第壱話 『勇者 就任』
「零時方向、魔王あり」
砲弾と魔法が飛び交い、あらゆる生命が塵のように消えていく激しい戦場。オペレーターからの一報で空中を飛翔する機体に乗った少年は銃を携え地上へと落下する。
闇夜のような漆黒のローブを羽織った、高さ三メートルはあるだろう巨大な災害。服装の所々に備え付けられた豪華絢爛な装飾はまさにその存在が『王』たるをよく表している。フードを深くかぶっているせいで顔は見えないが、戦場を観る赫い眼光はまさに災厄がこれまで生み出してきたあらゆる生命の血の海を映しているようだ。
魔王の右手には地獄に落ちた人がもがき苦しむさまを象ったとしか思えないような禍々しい杖。
災厄がひとたびその杖を振るえば黒い津波が戦場に覆いかぶさり、杖を地面に突き刺せばそれを中心として黒い渦が生じ、渦は敵味方問わず周囲の生命を飲み込む。
そうして魔王は進んでいた。
厄災の行軍を止めるべく、少年はアサルトライフルを携えて魔王の前に着地する。
目の前に落ちてきた少年の正体を魔王は察し、彼に問う。
「何のために我と戦う。我が憎いからか? それとも貴様の義務ゆえか?」
魔王の問いに対し少年は答える。
それは、戦争で多くの兵士が己を奮い立たせた叫び。
しかし彼にとっては殺人、拷問、破壊その他の戦争時における非人道的行動を正当化する免罪符。
これまでの冒険で少年はその言葉に振り回された。
あるときはそう呟くことで救われ、あるときは覚悟の理由となり、またあるときは苦しんだ。彼にとってはときどきに効果が変わる呪文ともいえるもの。
だからこそ少年はその言葉を選ぶ。たくさんの人と出会い、別れ、成長し、復活していく体験を経てその言葉に真の意味を見出し、今ここで魔王と対峙しているからだ。
魔王の問いに対し勇者は答える。引き金に指を添え、銃口を魔王へと向けて。
「お国のために」
***
朝五時を知らせるアラーム音で少年は体を起こす。
少年の名は晴宮正義。
比較的整った優しさを感じさせる顔つき、ダークブラウンで全体的にラフな印象を与える髪型と黒い目。そして彼の顔を見たときに誰もが一度は見つめてしまう、左目の下にある「く」のような形をした特徴的な傷。
「ねむい……」
昨晩、正義は来週に迫った定期テストのために一時まで机に向かっていた。
四時間しか寝ないというのは体に悪いとはわかってはいるがやめることはできない。
正義には自分を世話してくれる両親がいないため、朝から家事をしなければならないからだ。
朝食から洗濯、買い出し、風呂洗いまで、全て自分で行っている。そのため部活にも入らず、塾にも行けないからひとりでテストの対策をするしかない。今日も正義は妹と、久しぶりに仕事から帰ってきた祖父のために朝食を作る。毎日毎日同じ家事をするのはなにか機械になったようで気が滅入るため、正義は何か変化を感じるために毎日テレビをつけながら朝食を用意するのだ。
『昨日、WKOにより世界地図が更新されました。この地図では十年前に誕生したネルム半島が……』
テレビだから毎日違う番組内容が放送されるので退屈はしないが、正義にとって中身は別にどうでもよい。面白いと感じるときもあるし、つまらないと感じるときもあるが、翌日になったらどんな放送かは忘れてしまう。
調理器具を洗っていると、テレビの中のアナウンサーの言葉が正義の耳に入ってきた。
『……さて、もうすぐあの東京テロから十年が経ちます。街の景観は戻ってはいますが、国民の不安や憎悪はいまだ残っています。現在、大通りでデモを行おうとする一団の一人がインタビューに応えてくれました。あなたは……』
東京テロ、十年前。
その瞬間、正義の体が十年前のあの時を呼び起こす。穴に引きずられるように目の前が変わった。
………………
…………
……
視界にはがれきに挟まれ、血を流しながらぐったりとしている母。
耳には人々の悲鳴と数々の爆発音。
硝煙と血の混じったにおいが鼻にまとわりつく。
口も血の味しか感じられない。
自分の身体もがれきに挟まれ、どんどんと感覚がなくなっていく中で恐怖ももはや消え、もうすぐ死ぬだろうと正義は予感する。
五感も働かなくなり、どんどん意識が薄れゆく中、最後に頭の中に残ったのは都市に響く、邪悪で豪快な笑い声。
そんな中、心から湧き出る…………
ガクッと体の力が抜け、心臓が激しく動く。
「カッ、ハッ……」
正義は苦しさで胸を押さえながらなんとか空気を吸い込もうとするが、口の中に煙が入ってくるように感じてうまく呼吸できない。
