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リピーテッドマン  作者: 早川シン
第二章「underground」
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第二章15話 『潰れた案山子』

ミハルがアーカム観光を楽しんでいる頃。

同刻──地下都市アーカム/某所にて


 


 ──最悪だ。



 生ぬるい湿気の中、息を荒立てる男は目の前の光景に愕然としていた。

 男の名はヒック──ヒック・ドルトットという名だった。幼い頃、聖王国の騎士団に入り、名誉ある職に就こうと尽力していたのも懐かしい話。

 心半ばにして折れたしがない男は、40を過ぎた今、辺境の地方都市で傭兵として食っている様だ。


 傭兵団の名は“白樺の盾”。18人で構成された二流の肩書きを持つ輩の集まりだ。

 当然、仕事内容も二流に見合ったものばかりでヒックも他の誰もが初めは肩透かしをくらっていた。


 アーカムという天然の迷宮都市で日々、細かな面倒ごとや喧嘩沙汰の仲裁に入る──そんなことの繰り返し。

 仕事は楽だし金も独り身としては十分貰える額を支給され、都市の住み心地も快適だった。

 案外こういう人生も悪くないなと思っていたのだ。ついこの間までは……


 しかし、今。

 ヒックは酷く後悔していた。なぜあの時、騎士団に入ることを簡単に諦めてしまったのかと。

 もしあのまま地道に努力を続けていれば、このような状況を覆せるだけの力を手にできていたはずだと、ヒックは何度も己の心の弱さを呪った。


 死体。

 また一つ、命の灯火を失った仲間の体が崩れ堕ちる。死臭がむわりと漂い、吐きたい衝動がヒックを襲う。

 広がる血溜まりに足を囚われないよう、重心を安定させながら両手に持つ剣の柄を握りしめた。

 そして目の前に広がる惨状──その中央で圧倒的な覇気を放つ存在に敵意をぶつける。


「殺・殺・殺・殺・殺ッ!! いーねぇいーねぇこの感じィ! 殺し合いの奪い合い!!」


 相手はたった一人。たった一人であるというのに、ヒックら18人の傭兵を前にして一歩も引いていない。

 それどころか、こちら側がじわじわと削られている状況。場は絶望的だった。


「マナト──ッ!!」

「わかッて──ラァ──っ!!」


 ヒックの前衛と中段を務めていた二人が同時に斬りかかる。息の合った合わせ技による同時攻撃。敵の胴と首元に切れ味の良い刃が差し迫る。

 二流といえども、傭兵を職にしているからには相手の息の根を止める術は身につけている。ただでさえ命の奪い合いだ。ヘマはしない。

 最適な時機で最良の斬撃が繰り出された。かに思えたが、


「あぁ……ダメダメ」


 敵は片足で軽く地を蹴り、宙を舞う。自由の効かない僅かな駆動範囲でいとも簡単に身を二回転し、二枚の刃の軌道から身体をズラす。


「な──ッ?!」


 必中の斬撃が躱されたことに驚愕する間も与えず、敵の反撃が返ってくる。

 回転力をつけた四肢が勢いに乗って踏み込んできた二人に浴びせられる。

 片や鳩尾、片や首に、鋭利な刃物がそれぞれ突き刺さり、掻っ切った。また二人、血をぶち撒けながら倒れ込む。


「よワァーい」


 ケラケラと、枯れた笑い声をあげながら敵はそう呟いた。両手と両腕に装着された鋭利な刃物から止めどなく生臭い血が滴り落ちていく。


 ──快楽殺人鬼“血染めの案山子(カカシ)”……噂以上じゃねぇか


 ヒックは唾を呑み込みながら眼前の敵の忌み名を心中で吐き捨てた。

 半年前、聖王国北東の街で女と子供のみを狙った大量殺人という悪魔の所業を成し、瞬く間にその残虐さを知らしめた殺人鬼。

 年齢、性別、出自──その他諸々すべてが謎に包まれた存在だ。

 明確に分かっているのは、頭に麻袋を被り案山子を真似た装いをしていること。

 そしてなにより、猟奇的な殺人が安易にできるという邪悪さとそれを可能にする術を身につけていることだ。


 手配書が回ってきた時はその辺のチンピラに毛が生えた程度だと下に見ていたが、実際は違う。格上すぎる相手だった。

 その辺の傭兵に任せていい犯罪者ではない。精鋭揃いの騎士団一個小隊でも勝てるかどうか予想できないほどの力量。

 “白樺の盾”──副団長を務めるヒックは声を荒げて叫ぶ。団長はついさっき殉職した。


「手負いの奴は後方にッ! これ以上前線を下げんなッ! 俺が突っ込む!! ピルとゴークは俺に続け!!」


「「(おう)ッ!!」」


 アーカムにて“血染めの案山子(カカシ)”らしき人物を目撃したとの情報が入ってきたのが二日前。

 どうせ誰かが言った根も葉もない噂が肥大化しただけのことだと思い、高を括って調査依頼を受けたのが運の尽きだった。


 第四階層の奥の奥、入り組んだパイプ群を根城にしていた殺人鬼と期せずして遭遇。

 慣れない場所で奇襲を受け、数分の戦闘の間にヒックら“白樺の盾”は半数まで数を減らされている。


「有象無象がしゃしゃり出んなよ。僕に勝てると思ってるわけ?」


「ハッ! 僕っ子ちゃんかよ。舐めた口ききやがる!!」


 撫でる程度の煽りで返すと、ヒックは死戦に飛び込んだ。と同時に打開策を模索する。

 既に半数が殺られたこの状況では地上に助けを呼ぶ必要がある。しかし、その地上に繋がるパイプ管の前にいるのは“血染めの案山子(カカシ)”。どうにかして隙を付かなければ正面突破は不可能だ。


