第二章20話 『お静かに‼︎』
遠くの方で水の滴る音が聞こえた。
頬にひんやりとした硬い感触が伝わり、少しカビ臭い匂いが鼻腔を突く。
目蓋を開こうと試みるが、機能しない。
全身が金縛りにあったように重く鈍い。
意識が鮮明になるほど、何か見えない力が自分の体を地面に押しつけてくる。
次第に息苦しさを感じ、ミハルは焦った。
必死にもがこうとする意思に反して肉体は動く気配はなく、ただ刻一刻と苦しい時間だけが過ぎ去っていくことに焦りと恐怖を感じた。
「……ぁう」
やがて、抵抗する力も湧き上がらなるほど疲れると、金縛りはおかしいほどすんなり解けた。
ゆっくり息を吸い込み、肺を冷気で満たす。
今度こそ目蓋を開き、瞳を外気にさらした。
視界は闇に包まれていた。
まだ目蓋にだけ金縛りがかかっているのではないかと疑うほどに暗かった。
全身の筋肉に呼びかけて、ミハルはうつ伏せの状態から身体を持ち上げる。
片腕で地面を押し返し、足を折り曲げ、腰を支え、首をもたげた。
生まれたての子鹿のような体勢でミハルは、もう一度周りを見渡した。
「ここ……は」
覚醒して間もなくミハルの両目は闇に慣れ始め、おおよそのシルエットを捉えられる程度にまでなった。
「……洞窟?」
ひんやりとした冷気が漂い、ゴツゴツとした岩盤が上下左右を囲んでいる空間を見て、ミハルの思い当たる答えと言えばそれくらいしか無い。
「……はぁ」
ひとまず危機的な場所に居座っていないことにミハルは安堵した。
もし、ここが深い谷へ真っ逆さまの崖っぷちであれば、脈拍の数は今の比ではなかっただろう。
ようやく重い腰を持ち上げ、四足歩行から二足歩行へ切り替えた瞬間、身体にどっと疲労が伝わるのを感じた。
手を伸ばし、横の岩盤にもたれかかろうとした時だ。
「はへ?」
それは馴染みのある違和感だった。
あるはずのものが無い時の喪失感が右側から伝わってくる。
「……ウソ……またっ?!」
ミハルの異端な右腕の一部は、不幸にも姿を消していた。
どうりで頭の中がスッキリするし、悪魔の囁き声は聞こえてこない。静寂のみが陰鬱とした空間に漂っているだけだ。
「勘弁してくれ」
宿木としての役目を担っていた腕の欠損部を無くした今、カースと交信する手段はない。
あいつと無事再会できるだろうか、という不安が募り、あの騒がしい嬌声でさえも恋しく思えた。
呼吸が整い、思考が徐々に纏まっていく。
そして、兎にも角にもまず最初に浮かんだ疑問は、なぜ自分はこんな所にいるのだろう? だった。
記憶のテープが逆戻り、
頭を強く打って──
落下中に──
高いところから滑り落ちたんだ──
水柱の攻撃を受けて──
とてもうるさかった──
咆哮だっけ? ──
トトールが急に現れて──
分断された……
「エミリ!?」
当然、近くに彼女がいるはずもなく、ミハルは焦った。
あれからどれくらい経ったのか、陽の無い洞窟では検討がつかないし、第三階層からどこまで深く落ちたのかも分からない。
そして、自分が無傷で立っていられるこの現状も不可解だ。
昂る気持ちを行動で抑えようと、あてもなく前に向かって歩き始めたが、辺りに蔓延る闇は恐ろしく、温かみがない。
一歩先ですら不明瞭にし、ミハルの歩幅を縮めようと邪魔をする。
ふと、ジョガーパンツの右ポケットの中に左手を突っ込んだ。
「確か……ここに」
思い描いていたアイテムの輪郭を指先が感じとり、確信を得たミハルはポケットから手を引き抜いた。
「あった」
長さ15センチの細長い筒を握りしめ、ミハルは微笑んだ。
表面はプラスチックで先端は丸く、口のない試験管と同じ形状を持っているそれは探索用のケミカルライトだった。
真ん中で折ると、青白色の光がミハルの手元から放射状に広がり、辺りを照らし出した。
「眩しッ!?」
光が闇を退け、周囲の全貌が露わになる。