なんとか楽な姿勢になりたいと背中を壁に預けて座るも気持ち悪さは止まらず、吐き気もしてくるが何とか抑えてこのフラッシュバックが消えるのを待つ。
三分後、体は落ち着き、立てるようにはなったがまだ手がしびれてうまく動させない。
壁にもたれかかり、なんとか肺に空気を入れようと試みる。あの事件で負った左目の下の傷が顔の内側までじんじんと痛む。
(もう克服したと思ったのにな)
と正義が考えていると、一人の老人が彼に駆け寄って話しかける。
「正義! 大丈夫か⁉」
「おじいちゃん……」
正義の肩を握り、心配しているのは祖父、晴宮源一郎。御年七十歳にもかかわらず職業のせいなのか体は鍛えられ、ある種渋さを感じる顔から他人からは六十前半と間違われることが多い。
現在正義と妹を世話してくれる人だ。学校などの書類やサインの類は全部源一郎がやってくれている。
声をかけてもらったことで正義は幾分と楽になった。
やっと動けるようになり、椅子に座って妹と祖父と一緒に食卓に並べられた朝食を食べる。
「お兄ちゃん! さっさと食べないと電車に乗り遅れるよ!」
「ああ、ごめん」
文句を言いながら朝食を食べるのは正義の妹、晴宮望。
中学一年生でよく言えば天真爛漫、悪く言えばわがままの少女だ。東京テロの時、彼女はまだ赤ん坊だったこともあってかその時の記憶はない。気の向くままに暮らしている彼女にうらやましく感じつつも、正義は兄として妹には楽しく生きてほしいと思っている。
正義は申し訳なさそうにつぶやくだが、体は落ち着いても心の古傷はそうそうふさがらないのだ。未だに心臓の音は頭まで届き、不安も消えない。
『……侵略存在が紛争中の中東国・ナミルスタンに突如出現したとのニュースに続報です。世界騎士団は、これを殲滅すべく複数の騎士を派遣しましたが、到着時にはすでにナミルスタン革命軍が壊滅していたとのことです。騎士のなかには……』
つけ続けていたテレビからアナウンサーがニュースを伝えている。
「ふ~ん。革命軍? も災難ね。いきなり侵略存在が現れて全員殺されちゃうんだもん」
他人事のように呟く望に源一郎が叱責。
「いいか望。いきなり現れた理不尽に殺された人たちに向けてそんな失礼なことを言ってはいけない。いくらワシたち日帝人はが奴ら侵略存在の脅威にさらされることはないとしても」
望は反省したせいか口を閉ざしてしまう。しかし望が無関係に感じてしまうのもごもっともだ。
有史以来人類は別世界からやってくる脅威にさらされてきた。
その脅威こそが侵略存在と呼ばれる存在である。
侵略存在はおよそこの世界で生まれたような様相をしていない。建築物を一瞬で破壊してしまうような巨大な怪獣に摩訶不思議な力を使う怪人。
彼らの存在は伝承や逸話、はたまた神話として世界各地で語り告げられてきた。ドラゴンやセイレーン、ユニコーンに魔女などはこの世界とは別の世界から生まれ、この世界にやってきたのだ。いや、やってくると言ったほうが正しいだろう。伝承にある生き物は現在でも確認されているのだから。
侵略存在によって、この世界は一年ごとに国の数が変わり、五年ごとに世界地図が更新される。
侵略存在に対し人類はやられてばかりではない。侵略存在を倒す組織もこの世界には存在する。
先ほどニュースで言っていた世界騎士団もそのひとつ。一国家では侵略存在に対処できない国は彼らに助けを求め、世界騎士団から派遣された騎士が侵略存在を討伐してくれるのだ。だから世界的には世界騎士団はヒーロー的立ち位置である。
では正義がいる国、日帝皇国はどうか。
日帝皇国は世界騎士団の力を借りていない。日帝皇国は特殊な結界と呼ばれるものにより別世界からの侵略存在を防いでいるのだ。
だから日帝皇国にいる人たちは侵略存在を情報でしか知らない。
***
望とともに急いで正義は駅のホームに続く階段を上がる。しかし電車の発射音が聞こえ、ホームまで上りきるころには電車はすでに出発していた。肩を上下に動かしつつ、電車を見送る二人。
「くそ、間に合わなかったか」
「お兄ちゃんが食べるの遅いからあ」
「お前だって今日から制服の衣替えだってこと今朝気づいて出発遅らせただろ」
「むむむ……」
そういって点字ブロックの前に二人は並ぶ。
10分もしないうちに大量の人がホームに訪れ、ホームはサラリーマンや学生でほとんど埋め尽くされた。二番線までしかない比較的小さいほうの駅だが、ここらで唯一の駅なのでたくさんの人が利用する。ひとつ前に乗れば、通勤ラッシュの時間帯からはぎりぎり外れるため駅のホームも電車の中も人が多い程度で済むが、それ以降は人地獄と化すのだ。
