第二章18話 『不可視領域』
それからしばらくして──こちらのタイミングなどお構いなく、配慮の一欠片もなく、突如、ミハルの主人を名乗る悪魔──カースが話し始めた。
〈やはり下層に近づくにつれ、力場の歪みが酷い。今日のワシの勘は冴えとるぞ〉
〈うん。ほんと冴えてるよ今日のカースは〉
と、感心するミハルだが、表に出ている顔は酷いものだった。
額と首筋にはじんわりと汗が滲み、目の下には深いクマが浮かんでいる。
一呼吸置いてから、脳内に語りかける感覚でぼやいた。
〈けど、こんなに疲れるってのもどうなんだ? そろそろ意識とびそう〉
〈とか言いつつ、けっきょく、ウヌは続けるのじゃろう?〉
〈あ、バレてる?〉
〈当たり前じゃ。ワシはウヌのことなら誰よりも理解しておるからなぁ。なにせ、ウヌとワシは一心同体、何処ぞの赤毛なんて相手にならんわい。ハッ〉
最後の一言は何に闘争意識を燃やしているんだか、という思いに駆られたが、また話が拗れそうなのでミハルは出かかった言葉を飲み込んだ。
思念で会話を行なっているせいで、口に出して話す時と混合しそうで難しいのだ。
疲弊しきった両目を少しでも回復させるべく、適当に肩のツボをぐりぐりと押した。
まだこの状態を維持しなければならない。
しかし、やると決めたからにはやってやるとミハルは自らを励ました。
さて、この数時間ミハルが何をしていたのか。
簡潔に述べると、ズバリ『他死戻り──“発動者”』の探索である。
発動者の死が時間遡行発動の引き金となっている以上、ループ打破の道は“発動者”の運命を変えることに他ならない。
発動者が近い未来で死ぬ──というシナリオを改編し、真なる世界線へ導く。
それがミハルの役目であるのだから、“発動者”の情報をいち早く取得し、待ち構える障害を未然に防ぐことは必然と言えた。
そして、『“発動者”──探索』の術はカースにより開示される。
曰く、〈“発動者”の実在座標〉と〈『他死戻り』発動直前のタイミング〉──発動者の情報を何も持っていないミハルからすれば、この二つの情報の恩恵はかなり大きい。
これなら上手く立ち回ることができる、と期待を胸に続きを急ぐミハルに対し、カースはさりげなくこう言い放った。
「まぁ、根気とセンスが少し……いるがのう」、と。
まず、『“発動者”──探索』を行うには“不可視領域”に干渉することが絶対条件であるからだった。
もちろん、ミハルが“不可視領域”なるものについて知っているはずがないので、
今朝、例の空間での邂逅の際、この“不可視領域”なるものについてカースは手短に説明してくれた。
12分36秒にわたる彼女のスピークによると──
不可視領域とは、カースと同調することで、視認できる次元のこと。
本来であればヒトが視覚できる次元ではなく、見えざる事象となっている。
さらに、不可視領域と可視領域(現実世界)との間には次元層という空間が存在するようで、そこはヒトが踏み込めない特殊な場が形成されているとカースは述べた。
──◀︎◀︎
「生身の人間では耐えられんところじゃ。ウヌのような特異な場合を除いてな。あとは、そうじゃのう。宿木を持つ者のみが干渉できる」
「じゃあ、Kも」
「あぁ……例の金髪の小僧なら可能じゃろうな。外界から力場に介入できるほどの力量じゃ。なかなかの手練であるとみた」
「へぇーKってやっぱし凄いんだ」
「ワシに比べたら赤子同然じゃがな」
「そうなの?」
「あのなぁ従僕、そもそもこの術を開発したのはこのワシなんじゃぞ。オリジンに勝てるわけがなかろう」
「驚くとこなんだろうけど、カースならありえそうって思えるから……なんか不思議」
「ガッハッハ──ッ!! ようやくウヌもワシの類い稀なる才に気づきおったか!」
余裕の笑みを浮かべながら豊かな胸を張るカース。傲慢な悪魔の性格を顕著に表した仕草だった。
「とにかく」
カースは一言前置きして、滑らかにこう締めくくった。
