2.提案
「――……今なんて?」
僕の聞き間違いだろうか。
または言葉の裏には何か悪魔にしか分からないような真意が隠されているのだろうか。
この悪魔、今僕のことを可愛いっていった気がする。
「はぁ~~……暗いし血まみれだったからすぐ気が付かなかったけど、可愛い顔してるわぁ……ねぇ、大丈夫?死にそうな顔してるけど。」
「いや、死にそうというか、殺してほしいというか。」
もしかして僕の声が聞こえていないのか?
そう感じるほどに完全な無視をキメられ、僕は以上言葉を続けられなくなった。
悪魔はうっとりとした目つきで僕の身体を眺めると、指を鳴らしながら呟いた。
「【再構築】」
ゴキリ、と何かが組み変わるような悍ましい音が僕の身体の内側で鳴る。
「なん――……あっ、あぐっ、ああああぁああぁぁぁっっっ!?」
断続的に響くその怪音と共に、体の中がぐちゃぐちゃに掻き回されるような激痛が僕の脳を埋め尽くした。
痛みは経験してきたと思っていた、もう自分に失うものなど無いと思っていた。
そんな僕の浅はかな思い込みを塗りつぶすような痛みに喉から絶叫が絞り出される。
「大丈夫、痛いだけ痛いだけ。良い子だから我慢してね~。」
慈しむ様な眼差しで僕の目を覗き込む悪魔。
正直痛すぎて何を言ってるか全く理解できない。
やがて永遠とも思えるような時間の後、身体の中で暴れまわっていた激痛は突然に消え去った。
始まるのも突然なら終わるのも突然。
痛みの余韻に喘ぐ僕を悪魔は床に座らせると、その手で僕の頭を撫でた。
「はい終わり!僕ちゃん良く頑張りましたね~~!久々に魔法使ったから上手く出来たか自信無いんだけれど、もう怪我は無いかしら?」
「怪我……?」
そこまで言われて気が付いた。
この神殿までの道のりで負った傷、この一年間で負った様々な負傷。
その全てが、綺麗さっぱり僕の身体から消失している。
「怪我が全部治ってる……そんな、治癒魔術でも消せなかった傷まで……」
驚きのあまり硬直する僕の前に悪魔はストンと腰を下ろした。
そのまま膝を両手で抱えるようにすると、まるで宝石のように赤い瞳で黙ったままこちらを凝視してくる。
僕も僕で状況が飲み込めずしばらく何も喋れなかったが、悪魔があまりにも長い時間笑顔で僕の顔を見てくるので思わず質問してしまった。
「あ、あの……僕の顔に何かついてますか?」
「はっ!ごめんなさい、僕ちゃんの顔があまりにも可愛かったから思わず堪能しちゃってたわ……!名乗りもしないで失礼だったわね。」
悪魔は立ち上がるとドレスの裾を両手の指で摘まみ、優雅な所作でお辞儀をした。
「私は七十二柱の悪魔が一、智と秘密と両性の悪魔パイモン。長らく人間に封印されてたけど、何故かさっきそれが解けて……」
悪魔……彼女の言葉を信じるなら、名前はパイモンか。
パイモンはそこまで言ってから床に転がっている剣に気が付くと、両手を合わせ感激したような口ぶりで叫んだ。
「まさか……僕ちゃんが封印を解いてくれたのかしら!?まぁなんてこと……可愛い上に悪魔想いとか超萌える……やばい、新しい沼にハマっちゃいそう……っ!」
駄目だ、いよいよ悪魔が何を言ってるのか分からない。
なんか黙ってても殺してもらえなさそうだし、こちらからもう一度お願いするしかなさそうだ。
悪魔に向かい合うように立ち上がり、出来るだけ大きな声で叫ぶ。
「そ……そうです!僕が封印を解きました!えっと、理由は僕を殺してほしいからです!」
恍惚から困惑へと表情を変えた悪魔に向かって続ける。
「悪魔は人間の望みを一つ叶えてくれるんですよね?僕、僕はもう死にたいんです。どうかお願いですから、一思いに……。」
心の底からの懇願。
祈るような気持ちで悪魔の返事を待ったが、彼女から返ってきたのは呆けた呟きのみだった。
「殺すって……私が?僕ちゃんを?」
「そ、そうですけど……」
「この手で?ブスッと一息に?」
両手で何かを突きさすようなジェスチャーをする悪魔。
それが何を意味しているのかは分からないが、多分悪魔の槍とかそんなんだろう。
「そうですけど……」
「……や。」
「え?」
僕の言葉に何故か項垂れてしまった悪魔。
その口から漏れた声を聞き逃した僕は聞き返すつもりで彼女の顔を覗き込んだ。