正義は不満を感じながら、他人との距離50㎝の混雑したホームで電車を待つ。それでもいつも通り。退屈もしないし、不満もない。
正義にとって今の生活は一本道をずっと歩いているような感覚。障害も、イベントもない単調な道をただひたすらに進む。
…………その一歩一歩に疑問を感じながら。
正義がスマホをいじっているとアナウンスが鳴った。
『これより、一番線に、電車が参ります。黄色い線の内側にお下がりください』
アナウンスのあと、正義がスマホの音源を変えようとしたそのとき、
「グギャアアァア!」
まるで獣のような雄たけびがホームに響き渡る。群衆の大半がその声が聞こえる方に目を向けた。
声の主の近くにいた一人のサラリーマンが周りに伝わる声量で叫ぶ。
「おい! あいつナイフ持ってるぞ!」
「うそだろ!」
「まじ!?」
「ホントだ! 逃げろ!」
急に駅のホームがパニックになった。
男の情報はすぐにホーム上の人間に伝わり、混乱はより激しくなる。人々はそのナイフを持った不審者から離れようと逃げまとう。
「どうしようお兄ちゃん!」
何が起こっているのかわからないでいると妹が正義の服を引っ張った。いつもは強気な妹も怖いときは怖いらしい。
正義は状況をかろうじて理解し、焦りながらも妹を守るため冷静を保つ。
「ま、まずはあいつから逃げよう。お兄ちゃんが守ってやるから離れるなよ!」
「うん!」
二人が移動しようとした瞬間……
「どけ!」
突然、ナイフ男から逃げる巨漢が妹を押しのけた。
妹が飛ばされる方向には正義。望みと正義がぶつかったことで正義はバランスを崩し、線路がある方へと倒れてしまう。
視界の隅に迫る電車──
「やべっ!」
「お兄ちゃん!」
足はすでに地面から離れ、おおよそ立て直すことはできない。妹が手を伸ばすも正義には届くはずはなく。
横を見れば目の端には電車のライト。もうあと0.何秒で電車とぶつかる。電車はブレーキをかけているのだろうがこのまま倒れてしまえば電車に轢かれるだろう。
(もうだめか……)
死ぬまでの一瞬で正義は悟った。正義が倒れる瞬間、彼に襲ったのは無力感。
(何もできなかった。何もやれなかった。俺は……何も)
まるで道半ばに朽ちてしまった英雄のような心情。なぜそう思ったかは正義自身もわからない。
恐怖も一瞬感じたがそれ以上にどうにもならない、とあきらめてしまう。体は反射で目を閉じ、正義は死を覚悟する。
………………
…………
……
「お兄ちゃん!」
妹の声が聞こえた。
(死んでない?)
正義はゆっくりと目を開けると、
正義の身体は空中で静止していた。後ろを向くと見えるは電車の扉と中にいる人だかり。
望は正義の服を握り、無事だった安心感で目に涙を浮かべている。
(こ、これは……)
戸惑っていると、ホームの人ごみを避けながら一人の男が慌てながら正義のもとに来た。
「間に合ってよかった……」
人ごみをかき分けてきたのは、駅員。駅員は正義を支えた瞬間、正義の身体が自由に動くようになった。
二人の無事を確認した駅員は正義と望に告げる。
「ちゃんと、黄色い線の内側にいてくださいね」
そしてやっと正義は何が起こったのか悟った。
(ああ、この人の『権利』か……)
「あの、ありがと……」
生き残ったことに安心し、お礼を言おうとするもその前に駅員は正義と妹にここから離れるよう促す。
「今はここを離れましょう。あの不審者が気付く前に」
正義はちらりとその男を確認。
立っていたのは少し小汚い服にぼさぼさの髪と髭の中年の男。うめき声をあげながら手のナイフをぶんぶんと空に振り回しており、彼の眼は焦点があっていないのか、常に顔をぐらぐらと動かしていた。
そんな奴から離れた群衆の中から不審者に近づく男が一人。
後ろ姿でよくわからないが、短い髪に、コートを羽織っている男の様相はまるで刑事だ。コートの男は不審者の目の前に立ち、口を開く。
「おいてめえ、刑事である俺の前でこんなバカみてえなことやりやがって……覚悟はできてんだろうなあ?」
刑事がしゃべりかけるも、不審者はまともな返事ができていない。
「ちっ! 正気はねえってわけか。仕方ねえ、拘束させてもらうぜ……」
コートの男が手に力を込め、一歩進む。ナイフ男は刑事にやっと気づいたのか、ナイフを振り回しながら刑事に向かって走り始めた。
「グぎゃぎゃギャア!」
刑事は握った手を前に出して、腕をクロスさせて詠唱する。
「対象は銃刀法違反及び傷害未遂、権利執行〈確保〉」