 既に使われなくなった公共用の用水パイプの中は、所々が腐り錆れ、二等級操法を使うだけでも全壊してしまうような脆さがある。故にルフ操術による広範囲攻撃は悪手と判断。

 もっとも、ルフ操術に長けた仲間は既に殺られているのだが。


「──っラァアアアアアッッ!!」


 怒号を張り上げ、相手の懐に踏み込む。案山子の武器は四肢に取り付けられた刃だ。

 脱力した身体全体を武器に変え縦横無尽に宙を駆け回る様は、さながら人間大の両刃虫と相対しているかのように錯覚させる。

 刃と刃が激しく嚙み合い、乾いた音がパイプ管に反響する。


「ふーん、やんじゃん」


 案山子の繰り出す斬撃をいなし切るヒックの剣捌きに、感心する声が上がる。

 舌打ちしながら、ヒックは一歩後退した。なにが感心する声……だ。ここまで張り合えているのは奇跡だとしか言いようがないというのに。


「お前ら──ッ!!」


 ヒックの掛け声と同時に彼の両脇から槍が突き出た。


「──っとぉ?!」


 狭い空間では扱いづらい槍だが、ここぞという時に使えば距離を取れる。向こうの武器は刃ゆえに攻撃範囲はせいぜいヒックの剣二本分だ。

 殺しの間合いに利点がある槍の長さを利用して追い詰めていけば勝機は見える。

 その為にはヒックが自ら囮となって案山子を食い止め、機会を作らなければならない。


 ──距離を維持しつつ出口を目指せば……っ


 極度の緊張と集中により、精神的にも肉体的にも疲れが溜まっていく。

 たたでさえ攻撃と防御の均衡が難しい立ち回りだ。すぐに限界が訪れるのは目に見えていた。


「脇もーらいッ」

「グゥアッッ?!?」


 僅かに反応が遅れたヒックの隙を突いて、案山子のしなった右腕がヒックの脇腹を掠め取った。

 熱を感じた直後に襲い来る激痛にヒックは顔を歪ませながら膝を突く。しかし、ヒックは笑っていた。

 ただ闇雲に無謀な立ち回りをしていたわけではない。

 戦場は老朽化して足元が抜けやすい用水パイプ内、至る所に崩れやすい箇所がある。


「を? わ!?」


 ヒックの読み通り、案山子が踏み込んだ一点がへこみ動きが止まった。

 ほんの僅かな時間、瞬きする間にも満たない時間。されど逆転の好機だ。


「ダラァアアアアアアアア──ッ!!」


 援護をしていた槍使いの二人が覇気をまとい穂先を突き出す。寸分の狂いもない時機に精密な反撃を繰り出せる仲間との信頼があってこその一撃。

 ざまあみやがれ、とヒックは苦笑する。やればできるじゃないかと。

 そうして──息の揃った二柄の突きが、勢いに乗って重心が前に傾いた案山子の胴に差し迫り貫く──はずだった。


 あと半歩、案山子が前に出ていれば。


「惜し〜ィ♪」


 ヒックらの決死の闘争を遥か高みから嘲笑うかのような口調だった。

 その後に起こったことを理解するのにヒックはしばらく時間がかかった。


 案山子の細身の身体が丸ごと溶けたかのように見えた直後、突き出された二柄の槍は穂先から順に細かく切断され、気付けば槍使いの二人の顔面に穂先がそれぞれ突き刺さっていたのだ。

