第二章23話 『暗黒パワー100%』
ミハルは慎重に敷居を跨ぎ、目を凝らして中を見渡した。
細い通路が4、5メートルほど続いて、また同じ形の扉に繋がっている。
透過率の高い構造体で形成される四方の壁から外が見えた。
通路の外は巨大な水槽の内部に繋がっていて、淡青色の光の中に小さな気泡がプクプクと浮かんでいる。
“怪奇音!?”
これまで聞いたことがない鳴き声が真下から伝わり、ミハルの胃を揺さぶった。
何かいる。
ミハルは急いで二つ目の扉のハンドルを掴み、次の部屋に飛び込んだ。
危うく水槽へ繋がる密閉扉に手をかけてしまったのではないかと肝を冷やしたが、大量の水に飲み込まれ圧死する事態に陥るわけもなく、
「……ィテぇ」
勢いよく突っ伏した先で呻いた。
状況は見るからに無様だったと思われる。
上半身をピンク色の体液で覆われ、体の節々から悲鳴が伝わっているという具合。
さらに言えば、悪夢のような展開が立て続けに起こっているせいで、思考が上手くまとまらない。
とりあえず、これ以上酷くなりようがないことだけは断言したかった。
「……ここは」
周りを確認する。
ゲル状のブロックで構成された不思議な空間がミハルを取り囲んでいる。
長い回廊なのか、左右どちらに首を振っても別れ道が見当たらない。
「ハハっ……気ィ狂いそう」
けれど、それでも、彼女の遺言と彼女から託された使命だけは忘れなかった。
──バクガン(偽)の計画から世界を救え。そのためには捕らえられた人柱をここから逃さなければならない。
荒唐無稽な筋書きだが、あの状況で彼女の言ったことが作り話には思えなかった。
2000年前にこの地に降り立った彼女は異星人であり、移住先を求める探索者だったという設定はまだ呑み込めていない一方で、彼女の言っていた世界破滅のシナリオには妙な現実味がある。
巨大地下施設の存在、喋る生首・バクガンや異形の怪物・ドリーを実際に目にしたミハルにはそう思えるのだ。
「こんなの……どうかしてる──けどッ」
ミハルは自問自答した。
本当は思考放棄したいがためにそう信じ込もうとしているかもしれない。
事の成り行きが勝手に巻き込んでいるだけで、自分には関係ないと思い込みたいのかもしれない。
世界の終焉なんて知ったことか。欲に負けてこのまま眠ってしまえばいいのにとさえ思った。
されど、夢のような現実は一向に終わる気配がない。
為すべきことを為さなければ出られない。
絶望しても、立ち向かうために必要な言葉は知っている。
「腹くくれ」
ミハルはミハルに言い聞かせた。
規格外の現状に太刀打ちできるのは、規格外の判断と覚悟だけだ。
時には直感に頼ってみるのも悪くないんじゃないか。
そう思ったら不思議と目の前が晴れていくような気がした。
〈オいッ! そこのお前ッ!〉
それは突如としてミハルの頭の中に響いた。
少女とも少年とも言えない不思議な声はあらゆる方向から伝わってくる。
他人の声が脳幹の奥まで染み込む感覚を知ったのはごく最近のことなので、ミハルは冷静にその現象を把握できた。
カースの場合とは異なるが、人智を超えた能力を使って相手は喋っている。
〈ちょっと待ってろ〉
ミハルが口を開くよりも先に状況が動いた。
目の前の壁に亀裂が入った直後、瞬く間に広がりひしゃげて、大きな穴が生み出され、
〈なるほど……つまり──〉
穴の向こう側に人影が見えた。
その時点で声の主が誰であるかは明確だった。
「お前がオレ様の救世主ってことだ」
快活な声がミハルの鼓膜を震わせる。
壁を挟んだ向こう側にひとり、腰に手を当て堂々と立っていた。
色白の肌と身に纏う白のハイレグが印象的で、性別による身体的特徴がなく、球体関節人形を彷彿させる見た目だった。
「母さまの言うとおりここで大人しくしてたぜ。オレ様はニーナ。お前は?」
「……あ……えと」
「名前だよ! 言ってる意味わかるかァ?」
「ミハルだ。ちゃんと聞こえてる」
向こうのペースに持ち込まれないよう、対等な立場で意思の疎通を計りたいところだが、
とはいえ、勝手に話して勝手に何かを理解する相手の素振りには期待できるものがない。