刑事がそう叫ぶとナイフ男の周りに数個の黒い穴が生まれ、そこから出てきた鎖が不審者に巻きついて不審者を拘束。不審者は呻き声を上げながら体を動かし何とか抜け出そうともがくも鎖はぎっちりと彼に巻き付いて離れそうにない。
刑事は携帯を取り出し、電話をかけた後、通話を切って駅員に近づく。
「もうすぐ警察が来ます。業務を再開していただいて大丈夫です。もしけがをした人が居たら救急車を呼びますが……」
「わかりました」
やり取りが聞こえたあと、アナウンスとともに電車の扉が開く。人々は多少動揺しつつも、また日常に戻っていった。
駅員が空中にいる少年を停止させ、刑事が謎の力で不審者を捕縛する。そんな「能力」と呼ばれる存在はこの世界にとっては普通の存在。誰もそれを珍しいと思わないし、怖がったりしない。能力は、彼らの日常で繰り広げられる一部なのだから。
***
この世界には異能がある。
その異能は〈権利〉として行使され、権利を行使するには〈義務〉を果たさなければならない。
権利とは、ありていに言ってしまえば「能力」や「スキル」のようなもの。
義務は、例えば「資格」であったり「役職」につくことである。
この2つの要素が合わさったものが「職業」で、この世界の人間は様々な「職業」に就いて暮らしている。
例えば医者。
医者という職業には「人を癒すことができる『権利』」を持っているが、そのためには「国家試験に合格し、医師免許を取る『義務』」があるのだ。
職業内でも能力は人によって異なっている。
患者とのコミュニケーションで患者を安心させることが得意な人、1㎜の狂いで失敗する手術であっても問題なく治療する腕を持つ人。
これらはある種のスキルツリーのようなものが職業にあり、その人の経験や努力でどんな権利が身に着くか決まるという。
そんな能力が存在しているのがこの世界である。
***
朝に大変なことがあったが、何とか朝のチャイムが鳴る前に正義は彼が通っている高校へ到着。
正義が通っている高校、凪北高等学校は県内でも2番目か3番目に偏差値のいい公立高校だ。H型の建物で、真ん中の棒の部分に玄関、北側に理科室などがある特別棟、南側に教室棟がある。
正義が1-6組の教室の扉を開けようとすると隣から話しかけられた。
「おはよう正義くん」
正義に話しかけてきたのは林先生。
長身できりっとした髪、丸眼鏡をつけているがそれで顔の良さは隠しきれておらず、一部の女子高生から人気を得ている男。常に人々を安心させるオーラをまとっている。小学校中学校と正義がいる教室の担任や授業の担当をしてきた。中学校までは正義は彼を一番信頼していた先生としてきたが、この高校にも来たことでさすがにそんなことはありえるのか? と、この度彼を何か裏があるのかもしれないと正義は少し怪しく思ってきている。
「おはようございます……」
先生に軽く会釈をしてから、正義は教室に入った。
正義は席に座り、カバンから教科書を出して机の引き出しに入れていると正義の友達が話しかける。
「よっ! おはよ!」
正義に話しかけてきた少年の名は中井和樹。家が近いのもあってか正義の小学生からの幼馴染であり、この高校でも正義の数少ない友達。
正義の家庭の事情も知っており、時々正義の家へ手伝いに行ったり和樹の親が正義の家に料理のおすそ分けをしてくれる。
和樹との会話の最中に予鈴が鳴る。
彼や、ほかのクラスメイトが席に戻ろうとしたときに……事件は起きた。
正義に走る、突然のゾワッという悪寒。
どこからかわからないが何かが自分を、自分たちを狙っているように感じる。咄嗟に教室の中を見回した瞬間、それは映った。
窓の外に佇む大きな物体。それはまさに巨人。膝まである腕は丸太のように太く、猫背に見えるものの頭のてっぺんは見えない。
だが確かにそれは正義たちが知っている存在。別世界からたびたび来訪し、世界各地にたびたび出現しては、国を亡ぼしたり、地形を変える原因。
けれどこの存在は決して正義がいるこの国、日帝皇国に出現するはずがない、彼らにとってはニュースなどでしか知らないもの。
侵略存在。
それが、正義たちの目の前にいた。
教室の中にもその影を見つけた人はおり、クラスメイトの数人がそれを見つめる。緊張と困惑で正義やほかの生徒はそれから目を離せせずにいる。そのバケモノは突然腕を動かし、そして腕を教室の窓ガラスにたたきつけた。
ガッシャーン! という音とともに壁が壊され、そのバケモノは教室へと入ってくる。
みんな動けない中、誰かが叫んだ。
「逃げろー!」