 予想の範疇を超えた攻撃、予想出来ない時点で両者の実力の間には天と地ほどの差がある。


「────────」


 認識し難い現象にヒックはしばらく息をするのも忘れるほどに硬直していた。

 仲間の二人が地に突っ伏すと同時に、宙で分解された槍の残骸がパラパラと散らばる音がこだまする。


 ──ずっとお遊びだったのかよ……はは


 “血染めの案山子(カカシ)”を付けられた存在は先刻の様子とは違い、まるで別の生き物のように見えた。

 パイプ管に広がる影と同化し、黒ずんだ泥の塊となって返り血を浴び続ける怪物。

 目の前に佇んでいるのは人でもなんでもない、純粋な悪意の塊だ。


「さあ! どうやって死にたい?」


 絶叫。悲鳴。懇願。嗚咽。

 傷を負い、逃げ場を失い、闘志を砕かれた仲間の声がそこら中に響き渡る。声を荒げ助けを求めたってこんな深層には誰も来ない。現実は残酷だ。

 走馬灯を見る間もなく自分はもうすぐ死ぬのだろうとヒックは悟った。

 そして、覚悟を決めると剣を杖代わりに立ち上がり、眼前の敵を睨みつけた。最後くらいカッコよく死んでやる。


「ほら、さっさと来い──」


「あの……ココってどこか分かる? 地上に出たいんだが、どうも道に迷ったみたいなんだ」


 ヒックもその仲間も、そして常軌を逸した殺人鬼でさえも、全ての動きが止まった。


 ヒックの最期の台詞を途中で遮ったのは、紛れもなく別の誰かの声。幻聴ではない、ちゃんとした肉声である。

 ただ、この状況にしては口調も内容も場違いなものであることはハッキリしていた。

 謎の声はヒックの眼前に佇む案山子を通り超して──その奥から──聞こえてくる。


「アンタに聞いてんだけど」


 案山子の肩をぽんぽんと誰かが軽く叩いた。あの残虐非道な殺人鬼の、肩を、気軽に、である。

 そんなイカれた状況にヒックもその仲間も凍りついた。

 何処のどいつだそんな馬鹿げたことをする奴は……と。

 破れたパイプ管の隙間から差し込む光に、ようやく謎の声の主の正体が露わになる。


 この場に突如として出現したのは黄色い装束を身に纏った一人の男だった。

 背が高く、中々に腕っぷしのありそうな体軀をした青年で、浅く被っているフードからはこの国では珍しい銀髪が垣間見えた。


「迷路みたくさっきからこの辺ぐるぐる回ってよ。マジで頭に来たぜ。でもなんか騒がしい音がするから気になって来てみりゃアンタに出会えてさ。いやー助かった」


 色々苦労を重ねたらしく安堵しているが、コイツは周りの景色が見えていないのだろうか? 誰もがそう思った。

 辺りには血肉が飛び散り死臭が漂っている惨状。余程の天然か馬鹿ではない限り、異変に気付かないわけがない。

 いや、天然でも馬鹿でもわかるはずだ。


 絶妙な空気を作りつつも、男は依然として自然な態度で言った。


「出口どこ?」


「あ? お前だれ?」


 この場で誰よりも先に反応したのは案山子だった。

 流石の殺人鬼も意味不明な男の登場に面食らっていたが、野生の本能ゆえか素に戻るのも早かった。

 相手からの返答も待たずして、男の首と胴目掛けて両腕の刃を浴びせる。

 斬撃が通った傷口から血を垂れ流し、男は屍と化す。

 案山子からしてみれば、一人の異常者を始末しただけに過ぎないのだ。

 というのが、案山子の筋書き──現実は違った。


「んえ?」


 案山子の口から初めて間抜けな声が上がる。手抜かりなく殺しの術を施したはずの相手は倒れていない。


