現状を否定したい。すべてを喰らって生きてきたというのに、今のガダンファルの腹の中も、心の中も空っぽだ。
――飢えている。
あの時の感覚。谷底で永遠ともいえる時間味わった。
――喰いたい。
ガダンファルと呼ばれる魔人の原点。名もない魔人だったころの。
――ただひたすらに。腹の中を埋めたい。
もはやそれだけ。深い深い精神の中でただそれだけの感情が渦巻いている。それを解決できるのはもはや目の前にいる、自身を苦しめた原因のみ。
――食わせろ。
狼魔人の心の中のつぶやき。小さくとも、されど強い意志を含んで。
食わせろ。
誰にも聞こえないはずの言葉は虚空へ消えてゆく。
……はずだった。狼魔人がすべてを込めた死に際の言葉に呼応する存在があった。
それはただ静かに、魔王にさらなる恩恵をもたらす。なぜなら狼魔人は『義務』を果たしたからだ。
『意志の増大』、『力の分配』とは違う、魔王の『権利』の発動条件を。
〈義務ガ果タサレマシタ。権利『更なる力』ヲ発動シマス〉
どこかから聞こえる言葉とともにガダンファルの意識が吹き飛ぶ。まるで濁流にのまれるかのように千切られてはくっつき、まるで小さな子に渡した粘土のようにぐちゃぐちゃとなってしまう。
その中で唯一消えぬものがあった。それがどんどんと大きくなってゆき、魔王ガダンファルを新たな存在へと形作ってゆく。
その「意志」がガダンファルに成り代わった。
「「喰ワセロォォォォォ————!」」
ガダンファルだったものが突如咆哮を上げる。
魔王を倒したと思っていた破暁隊5人はその声による圧で余裕がなくなり、不思議と構えざるを得なくなる。柄を軽く握っていた燐はその声と同時に刀を握る力を強め、他の4人も無意識に戦闘態勢となった。
まるで目の前の魔王の、「戦エ」という「意志」に従ったように。
破暁隊が見る魔王の姿は一見同じだが、ガダンファルと戦っていたものが見れば絶対にガダンファルとは違う物体であった。
白目をむいた目、鋭く大きくなった牙、雷のようではなく、触ればただでは済まないようなどす黒く変化したオーラ。
あきらかに先ほどの魔王ではない。
そしてもうひとつ、5人が聞いた咆哮は何か違和感があった。ひとつの声ではなく、まるで重なっているようだ。
そのわけに最初に気づいたのは、ガダンファルだったもののうしろにいた仄と涼也。
彼らが見たものは、
口。
二人によるガダンファルだったものへの背中にはなった攻撃による傷が口のように変化していたのだ。まるでハエトリグサのように楕円状の口の左右から肋骨が変化したのだろうおぞましい牙が生えていた。
牙はガダンファルだったものが無意識に動かしているのか、獲物を今か今かと待っているかのようにグラグラと蠢いている。
ガダンファル、いや、誰かに授かった名前を、今の狼魔人は名乗らない。狼魔人が持つべきものは自分が奪ったものでなければならないと考えた。
自分という存在の根底を認識した今、狼魔人は名乗る。
この名前こそが、
「「ワレは! 全てを喰らうもの! ハングである!」」
かつてガダンファルだったはずの魔王はハングと改めた。魔王という立場としての二つ名、「千獣の王」ではなく、今この時思い出した原点による真の二つ名を添えて。
魔王ハング戦、開始。
円盤の強化魔法発動まで残り……
10分。
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