その声を聴いた瞬間、たくさんの叫び声が教室に響き渡り、生徒は教室の外へ逃げる。
しかし逃げることができたのは半数だけ。壊れた時のがれきやガラスに当たり痛みで動けないもの。気を失ったもの。がれきに挟まれて身動きが取れないもの。そして、恐怖で動けないもの。
そして正義も恐怖で動くことができない。壁が壊された時の衝撃で椅子から転げ落ち、身を起こすことはできてもそのまま立つことができなかった。
教室に入ったバケモノは足にけがをして動けない女生徒をその剛腕で掴む。目の前のバケモノは女生徒の必死の抵抗を無視して、口を開けて彼女を食べようとしているのだ。
「やめて! やめてよ!」
女生徒は必死に抵抗するもバケモノの剛腕がそれで離すはずもない。
目の前で行われそうになる残虐な光景を見て、正義は左目の下の傷の痛みとともにある感情を思い出す。
今朝思い出した記憶、十年前のトラウマの中の感情。しかし思い出したのは恐怖や絶望、諦めではない。薄れゆく意識の中でどんどんと湧き上がっていた感情だった。
バケモノの顔面へと机がぶつけられる。
火事場の馬鹿力ともいうべきか、持つことすら少し難しい近くの机をいつの間にか正義はバケモノの顔に投げつけていた。
投げた後に正義は気づく。
10年前のあの感情、そして今感じている感情は、怒りだ。
理不尽なことへの怒り、そして自分の無力感に対する怒り。恐怖だとかを一切忘れさせる激しい怒り。そんな怒りが正義の身体を動かした。しかし忘れさせたのは一瞬だけ。
バケモノは攻撃に腹が立ったのか女生徒を離し、机を投げてきた正義に意識を向ける。そいつがむける目とそこから感じる敵意に正義は恐怖してしまい、身がすくんでしまった。何とか逃げようと後ろを向こうとしたが、直後バケモノに胴をつかまれてしまう。
「やめっ……」
抵抗する間もなく正義は強い勢いで投げ飛ばされてしまった。
***
体に走る痛みによって正義はかろうじて目を覚ます。
目を開けるとそこは廊下。だが教室棟の廊下のような木製の壁ではない。少し古い壁、高校の南側の建物、特別棟の廊下だった。
教室棟からその廊下、教室棟と特別棟の間にある中庭を超えて特別棟の廊下まで飛ばされたのだ。
意識がもうろうとして正義は指一本動かせない。
ガラガラという音が特別教室の方から聞こえる。かろうじて顔を向けるとそこには壁を壊して入ってきた先ほどのバケモノ。
正義にとどめを刺しに来たのだろう。バケモノは腕を振り上げ、瀕死の正義に向かって走りはじめる。逃げようとしてもやはり正義の体は動かない。
(今度こそ死ぬのか……?)
バケモノの爪が正義へ届きそうになった瞬間、金属同士がぶつかるような音がなったと思えば、正義とバケモノの間に人影が入り込む。
正義とバケモノの間に入ったその人間は手に持った青い剣でバケモノの攻撃を防いでいた。何が起きたかわからなかった正義だが、後ろ姿から誰かはわかった。
(林……先生……?)
剣でバケモノを押し返した林先生は、よろめいたバケモノに間髪入れず近づき両手で持った剣を切り上げた。
「グギャ!」
腹に斜めに切り傷を負ったバケモノは後ずさりし、そのまま壊された壁から中庭へ落ちる。
この数秒の出来事、正義は今何が起こったか理解できない。バケモノが落ちたのを確認した林先生はすぐに振り返って正義のもとへ行く。
「せ、せんせ…………」
「今はしゃべらないでください。くそ、出血、骨折が数十か所に内蔵損傷、あれを使うしかないか」
林先生は剣を床に置くと両手を正義にかざし、謎の呪文を唱えた。
英語や外国語などではなく、全く聞いたことのない言葉。
ほのかな光が正義の体を覆う。呪文を唱えていくと正義の身体がどんどん治り正義の意識も復活していく。林先生が呪文を唱えるのをやめると正義の身体は完全に回復したが、それと同時に先生も息切れを起こして膝をついた。
正義は身を起こして林先生に尋ねる。
「せ、先生って医者なんですか? いや、こんな『権利』なんて見たことも聞いたことも……」
「話はあとです……今はここから逃げてくだ……」
林先生が正義に指示しようとすると、正義は目の端に移った違和感から林先生の後ろに目をやり、それに気づく。
「先生! うしろ!」
「なにっ⁉」
林先生の後ろにいたのは先ほど中庭に落とされたバケモノ。今まさに二人を潰そうとする拳が振り下ろされようとしていた。
正義に意識を集中しすぎたのと、回復の疲労が重なりバケモノの存在を認知できなかった林先生は予想外の攻撃に焦る。
(しまった! 私としたことが!)