 案山子を見下ろす男は一歩も引かず、突っ立っている。ただし、彼の右手にはついさっきまでは持っていなかった物体が二つ握られていた。

 ふと、案山子は己の上半身が軽いことに気づく。まさか、そんなはずはない。あってはならないし、あり得ない。

 嫌な予感に首を傾げながら、案山子は目線を下げて身体を確認した。


 両腕が綺麗さっぱり消えていた。


「あ、ぁああっ? あああぁあ?? ウワァアアアアアアアア──っッ!?!?」


 精神的な未熟さが捨てきれていない少年の絶叫がけたたましく反響する。

 これまでに感じたことがない痛みと熱。卓越した身のこなしが故に、ろくに大きな傷を負わなかった経験が仇となった。

 両腕の切断部から血をドクドク撒き散らしながら案山子はのたうち回り、血の水溜りが広がっていく。

 甲高い喚き声は徐々に明確な言葉にすり替わり、


「殺すッ殺すッ殺すッ殺すッ殺すッ殺すッ殺すッ殺すッ殺すッ殺すッ殺すッ殺すッ殺すッ殺すッ殺すッ!!!」


 莫大な憎悪を撒き散らし、文字通り“血染めの案山子(カカシ)”は不気味に立ち上がった。

 身体の至るところからどす黒い泥が滲み出し、再びヒトでは無い異形の存在へ変容した。


「死ね」


 ただ一言。単純な敵意を呟き、案山子は目の前の男に襲い掛かった。

 決着は呆気なく着いた。

 男が直接触れる間も無く案山子の両脚は宙で内側から潰れ、崩れ落ちる。再び案山子は奇声をあげながら暴れまわった。


 もう決着なら着いているはず、しかし──


 男は躊躇なく案山子の頭がい目掛けて拳を振り下ろした。

 何度も何度も何度も何度も──男の拳は案山子の頭蓋を砕き、中の内臓物を潰し、全てをグチャグチャに壊した。

 その惨すぎる所業を目にしたヒックは胃の中のものを全て吐き出した。

 ここは狂人の巣窟なのだろうか? もう何がなんだが分からない。


 ようやく拳を振り上げることをやめた男はゆっくりと立ち上がった。

 “血染めの案山子(カカシ)”は元の原型を留めておらず、血みどろの肉塊へと変貌していた。


「さて」と大きく伸びをしながら男は言う。


「なぁ、オッサン? アンタは地上へ出る行き方知ってるか?」


「お……れ?」


「そ、アンタ。分かる?」


 素っ気ない口調で尋ねてくる男の態度にヒックはしどろもどろになるが、


「そ、そこの出口を出て……真っ直ぐ行った先の……突き当たり……を左に曲がれば──」


 生存本能に従い、ありのままを答えた。


「そっち? なんだ……じゃあオレが合っていたんじゃねーか。クソっ、ショウの奴なにが方向音痴だ。馬鹿にしやがって」


 その後も男は悪態を二言三言ついて、ヒックに手を振りながらこう告げた。


「とにかく助かったぜオッサン。ありがとう」


 男は苛立たしげに銀の短髪をガシガシ掻くと「寝みぃ」とあくび混じりの声をあげながら、後方の出口の方へと向かった。疲れた口調で彼は言う。


「ショウ、逆だ逆。いま来た道戻んぞ」


 すると出口の方からまた一人、声が聞こえてきた。


「え、マジぃ?! もーさいあく〜あし疲れた〜。おぶってよ」


 姿を現したのはこれまた奇妙な人物だった。10代前半の初々しい少女が一人、甘えた声を出しながら男の元へ駆け寄った。

 あまり目にはよろしくない露出の多い服の上に透明なマントを被っている。

 トトールの抜け殻を使ったアーカムの民族衣装に似ているが、それとはまた違う精巧さがある不思議な装束だった。