その瞬間。
「ぜっっっっっっったいに嫌ああああぁぁぁぁぁっっっっ!!!!!!」
人間のそれを超えた声量に、文字通り吹き飛ばされた。
床の上を滑る様に転がった僕の視線の先で、あろうことか床に倒れ込んだ悪魔は泣きわめきながら腕と足を振り回し暴れまわってる。
「やだやだやだやだやだっ!折角六百年ぶりに推しができそうなのに!また推しが死んじゃうとかやだーーーーっ!!!!またベレトに笑われる!「また推し死んだんスか笑」って笑われるーーーーーーーっっ!!!!!!!!」
まるで赤ん坊の駄々っ子。唯一違う点はまさに悪魔的な破壊力。
彼女が腕を叩きつけるだけで神殿は地震のように揺れ動き、蹴りつければ壁が巨大な魔物が激突したかのように抉れている。
一個の災害が人の形になって荒れ狂っているかのような惨状に、僕はこう叫ぶしかなかった。
「ちょ、落ち着いて!落ち着いてください!一旦今の無し、今の無しで良いですからぁ!!」
数分後、僕と悪魔は並んで神殿の瓦礫の上に腰かけていた。
「……ごめんね僕ちゃん。私ったら悪魔なのにあんなに取り乱して……。」
「あの……いや、僕も急に捲し立てたりしてすみませんでした……?」
人が変わったかのようにしおらしい様子を見せるパイモン。
先ほどまでは僕もまた彼女が暴れだすんじゃないかと怯えていたが、その様子を見ていれば一旦は落ち着いてくれたようだ。
ややあって、僕は彼女に自分の身の上を話した。
何故殺してくれと言ったのか。そもそも何故死にたいと思ったのか。
この神殿がある森の近くの村で暮らしていた事、冒険者を志したが道半ばで心が折れてしまった事、両親すらあの世に旅立ってしまったこと。
話を全て聞き終わった彼女は今にも泣きだしそうな表情になると、僕の首に腕を回し、抱き寄せるようにその懐で包み込んだ。
「あぁ、可哀想……こんなに小さいのに、辛い思いを沢山してきたのね?……不幸属性付き美少年……愛せる……。」
なんか最後によく分からないことを言っているような気がするが、話が進まないのでもう無視することにした。
悪魔の考えていることを推し量ろうだなんて、僕には過ぎた話だ。
「それで、僕はここに来たんです。悪魔さんに殺してもらおうと思って……えと、でもそれは……」
「無し。」
「あ、はい分かりました……」
……やり辛い。
悪魔の胸元に顔を突っ込まされているという状況ではなく、この悪魔自体が。
いやこの体勢もやり辛いけど。
悪魔とは、もっと嗜虐的で恐ろしい怪物だとばかり思っていた。
人間を惑わし、人間の魂を啜り、人間の不幸を糧にして生き永らえる邪悪の象徴。
それがどうだ、目の前の悪魔は僕の素性を聞いてその大きな目に涙さえ湛えている。
思わず僕は呟いた。
「僕、これからどうしたらいいんでしょう……」
悪魔に人生相談した冒険者など自分が初めてなのではないだろうか?
余りに皮肉な状況に自虐的な笑いがこみ上げてきた。
パイモンはしばらく黙って僕の頭を撫でていたが、やがてその手を止めると、良いことを思いついたとばかりに両手を打ち鳴らした。
「あ!良いこと思いついたわ!」
やっぱり良いことを思いついていたようだ。
「ねぇ僕ちゃん、僕ちゃんって要するに人間として幸せじゃないから死にたくなっちゃったのよね?」
「そう……ですね、要約するとそうなるのかな……?」
「それじゃあ、僕ちゃんにとっての幸せって何?」
僕にとっての幸せ。
改めて問われ、即答できない自分に驚いた。
思わずパイモンの身体から頭を離し、彼女の顔を正面から見据える。
パイモンは続けて言った。
「難しく考えないで。僕ちゃんの考える幸せな瞬間っていうのを思い浮かべて、教えてくれるだけで良いから。」
パイモンは僕の両肩に手を置いて先を促してくる。
僕はおずおずと口を開いた。
「えと……ご飯が毎日食べられて、ゆっくり寝られる生活……?」
何故かより一層悲しそうな顔になってしまったパイモンが口を開く。
「そ、それは人間として当たり前の生活の範疇よ。もっと欲張っていいから!」
もっと欲張る……?
僕は目を閉じ、世界で一番幸せな自分を想像してみた。
靄のかかったような空想の世界の中で、僕は何をしている……?
