彼岸の彼女は鳥を飼う。
「夢を見ているようでした」
ぼんやりと水平線の向こうに目を向けながら、僕は隣の少女に呟いた。
「まるでずっと醒めない夢の中。ただ、無為に日々を過ごしただけの十七年でした」
霞に包まれる湖畔。彼岸は遥か、白いベールの向こうに閉ざされている。
はじめはその先の景色を見たいと目を凝らしていた。だけど、どうしてもハッキリとはしなくて、いつしかぼんやりと眺めるだけになってしまった。
でも、それで満足だった。乳白色の世界を包み込む柔らかい橙の光が鏡のような湖に映るその様はまるで天上の世界にいるようで、ただそれを眺めているだけで満足だった。
そんな夢のように美しい景色に包まれて、ふわふわとする気分のままに口が動く。
「勉強もできない。運動神経もない。人望も夢も自信もない。ない、ない、ない。僕にはなんにもない」
「そうなのですか?」
「そうでなければ、こんな所でこんな風にぼんやりと過ごしているなんてことはありません」
ぼんやり。
まさに今、この瞬間を僕は『ぼんやり』と過ごしている。
この場所に流れ着くまでは、一心不乱に「何か」を成そうと想い続けてきた。何もしない時間なんて、ただ時間の無駄だと自分に言い聞かせて。
だけど今はただ無気力な視線を湖に投げている。もう随分と長いこと、それこそ時間さえも分からなくなるほどにずっと、そうしているだけだった。
「こちらに来る前はずっと、何かを成したいと思い続けてきました。そうしてずっと色んなことに手を出して…………だけど、為せば成るなんて嘘っぱちだったんです」
「……」
「こうして座りながら振り返ってみると身に染みて認識させられます。
--自分には何も無かったんだな、と」
少女は、ただ静かに僕の話を聞いている。
座るでもなく、またどこかへ去るでもなく、静かに僕の隣に立ったまま。
それが不思議と心地よくて、自分を受け入れてもらえているようで、僕の口と心は一層滑らかに動いていく。
「いつも僕は周りの人達に迷惑をかけてばかり……傷つけてしまった人さえいます」
関わってきた人々の顔が脳裏をよぎる。
もう会えないだろうという思いが漠然と、しかし不思議な確信として胸に去来する。
だからだろうか。
思い返すのは後悔と懺悔ばかり。
「僕の祖母は、立派な人でした。どんなことにも一生懸命で、困っている人には手を差し伸べ、沢山の人から慕われていた。僕もいつかはそんな人間になりたいと、子供心にその背中を憧れの目で見ていました。だけど今、僕はこんな所でぼーっと湖を見ている。何も成さず、そればかりか人を傷つけて逃げてきた」
言っていて自分が情けなくなってきた。
数年前に亡くなった祖母に、顔向けができないような人生など、なんて空虚なものだろうという思いが胸を押し潰す。
もう一度会えたなら、きっと叱られるだろうと思った。
「僕は、このままずっと独りきりでここにいたい。みんなのいる向こうに、帰りたくない」
もう、かつて過ごしたあの世界のことなんか忘れて、この真っ白で幻想的な世界に骨を埋めようかと思った。
一人きりで、この世界に。
そうすれば、誰かを傷つけることもない。
「…………向こうでの日々は、辛かったのですか?」
僕の心が決まりかけたその瞬間。
静かに、そして染み入るように、少女の声が僕の内を優しく撫でた。
「忘れてしまいたい、後悔ばかりの日々でしたか?」
「え……」
慈しみに満ちた問いかけ。
その優しい響きに、僕は答えることが出来なかった。
黙りこくっていると、少女は「よいしょ」と右隣に腰を下ろす。
ふわり。どこか懐かしい香りが、僕のこわばる心を優しく包み込んだ。
「世界には辛いことや嫌なこと、後悔、切なさ……色んな苦しみで溢れています。そんな想いの濁流の中で振り回されて、疲れ切ってしまった……違いますか?」
その通りだった。
……いや、その全てで自分が被害者ヅラ出来るわけではない。だけど、それでも辛いことに変わりはなかった。
そして、誰にも言うことのできなかったその苦しみに理解を示す少女に、僕の心は溶かされていくような気がした。
そうした親近感のようなモノを抱きながら黙って頷くと、少女は小さく微笑みを浮かべる。
「でもね、この世はそんなに苦しいことばかりじゃないんですよ」
「……」
僕を励まそうする言葉。しかしそのありきたりな言葉に、溶けかけていた僕の気持ちは一気に冷め始める。
--また、そんな話か。
僕が聞きたいのはそんな話じゃない、と思った。通じ合っていたように思えた心が、離れていくように感じて、僕の気持ちはそぞろになりかける。