 可愛らしく頰を膨らましながら、少女は駄々をこねる。


「ね? おねが〜い。ちょっとだけ、ね?」


「お前のミスが原因でこうなってんだが」


「……ぁあ〜ははっ……そうでしたかな?」


「しらばっくれてんじゃねーよ。……はァ、分かった。おぶってやるから大人しくしてろ」


「うぁーい!! ヤッタぁああー!!」


 そんな惚気た会話を繰り広げながら、場違いな二人は出口の奥に消えた。

 少女の明るい声はしだいに小さくなり……やがて何も聞こえなくなると、ヒックは大きく息を吐いた。

 つい先刻(さっき)まで生死の境をさまよっていた男は、生のありがたみを噛み締めるわけでもなく、みっともない自分を苦笑するわけでもなく──ただひと言。こう言った。


「雑貨店でも……開くか」




 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ 




「ぶぇっくっっし──ッ!?」


 盛大なくしゃみをしたミハルは鼻水をすする。普段から気温が低いアーカムの気候には、もう少し慣れが必要みたいだった。


「はい、ティッシュ」

「ああ……ども。ぅうー寒っ」


 エミリが差し出してくれた携帯ティッシュを受け取ったミハルはちーんと鼻をかむ。目尻に溜まった涙をこすり、ゾンビみたいな低い声を発した。


「やっと第一階層か。もう二時間くらい歩いた気がする」


「一時間よ。体力だいじょうぶ?」


 前を歩くエミリは振り返りながらそう言った。

 第二階層を一通り周ったのち、各階層を繋げる巨大な歯車を通って第一階層に上がってきたミハルとエミリは、中央のメインエリアへと向かっている最中だ。

 早朝から朝に移り変わり、人の往来も増えてきた。エミリと逸れないよう、距離を縮めながら彼女の後を追いかける。


「第一階層って言えば確か都市の富裕層が住んでいるとこだよな」


「うん、高級な建物が多いのもそのため。通りも整備されているでしょ」


「階層が違うだけでここまで変わるってなんか不思議。別の国に来たっつーか」


 庶民的な雰囲気が広がる第二階層とは異なり、第一階層は神聖な空間が広がっている。

 瓦屋根が特徴的な日本家屋風の建物が大通りの一角を区切るようにして立ち並んでいる様はまさに圧巻で、ただ感嘆の声を漏らす以外には何も言えなかった。


「まぁ、絶賛異世界珍道中なわけなんだけども……とはいえ、アーカムっていろいろ異質だよ」


「他の都市に比べたらね。セルペ公国とかも興味深いかな。うーんでも東部方面もなかなか──」


 少しトーンが上がった口調で、ミハルが聞きなれない単語を言い出すエミリの顔は、いつも以上に生き生きしている。


「エミリのその知識って独学? それとも……趣味?」


「公安に属する人間にとっては必須知識。アカデミーの情報学で学ぶの」


 とエミリは得意そうに言った。


「アカデミー? 学校か! へぇーそんなのあるんだ」


「まぁね。色々詰め込められたわ」


「ひょっとしたらこの世界の住人より詳しくなってんじゃね?」


「そうかも。当たり前ちゃ当たり前の話なんだけど。ほら、私達ってそもそも異間帯捜査局っていう大きな組織の一部でしょ? 捜査して情報を集めるのが仕事なわけだからさ」


「確かに、そりゃそうか」


 相槌を打ったミハルは分かりやすく頷くと、遠くの景色を見た。神樹の天辺は枝葉の海に呑まれて見えない。昨晩の記憶が鮮明に残っているせいか、カースが描いた星の樹形図を思い出した。