林先生は咄嗟に剣を拾い、バケモノが腕を振り下ろすのと同時に剣を横に薙ぐ。
後ずさるバケモノの腹には横一線のきり傷ができて、そこから血を吹き出しながらバケモノは部屋の床へ倒れた。
「……や、やったんですか?」
「いえ、こいつを中庭へ落とす前に与えたダメージがない。おそらくこいつは回復能力を持っている」
「じゃ、じゃあ」
「ええ、正義く……んも早く、に……げ」
「先生!」
言い終わる前に林先生は再び膝をつく。
正義が心配して近づくと、林先生は胸を強く押さえていた。よく見れば林先生の胸にも爪痕のような傷があり、そこから大量に出血、シャツに血がにじんでいる。
「さきほどの攻撃に当たってしまったのでしょう。私にかまうことなく……正義君は早く逃げてください。こいつが復活する前に」
正義は数秒戸惑った様子を見せた。
が、そんな通告を無視して正義は先生に肩を貸して歩き出す。
「せ、正義君? 私のことは……」
「俺は今何が起こってるかわからないけど、傷ついている人を置いて逃げることなんてできません!」
声が震えていても、その声には先生を助けるという『意志』が感じられた。
正義は先生を担いでバケモノから離れる。その言葉を聞いた林先生は安堵のような顔を浮かべた。バケモノが倒れた部屋からナニカが壊れる音が鳴る。おそらくその部屋の器具を破壊しているのだろう。
「正義くん、このままでは奴に見つかってしまいます……とにかくこの部屋に隠れましょう」
「は、はい」
正義は横にあった理科室の扉を開き、林先生を壁に縋らせた。傷口を抑える林先生へ正義は心配そうに声をかける。
「先生、その傷はさっき俺にしたように回復できないんですか?」
「……無理ですね。それをする体力は私にはもうありません」
「じゃあどうすれば……」
「グアアアアアアア!」
獣ような咆哮が特別棟に響き渡る。太鼓をすぐそばで鳴らされたときのように体の中が振動。
「先生! いったいどうすれば⁉」
弱気な姿勢を見せる正義を見て林先生は目を閉じて考える。
(このままでは私とこの子は見つかり殺される。かれらが来る前にほかの生徒も犠牲になってしまうだろう……かくなるうえは、いや、これしかない。あのお方に反することになっても)
林先生は目を開け、正義に語り掛ける。
「正義君、実は私は……勇者なのです」
突然の告白。
正義にはその言葉が理解できない。勇者という職業を正義は聞いたことがある。なにせ勇者という職業は正義にとっては非常に悪い意味で因縁があるものであり、それゆえ目の前の恩師が実は勇者ということは信じたくないと、冗談だろうと思い込む。
「説明している暇はありません。しかし君にお願いです。正義君……『勇者』に就く気はありますか?」
「え?」
突然の提案に正義は戸惑う。
「驚くのも無理はありません。ですがこの状況を打開するにはそれしかないのです」
正義は数秒の沈黙ののち、弱弱しく返答。
「無理です。俺は勇者にはなりたくありません。だって……」
正義は続ける。
「勇者は……十年前にあの東京テロを起こした職業だから」
正義は林先生から目を背ける。感情の起伏が大きいほうではない正義も、このときだけは嫌悪感を表に出した。
「勇者って職業は危険で、関わってはならない職業だって学校で教わったし、ネットでも書いてある。そして勇者は、俺の母を殺した。そんな職業に俺はなりたくない」
正義にとって『勇者』という職は親の仇であり、正義の人生を狂わせた敵。だからそんな職業になるということに強い拒否感を示したのだ。林先生はその言葉をきいて察し、一瞬口を噤む。だがすぐに口を開いた。
「確かに教団の代表は勇者と言われています。奴はその力でこの国に混乱をもたらしました。しかしあなたは違う、あなたは物静かで一人を好み、積極的な人ではありません」
正義は少し不満げな様子を見せる。このような状況で自分のマイナス評価を言われたのだから。
「ですが私は知っています。あなたは人一倍のやさしさを持ち、自分の信念を曲げず、自らの意思を貫き通す強靭な精神を持っていることを」