「不可視領域に侵入した時点で其奴はヒトを超越した存在じゃ」
▶︎▶︎──
ちなみに、次元層は何層にも重なり、深層に潜れば潜るほど、領域を構成する情報量は増え、複雑化していくのだとか。
また、第一次元層と第二次元層の間を第一象限、第二次元層と第三次元層の間を第二象限──というふうに次元層と象限のサンドウィッチ構造であることも忘れてはいけない。
ミハルが現在、干渉できるのは第三象限まで。つまり、視認可能な次元層は第三象限を挟む第三次元層と第四次元層の二層である。
(※第二象限はヒトが通常干渉している現実世界のこと)
──◀︎◀︎
「不可視領域は第四次元層から、第三次元層までは可視領域──ウヌが普段目にしている現実世界のことを指す」
「四次元層からは違う世界が見えるんだって?」
「高次元の世界じゃ。ヒトが踏み込めぬ人外未知の領域。ウヌは今からそこに干渉することになる。この意味が分かるか」
「奇想天外ってことだけはな」
▶︎▶︎──
さらに不可視領域では、すべての理の実体が明らかになり、事象の仕組みを観測でき、時には干渉することも可能になるとカースは言った。
具体的に何を? どのようにして? どうすれば? そんな大それたことが出来る?
カースからこの事実を知らされた時、次から次へと疑問符が溢れ出たことはよく覚えている。
──◀︎◀︎
「百聞は一見に如かずじゃろう」
カースの返答はそれだけで、一息置く間もなく、すぐさま実践に移ることに。
ミハルが心象世界から帰還して最初に見た光景は、黒と白の世界だった。
「……うぉ?!」
両目の視界はさながら魚眼レンズのように湾曲し、縁には靄がかかっている。
「これは……いったい! どうなってんだ?! 目が……ッ!!」
〈ウヌの視神経とワシの力場を宿木を介して同調させた。ワシらが干渉しているのは第三象限。ウヌの視界に入っているのは第四次元層じゃ〉
カースは簡潔にかつ分かりやすく状況を説明してくれた。が、しかし、ミハルの脳は情報処理が追い付いていない。
目の前に広がっているのは、言葉では形容しがたい複雑怪奇な光景だったからだ。
ミハルは実体として存在している。今朝、バルコニーから一目散に駆け込んだ例の部屋にいることは確かだ。
けれども、ミハルが認識しているのは──四隅に吊るされたランプ、二つのセミダブルのベッド。テーブルと四つの椅子に簡易的な台所。そして、扉の横に置かれた観葉植物──脳裏に鮮明に焼き付いた光景ではなかった。
壁が六つに床が一つ。ミハルの両目は明らかにありえない事象を観測していた。
六面体である部屋の中に面は六つしかないはずなのに、余分な面が一つ付け加えられているのだ。
部屋の内側に折り返された部屋が存在し、その内と外が繋がった複雑構造。
普段は三方向のベクトルで構成された三次元空間の中で情報を取得しているミハルにとって、今の状況は理解不能だった。
耐えきれず、一切の光を入れまいと目蓋を深く閉じた。
「ぁが……ッ、はぁ……ッ」
瞳から取り入れた異常な光景に脳が誤作動を起こし、目眩と頭痛がミハルを襲う。
これ以上ここにいたくない、戻してくれ。とミハルが叫ぶ直前でカースの声が聞こえた。
〈まぁしかし、ウヌはそれを二次元のレベルで見ておるから余計に混乱するのも仕方あるまい〉
パチンと乾いた音がして、ミハルが目をゆっくり開けると、そこは数十秒前にいた心象世界だった。
カースは相変わらず肉付きの良い足を優雅に組んで座っている。
荒い息を吐いて、ミハルは額の汗を拭いながら言った。
「いや、無理だろ」
「ウヌならいける!! 死んでもドンマイじゃ!」
「んなわけあるかーッ!!」
ミハルはつかさず返答した。そしてまた、ミハルがこれから成さなければならないことの難しさを十分に理解もした。
薄々は感づいていたが、不可視領域への干渉とは、次元の移動なのだ。
人が認識出来る次元のその上のレベルの話だとしたら、なるほど確かに──ヒトの域を超えている。