 だが思い返すには少々気分が下がる内容なので、すぐさま思考回路を切り替えた。澄んだ空気を吸って吐いてから──


「俺に至っては何も知らないしなぁ。あ! じゃあさ、これを機に教えてよ。地理とか社会情勢とか」


 ミハルの提案にエミリはすぐ反応した。


「そうね。この数日は特に何もすることがないんだし……情報制限がかけられている部分はダメだけど……それでもいい?」


「おー全然、この世界で生きていくには必要な知識だけで十分っしょ」


「了解。スケジュールに組み込んどく」


 肩を並べて歩く二人は、ようやくとある場所で足を止めた。第一階層のメインエリアから北東に進んだ人気の絶えた場所だった。


「ここは?」


 ミハルはなぜか小声で訊いた。


「言ったでしょ。見せたいものがあるって……」


「それは覚えてるけど……ここ何もないぞ。綺麗な湖だけど」


 ミハルは目を細め、眼前に広がっている景色を注意深く観察しようとした。

 それはさほど時間はかからず、三周も丁寧に注視したが、特に変わった所はなかった。


「そろそろかな」


 エミリがそう言ったと同時、大きな影が二人の前を通り過ぎた。

 それは水面から垂直に飛び出し、細かな飛沫を纏いながら宙を舞った。突如現れたのは巨大な生き物だ。


「────!?!?」


 緑がかった透明の鱗は朝の陽光をキラキラと反射し、細かな水滴が滴り落ちていく。クジラの鳴き声に近い音がミハルの鼓膜を揺さぶった。

 風圧に押され、バランスを崩したミハルは腰を抜かして叫んでいた。


「な──っ!? なんだぁ?!」


「アーカムにしか生息しない希少な異界生物──トトール。この世界では神の使いとして敬われているんだって」


 エミリは無邪気な表情を浮かべながらスラスラと解説した。胴の長い体が辺りを駆け回り、飛沫の雨が二人を濡らす。


「……ははっ」


 太古の海を制していた首長竜に近い見た目だった。

 体より長い首が滑らかに捻れ、鰭状の六つの肢が曲線を描きながら静かに空をかいている。


「宙に浮いてる」


 羽も翼もないのに、目の前の首長竜は水面から五メートルほど上空を飛んでいた。

 水中を泳いでいるのではない。空中を泳いでいるのだ。


「よーく目を凝らしてみて」


 エミリが指をさしながら言った。


「口に含んだ水を吐き出して浮遊した水のトンネルを作っているでしょ」


「おーホントだ! 薄い膜みたいなのが見えるっ!」


「トトールの気管って特殊でね。そこから出てくる分泌液と混ぜることで水を自由に操作できるらしいの」


 湖の上で2周ほど螺旋運動の軌跡を描いた後、再びミハルとエミリがいる所まで戻ってきた。

 攻撃的な性格ではないらしく、喉をゴロゴロしながらこちらの方を興味深そうに見つめている。

 頭部は海藻に似た鱗で覆われているせいで少し不気味だが、二つの瞳はルビーのように美しい。


 ベロリと。

 骨張った下顎から細長い舌がエミリとミハルの顔をまとめて舐めた。


「あははっくすぐったいなぁ〜」

「うぎゃぁああああああ!?!?」


 エミリは笑い、ミハルは叫び声をあげる。あのカースによる例のシュリシュリタイムのトラウマがぶり返したのだ。


「じゃあまた会いにくるね」


 エミリが首長竜の鼻を優しく撫でると、嬉しそうな鳴き声が呼応し、やがてトトールは再び宙へ舞い上がった。


「楽しかった? アーカム観光」


「超最高だった。礼を言うよ、エミリ。ありがとな」


「どういたしまして」


 朝陽に包み込まれながら、美しい神秘を秘めた竜はどこまでも高く登っていく。

 神樹カームのどこかにある住処を目指して。


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