第二章13話 『平穏な目覚め』
翌日。
早朝のテラスにて、寝癖のついた髪を直しながらミハルは大きな欠伸をこぼしていた。
「ホットココアにする? それともコーヒー?」
「おすすめは?」
「ココアかな。あったまるよ」
「じゃあ、それで」
目尻に溜まった涙を拭うミハルと対面して座っているのはエミリだ。朝はいつもそうなのか、ポニーテールの髪留めを外したショートヘアは新鮮だった。
起きてすぐにシャワーを浴びた赤髪は少し湿っていて、いつにもまして優艶に見えるし、淡い水色の半袖+短パンのルームウェアの組み合わせの相乗効果は絶大だ。反則技である。
ともかく、ズレたオフショルダーネックから肩口とかが見えると、目を逸らしてしまうミハルは、エミリが自分よりも年上であることを認めざるをえなかった。
ようやく重い瞼がスムーズに稼働するようになった頃、再びエミリが話しかけてきた。
「わりかし早いお目覚めだったけど、昨晩はぐっすり寝れた?」
「……ベッドの上で溶けてたよ」
「ふーん。にしては夜遅くまで大きな物音がしたからさ」
昨日ぶりの給仕ロボがいそいそとミハルとエミリが居座る丸テーブルにマグカップを二つ、丁寧に置いていく。
甘い香りがミハルの鼻腔の奥まで漂い、唾液腺から唾が分泌される。
首を傾げながらエミリは湯気の立つココアに息を吹きかけた。
「へ、へぇー……なんでしょう……ね。寝相が悪かったのかな」
と言いつつミハルはココアをゴプリと喉に流しこむ。甘味100%のチョコレート・ドリンクが食道を満たし、ミハルは思わず噎せ返った。
昨晩のあの出来事なら忘れるはずが無い。ミハルの右腕──自動書記、その被造物に憑依している死霊との邂逅。
切れ長の睫毛と愉快な微笑が似合うカースとのひと時は最高にクレイジーだったようにミハルは思う。
故にミハルにとって最も新鮮な記憶であるというのに、いま思い返してみれば夢物語だった。
「寝相が悪いってことは、睡眠の質が低いってことでしょ。枕があっていないんじゃない?」
「かもしんないけど……ほら、昨日はあまりに現実が受け入れにくかったから色々整理しきれなくて……たぶんそのせいだ」
「そ、ならいい──いや良くはないよね……ゴメン。あ、でも何か不自由なことがあったらなんでも言ってよね。それが私の仕事だからさ」
凛々しい瞳で意気込むエミリはそう言ってマグカップに口をつけた。
がすぐさまカップの淵から唇を離すと、「熱ッ」と舌をペロリと出した。猫舌は健在らしい。
昨晩、Kが言った通りミハルはここアーカムの隠れ家にて数日滞在することになっている。
軟禁という条件だが、今の接待はそれ以上に緩く、正直肩透かしを食らった感が大きい。
もっとこうお堅い感じのを覚悟していたのだが。
現在、ミハルは昨日の飲み会を開いた所と同じ共有スペース──その屋外に取り付けられたテラスで優雅に涼んでいる最中だ。
しかも何故か物凄くプライベート感満載のエミリと共に。
「他のみんなはもう朝食は済ませた感じ?」
「先輩たちのこと? 朝食も何も昨日の深夜に出かけているわ。今この隠れ家にいるのは私とミハルだけ」
「ほーん、どうりで静かなわけだ。確か別件の用事がなんとかかんとか──」
先を続けようとするミハルに対し、エミリは大げさなジェスチャーで両掌を制すると、
「ハーイ、ストップストップ。これ以上踏み込むのは禁止ね。下手に知らない方がいいわ。あなたにとっても私たちにとっても」
そう言われると余計に知りたくなってしまうのが人間の性というやつだが、時に知らないことが己の身を守ることになると教わったばかり。
「そうだな。エミリの言う通りだ」
“無知は力なり”──今後ミハルの座右の銘になるかもしれない。
気分転換がてらにテラスの下に広がる景色を見渡す。朝の陽光を浴びるアーカムの都市も夜景とは違う美しさがあった。
広大な穴の中に根を生やす巨大樹の根と用水パイプが絡まりあう景観は面白みがあり見ていて飽きない。
時折、歯車が噛み合う鈍い音が轟き、徐々に都市が目を覚ましたように感じる。
「で、今日の予定について発表します」
ココアの二口目を飲み終えたエミリが言った。
「昨日の約束通り、アーカムを案内するわ。散歩がてらに購入したいものもあるしね」
「え? そんな簡単に? あんまり自由はないと覚悟してたんだけど。イヤ、嬉しいよ。嬉しいけどさ」
「ふふっ先輩は見た目通り柔和だもの。それにたぶんミハルと話してみて納得したんじゃないかな」
エミリはそっと息を吐いた。顔は凛々しいままだが、瞳の奥には暖かい光が垣間見える。
心当たりのないミハルはキョトンとしたまま、