洞窟の岩肌はゴツゴツしていて、湿り気があり、四方八方に鍾乳石と石柱が入り組んでいる光景は、巨大生物の腹の中のようで気味が悪い。
ライトを高く掲げると、洞窟の奥の方までよく見えた。
大小さまざまな穴が入り組み、自然の迷宮を作り出している。
一歩間違って足を踏み入れたら、永久に出られない無数の空虚。ミハルはそんな危うい場所に独りぽつんと存在しているのだ。
「どうやりゃこんな辺鄙なとこまで落ちるんだか……ついてないなほんと」
心細さのせいか、戯けた独り言が自然と口から漏れてしまう。
ミハルはもう一度周囲を丹念に見渡した。すると、二時の方向に小さな光が明滅していることに気づいた。
一旦、ライトをジャケットで覆い隠し、目を凝らしてみる。
「そうでもない……のか?」
確かに淡青色の輝きが存在していた。
自然の光か、人工物の灯りか、はたまたミハルの幻覚か。近づいてみなければその正体はわからない。
そこにたどり着くまでにいくつもの足場の悪い地面と険しい傾斜を乗り越える必要があるが、
「とりあえず、行こう」
ミハルはそう自分に言い聞かせ、再び歩き始めた。
目視距離約100メートルに輝く謎の光源を目指して。
○
「片手……一本は……さすがに辛い……な」
最後の難所である傾斜を登り切ったミハルは、倒れ込んでそう溢した。
全身に汗がまとわりつく感触と関節の節々の悲鳴がここまでの道のりの険しさを物語っている。
重い片腕を持ち上げ、胸元のポケットポーチから携帯容器を取り出すと、一気に喉の渇きを潤した。
ミハルがこの状況で実感できる幸運は、常時、エミリから提供された装備を身につけていたことだった。
過酷な状況にも対応できるよう設計されているためか、かなりの高度から落下しても破損せず、ミハルの身を守ってくれている。
おまけに数日の非常食と探索アイテム付き。
なぜ情報技術課が途中で開発を切り上げたのか、甚だ疑問に思う品である。
「エミリに礼を言わなきゃ」
ふと彼女の名前を口にして、ミハルは黙りこんだ。
ループの周期はおよそ二日半。あとどれくらい残っているのか?
いまここで断言できることは、まだ“二回目の『他死戻り』は発動していない”という客観的事実だけ。
もし、二周目がリセットし、三周目が既に始まっているのなら、ミハルは今頃、洒落たテラスで優雅にホットココアを啜っていることだろう。
ミハルが覚醒するまでに何時間費やしたかによるが、ゆっくりできるほどの猶予はないはずだ。
既にリミットまで24時間を切っていて、あと数時間、もしくは数分しか残されていない可能性だってある。
脳裏に疲労が溜まっていくのを感じた。
カースとは音信不通のままだし、エミリの安否も不明。さらに言えば、この出口不明の洞窟から早急に抜け出せる保証もない。
現実は重くのしかかっている。
が、しかし、単純に見極めれば、ミハルが今やるべきことは明確だった。
首筋に触れ、肌の裏にある物の感触を確認する。
埋め込まれた首輪が機能しているのならエミリやKは自分の安否を確認できるはずだ。
ここで待機して誰かの助けを待つか、それとも単独で脱出を試みるか、ミハルはすぐに決断した。
「まずはここから脱出することが最優先。でなきゃ何も始まらない」
覚悟と意思は充分。あとは自分を信じて行動するだけ。
言葉という脳内麻薬を自身にかけると、ミハルは立ち上がり、目的の場所へ向かった。
「やっぱり。光ってる」
少し前、遠くから見えた光源の正体は、壁面の割れ目から溢れでている光だった。
洞口はヒト一人が通り抜けられる広さで、身体の柔らかいミハルは難なく通過し、
「わぉ」
穴の向こう側へ潜った矢先、視界は眩い青で覆い尽くされ、肌身に感じる温度が上がった。
息をのみ、一歩また一歩と足を踏み入れていく。
そこは丸天井と大きな湖がほとんどを締めている空間だった。