「ふーん、ミハルね。救世主にしちゃあ地味すぎ。せめてハルハルとかにしとけよな。ま、名前なんてぶっちゃけどうでもいいさ──」
頭部にフイットしたボブカットの黒髪を撫で付けながらニーナは言う。
「大事なのはお前が選ばれし者に値するかどうかだ」
「選ばれし者? 何言ってんだ? 俺は違う。その……君はたぶん何かと勘違いしている」
「君じゃねーよ。ニーナと呼べ。じゃあ聞くが、お前が握っているそれはなんだ?」
「あーこれ……は」
ミハルはそのとき初めてリリハから渡された装置の感触を思い出した。
ペン型の透明カプセル。具体的な使用法はまだ知らない。
「リリハって人に託されたんだ。だから俺はここに──」
言いかけてミハルは悟った。
目の前の素性の知らない人物こそが、リリハの言っていた“捕らえられた人柱”であり、ミハルが救わなければならない存在なのだ。
「そうか……つまり君が」
「ニーナだ」
「じゃあ……ええっと……ニーナ。とりあえず、ここから抜け出そう。それから──」
ミハルは口をつぐみ、どう言うべきか迷った。舌を濡らし、静かに告げる。
「リリハはもういない。俺にこれを託して……」
「あー知ってる知ってる。母さまの役目はそこでおしまいなんだ。ここからはオレ様が主役で、お前が相棒ってこと。意味わかるよな」
崩れた壁を乗り越えあっという間に距離を詰めたニーナはミハルの肩を軽く叩いた。
「そーゆーわけでよろしく!」
明朗快活な声が鼓膜に届く。
「……ぇ……あぁ……どうも」
ミハルは慌ててそう付け加えたが、相手から滲み出る異様な違和感のせいで緊張の糸が緩むことはなかった。
まるで20年の付き合いのような雰囲気でニーナは話す。
「そんで、お前のプランは?」
「プラン? いや……なんというか……まだ何も。ニーナはここに詳しいの?」
「だいたいは把握してるぜ。出口を見つけるのは無理だけどな。ほら、見てみろ」
ニーナはミハルの後ろを指差した。
振り返った時には、この部屋に繋がる扉は壁にのめり込み、綺麗さっぱり消えていた。
「それは……先に言えよ」
「ここら一帯は日に三度も内部構造が変わるのさ。どうせ逆を辿っても迷い込むのがオチだ」
そう言ってニーナはミハルを見つめた。
さもこの状況を楽しんでいるような笑みを浮かべている。
「けど、お前は違う。ここから抜け出すことができる」
なぜ? と問う前にミハルは察した。
リリハがこの状況を見落とすはずがない。
手中のカプセルをニーナの前に突き出し、
「これを使えってことか。操作方法は?」
「安心しろ。オレ様が今から教えてやる」
ニーナは冷静な口調でミハルにカプセルを握るように指示した。
「それを握りながら外に出たいって念じるんだ。そうすりゃ、あとはそれが叶えてくれる。簡単だろ」
「あの、真面目に言っとくが……俺は超能力者じゃない」
「あのさァ! オレ様は早くここから出たいんだぜ。マジで言ってんの。あーだこーだ言う前にやってみ」
ミハルの鼻先まで顔を近づけ、ニーナは唸る。間近でみる相手の素肌は人形のように滑らかで透き通っていた。
ミハルは怯まず言った。
「ホントに念じるだけでいいんだな」
「そうだ。お前ならできる」
ニーナは余裕の笑みを浮かべ、一歩下がった。あとはミハル次第だということらしい。
とうの昔にこんないきあたりばったりのイベントには慣れていたので、ミハルはニーナの命令を受け入れた。
カプセルを左手で包み込み、強く念じてみる。
最初の数秒は邪念を取り払うのに集中力が切れたが、極度の緊張のせいか、事はすんなりと上手く進んだ。
頭の中のあらゆる箇所が“外に出たい”という意思で埋め尽くされたとき、異変が起こる。
「ヒッ?!」
カプセルの上部に小さな穴が開いて、中から肌色の液体が溢れ出した。
床に辿りついたソレは綺麗な円状に薄く広がっていく。
「なにコレッ? なんなのッ!?」
「いいから見てろ」
その後の光景は不可思議な現象のオンパレードだった。
床に広がる液面の中心がボコボコ沸騰し、球状の泡が粘度のある固体に変容し始めた。
まるで生き物の成長過程を早送りで見ているようで、肌色の物質は幾度も変形と結合を繰り返し、形あるものへと近づいていく。
やがて、出来上がったのはヒトの脚部が一対。