これは思っていた以上に難解で危険を伴う行為なのかもしれない、ミハルはそう思った。
「でもなぁ……従僕よ。発動者を見つける術は他にないぞ」
割と真面目に、穏やかなトーンで、気の毒そうにカースは言った。
「分かってる……気力で乗り切るしかねぇってな」
ひたいの汗を手の甲で拭って、苦笑する。
「精神論でどうにかなるとはとうてい思えないけど。その辺どうなんだ? 類稀なる才ってヤツで助けてくれよ」
カースは口をへの字に曲げ、むっつりした口調で言った。
「いちいち気に触ることを言うのお。生意気な下僕め。じゃが、ワシに頼るのは正しい判断じゃ」
「あるんだな。秘策」
「ちと荒療治じゃが」
カースはそう言ってウインクして見せた。
▶︎▶︎──
そもそもミハルが不可視領域に干渉できているのはカースと感覚を同調しているからであって、ミハル自身の力ではない。
不可視領域という見えざる次元もついさっき知ったばかりなのだ。
できることと言えば、ただ、視界に入った景色を認識できることくらいで、それさえも上手くいっていない現状である。
しかし、直近の課題として立ち塞がる“発動者の探索”を攻略するためには、今すぐにでも不可視領域に適応しなければならない。
そこでカースが提案した秘策が──『次元並行干渉』であった。
視認が難しい第四次元層の障壁を緩和させるために、その下のレベルに位置する第三次元層を同時に視認するという。
これだけ聞いてもさっぱり訳が分からない、と困惑するミハルにカースは最初の干渉と同じく、すぐさま実践に移らせた。
言葉で説明するより己の体で体感した方が早いというカースの感覚重視の教え方はミハルに合っていた。
──◀︎◀︎
「お、ぉお!? スゲェ、今度はちゃんとはっきり見える!」
ミハルは感嘆の声を上げた。カースが少し手を加えて見せた光景は、前回のようなひどいものではなかった。
「今まで現実世界に浸っていたウヌにとってはこれがベストじゃろう」
ヒトの目は機能上二つ存在する。それは物を立体的に捉えるためである。
両目の位置が異なることにより生じるズレを脳で修正することによって立体感や距離感を感じているのだ。
カースの秘策とはこの両目の器用な仕組みを利用したものだった。
「しっかし、よくまあこんなこと思いつくのな」
「フフッ、両目で困難なら片方にとどめ、もう片方で補正すればいいだけのこと。ワシ天才じゃ。称えろ従僕。ていうか褒めろ」
片方の眼で左右のずれを捉え、もう片方で奥行のずれを捉え直すように、ミハルの右目は第三次元層を観測し、一方、左目は第四次元層を観測している。
それぞれの異なる次元の景色がミハルの両眼を通して合成され、それを新たな次元としてミハルは認識しているわけだ。
「つってもさ。コレ、三次元層と四次元層の中間を並行して視認するっていう荒業だろ。さしずめ⒊5次元層ってとこ? そもそも定義がズレてるからよく分からんけど」
「両方の要素を持つ意味では分かりやすい名称かのお」
カースは得意そうに頷くと、こめかみを華奢な指でさするジェスチャーを加えながらミハルに訊いた。
「して、どうじゃ? ノイズの方は?」
「うん……そうだな。まぁまぁ楽になったよ。効果アリとみた」
とは言ったものの、不安要素はあった。
それはいつ何時この均衡が崩れさるか分からないということ。
あくまでこの状態はカースが荒業を無理矢理行使したことによって成り立っているものであり、ミハルの身体がこの先の負荷に耐えられるという保証はどこにもないのだ。
「まぁまぁ……か。身体が適応するにはまだ時間がかかるようじゃのう」
「適応……て。どんどんヒトから離れていってない?!」
「はて、ウヌは元からヒトならざる者じゃろう?」
あからさまに惚けた様子でカースは首を傾げた。
「当たり前のように言うなよ! じんわり気付くわ。尸霊人な! 死繋人になりかけた半端者ッ!! まだ“人”とか“者”って付いてる内はヒトだから!」
