第肆漆話 『ユエニ』
正義は呆然としていた。
「だ……だれか……」
目の前の光景に信じられなかったから。
いや、事実として受け入れていはいるが、そのたびに心の傷はどんどんと広がっていく。
ガラスは割れ、一部は半壊した左右のビル。道路もところどころのコンクリートにはひびが入り、外灯や表示板は原型をとどめていない。その奥には倒壊したビルの瓦礫の山。
——うそだ
この景色は嫌でも正義に思い出させる。10年前のあの日の記憶を。
正義が先ほどまで否定していた、否定したかったもの。だが徐々に確信し、今となってはもう確信してしまったもの。
——なんで
そして遠くから聞こえる叫び声。おそらく魔人や兵士のものではあるが今の正義にそう判断することはできなかった。むしろその叫び声の中に、悲鳴が混じっているように感じてしまう。
十年前のトラウマは視覚だけでなく、聴覚や嗅覚にまでもが十年前の記憶を呼び起こす。
これまでの者とは比べ物にならないほどはっきりと。
助けて、痛い、苦しい——。
東京テロの最中、がれきの中で正義の耳へ届いた老若男女のあらゆる声が、正義の頭にこだました。
いやだ
体から力が抜ける。
ガタン、と持っていたアサルトライフルが落ちた。小銃はいったん正義の足にもたれかかるも、そのまま地面へ倒れる。
手の力だけではない。
足の力も抜け、正義は立つことすらできない。
膝をつき、茫然とコンクリートを眺める正義。見ている方向は地面なのに、正義の視界はゆらぎ眩暈がする。
手は地面につき、息は荒くなって、目からは涙がこぼれる。今までで一番酷い発作であったが、それだけではない。
俺は、だれも助けられなかった?
不意に、正義は胸を押さえる。
痛みがあるわけではない。
けれど、何かが胸から落ちているのを感じるのだ。
それは目に見えず、触ることができない。
どれだけ胸を押さえても、砂のように零れ落ちていくナニカが、どんどんと正義の心を空にする。
「や……あ……ああっ!」
どれだけ必死に何かを掬おうとする。だが、指先は何も触れることはできない。ただ弱弱しい泣き声だけが正義の口からこぼれていた。
失っていくうちに気づく。
心の空洞を、正義は知っていた。
いや、ずっと昔から、この穴はほとんど空いていた。
ただこの一ヶ月だけはずっと埋まっていたもの。今正義の中からなくなっているものは、正義自身の意味だ。
***
「晴宮君、これやってくれない?」
「晴宮君、これ頼める?」
「晴宮、おねがいがあるんだが……」
こういった頼みを正義は快く承諾した。それはなにも正義が優柔不断であったり、誰かに必要とされるからではない。
あの日——
父の存在否定の言葉を受けてから、正義は自らの存在意義が分からなくなっていた。
自分はいったい何なのか。この疑問がずっと彼の心の奥底に根付いていた。
そんなある日。
七歳の正義は、小学校の先生からある頼みごとを受けた。荷物を一緒に運んでほしいという些細なもの。
だがその時間、正義は思った。
『じぶんはいま、「荷物を運んでいる」という役目を持っている。このしゅんかんだけは、ぼくはいるんだ。この世界に』
それ以来、誰かに役割を与えられるときだけ、正義は心の穴が埋まる。こういった誰かの頼みごとを請け負っている間だけは、正義は自身が何者かを実感することができた。
頼みごと——いや『義務感』を感じているときだけが、正義にとって唯一人間として生を謳歌できる時間だったのだ。
そして一ヶ月前。
正義は曖昧かつ壮大な、しかしこれまでにない強大な『義務』を自らに課した。
人を助け、理不尽を倒すという義務。この時正義が感じた『意味』という充填は、正義が自覚するまでに彼の心の穴をぴっちりと埋めたのだ。
***
だが——
その意味はどんどんと消えていく。
己の決めた義務に背いてしまったから。『役割』を全うすることができなくなったから。
正義のいやだ、という叫びの所以はこれなのだろう。
失いたくないという心からの叫び。
正義は一ヶ月間、勇者として、破暁隊の一員として今までの人生で一番充足した人生を過ごした。
『勇者・晴宮正義』としての義務を果たすために暮らしてきた、そしてこれからも過ごすだろうこの生活は、今正義が義務を果たすための生活だ。
しかし今、正義は「人を助ける」という義務を果たせなかった。
もう二度と、あの時の勇者として満足して暮らしてきたあの生活に戻れない。
そんな予感が正義を襲い、恐怖させたのだ。
子供じみた嗚咽も虚しく、正義の心から意味は消えた実感を覚えた。
そのことを自覚した正義は……
「ああああああああああああああああああああ!」
叫んだ。
己の無力感と愚かさを痛感して。
それとともに過去、病院で近藤に放った決意が自身へと刺さる。
——……俺は理不尽が嫌いです。俺の母と恩師はそんな理不尽によって殺されました。
「そうだ、そして今もそうだ。魔王という理不尽でみんな死んだ……」
心の中で叫んだか、口から洩れたかはわからない。手が壊れるのではないかと思うほど握り、地面を殴る。
——そしてその時俺は無力だった。無力だったから、そんな理不尽に対して何もできなかった。
「いや無力だ! 昔も! 今もぉ! なぁんにもできないなあお前は!」
己の発した言葉を嘲笑する。
今の彼の悲痛な笑顔とその声は無理をしていると言わざるを得ない。
——でも今は違う! 俺は勇者になって、そんな理不尽に対抗することができるようになった!