「お、俺がですか?」
正義は自信なく先生に問う。自分に自信のない正義にとって、そんな言葉をかけてくれるのが意外だったのだ。そんな正義に、痛みに耐えつつもまっすぐな目で先生は応える。
「ええ、あなたを十年間見守ってきた私がいうのですから。先ほどもあなたは私を置いて逃げなかったでしょう? あなたは優しく、そして強い。まさしく勇者のようではありませんか。勇者というものは本来、人を救う職業なのです」
林先生は一息ついて、今度は力強い言葉で正義に言い放つ。
「私が断言します。あなたは勇者の力を正しく使いこなし、たくさんの人を救うことができると」
そういって林先生は手を差し伸べる。彼の手は痛みが理由なのか震えていた。
「この手を握ってください。そうすればあなたは勇者になります」
そういわれた正義だが、やはり握る自信はない。
確かに十年前のテロが起きる前までは、『勇者』という存在は非常に特別視され、英雄の職業ともいわれたことは正義も知っている。勇者に対する不信感もそうだがそれ以上にそんな強大な『勇者』となることにいまだに自信が持てない。だから、自分ではわからない答えを得るように林先生に尋ねた。
「こんな俺が、勇者になれますか?」
「ええ、なれますよ。私が断言します。そしてあなたが奴を倒してください」
即答だった。先生のまっすぐなまなざしにこたえるかのように、正義はゆっくりとその手を握る。
自信はなかった。ただこの状況を乗り越えなければならないという責任感が、義務感が正義を動かした。勇者・林は呟く。
「我の中に眠る勇者の力よ。この者、晴宮正義の中に移り給え」
その瞬間、正義は何か大きなエネルギーが胸の中に植えつけられるような感覚を覚えた。無機質な声が頭の中に響き渡る。
【職業、勇者の就職への『義務』をこれより精査します。前任者からの力の譲渡の意思……確認。本人の『勇者的行動』を記憶より検索……確認。本人のステータスを参照……参照……さささ……puー…………適正あり。承認しました。これより晴宮正義へ勇者の力が譲渡されます】
その声が終わるとエネルギーはどんどんと胸の内に入り込んでいくように感じ、そして消えた。初めての感覚に戸惑っていると先生が話しかける。
「どうやら……勇者の力は無事あなたのもとに行ったようですね」
勇者の力が消えたせいか、林先生は先ほどよりも弱弱しい声だ。だがその声には安心の表情があることを正義は感じる。顔を見せた先生はもう片方の手に持っていた剣を正義に差し出した。
「さあ、この武器を受け取ってください」
差し出された武器に正義は困惑する。
「お、俺、剣を握ったこともないんですが」
「大丈夫です。勇者にとって勝つために必要なのは技術でも、武器でもありません、『意志』です。こいつを倒すという強い意志。それを忘れないでください」
「先生……」
話を聞き終わると正義はその剣を手にし、まっすぐな足取りで廊下に出る。横を見ると、教室と廊下を破壊していたバケモノと目が合った。バケモノは動きを止め、正義を睨む。
今の正義の心に恐怖はない。
彼の心にはただ一つの意志、目の前の敵を倒すという意志だけがあった。先生に託された思いが、責任が、義務が恐怖を忘れさせる。
二人が同時に動き出す。
バケモノが正義に殴りかかろうとするがその拳が届く前に正義の神速の剣がバケモノの右腕を切断。ひじから先がなくなった痛みでバケモノは後ろに下がり、切断された腕を押さえてうずくまる。
正義もまた自分の動きに驚いていた。まともにケンカしたこともない、運動なんて得意ではない自分が漫画だとかアニメのような動きをしたことに。
直後、うずくまっていたバケモノが立ち上がるとわなわなと震え始め、上半身が肥大。その大きさで廊下の天井にもヒビができる。肌も灰色へと変わり、おぞましさが増した。様子を見る正義へ、廊下と壁を壊しながら近づく。
先ほどよりも速い攻撃を正義は紙一重でかわし、そのまま剣で相手の腹を切ろうとするが、
刃はその腹を切ることはできなかった。
(か、硬い!)