残されるのは捻くれた思い。
その思いに心が真っ黒に塗りつぶされていく。
どれほど身近に感じたとしても、結局は……と、絶望が僕を蝕んでいく。
「まって」
そんな僕の手に、少女はそう呟いて優しく手を重ねた。
小さな手は、しかし思いの外にザラザラと肌が荒れ骨ばっていて、年相応のそれとは思えないもの。
その異様な触覚に戸惑い、固まった僕に少女は必死で言葉を紡ぐ。
「色んなことに挑戦してきたと言っていましたよね?」
「形にはなりませんでしたが……」
「形になったかどうかなんて、結果でしかありません。あなたが頑張ったのかどうか……その過程を確認しているんです」
「……」
その今までの僕の歩みを、積極的に否定する気にはならなかった。
黙りこくっていると、「沈黙は肯定の意ですよ」と言って少女は微笑んだ。
「……人間は何もなく頑張れる存在ではありません。懸命に取り組んだのには、訳があるはずです」
「訳……」
「未来に……まだ見ぬ希望や夢に手を伸ばしたのでしょう? まだ見ぬもの達に期待を寄せて、あるいはそれらを探すために、自分を自分で認めるために……」
そうだった。
僕は、何かになりたかった。何かを成したかった。
その「何か」が一体何なのか、分からないまま。
分からないから、その「何か」を探し求めて、自分自身を探して求めて。
そして、その原体験は…………
「喜びや楽しいこと、思い出……微かにでも触れたことがあるはずです。そうしたもの達に触れたからこそ、あなたのその未来を希求する想いは生まれ、そして醸成され、あなたの努力の糧へと昇華されていった」
--僕の原体験は、特別な感情の数々に触れるという、特別なんかではない体験だ。
それは「苦しみ」だけではない。時として苦しみながらも、無上の喜びや楽しさに触れて、そしてそしてそれらを知ったからこそ僕はそれらを求めて頑張るようになったのだ。
楽しさ、喜び……振り返ればそれは確かにこれまでの僕の歩みの至る所で輝いている。
「だから何もないなんて言わないでください。頑張ることのできる人が『何もない』だなんて……そんなこと、言わないで……」
それは僕の知らなかった視点。気づかなかった価値観。
だから僕は、僕の垂れ流した自分への怨嗟をこうも綺麗な清流へと蘇らせた少女にたじろぐ。
「でも……僕は失敗ばかりで…………」
「失敗を知る人は、叶わぬ思いがあることを知っています。失敗を知る人は、持たぬ事への葛藤を知っています。そして、それらを知る人こそが、他人への慈しみの心を持つようになるということを、私は知っています」
「他人への……慈しみ……」
「人は一人では生きられません。誰かと一緒でなければ、生きられない。貴方はその『誰か』になるに相応しい、他者と寄り添うに大切な物を心に持っています」
コペルニクス的転回、パラダイムシフト、発想の逆転……手垢まみれの言葉で定義されるその体験に、僕は言葉を失った。
そうして紡ぐ言葉を失ったまま、縋る思いで湖に目を向ける。
彩度を失う世界。あたりに立ち込める霞はますます濃くなって、けれども頭上には見たことのないほどの数の星屑が眩く輝いていた。
「…………で……でも……」
しばらくして、ようやっと僕は声を絞り出す。
「だとしても…………自分は人を傷つけてしまいました」
散りばめられた星々の灯火が、ぼんやりとしていた記憶を少しずつ実感と共に蘇らせる。
それは刹那の記憶。
諍い。
少女の涙。
後悔。
去りゆく背中。
追いかけて。
追いかけて。
追いかけて。
飛び出す少女。
迫る車。
その背中に追いついて。
手を掴んで。
引き戻して。
反作用。
振れる身体。
近づく車。
そして…………。
「……傷つけた訳では……。あなたは彼女を救っ……」
「『救った』?」
「……」
「救ってなんかいません。大切な女の子を酷い言葉で傷つけた。そしてそれで招いた事故で自爆して、近くで見ていた彼女にトラウマを…………何が……何が『救った』だ!」
声を荒げる。
けれど、熱くなる心とは裏腹に頭の奥底は冴えに冴え渡っていた。この自分への怒りは「逃げ」だという事に、気づくほどに。
だけど、分かってはいても、こうでもしなければこの重い苛責に耐えられそうにはなくて、僕は激情に身を委ねる。
「何もない、何も成さない、人を傷つける…………そんな僕に、あの人の下へ帰る権利などない。あの人の隣に立つ資格など断じてない……」
だから、自分が望んだものではない事故だとはいえ彼女の下から離れることができたのは僥倖だった。
「もうこれ以上彼女を傷つけなくてすむのだから……」