「何を?」
「ミハルなら大丈夫だって……現状はあまり良くない状態だけどね。死人化ってその人の心の状態に大きく作用されるんだ。特に大きな負の感情が起因となってね」
濡れた唇を舌で拭い取ると、目の前のミハルを真っ直ぐに見つめた。彼女のマグカップからはまだ仄かに湯気がたっている。
「知り合って間もない私が言うのもなんだけど、ミハルって前向きな性格なんだなって。記憶喪失の上に重たい事実を突きつけられても常にポジティブっていうか。私がミハルの立場ならたぶん今頃は部屋に閉じこもっているんじゃないかな。だからミハルはすごいよ……ホント」
「イヤイヤイヤ、ただ安直な馬鹿やってるだけだぜ。どしたの急に……なんかあった?」
弱々しいエミリの口調にミハルは困惑の意を隠せない。ミハルからすればエミリは自分よりずっと勇敢で頼れる存在なのに、どこに自分を悲観する理由があるのだろう。
視線を落としたエミリはココアの表面で揺らぐ波紋を見つめながら、
「ううん、ゴメン。色々思うことがあって……情けないや」と、無理矢理微笑んだ。
「ま、まあ、アレだ。人間誰しも悩む生き物だし、気にせず行こうぜ!」
「切り替え早いなぁ」
「なんなら今の俺は朝食のことしか頭にねぇよ」
ゴクゴクと。
残りのココアを一気に喉に流し込んでカップを勢いよくテーブルに置いた。続けてそのままサムズアップ。
胃にスイッチが入ったことで、ようやくいつもの本調子が出てくる。
半ば呆れたようにエミリは苦笑すると、
「それはただの食いしん坊じゃない?」
「大事ですよ朝ご飯! 生活リズムを整えられるし、睡眠中に下がった体温を上げる効果もあるし、脳を活性化させることで身体に活動のスイッチを入れる重要な儀式と言っても過言ではないね! うん……うん? アレ、なんでこんな健康マン的なこと言ってんだろ? まさかこれって記憶を取り戻しつつある前兆なのかっ!?」
とか馬鹿言っている少年を前にして、エミリは大人な笑みをこぼしながら、
「……そうだよね。私も頑張らなきゃ! よしっ、じゃあさっそく朝ご飯にしよっか。ミハルはパン派? ご飯派?」
「今日の気分はパンかな」
「オッケー、私はお米にしよっと」
とまあアーカムでの二日目の始まりはこんな感じだった。
怒涛のスタートを切った異世界生活にしては珍しく穏やかで、ミハルにとって心地よいひと時であったことをここに記しておく。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「えと……この服ホントに似合ってる?」
「うん、いい感じ」
朝食後、自室にてミハルは衣替えをしていた。病人が着る寝衣から動きやすい服装へと、ようやくモードチェンジする機会にありつけたのだ。
この世界に飛ばされて最初の初期装備は見るも無残な状態で、青いパーカーも白のシューズも原型を留めていない。
よって、ミハルはエミリが用意してくれた新たな衣服に袖を通している。
「やっぱりミハルには寒色系が似合うね」
「そうかなぁ」
「うんうん、私の見立ては正しかった」
えっへんと満足げな顔で頷くエミリ。
いよいよ可愛い息子にぴったりの服が見つかったと喜ぶ母親に見えてきた。なんだかめちゃくちゃ恥ずかしい。
片腕がないカカシのようなぎこちない佇まいで、自分の体を見下ろしながらミハルは、
「不思議な服だよな。厚着している割には風通しがいいし、軽いからすごく動きやすい。どんな素材使ってんだ? 値段が高そうで怖いや」
運動性や機動性に重視した実用的なコスチューム。
俗に言うタクティカルファッションとでも言えばいいのだろうか。
ビッグポケットが目立つカーゴジョガーパンツにパフォーマンス系スニーカー、伸縮性のあるアンダーウェアの上にはシックなデザインのタクティカルジャケットを羽織っている。
色はグレーと水色で統一されていてシンプルだ。
この服装の何が面白いかと言えば、脚部のあちこちにチェストハーネスやポーチが収納されていることで、このまま険しい山岳地帯に放り込まれても生きていけそうなデザインである。
神妙な面持ちでジャケットを触るミハルに対し、エミリは腕を組みながら、
「公安の情報技術課が趣味で開発したものらしいけど、途中で頓挫されちゃったみたい。で、その試作品がちょうどココの倉庫にあったわけ。だから古着と思って遠慮せずに使っていいよ」
「ふーん、そゆことなら。ちなみにエミリがいま着ている服も……」
「もちろん制服。個人の希望に合わせて色々カスタムできるの」