ミハルは湖脇に近づき、下を覗き込んだ。
波紋ひとつ浮かばない水面に映るくたびれた少年が、自分を見つめ返している。
それからミハルは首を捻り、周りをじっくり調べた。
いまや手持ちのライト無しでも、辺りの光景を認識することができた。
湖の底から丸天井の天頂にかけて突き出た巨大な結晶柱が発光して、空間内を照らしているからだ。
結晶体から放たれる青白色の光は穏やかだが、どこか冷たい。
ミハルはひとまず、湖に沿って奥の方まで探索することにした。
湖があるのならそれに繋がる分岐路があっていいはずだと、浅はかな推測に擬態した期待がミハルを唆したせいかもしれない。
奥に進むにつれ、後方の明かりは薄まり、再び闇が侵食し始める。
一歩踏み出すごとにライトを掲げる左手が強張っていく。
研ぎ澄まされた感覚がありもしない気配を感じとり、何度も後ろを振り返った。
そして、ある考えがふわりと浮かんだ。
もし、この灯りが消えてしまえば、一貫の終わりだろう。闇の中を彷徨った挙句、発狂して、得体の知れない怪物の餌になるんだ。
でも洞窟に生息できる生き物なんているのだろうか? 虫とか? 目を持たない深海魚みたいな?
うん。きっとそうに違いない。ここは異界の洞窟なんだし、自分をひと口で丸呑みできるサンドワームとかいてもおかしくない。
いや、もしかしたら、もうすでにここは怪物の腹の中で、消化されている途中なんじゃないだろうか。
溶けて死ぬのは苦しいから嫌だな。
どうせ死ぬのなら一瞬で終わりにしたい……
焦燥と恐怖に駆られ、虚構と現実の狭間に存在する空想がミハルの脳内で暴走し始めていた頃、
奇妙な異変に感づいたのはいつだったか分からない。
ただ、その感触が足裏から伝わっているのは確かだった。
でこぼこでもなく、ぬかるんでいるわけでもない。とてつもなく平坦でつるつるしているのだ。
ミハルは足元を照らして、目を細めた。
真っ平らな面にライトの明かりがうっすら映っている。
ライトを真横にシフトすると、側面もまた同じような構造であることが分かった。
「洞窟ってこんなだっけ?」
調べれば調べるほど奇妙な空間だった。
大股3歩の距離にあるのは鍾乳石ではなく、細長いポール状の構造物だし、天井にはつらら石の代わりに真四角の突起部や円形の窪みが等間隔に並んでいる。
一歩進んでは振り返り、二歩進んでは立ち止まる。そして、両目のピントはある一箇所に定まった。
壁面に見えたそれは最初、目の錯覚だろうと思った。汚れの模様が偶然、意味のある絵として見えてしまったのだろうと。
しかし、ライトを目一杯近づけて、注視すると、自然の紋様ではない、明らかに人の手が加えられた壁画であることが分かった。
それから5秒ほど凝視してミハルは震えた。
「……え」
全体の3分の1ほど輪郭を失い、色褪せていても、ミハルはその絵が何か知っている。
七つの突起を生やした王冠を被り、純金の炎を灯した松明を右手に掲げる姿を見ればその正体は明らかだ。
ニューヨーク湾に浮かぶ巨大な銅像──自由の女神
「……うゎ……え……えっ……ええ!?」」
ミハルはしばらく動くことができなかった。呼吸すら忘れる程に動揺していた。
いったい誰が異世界の地方都市のさらに地下深くの洞窟に、こんな物が存在していると予想できただろう?
ミハルはもう一度丁寧にその絵を見直してみる。
確かに、この古びた壁画は“自由の女神”を象ったイラストだ。見間違うはずがない。
では、これが正真正銘の物的証拠だとして、考察できることはミハルの想像力の及ぶ限り、いくつも挙げられる。
例えそれらが荒唐無稽な憶測や創作であったとしてもだ。
けれど、そんな回り道をする必要はなかった。答えならすぐ近くに用意されていた。
女神の右肩──斜め上あたりに、
“QUIET CAR!!”