「ハァ……どうでもよいわいそんなこと」
可愛らしく唇をすぼめながらカースは吐き捨て、「いいか従僕」と声の調子を少し低めて言った。
「ウヌにはこの状態を完璧に維持できるようになってもらう。一刻も早く体を慣らせ」
「……薄々気づいていたけど、修行パート始まった感じ?」
「ウヌが修得しなければならぬ課題は山ほどあるんじゃ。とりあえず今は不可視領域の視認精度と測定範囲を広げることに専念しろ。できるか?」
「やらなきゃ何も進まないんだ。やってみせるさ」
「良い心意気じゃ」
片目を瞑りながら微笑むカースだった。
▶︎▶︎──
12分36秒における回想を手短に締めくくり、再び現実に意識を浮かび上がらせたミハルは、肩を並べて歩く少女へ視線を向けた。
「なに? 気になるものでもあった?」
エミリの凛々しい声がミハルに届く。
「いや、単純にいいなーって思ってさ」
「あははっ、なにそれ? アバウトすぎだよ」
「伝わんない? この感じ。落ち着くひと時っていうか、和む雰囲気っていうか……The ・平和! みたいな」
通りの隆起した箇所を器用に避け、水溜まりを飛び越えたミハルは言った。
続いてエミリも軽く跳躍して、
「うーん、それはつまり……私といると楽しいってこと?」
華麗に着地した。
「もちろん。楽しいに決まってんじゃん」
「……ミハルってたまに恥ずかしいセリフを恥ずかしげもなく言うよね」
そう言われて初めてミハルは「あ、うぁ」と舌がもつれた声を発した。頬と喉にほんのりと熱を感じる。
熟す少年の顔を一通り楽しんだエミリは、柔らかな笑みを浮かべ、
「でも、気に入っているよ。そういうトコ」
そっと言葉を添えた。小さいけれども透き通った声音だったように思う。
少年の右肘は無意識のうちに口元を隠し、彼の首は相手からの視線を避ける方向に傾いた。
ほんの数秒が数分に感じられ、沈黙を打ち破るべくミハルの舌は言葉を紡ぐ。
「……あーうん…なんか照れるや」
「お返しです」
ツンと澄ました顔で先を行くエミリの背中を、ミハルは口を半開きにしたまましばらく眺めていた。
〈やるではないか従僕〉
〈……何もやってねーよ〉
〈ワシにもドギマギしてもかまわんぞ。この二つの柔らかな脂肪でぱふぱふしてやるわ。ほれほれ!〉
〈いや、もういいよ。窒息するし、そもそもなりかけたし。うん、危ないってことでこの話は終わりな。じゃ、もう一度状況を整理しようぜ〉
〈お、おう……そうか〉
よほどミハルの素っ気なさすぎる態度に面食らったのか、引き攣った調子で素直に従うカース。
もっともミハル当人こそ、初めて悪魔のからかいを躊躇なくスルーできたことに驚いているのだが、思考は早くも次のトピックに移り変わっていた。
〈カースが言った直近の課題をクリアするための能力向上の話、あるだろ?〉
〈うむ〉
〈実際にその能力を使えたとしたらどうなる? 先行きが見えないとやっぱり不安なんだ〉
ミハルは正直に今の気持ちを吐露した。
まだ慣れていないだけで、いずれはミハルひとりでも自由に扱えるようになるとカースは言うが、そんな未来像なんてはっきり見えない現状である。
ミハルは視界に広がる不可思議な映像を見て、今の自分の気分と重ね合わせた。
水中に黒インクをぶちまけたような、不安定で神秘的な世界。
それが『次元並行干渉』の能力を通して認識している現実なのだ。
〈先刻、ウヌに伝えた“発動者”が発するシグナル。覚えているか?〉
〈ソナーみたいな仕組みのやつだっけか〉
〈うむ。全ての基本はそこからじゃ。いずれウヌがその境地に触れた時、自ずと分かる仕組みになっておる〉
〈ふーん。そういうもんなの?〉
〈そういうものじゃ〉
『次元並行干渉』の能力は不可視領域の干渉のみならず、ミハルとまだ見ぬ発動者との距離を飛躍的に縮めたと言っても過言ではない。
ミハルが把握しているシステムはこうだ。