それきり僕は口を閉ざす。
沈黙が降りかかり、ただ波の囁きが小さく揺れる。
「ねぇ……」
満天の星。ただ黙り込んだままにそれをぼんやり眺めていると、視界に少女の顔がニュッと現れた。
「……あなたの大切な人のこと、教えていただけませんか?」
「大切な……人」
「そう。ダメですか?」
真っ直ぐに僕の目を覗き込む少女。
その素直な目が何故か怖くて、僕はとっさに目を逸らした。
「…………言ったでしょう? 僕は彼女に酷いことをしました。今さらあの子は僕のことなんて……」
「そうではなくて」
僕の絞り出した答えに、少女は目を閉じて小さく首を左右に揺らす。
「どう思われているかじゃない。あなた自身が、どう思っていたのかを聞いているのですよ」
「僕……自身が……」
どう思っていたか。
彼女のことを、どう思っていたのか。
「僕は…………」
ぶわり。
星が思い出の輝きとなって降り注ぐ。
笑顔。笑顔。笑顔。
想い出が胸の奥からとめどなく溢れてきて、僕は思わず口を両手で覆い隠した。
「…………たいせつ」
僕が想い続けてきた少女。二人で過ごしたその時間は何より愛おしいものだった。
だからこそ、僕は怖かった。彼女の笑顔を曇らせてしまうことを、僕はずっと恐れていた。
僕には何もない。そんな空っぽな人間だから、いつか溢れる彼女の輝きすら翳らせてしまうように思えて。彼女に大切に思われる価値すらもないように思えて。
僕に向けられた彼女の笑顔が信じられなかったのではない。
僕は、僕自身を信じることができなかった。
だから僕は彼女から離れようと思った。
彼女が、彼女の笑顔が……大好きだったから。
大好きだったのに。
「ごほっ! ごほごほっ!」
溢れる想いに溺れる。
言葉が喉に詰まってむせるほどの想いに。
これほどまでに多く、勢いよく湧き上がる想いを、言葉を、誰かに伝える術など僕は知らない。
「がはっ! うぅ……うぁぁ……」
「大丈夫。大丈夫ですよ」
咽ぶ僕の頭を、少女は優しく撫でる。大丈夫、大丈夫、と何度も繰り返しながら。
そうして、ようやく僕が落ち着いてきた頃になって、少女は小さな微笑みを僕に向けた。
「……彼女のその笑顔は、決して一人では咲かせることのできなかったもの。あなたとの関わりによって生まれたものです」
「僕との……」
「だから、貴方を諦めないで。こんなところで一人きりで……なんて、悲しいことを言わないで。あなたが積み重ねてきたものはしっかりと花開いているのだから」
「あ……」
「貴方を、貴方の想いを殺してしまわないで。後悔に飲み込まれそうになって全てに絶望しそうになったとしても、それでも抗い立ち上がって…………立ち上がりなさい!」
力強い声とともに、空いっぱいに朝が染み渡る。
淡藤色がぐわりと世界を染め上げて、刹那、霞がさぁ……と掠れていく。
その美しい風合いに、心の奥の何かが疼いて僕は足に力を込めた。
「あ……」
立ち上がろうとして、膝が折れる。
ふらふらと腰砕けになりながら、だけど、僕は湖に手を伸ばす。
「……っ!!」
「……そして」
伸ばした右腕が引っ張られる。
ハッと見ると、踏ん張り支える少女の姿。
「そして、忘れないで。全てを一人でやり遂げようとしなくていいってことを。誰かを頼って良いってことを」
体が起き上がる。
地面に左手左膝をついた不恰好な姿で、それでも僕は立ち上がる。
「だから、全てを出来ない自分を許してあげて」
--いいのだろうか。
強張り震える僕の心を優しく包み込むその温もりに絆されてしまいそうになりながら、僕は自問をする。
--このまま自分を許してしまって、良いのだろうか。僕は、彼女を傷つけたというのに。
「いいんですよ」
少女が、微笑む。
「あなたがあなたを許せなくて、誰があなたを許せますか? あなた自身が誠意を持って接する限り、必ずその取り返しはつきます。だってあなたの周りには沢山のものが溢れているのですから」
片隅に、夜のカケラがチラチラと。
その闇に変わって湖畔に満ちるのは、無数の声。
父の。母の。友人の。旧友の。
聞き慣れた、今となっては懐かしい声たち。
その声が、僕の名を呼ぶ。
「どうして……」
掠れた声に、少女は笑いかけた。
「『どうして』?」
「僕なんか……」
勉強もできない。
運動神経もない。
夢も自信も、人望すらない。
何もない人間のはずだった。
なのに。
…………なのに。
「例え、あなたが自分のことをどう思っていようと、どう思われているか妄想を膨らませていようと、関係ない。あなたは、あなたが思う以上に『あなた』なのだから」