剣が通じないことに動揺してしまい、バケモノの攻撃を許してしまう。バケモノの剛腕が正義を学校の外へと吹き飛ばした。
勇者となったことで肉体の耐久力が上がっているのか、教室から投げられたときよりは痛みだとかを感じない。
それでも威力は変わらず、学校の二階から遠くへ吹き飛ばされてしまった。突然の出来事で先生からもらった剣を手放してしまう。
空中にいた正義はもうすぐ地面に激突してしまうと察する。
〈着地しなければ!〉
頭の中全体が無事に着地しようとする考えに埋め尽くされた結果、突然身体が勝手に動く。空中で体勢を整え、足を大地に向け、衝撃に耐え抜けるよう全身に力が込められる。
そして着地。足全体にジーンとする痛みが走るものの一応は無傷。
「お、おい君! 大丈夫か⁉」
何とか無事に落下できたと思ったのも束の間、正義に話しかける大人が一人。周囲を確認すればその人のほかにも数名の人間が。そして彼ら全員が軍服を身にまとっていた。おそらく侵略存在が出たと聞いて日帝皇国の自衛隊が出撃してきたのだろう。正義が着地したのはその臨時基地であったらしい。
心配して正義の元へ駆け寄る兵士たちとは対照的に正義の心は悔しさで埋まっていた。なんとかあのバケモノに勝ちたいという野心が、だがこのままでは勝てないという事実から来たひらめきが正義をある行動へと駆り立てた。
「あの! これ借ります!」
そう叫んで正義がつかんだのは、自衛隊の兵士が持っていたアサルトライフル。剣だけでは太刀打ちできないと察した正義は直感で新しい武器を入手した。まさか少年に奪われるとは思っておらず兵士は簡単にアサルトライフルを正義へ渡してしまう。
自分を止める声を無視して再びバケモノを倒すため走る正義。たった一分たらずで学校へと帰還。あのバケモノは一階にいた。
ガラスを蹴りで割って学校へ突入。そこにいたバケモノへ殺意を放つ。
〈撃つ〉
激しい敵意を向けてくるバケモノに全く動じることなく、引き金に指をかける正義。
アサルトライフルというものは初めて触ったし、使い方も用語も全くわからない。けれど正義はまるで歴戦の兵士のようにその動作ひとつひとつが洗練されていた。
その手は迷いなく、だが静かに動く左手がハンドガードを包み込み、右手はピストルグリップを確かに握る。まるで長年連れ添った相棒のように、銃は自然とその身に馴染み、肩へと吸い寄せられる。頬がストックに軽く触れた瞬間、彼の視線は銃のアイアンサイトを通して揺るぎない殺意がバケモノをロックオンした。
今この瞬間、彼にとって必要なのは、引き金にかかるわずかな指の圧力と、狙いを外さない確信、そしてバケモノを倒す意志だけ。
叫び声をあげながらバケモノが正義の元へ接近する。正義は動かない。ただ動作を始めたのは、引き金にあてた指一本のみ。
ひとつの銃声とともにバケモノの肩に風穴があく。
そこから血が流れ、バケモノは痛みで呻きを上げる。が、正義への攻撃の意志は消えていないのか止まる様子はない。
引き金を押し込み連射する正義。反動に耐えるため全身に力を込める。
銃痕が増え続けるもバケモノは叫びながら正義へ近づき続け、あと数秒後にはバケモノの剛腕が正義を襲うだろう。
しかし正義は下がらない。むしろ今感じている恐怖を、不安を、怯懦をすべて殺意と怒りへと変える。そうするとむしろこの刹那の命のやり取りでやるべきことが分かってくるのだ。
バケモノとの距離、およそ二メートル。
バケモノの間合いだ。その剛腕が正義へと届く距離。
撃つべき場所はどこだ。バケモノの身体というあいまいで全体的な的ではだめだ。どこを狙うか、一瞬の判断が全てを分ける。
「ここだ……」
バァン!
銃声のあと、バケモノは動きを止める。その額には丸い穴が空いていた。
額の銃痕から血を流しながら、白目をむいてバケモノは倒れる。
(倒した……のか?)
そう思い込み、すぐに先生のもとへ疲れた体を何とか動かして向かおうとする正義。
(先生、無事でいてください……っ!)
直後、正義は強烈な眠気に襲われた。麻酔を入れられたような強い眠気。
それに抗おうと思う間もなく、正義は眠り、倒れてしまった。
***
正義が倒れ、その場が静かになって数分後、特別棟に現れたのは数人の人影。彼らは全身を黒い服で覆い、顔にも目以外はすべて布で覆っている。まさに忍者のような人物たち。そのうちの一人が耳に手を当てる。
「こちら隠密師団第二部隊、例の魔人が襲撃した現場に到着、額に穴を開けて死んでいます」
手を当てた部分から声が。どうやら誰かと通信をしているらしい。
『なんだと?』
「そちらにほかの部隊からこいつを倒したという連絡は来ていないのですか?」
『……来てはいないな。とりあえずその魔人の死体の回収、そして校内の重傷者を軍の病院に搬送しろ』
「了解」
連絡を取った一人が周りの忍者に命令する。
「聞いた通りだ。けが人の救出を最優先に任務を果たせ。散会」
そして忍者たちはすぐに散らばっていった。
(さて……)
残った一人がバケモノの死体のそばに倒れている少年を見つめる。
(けがをしてはいないようだがこの死体の近くにいるのは怪しい……一応病院に運んでおくか)
そう考えると忍者風の人物は袖から一枚の紙を取り出し、少年にその紙を近づけて呟く。
「杉田総合病院まで」
男がそうつぶやくと紙が燃え、その火の中からは巨大な鷹が現れる。鷹は足で少年をつかむと学校の窓から空へ羽ばたいていった。
第壱話を読んでくださりありがとうございます!
正義君、そして出てくる『仲間』との冒険の書をぜひ読んでみてください!
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