*発動者にはループが確立された時点で、心臓に不可視の針が刺され、規則的に信号を発する。
*針は先端に青い炎を灯し、死期が近づくにつれ赤い炎に変色していく。
ミハルは不可視領域に干渉したことで、針のシグナルを受信でき、探知可能に。
*固有力場を生成することで、探索範囲を拡大できる。力場は術者を中心に放射状に広がっていく。
このシステムにおいて、ミハルが真っ先に言及したのは、“力場”と呼ばれる固有名詞についてだ。
力場とは魂の領域であり、誰もが持っているものだとカースは言った。
魂の領域は自己を保管し、肉体と結びつけるための役割を担う──ゆえに自我を象徴する不可視の鎧なのだと。
なんとも抽象的な言葉巧みに纏められた解説だとこの時、ミハルは思った。
その先を促すと、カースはさらにこう付け加えた。
*ミハル単体の力場は5メートルにも満たないので、カースの力場を借りる形で探索範囲を広げている。
*そのためミハルの脳には普段処理されるはずのないおびただしい量の情報が入ってくる。
先ほどから体に不調をきたしているのはこれのせいだ。
*また、使用者にかけられる負担は比例して増える。ただし、この域に達するには相当な技術とセンスを要求される。
つまり、今のミハルには視認までが限界であると言えた。
まとめると──発動者から発せられる信号をキャッチして位置を特定しています──であり、それ以上でも以下でもない。
ちなみに、“ソナーみたい”という印象をミハル持ったのはこの仕組みの奇抜さだった。
鯨や蝙蝠が反響を受信して情報を取得するのと同様に、ミハルも見えざる相手の居場所を特定する。
一度目のシグナルをキャッチしたのは数時間前。微小な信号ではあったが、大まかな位置は掴めていた。
〈で、よりにもよって真下か……さいさき悪いな〉
〈仕方なかろう。ウヌの不満も分からなくはないが〉
アーカムは下層に向かうほど広がっていく地下都市。言うまでもなく捜索範囲は拡大され、発動者を見つけることは困難になる。
〈でもまぁ、アーカムにいるって分かっただけでも良かったよ。これが得体の知れない遠方の地だったらそこで詰みだし〉
〈それはウヌ、少し勘違いしとるぞ。ワシがちゃんと話したじゃろう?〉
〈分かってるよ。仮だよ仮、仮の話だとしたらゾッとするなって……〉
「はは」と枯れた苦笑を溢した。
〈安心せい。繰り返し言うが、理から外れた事象は起きないと決まっておる。ウヌのそれは杞憂と言うやつじゃ〉
〈そうだよな。引きずって悪ぃ〉
ミハルが『他死戻り』のルールやシステムを知る途中で引っ掛かったこと。それは──もし、ミハルと発動者との距離が遠すぎた場合、ループからの脱出は不可能なのではないかという点にある。
つまり、ループ発動のリミットまでにミハルが駆けつけることができない場所(例えば遠方の辺境の地)で発動者の死が確定した軌跡の場合、ミハルは永遠に発動者の運命を変えることができずに閉じ込められてしまうのではないか?
そんな絶望的な状況がふとよぎったのだ。
しかし、この可能性はカースの断言でもみ消された。
──◀︎◀︎
「──ないな。ウヌが言う“もし”はあり得ない事象じゃ」
「断言できる理由は?」
「ウヌにかけられた時の呪い『他死戻り』が“理”の下で成り立っている以上、ループ発動条件を阻害する軌跡は確立できない。つまり、必ずループ打破の解は存在するというわけじゃ」
「じゃあ、矛盾したことは起きないってこと」
「全ての基準である“理”が間違うことなど起こり得ないからのう」
▶︎▶︎──
そんなカースの感慨めいた顔を思い出しながらミハルは思う。
この世界の全てが矛盾せずに動いていくのだとしたら、『他死戻り』を乗り越え未来を改編させていった先にあるものとは一体何なのか?
未来を改編することは“理”から外れた行為であるのに、なぜミハルは許されているのか?
『他死戻り』は何を基準にして発動するのか?