とか言うエミリの服装は黒のショートパンツに黒のニーハイ、そして水色のシャツと黒のベストが組み合わさったベストスーツスタイルだ。
三日前の時は確かパンツスーツだったが、これはこれでカッコイイ。
特に胸元のネクタイが全身をビシッと引き締めていて、オトナな雰囲気が出ている。
「こっちの方が動きやすくてさ」
軽くアキレス腱を伸ばしてみせると、
「あとは……どうしよっか……ソレ」
真面目な調子でエミリが指をさす。
その先にあるものと言えば……
「右腕、な。どうしたもんかなこの被造物……くっついたり取れたり忙しいやつだよまったく」
昨晩この右腕がミハルの頭に張り付いて、しでかしたことはよく覚えている。
まさか腕単体が勝手に動けるなど予想だにしなかったので度肝を抜かれたが、カースのあの性格なら納得できる今のミハルだ。
今朝、目を覚ませば右腕はピクリとも動かず、枯れた植物のようにヘナっている。
試しに話しかけてみても応えてくれず、だんまり状態だった。
放置しておいてもまた勝手に動き出すかもしれないし、かといって取れた腕を持ち歩くのも面倒。取り扱いに困る存在として昇格すべきだろう。
「ちょっと触ってもいい?」
「あ、ああ……もちろん」
興味深げに右腕をじっくり観察するエミリを横にミハルは静かに息を吐く。
カースはこの右腕を宿木として認識しているみたいだが、一方でKたちは自動書記と呼んでいる。何故このような齟齬が生まれているのか甚だ疑問だ。
カースの方が古くから憑依していたのか、それとも自動書記という名称が先に付けられていたのか。
「温かくない? その人肌の……血が通っている感触っていうか」
「そう? すごく冷たいけど」
エミリは首を傾げながら答えた。
「アレぇマジでッ?! 霊感ぽいもの受信しちゃってる!!」
「別に驚くことでもないわ。ミハルが右腕と同調したことで擬似感覚を取得させられているんだと思う」
「ほぉー擬似感覚……ね。うんうん、あの……大丈夫?」
「RLP値に大きな変化はないから安心して。覚えているでしょ? 抑制チョーカーのシステム」
ミハルの身体の状態を24時間毎秒ごとに記録している観測装置。なだらかなウェーブを描くホログラムを思い出しながら、ミハルは頷いた。
「首に埋め込まれているやつな」
「そ、よっぽどのことがない限りミハルが暴走することはないわ。私がちゃんと見てますから」
「そっか……なら安心できるや。じゃあ……任します」
「任されました」
しばし悩んだ末、ミハルの身からなるべく離れない方が良いという結論に落ち着き、胸元に掛かっているポケットポーチに収納することになった。
ちょうど腕一本分が入るスペースのおかげで、スムーズに稼働するジッパーを引き上げながら、
「このタイミングで着替えるってことはもう外にでんの?」
「散歩するなら朝がベスト。アーカムは昼から夕方にかけて最も混むからね。それにミハルには見せたいものがあるんだ」
「見せたいもの? とは?」
「フっフっフっ、それは見てからのお楽しみなのです」
嬉しそうな笑みを浮かべるエミリだった。
馴染みのあるぐにゃぐにゃした廊下に出ると、勾配のある箇所を数カ所乗り越え、大きな螺旋階段がそびえる開けた空間に到着した。
自然の地形をそのまま利用しているせいか、緩やかな傾斜がかかっている。
「ハイこれ。ミハルの分ね。大きさは多分大丈夫なはず」
「これは?」
エミリから差し出されたものは一枚の透明な布。
合成繊維の生地に耐水性の樹脂をコーティングした──ポンチョコートやレインコートに近い造りに見える。
「補色迷彩シート。その時々の環境に併せて服装を追走カモフラージュしてくれるの」
ショートヘアをポニーテールに結い直しながらそう言った。
「かぶるだけで?」
「留め具があるでしょ。うん、そうソレ。肩に回して……あとは首元で留めるだけ」
エミリの言われるがままに補色迷彩シートを取り付けてみると、どこかのファッションブランドでありそうな奇抜な見た目になった。
ミハルが着慣れていないこともあり、微妙に合っていない……と思う。
しかし、それでも最先端テクノロジーで作られた衣服を着るという行為には気持ちが高ぶるものがあった。
少し遅れてエミリもシートを衣服に取り付け、螺旋階段を降りてアーチ型の扉の前に辿り着く。
自動で横にスライドするのかと期待したが、シンプルにドアノブを捻るタイプだった。
エミリが扉を開けると、陽の光が爽やかに入ってきた。
「それじゃあ改めて、アーカムにようこそ!」
エミリに先導されミハルも扉をくぐる。
扉の向こう側には三日前に洗礼を受けた世界とは違う異質さが広がっていた。