少女のガサガサの手から温もりが伝わる。その温もりに癒されて、僕はふと思う。
ひょっとすると、僕のことを一番分かっていないのは僕自身なのかもしれない、と。
ひょっとすると、周りの人たちは、僕が思うよりも僕のことを想ってくれているのかもしれない、と。
そう考えて少女に目を向けると、彼女はうんうんと大きく頷いた。
「後は、あなたがそれに気がつくか……その想いを受け止めようと思えるかなんです。だから……自分を諦めないで」
「……はい!」
頷くと少女は安堵の笑みを浮かべて、それから僕の腕を引いて駆け出した。
その瞬間、澄み切った空の端から、紅い光が零れ出す。
「……そろそろ、時間です! 急ぎましょう!」
少女が煽り立てる。
なんの時間なのか、分からないままにただその声に従って、僕は足に力を込める。
分からなくてもよかった。
胸の奥から急き立てるものがある。風となって背中を押すものがある。
ただそれだけで、僕の足には力がみなぎってくるのだから。
「はやく!」
一瞬のうちに紫の闇が払われる。新しい景色が目の前に現れようとする。
その景色を追いかけて、僕はさらに足に力を込める。
待って。待ってくれ。
そう願いながら、駆ける。
転けて、倒れて……それでも駆けて。
「わぁ……」
凪いだ湖。
その鏡のような世界に膝下まで浸かりながら、僕達は天を仰ぐ。
水面は湖上に浮かぶレンブラントの絵画を、まるで鏡のように写し取る。
それは空と湖の遥かなる断絶を刹那につなぐ、光の橋掛り。
その情景に心を奪われていると、突然少女が背を押した。
押された体はつんのめって、そして宙へと舞い上がった。
「えっ……えぇっ!?」
「お別れです」
戸惑う僕に、少女はそう言って手を振る。
優しく軽く押し出された僕の身体はゆっくりと、しかしグワリと勢いよく湖畔から遠ざかっていく。
その驚きと恐怖の狭間で耳を打った「お別れ」の言葉の意味が、僕はすぐには理解できなかった。
「何を……お別れ?」
「そろそろ、目を醒ましなさい」
全てが遠くなっていく、その間際。
少女の顔が滲む。
「また数十年後に。私はここからずっと、貴方を見守っていますよ」
顔が、声が……。
揺らぎながら、見慣れたものへと変わっていく。
その形は、見紛うはずもなく……。
「おばあ……ちゃん…………?」
「元気で、ね」
僕の呟きに微笑む優しい顔を最後に、僕の意識はプツリと切れた。
*
六年前、祖母は亡くなった。
突然の死。前日までピンピンしていたのに、ある日突然容体が急変して、僕が駆けつけた時には、もう…………。
いつでも会えると思っていた。いつまでも楽しい日々が続くと思っていた。
だけど、日常の終わりは前触れもなくやってきて、僕から全てを奪っていった。
小学四年生の少年に残されたのは、ただ虚しさと喪失への恐怖、そして不変への渇望。
以来、僕はその幻影に怯え、そして追い求めてきた。幻影と知りながらも追うことをやめられなくて、そしていつしかその幻影に囚われていた。
そしてそれは、大切な人たちとの日々を積み重ねたところで変わらなかった。
だけど…………。
「ん……」
瞼を開くと、そこには真っ白な天井。
機器類が整然と並び、点滴の管が腕に繋がっていた。
そして傍らには……。
「すぅーー……すぅーー……」
僕が傷つけた、大切な少女。彼女が僕のベッドの傍らの椅子に腰掛けて寝息を立てていた。
「あぁ……」
小さく息を吐いて、僕は再び目を瞑る。
身体は重く、頭は鈍い。だけど、不思議と心はスッキリと澄み渡っていた。
「おばあちゃん……」
爽やかな風がそよぐ、開け放たれたままの窓。
その四角い額縁の中の群青の夏空に、彼岸で逢ったあの影へと想いを馳せる。
それは夢か、或いは現の事なのか……。
ただ確かなのは、その刹那の邂逅とこの胸に渡された温かなもの。その温もりを抱きしめて、僕は空に微笑む。
「もう、大丈夫だよ」
もう大丈夫。
喪う事に恐怖して、大切なものから手を引っ込めるようなことはしない。
自分の持つものに盲目になって、自分自身を見失うようなことは、もうしない。
まだ見ぬ未来でも遥かなる過去でもなく、隣に居ようとしてくれる人たちと自分自身を大切にして、今を生きていく。
「だから、もうちょっとこっちで頑張ってみるよ」
瞼のうちに降る雨もそのままに放った想いは、鳥とともに空の彼方へ消えていった。
お読みいただきありがとうございました!
「小説家になろう」様では久しぶりの投稿となります。これからまた投稿をしていこうと思いますのでよろしくお願いいたします。