ミハルの中で様々な思惑が渦巻いたが、それら全ては一つの信条で薙ぎ払われた。
“無知こそ力なり”
「結局そこに辿り着くんだよなぁ」
「……何が?」
エミリの声が隣から聞こえた。
それから数秒後、無意識に声に出してしまったことに気づいた。
「その〜だから辿り着いたってこと。ここ、えっと」
「第三階層ね。ついさっき昇降機で降りたばかりでしょ」
エミリが呆れたように言った。
「この階層は特に道が複雑だから迷子にならないでね。不安だったら手、繋いでもいいよ」
「さすがにそこまで鈍臭くないぜ」
「そうかなぁ。今日のミハルだとすっごく心配」
「あ……確かに説得力皆無」
二人はさらに蔦の迷宮の中を進んでいく。いつの間にかミハルを取り囲む景色は様変わりしていた。
蔦と巨大樹の枝葉の隙間からパイプ管の褐色を帯びた表面がそこかしこに散見され、靴底には乾いた岩肌の感触が伝わってくる。
前を歩く男の肩に掛けられたツルハシを見て、ミハルはようやくここが、アーカム住人の仕事場が密集する階層であることを思い出した。
それから数歩進まないうちにカースの声が聞こえた。
〈ウヌそろそろ頃合いじゃ。準備はいいか?〉
〈オーケー。やってくれ〉
〈次は探索範囲を倍に広げる分、さらに負担がかかるぞ。二段階に分けて行うこともできるが──〉
〈このままいこう。力の扱い方にも慣れてきた感じがするんだ〉
〈それは結構〉
ミハルは大きく息を吸い込み、肺に新鮮な酸素を取り込んだ。緊張した肌が辺りの冷気を敏感に感じ取った。
〈始めるぞ〉
直後、ミハルの視界に大きな変化が起こった。両目が闇に包まれ、あらゆる感覚が消え去り、全てが無になった。
何も聞こえないし、何の感触もない。虚無で満ちた空間に肉体を持たない自我だけがぽつりと取り残されたようだった。
〈 力 場 “開” 〉
声が静寂を破り、不気味な浮遊感がミハルを包んだ時、再び世界が現れた。
視界いっぱいに濃青色に染まった現実が広がり、規則性のある揺れを伴いながら、膨張と収縮を繰り返している。
ミハルの身体の内側から力の波動がいくつも飛び出し、全方位へと広がっていく。
やがて反射して戻ってきた最初の波がミハルの内へ再び入り込んだ瞬間、少年の視覚は騒音に乗っ取られた。
何重にも合成された人々の話し声や笑い声、木の根を伝う水音とまだ見ぬ生き物の鳴き声、深淵の底へ吹き込む風の音──それら全てが一つになってミハルに押し寄せたのだ。
力場に囲まれた現実を構成する要素の集合体が、潮の満ち引きを真似るようにしてミハルに情報を与え続ける。
感覚は研ぎ澄まされ、脳の処理速度は加速をやめない。現実とミハルの意識が調和し、あらゆる事象が明らかになった。
次元を一つ超越した両目には世界が透き通って映り、上下左右どこを見ても線画で描写された構造物と人影が散乱していた。
どこに誰がいて、何をしているのか全て分かったし、周りを取り囲む植物の自然現象からパイプ管の水道システムの構造まで手のひらに取るように把握できた。
しかし、それはあまり気分の良いものではなく、焼けるような頭痛が襲い、吐きたい衝動に駆られた。
〈よう耐えた従僕。見つけたぞ〉
カースの声に先導され、ミハルは辿り着いた視線の遠方に微細に蠢く光を認識した。弱々しいがこの無機質な世界では特異な雰囲気を纏っている光、ミハルがこの時間の輪廻から脱出するために必要な道標である。
“発動者”の存在が今こうして可視化されたことで、積もり積もった不安が払拭され、ミハルは興奮と嬉しさのあまり思わず飛び上がりそうになった。
〈やったなカース!〉
〈そうはしゃぐな。問題はここからじゃ〉
ミハルとは真反対な感情をのせたカースの声が淡々と響いた。
濃青色の世界は徐々に薄まり、見慣れた現実が戻ってくる。十も数えないうちにカラフルに彩られた景色がミハルの瞳に映っていた。
ゆっくりと瞼の開閉を繰り返し、溜め込んでいた息を吐く。
『力場』を展開していた時間は1分にも満たない。しかし、ミハルにとっては一晩分の夢を見た後の気分だった。
〈方角は絞り込めたから、あとはそこにたどり着くまでの道のりだな。具体的な距離も測定できたんだっけ?〉
〈ここから南西に200m、その真下100mの地点じゃ〉
〈となると……第四階層か〉
ミハルは下層に通じる大きな穴の奥を覗き込んだ。底は薄暗く、曲がりくねった巨樹の根がどこまでも続いている。
吹き上げる冷風に目をしかめながら、
〈急ごうカース。イヤな予感がする〉
「あーいたいたっ!!」
声が辺りに響いたのはその時だった。
「見つけたっ!」
振り向いた先にいたのは小柄な少女。
エミリと同じくらいの背丈で、薄い灰色の髪をツインテールにして結っている女の子だ。
「スッゴイ干渉があったからさ、気になって探したの。そしたらビックリ! こんなに近くにいたなんて! ついてない? ついてるよね?!」
「あーえ?」
エミリがそっとミハルの耳元で囁く。
(ねぇ、知り合い?)