「ん、何か思いついたみたいね?」
僕は目を開いて答えた。
「……立派な冒険者になりたい。」
口に出した瞬間、驚くほど胸が軽くなった気がした。
思いのまま、頭に思いつく願望を言葉にし続ける。
「荷物持ちでも奴隷みたいにでもなくて、胸を張って自分の力で冒険したい。お金を稼いで、ふかふかのベッドがある宿に泊まってみたい。それで……」
「……それで?」
「稼いだお金で、お父さんとお母さんのお墓を作ってあげたい。」
パイモンは良くできましたとばかりに指で僕の額を突き、笑顔で言った。
「それじゃ、その夢が叶うなら死ななくてもいいって事よね?」
「それはまぁ……」
「そこで、私から僕ちゃんにご提案。……所謂、悪魔の契約ってところかしら?」
パイモンは瓦礫から立ち上がると、二、三歩離れるように歩を進め、改めて僕に向き直って言葉を続ける。
「ところで話は変わるんだけど、僕ちゃん、悪魔の一番凄いところって何だと思う?」
それは僕のような底辺冒険者でも良く知っている。
それどころか、僕の村のもっと幼い子供たちでさえ知っているだろう。
「……魔法、ですよね。人間とかエルフが使う魔術じゃなくて、魔法。魔術よりもずっと強力で、恐ろしい力だって聞いてます。」
「良くできました。僕ちゃんの言う通り悪魔を悪魔らたしめている力の根源、それは魔法よ。さっき僕ちゃんの怪我を治したのも魔法。気が付いてた?」
確かに、思い返してみればパイモンが僕に施した「治療」は通常の治癒魔術の範疇を大きく越えていた。
その分「治療」に伴う痛みも強烈だったが。
パイモンは指を自分の頬に当てにんまりと笑うと、思いもよらない一言を吐き出した。
「魔法が使えるようになったら、僕ちゃんの夢も充分叶えられると思わない?」
「……え?」
今、何と言った?
僕の聞き間違いでなければ、そして意図を正しくくみ取れているとすれば。
僕に魔法の力を授けると言っていないか?
「そうよ、これは本当に名案だわ!これで僕ちゃんは死ななくて済むし、それどころかこんなに可愛い僕ちゃんを捨てた愚か者にも復讐できる!さ、そうと決まれば早速……」
「ちょっと待った、ちょっと待ってくださいっ!」
手を突き出してパイモンの言葉を遮る。
そんな当たり前みたいに話を進められても、上手く状況を飲み込めない。
「話が見えません!なんで悪魔が、僕の夢のために力を貸してくれるんですか!?それも、魔法なんてとんでもない力を……」
「あら、契約って私言わなかったかしら?勿論、それなりの対価は頂くつもりよ。」
上機嫌になったパイモンは片手の指を三つ立て、こちらに向けて続ける。
「契約の内容を整理しましょうか。まず、私は僕ちゃんが魔法を扱えるようにする。そして見返りとして、三つの事を要求するわ。」
なおも混乱する僕に向かって、人差し指が倒される。
「まず一つ、僕ちゃんは『悪魔憑き』になること。これは条件というか前提かしら?悪魔憑きっていうのはね、悪魔に取りつかれる代わりに悪魔の力を使えるようになった人間の事を言うの。だから悪魔憑きになれば魔法も使えるってわけね。人間の長い歴史の中で……そうね、今までにも数人悪魔憑きはいたみたいだけど、数が少ないから人間の方では認知されてないのかしら?あと因みに言っておくと悪魔憑きって関係は悪魔よりも人間の方が立場が上なの。だからもし契約成立したら、私のことは使い魔か何かぐらいに思ってくれちゃっていいわ。」
次に薬指が倒される。
「二つ目。僕ちゃんは金輪際死にたいなんて思わないこと。これはただ単に私が耐えられないからよ。推しには幸せでいてほしいから。それで、三つ目。」
僕に向けた手をくるりと返し、手の甲、そして真っすぐと伸ばした中指を見せつけて最後にパイモンは言った。
「死んだら、私と一緒に地獄に落ちて?」
自分の心臓が音を立てて跳ね上がった。
パイモンは変わらすその顔に笑顔を浮かべているが、気のせいだろうかその笑みには先ほどよりも凄惨で、悍ましいような迫力を感じた。
早鐘が打ち鳴らされるように鼓動する心臓の音がパイモンに聞こえていないよう祈りつつ、乾いた唇で言葉を返す。
「……地獄に落ちる?」
「そう地獄に。……僕ちゃんはあんまり詳しく知らなくていいわ、単に寿命で死んじゃったあとでも推させてほしいな~ってだけよ?」
一瞬、この綺麗な悪魔を信じかけている自分はとんでもない愚か者なんじゃないかという考えが頭を過る。
もしかたら、今までの言葉も態度も嘘はったり。首を縦に振った瞬間、自分には何かとんでもない不幸が降りかかるのではないかと。
だけど、だけれども。
改めて考えみれば、話はもっと単純だった。
元より自分は死ぬつもりでここまで来た。人生に絶望し、命を絶ってもらおうとしていたのだ。
そして、悪魔の言葉によって命を繋ぐことに一筋の希望を見出した。
例えこの希望が悪魔によって奪い去られようが……神殿に戻る前の自分に戻るだけ。
希望を与えてくれた悪魔に身を任せてしまうのも一興なのではないか?
まさか自分がこんな刹那的な考えに身を任せるとは思わなかったが……
まぁ、それもまた一興である。
僕は人差し指を立ててパイモンに言った。
「分かりました。ただ……僕からも一つだけ条件が。この条件を吞んでくれるなら、契約します。」
「その条件って?」
パイモンは意外そうな顔でこちらを見つめてくる。
僕は深呼吸をし、心を落ち着け、目の前の悪魔に向かって……勇気を振り絞り、こう言った。
「僕ちゃんって呼ばれるの、ちょっとだけ恥ずかしいから……出来れば、アルスって呼んでほしい……です。」
パイモンは奇声をあげて卒倒した。