第二章12話 『契約』
『他死戻り』三原則──
一、『他死戻り』発動条件である各ループ上の『発動者』その“運命の死”を断ち切らない限り、ループは永遠に繰り返される。
二、『他死戻り』が発動している間、能力者は自己を保全しなければならない。
三、『他死戻り』の能力並びにその事実を他者に伝えてはならない。
以上の三つが『他死戻り』を扱う上で知っておかなければならないルールだとカースは言った。
Kの言葉を少し借りれば簡潔に公式化された掟とも言える。
「三原則の一つ目に関しては分かった気がする。『他死戻り』の異常さってやつは十分な。正直、怖いよ。こんなイかれた能力を使いこなせる自信がない。俺にとっちゃ呪いみたいなもんだ」
「ふうむ。ウヌはそう思うのか」
「なんつーか『他死戻り』って裏を返せば強制時間遡行能力だろ。“繰り返す”というよりは“繰り返される”……そんな感じじゃん」
“repeat”ではなく“repeated”──ミハルにとっては受け身の現象だ。故に“呪い”と表現する方がしっくりくる。
露骨に眉をひそめるミハルは「それに」と親指で耳たぶを弄りながら、
「三原則の残り二つに関してもネガティブにしか取れないしな。二つ目はともかく三つ目の内容なんて厄介すぎる縛りだろ」
“『他死戻り』の能力並びにその事実を他者に伝えてはならない”──このルールはミハルにとって大きな痛手だ。
確かに『他死戻り』に触れない限りは未来で起こる情報を伝えることはできるが、その知識はミハル以外にとっては信憑性に欠ける内容であり、回り回って疑念を招く恐れだってある。
3周目のループの中盤で『他死戻り』によって得た情報をエミリに伝えた際、困惑されたのがいい例だ。
「ズバリ言うけど三つ目の縛りがある理由って……なんだ?」
と唇を噛みながらミハルは訊いた。
「機密保持じゃ。ウヌが有する『他死戻り』の能力は世界の理を軽く凌駕するレベルじゃからな。そう簡単には他に漏らすことはできん」
「できん……ってフツーに困るんスけど。分かるよ、十分納得できるけどさぁ」
澄みきった瞳で素直に答えるカースの返しにミハルは不満を漏らす。
そんな渋る態度を見せる少年と相対するカースは大人な微笑を浮かべながら、さらにこう続けた。
「どんなモノでも使いようによっては意味が変わってくると言うじゃろう。『他死戻り』もまた然り、悪用されては世界の崩壊に繋がりかねん。ワシはウヌなら『他死戻り』を正しく使えると期待しておるんじゃ」
「…………」
「──褒めておるんじゃが」
「そりゃどーも」
咳払いが混じった吐息を漏らし、ミハルは本来の思念へ集中し直す。
とりあえず、王都での『他死戻り』計3周のループをひと通り振り返ったことで、今まで見えていなかった背景を知ることができた。
『他死戻り』の仕組みと三つのルール──分かったことはこの呪いとも言える能力が絶対的なナニカの下で発動しているということ。カースと共に過去の記憶を辿ったことでその事実だけはミハルの心に刻みこまれていた。
が、ここまでは下準備であり、ここからが本質の核に触れる大切な話である。
ミハルはやや落ち着かない感情を紛らわすように、指を曲げ伸ばしながら、こう問い掛ける。
「『他死戻り』の仕組みについては大体把握できた。そろそろ路線を元に戻す頃合いだろ。カースとの間に交わされた『契約と制約』──詳しく訊かせてもらうぜ」
「そうじゃな。準備運動は十分じゃし、先の問いに答えるとするか」
カースは自身の整いすぎた顔を俯け、薄く笑うと、
「まず、ワシとウヌの間に交わされた契約は『とある使命』を遂行するために成り立っておる」
“とある使命”とはこれまた濁すような言い方をするのだとミハルは思ったが、カースに先を促した。
「まあワシに課された使命でもあるのじゃが、これに関しては後に回そう。とにかく、ウヌはワシと共に使命を遂行しなければならない。それが条件じゃ。因みにワシとウヌの主従関係はその使命を全うしない限り、解約することはできんからな」
随分とミハルにとってメリットのない内容である。半ば強引に巻き込まれた気がしなくもない。
「もちろんウヌにも恩恵はある」
恩恵、とカースは一息を置き、
「一つは死霊であるワシの力を自由に行使できること、一つは世界の理から外れた力──即ち『他死戻り』の所有が許されること、そして使命を果たしたとき得られる祝福──永遠の命じゃ」