上半身が存在しない腰から下の部位だけが直立している。
「へぇー面白い」
ニーナは感嘆した声をあげるが、ミハルにとってはなにが面白いのか分からないし、なにが起こっているのかさえ定かではない。
それから10秒も経たないうちに、同じ脚部が5体出現し、挙句の果てにはミハルが手放したカプセルまでも変形し始めた。
幾重にも折り畳まれた紙を開くように、パタパタと拡張して、
「完成だ」
6体の脚部の上に格子で組まれた寝台が二人の前に出現した。
「多脚式ストレッチャーだな。初めてにしては上出来じゃねーか」
まだ状況を呑み込めていないミハルに向かってニーナは苛立たしげに言った。
「コレに乗って脱出するんだよ。鈍いなお前。ほら、乗った乗った」
無理矢理背中を押され、ミハルはストレッチャーに上半身を乗り上げる。
前方の凹みにカプセルの一部が見えた。
「ニーナ。このカプセルの正体はいったいなんだ? 知ってることを教えてくれ」
「母船のコードキーのひとつさ。お前はそれの所有権を母さまから受け取ったんだ。それさえあれば母船内のあらゆるルートを辿ることなんて造作もない。たまに脳が焼き切れちゃうこともあるけど、安心しろ。なんとかなるって」
「いやっならねーよッ! なんつーもん渡されてんだッ!? いろいろダメだろッ!」
「うるせえ。喚くな。アイツらに見つかるぞ」
ニーナは事もなげに言った。
「いや……もう見つかったか」
ニーナが言い終えるより先に怪奇音が響く。
ミハルは咄嗟に片耳を塞ぎ、辺りを注視した。この音には聞き覚えがある。例の水槽の部屋で聞いた声と同じだ。
「ま、バレるのも時間の問題だったしな」
「この音、あの生首が気づいたって意味だろ。早く逃げなきゃ」
「じゃあ、お前に運転任せた。オレ様はこれまでの鬱憤を晴らしてやる」
目をギラつかせ、ニーナは威勢よく言い放った。瞳の奥に得体の知れない闇が渦巻いている。
「俺がッ? 運転!? どうやって!?」
「今このストレッチャーはお前の命令で動く。走れと言えば走るし、止まれと言えば止まる。強く念じてみろ。オレ様の言っている意味がわかるはずだ」
ミハルは瞼を閉じて、意識を集中した。
──走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ……ッ
が、ストレッチャーは1ミリも進まない。
1分も待たずして、理不尽にもニーナから怒号があがる。
「オイっ! なにもたもたしてんだッ!? 追っ手が来るぞ!」
「うるッせえなッ! 分かってんだよ!」
後ろを振り返るのが怖い。
頼むから動いてくれ。
真横で大声出すな。
集中が削がれる。
走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ──頼むからッ
「来た」
ニーナが静かに言った。
50メートル後方。
四方の壁の一部が溶けて、三体の蠢く影が現れた。
八本の長い腕と頭頂部から伸びる垂髪には見覚えがある。
「……ドリー君?」
絶叫が轟き、それから3つの出来事が同時に起こった。
1つはドリー率いる3体の異形が一斉に疾走し始めたこと。
1つはニーナが両腕を真っ直ぐ伸ばし、中指を迫り来る3体に向けて照準を合わせたこと。
1つはミハルの思念がストレッチャーに届き、前進し始めたこと。
次の瞬間には全てが重なり、
「カカカカカカカカァアッ!」
「暗黒パワー・チャージ完了」
「わぁ、動いた」
ドリーの左隣を追走していた一体が高く跳躍した。蜘蛛の脚のように細く長い八つの腕が獲物二体に迫りくる。
「死ね」
ニーナがそう告げた刹那、襲いかかる一歩手前の怪物が爆散し、ミハルとニーナの体は後方へ引き込まれた。
四方に飛び散った異形の体液がミハルの顔に直撃する。
「アハハハッッ!! ザマァみろッ!」
ストレッチャーは人並みの速度で歩き始めていた。
6対の脚部はそれぞれ順番に折れ曲がり、器用に歩幅を揃えて前進しているが、こんなスピードではすぐ追いつかれてしまう。
ミハルは叫んだ。
「もっと早く! 全速力だッ!」
すると、意思が芽生えたかのようにストレッチャーは急激に加速し始めた。歩幅が広がり、回転率が上がっていく。