(まさか……初対面だろ?)
一瞬、ミハルの欠けた記憶に存在する人物ではないか? という考えがよぎった。
しかし、彼女の最初のセリフに引っかかりを覚え、やはり、今この場で初めて会う相手だという結論を出した。
「でね。用があるのはあなた達のうちのどちらかのはずなんだけど、干渉が閉じられた今じゃ分からない。だから考えたの。そして、思いついたんだ。こうすればいいんだって」
少女がにっこりと頬笑んだ直後、ミハルは「わっ」とその場で仰反った。
「ちょっとっ?!」
横からエミリがミハルの背中を支え、
「大丈夫?!」
(今の何? 魚?)
ミハルは早口で捲し立てた。少年の頬から赤みがさっと引いたことをエミリは見逃さなかった。
「魚? どういうこと?」
「いるじゃん。目の前に! ウツボみたいな細長いやつ! なんで浮いてんだ?」
「え、うん、ええと」
エミリは困惑した顔で辺りを見回し、そして言った。
「何も見えないけど」
ミハルは愕然とした。それは確かに存在するのだ。
ゼラチン質の白い表皮に覆われ、先端(おそらく頭部)に檸檬の種ほどの小さな穴を空けた浮遊生物が。
「嘘だ。そんなはずないって」
幻覚であるはずがない。
少女の首元からするりと出てきて、蛇のように身を捻り、宙を華麗に泳ぐ様をミハルは両目で確実に追ったのだ。
なぜミハルにだけ見えて、エミリには見えないのだろう? それにこの奇怪な生き物の正体は? 何かトリックがあるはずだ。あの子が何かしたに違いない。
いよいよ不穏な空気が漂い始めた時だった。
再び灰色の髪の少女が言った。
「ふん、ふん。なるほど、あんたが見える側ね」
(ミハル、行くよ)
いち早く空気を読んだエミリがミハルに静かに耳打ちした。緋色の目は鋭く見開かれ、相手を警戒している。
腰回りのガジェットに片手を回し、もう片方の手でミハルの腕をしっかり握った。
少女はゆっくりとミハルの方へ近づいてくる。
「知ってた? 今日の星占い、牡牛座が一位だって。ラッキーカラーは青、生姜クッキーを三枚持っているといいことがあるらしいの。私は嫌いだけど」
爽やかに流れていた微風がピタリと止んだ。
「でも、生姜の砂糖漬けは好きだよ。やっぱりお菓子は甘いものに限るじゃない? ちなみに先輩はさっぱりしたレモンシャーベットが二番目のお気に入り。あんな格好でウケるよね」
嫌な汗が額を濡らす。
「よし。そろそろ始めよっか。でも、その前にあんたの名前きいておきたいな」
エミリがミハルを先導して歩き始めた。
〈ウヌっ! 走れっ!!〉
カースが激しく叫んだ。
「ふーん。なら仕方ないね」
少女の口端から赤い煙が垣間見えた。
離れていく二人の背中を見つめながら、彼女はこう告げる。
「処分しなくちゃ」