と厳かな内容の提示に、ミハルは冷静に突っ込む。
あっさりとした、淡白な口調で、
「いや、正直言ってどれ貰っても嬉しくねぇな。死霊の力なんてまっぴらゴメンだし、世界の理さえ崩しかねない能力とか怖すぎるし、永遠の命とかむしろ死ねない呪いだし……」
「ナッ、なにおう!? ……そ、それは本心で言っておるのか? 冗談でもなく? は、いや、ウヌは人間じゃろう? 不老不死とかに興味はないのか? 死なんのじゃぞ? 永遠の時を生き永らえることができるのじゃぞ?」
口を急速に動かしながら不安定なトーンで話すカースは、いくつも質問を投げかけてくる。
余程ミハルの溢した正直な感想が予想外だったらしい。
「そりゃ錬金術極めようとしていた中世のオッサン達とかは興味あったかもしれないけどさ。俺はそれほど魅力的な恩恵だとは思わないぜ。つーかコレ、カースのジェネレーションギャップってやつだろ? たぶん」
「な────ッ!? ワ、ワシが……時代遅れ……?!」
目を綺麗なほど丸くし金切り声を上げるカースの言動にミハルは地雷を踏んでしまったかと身構える。二歩すり足で下がったカースは額に手を添え、ワナワナ震えながら、
「ふ、ふふ、ふふふ……フハハハハハハハハハハハーっ!!」と声高らかに笑った。
腕を組み、頭を仰け反らし、豊かな胸部を突き出し、笑う笑う笑う。
気品ある態度から一変、感情が剥き出しになった清々しい笑みだった。真っ先にミハルが述べたことを否定せず無理矢理声を荒げたのは、カースのプライドが許さなかったのだろう。
作り笑いをしながらカースはミハルに指をさす。
少し挑発的な口調で、
「じゅ、従僕にしては言うではないか。このワシが時代の波に追いついていないと! ハッ、たわけたことを吐かすな、時代がワシに追いついていないだけじゃ!!」
カースの瞳は笑っていない。どうやら完全にミハル側の失言だったようだ。
なんだろう? この異性の歳を誤って当ててしまう気まずい感じ。
煩わしさと焦燥感がミハルを襲う。最悪だ。
「お、おう……そうだな。今のは俺の勝手な憶測だったわ。うん、いいと思うぜ不老不死!」
「フンっどうせ時代錯誤の無意味な恩恵程度にしか思っておらんのじゃろう」
「いやいやいや、十分すぎるご褒美だって。ディストピアなSF世界にはお約束の設定じゃん。ないない、ぜんぜん遅れてない。むしろカースの言う通り時代の先をいっているまであるよな!」
とか言いながらミハルは慌てて軌道修正を図る。若干、たじたじなトーンではあるが、
「そ、それよりさ。契約の恩恵は分かったから次行こうぜ、次……ほら、えーっと制約に関して……とか」
ただでさえ機嫌を損ねている金髪美女に、これ以上付け入る隙を与える訳にはいかない。ので、ミハルは脳裏から真っ先に剥がれ落ちた言葉を述べた。
一方、カースは完全に他人事といった調子で、
「ああ、ウヌが失っている記憶の開示制限か」と呟いた。
「そうそう、それそれ。俺が失っている記憶の──え? いま何て?」
作り笑いを浮かべたミハルの顔が固まる。
「あの、カースさん……聞き間違いじゃなきゃ、いま俺の記憶がどうとか仰いましたよね。えと、あの……それは……」
次第に語尾が弱まっていくミハルを前に、ようやく本調子を取り戻した金髪美女、もしくは紅蓮の角を片方だけ生やすミハルの主は、優雅に足を組み替えこう告げた。
「ウヌが失った記憶──そのものが契約におけるウヌの代償であり、その開示制限が制約の一つじゃ」
◯
ミハルが失っている記憶。
それはミハルのほとんど全てを詰め込んだ記録であり、ミハルという一個人を成り立たせるのに必要なデータだ。
それを今、ミハルは手放している。いいや、厳密には違う。手放したのではなく、奪われているのだ。
カースと交わした契約における代償として──
「……代償が俺の記憶って……なんで……そんなことを」
「理解し難いじゃろうな、いまのウヌにとっては」
意味深な表情で返すカースにミハルは眉をひそめる。
「何が言いたい?」
「そもそもおかしいとは思わんのか? なぜそれほど大事な契約と制約をウヌは今まで知っておらんかったのかと」
首を傾げ首元に手をやるカースの口元の笑みが酷薄さの度合いを増す。
「それはな従僕。『他死戻り』を譲渡する条件として、代わりに能力者の記憶を一度リセットしなければならんかったからじゃ。現にウヌはその事実さえ覚えておらんじゃろう」