足の生えた寝台は、出口が見えない一本通路をミハルとニーナを乗せて疾走する。
追従する異形の数は今や10余まで増えていたが、狭い一本通路ではかえっていい的になり、
「即死、即死、ハイ爆散、即死──」
ニーナの放つ謎の力により一体……また一体葬り去られていった。
「わ──ッ?!」
ストレッチャーが初めて右に旋回した。
しかし、分かれ道があるわけでもなく、このままでは通路の壁に直撃するルートだ。
ミハルは目を瞑った。覚悟した衝撃は一秒待っても来なかった。おかしい──目を開く。
ストレッチャーは壁の奥を進んでいた。
硬い構造体が液体のように滑らかに動いて、ストレッチャーがちょうど通れるほどの通路を形成したのだ。
柔らかな壁はストレッチャーが進むスピードに合わせて前方に道を作り、通過した直後に閉じていく。
ドリー率いる異形の集団が追いかけられるはずがなかった。
「いやースッキリした。お前も意外とやるじゃん」
「俺の出る幕なかっただろ」
頬についたナニカの体液を拭き取りながらミハルは言った。
それを見ていたニーナが顔を突き出し、拭き取るようアピールした。
ミハルはまだ汚れていない袖の裏地を使ってニーナの顔をなぞった。
「しばらくこのルートを辿れば安全だな。このまま地上に繋がっていたら最高なんだけど」
「どうかな。ドリーの野郎、かなり鼻が利くし……それにオレ様は父さまの計画に必要不可欠だから向こうは死に物狂いで追ってくるんじゃねーの」
「そういやリリハが言ってた……人柱が生首教祖のプランの要だって」
「そうそう、今やその人柱もオレ様だけだ」
「他にもいたの?」
「トトにパク、それとカンチ。オレ様を含めて四人の生贄だ。昨日アイツらを殺したから向こうも焦ってんだ」
「……あぁ、なるほど」
耳鳴りがキーンとした。
「え……ニーナが?」
乱れた前髪を整えてニーナは言った。
「あ、どうした? そんな青ざめて」
「だから……え、殺したって……」
頭の奥にチクチクした痛みが走る。
目眩もする。
「うん。オレ様がやった。それよか腹減らね? 何か食えるもん持ってたりする?」
「ごめん……今は持ってない。けど……そのさッ、なんで殺したんだ」
ストレッチャーの行先はまだ見えない。
「なぜって……あーたしかに、なんでだろうな。その時の経緯はよく覚えていないんだ。昨日のことなのに」
とても単調な声だった。
「罪悪感とかないし、不快感もない。後悔もしていない。けど、そうしなきゃいけなかったんだろうっていう自信はある」
三角座りのままニーナは首を傾げた。
「オレ様は……自由になりたいだけなんだ──」
それから先に起こったことは断片的にしか覚えていない。
ニーナの返答を聞き終える前に、視界が暗転し、意識が吹っ飛んだところまでは知っている。
脳の内部に酷い損傷を受けたのか、ニーナの言葉を借りるとすれば、“脳が焼き切れる”という表現がしっくりくる激痛を感じた。
目をうっすら開くと、ストレッチャーごと壁の外に放り出されていて、白い十字架の丘が近くに見えた。
“……侵入者を捕らえよ”
あの不快な声が聞こえ、暗褐色の装束を纏う集団がやってくる。
記憶が途切れる──
なぜか下半身の感覚がない。というより全体的に軽かった。
死ぬってこういうことなんだろうか?
いや、でも意識があるから死んではいないはずだ。
そもそも、死んだらどうなる?
ループから脱出できるかも?
それとも単なる終わり?
“素晴らしい! 不死の肉体ッ! 細胞の再生成か? いや、もしくは……”
また、誰かが何かを喋っている。
記憶が途切れる──
“黙れよ、父さま。オレ様は酷く機嫌が悪い”
“お前には役目を果たしてもらう。超越者として……”
記憶が途切れる──
絶叫が聞こえ、奈落の底から轟音が躍動した。
青白い光が点滅し、世界は無に近づいていく。
音が消える。
光が消える。
すべてが曖昧で……
朦朧とした意識が細切れになって……
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「ホットココアにする? それともコーヒー?」
懐かしい声がした。
── そして、世界は廻りだす