とノーマルな吹き出しが一言。英字ではっきりと記してあった。
そして、初めてミハルはこの女神像のイラストが壁画ではなく、乗客に注意を促すマークの一つであることを知った。
壁際に沿って歩いていくと、ピクトグラムの表記や、アメコミヒーローの映画広告、ゲームの宣伝広告などが順にライトで照らし出され、ミハルは開いた口が塞がらなかった。
「本物だ」
どれもこれも塗装が剥げたり、劣化しているが、懐かしい雰囲気を纏っている。
全身タイツのヒーローに向かって、サメの怪人が炎を吐いているポスターに、可愛らしい天使が煙草を吸っているチラシ。
この世界では出会うはずがないユーモアセンスである。
さらに言えば、ついさっき見かけたポール上の構造物や頭上の窪みの正体は、手すりであり、照明や空調機だった。
「……はは」
どうやら、ここは廃棄された列車の車内らしい。
後ろへ明かりを向けると、洞窟と車両接合部の境界線が見え、気づかずに通りすぎていたことが分かった。
「……もう……わけ分かんねえ」
アーカムの地下深くに予想外の遺物が埋まっている事態にミハルは頭を抱えた。
どんな経緯があって、いつからここに存在することになったのか全く検討がつかない。
この世界の誰かが趣味や悪戯で作ったとは考えにくいし、かと言って、列車が自ら向こうの世界からこっちの世界にやってくることなど天地がひっくり返っても不可能なことだ。
ミハルは車両の割れた窓ガラスに映る自分の姿を見た。ライトの光が半身を青で隠し、残り半身が光と闇の中間に浮かんでいる。
それから、その後ろに大きな黒い影が見えた。
影は輪郭を形成していき、長細い体躯と胴から伸びる八本の手足が鮮明に現れ──
ガラスの粉砕音と共にミハルは後方に引っ張られた。
車両側面を突き破り、後頭部と背骨に衝撃が走る。
「がはッ!?」
受け身を取って体勢を立て直す前に、右足をナニカに掴まれた。
猛獣の牙や昆虫の尖った顎ではない、五本の枝分かれした指がミハルのくるぶしを強く握っている。
「……っツ?!」
慌てて掴まれた手から逃れようと、もがき抵抗するが、ナニカは一方的な力技でミハルの体を軽々と引きずって行く。
悪態をつき、暴れる最中、ライトが足元を照らした。
黒ずんだ黄土色の肌が見え、複数に分岐した肘と腕が見え、その先はよく見えなかったが、話の通じる相手ではないことは分かった。
ついには左足と左腕まで同じく拘束され、地面すれすれを浮きながらミハルは暗闇の中を突き進む。
もう、ナニカの正体を冷静に考察できる余裕のある状況じゃなかった。
一刻も早くこの拘束から逃れる策を講じなければならない。
関節が忙しなく稼働する音と、静かな金切り声が交互に聞こえてくる。
時おり水たまりの上を通過して、飛び散った泥がミハルの顔に降りかかる。
動きが止まったのはそれから数分後のことだ。闇が薄まり、うっすらした光が目に入った。
首を捩って周囲を見渡し、ミハルは息を呑んだ。
そこはおびただしい数の十字架が突き出ている広大な墓地だった。
苔と泥が入り混じっている地面から青臭い匂いが漂い、ひんやりした冷気が辺り一面を覆っている。
薄暗い空間に浮かび上がる白い十字架の丘が遠くの方まで続いている。
歌が聞こえた。
艶やかで柔らかい声音のコーラスがミハルの両耳を優しく包みこむ。
いつからいたのか、暗褐色の装束を身に纏った集団が規律正しく並んで合唱していた。
死者の霊を慰める鎮魂歌か、それとも神や聖人をたたえる賛美歌か。
誰に向けての歌なのかは、まもなく分かった。歌が終わり、かさかさした声が響いた。
「Hello, everyone‼︎」
ミハルは上を見上げた。
宙に浮遊する十字架。その交差部に括り付けられたガラス容器から声が聞こえた。
「時は来た! われは奈落の底の救世主なり」
宙に浮かぶ生首がそう言った。