「なったか?! お前は! 理不尽を倒せるような存在にぃ! なぁ?!」
正義自身を否定する。
精いっぱいの言葉で。
己が許せなかったから。
——俺は、この力を使ってそんな理不尽を倒して、理不尽のない世界を作りたいです
「できたか?! そんな戯言! 今ここで惨めにうずくまっておいてぇ!」
——【人を助け、理不尽を倒す】それが俺の、勇者としての『義務』です!
「なんにも! なんにもぉ!! お前はできなかったんだぁ!」
だがもはや後の祭り。
ただ寂寞した心だけが、正義にあった。
「……だれか」
ひっそりとつぶやいた一言。
続く言葉は、正義自身もわからなかった。
だが、今の正義の望んでいたものは『否定』。
自分の言葉を否定した自分を否定してほしかった。
「そんなことはない」と、「お前は勇者としてやってきた」と。
虚無に飲み込まれそうな正義は、誰かの言葉にしか縋るものはなかった。もちろん正義に声をかける人は誰一人いない。
……はずだった。
——「そうだ。お前は何もできなかった」。
不意に、正義の耳へはっきりとした声が響いた。
そしてこの声を正義は知っていた。声はずっと聞いたことのあるものだ。
——勇者としての義務を、お前は果たせなかった。
声は正義を『肯定』した。
正義が欲しかったのは『否定』だったのに。
どうしようもない悲しさが正義を襲い、正義の心が凍りつく。
「このまま消えてしまいたい」。
何もなくなってしまった正義は落ちていたアサルトライフルを拾い上げる。もはや自暴自棄となってしまった正義はこれから行おうとする行動に抵抗を感じない。
——だが、まだ義務を完全に果たせなかったわけではない
声は正義に語り掛けた。正義は動きを止め、声に尋ねる。
「果たせなかったわけではない?」
——ああ、お前は人を助けることができなかった。義務を果たせなかった。
容赦のない現実を正義に浴びせる声。
——だが、お前の義務はもうひとつあるはずだ。『理不尽を倒す』という義務が。
正義の目に光が戻る。
決して希望が戻ったわけでも、勇気が戻ったわけではない。
もっと禍々しい、人が思ってはいけないような感情。
「理不尽……」
正義は前を向く。正義の前に、声の主は立っていた。
だが今正義が見ているそれはおそらく虚像。理由はわからないが、声の主は正義自身しか見えない確信があった。
——お前のはるか先にいるだろう? お前の義務を壊した元凶が。理不尽が。
一瞬虚像が揺らぐ。その奥に見えたのは瓦礫の山の上に佇んでいる脅威。
「魔王……」
声の主は、自身が出した問いの答えを導き出した正義へさらに言葉を投げかける。
——そうだ。奴のせいで、お前の義務は果たせなくなった。
虚像の言葉の意味を正義はだんだんと理解する。心の底から。
「魔王がいるから、俺が人を助けられなかった?」
虚ろな声色にどんどんと感情が乗ってゆく。いや、感情を取り戻していくと言ったほうが正しいか。
——魔王だけではない。魔人が、魔将が、あのテロが、そして戦争が……
「いるから、あるから俺が人を助けられなかった」
虚像の言葉の先を理解し、重ねるように言葉を発する正義。虚像との感情がどんどんとつながっていく。重なっていく。
——お前は何がしたかった?
「勇者としての義務を果たし、俺の存在価値を確かめたい」
——なのに?
「できなかった。奴らがいる、戦争が存在する」
——……ゆえに
「ゆえに」
——ゆえに
「ゆえに」
——ゆえに
「ゆえに」
——「ゆえにすべてが狂うのだ」
第肆漆話を見てくださりありがとうございます。
正義君の闇が少し垣間見えましたね。
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