それがミハルの代償が契約の下、成り立っている何よりの証拠だと、カースは言う。
単に事実を述べているだけだという口調からは綺麗さっぱり感情が欠落しているが、同情に近い歪みが目元に現れている。
心の底から思っている本心なのか、それとも見かけだけの演技なのか。自称ご主人様の思惑はやはり掴みにくい。
「けど、代償として一時的に記憶を奪われているんならいつかは返ってくるんだよな。完全に消えて無くなったわけじゃないだろ」
「勿論。じゃが、ただその“いつか”とやらをただ待っているだけでは永遠に返ってこんぞ」
「身代金でも用意しろってか」
カースの言葉にミハルの表情筋が強張る。カースは間髪入れず、
「ウヌが失った記憶を取り戻すには『とある使命』を完遂すること──それが唯一の方法じゃ」
静かだが、有無を言わせぬ口調だった。ミハルは目線を上げてカースをにらむ。
「へえーそうか。これならまだ身代金を用意する方が楽そうだ……って軽口言えそうにもないな。で、いい加減『とある使命』とやらについてご教授いただきたいんだが」
ここまでのことを整理すると、『他死戻り』を貰い受ける代償としてミハルの記憶は一時的に剥奪されており、そして制約の一つとしてミハルは奪われた記憶を知ることができない──そんな感じだ。
どう考えてもミハルにとってメリットがない。一体記憶を失う前の自分はどんな思考回路でカースと契約を交わしたのだろうと思うと、無性に腹が立ってくる。
「うむ、“この後”──と言ったからな。『とある使命』について語るにはベストタイミングじゃ」
と、カースは鼻から息を吐きながら右手の親指と中指を滑らせた。
パチン! と乾いた音が鳴る。
すると、辺りにたちこめていた白い蒸気が一瞬にして霧散し見えていなかった部分が明らかになった。
目紛しい視界の変化にミハルは思わず二度見する。
ミハルが立っていたのは広大な空間──その一点だ。宇宙空間に寂しく漂う小惑星のようにミハルはポツリと立っている。
顔を仰げば上空にはなぜか夜空が広がっており、記憶に真新しく残っているアーカムの夜景を彷彿させた。
足元を濡らす温水は地平の彼方まで続き、終わりが見えない。360度見回しても同じ景色が用意されているだけで、面白みにかける世界だとミハルは思った。
そこから動くな、と短く注告したカースは再び指を鳴らす。
すぐさま身構えるミハルだったが、最初は何が起きているのか分からなかった。
やや遅れて体全体に浮遊感を感じたことで、ミハルはようやく自分の足元が上昇していることに目を丸くする。
ミハルとカースを囲う半径4メートルほどのサークルがせり上がり、上へ上へと進んでいく。足元の温水が重力に従い円の淵からジワジワと垂れていく様子が妙に怖かった。
ようやく胃に重さを感じなくなった時、ミハルとカースを乗せた円柱は動きを止めた。
四つん這いになり恐る恐る下を見下ろす。地上まで高層ビル10階分くらいの高さがあった。ああ、これ落ちたら死ぬパターン──のやつである。
「え、えらく手の込んだ演出……ですね」
ミハルは恐怖で干上がった喉を潤すように唾を飲み込みながら言った。
「この空間はワシの思うがままじゃ。天候を変えようが、地形を変えようが、景色を変えようが──全てはワシの好き放題」
「ここって俺の心象世界じゃなかったっけ?」
「元はな。今はワシの住処として成り立っておる。もっと喜ばぬか、ワシという高貴な存在に憑代にされるなど早々ないんじゃぞ」
両目を爛々と輝かせ、口元に引き裂かれたような笑みを浮かべてカースは告げるが、あいにくミハルは喜べるほどそのありがたみを知らない。ので、「うぁーいやったぁー!」程度のリアクションを取っておく。
そのまま一呼吸おいたミハルは慎重に腰を下ろす。場所が場所であるために立ちっぱなしだと気分が落ち着かないのだ。体育座りを崩したフォームに落ち着くと、再びカースの方を見た。
金髪美女は相変わらず自らの髪で形取った豪華な椅子に腰をかけていた。
横から見るとよりカースの美しさが際立ち、ミハルは思わず見入ってしまうが、最悪なことに視線の先にぶつかったのは大胆にさらけ出されたカースのグラマラスな一部であり、吐息に近い咳払いと共に──ゆっさ、と揺れた。
カースと目が合う。美女の瞳は妖艶だが悪戯っぽさを隠しきれていない。これはマズイとミハルが感じたのも束の間、
「ほぉう♪ 見た目通りスケベじゃな」
案の定、カースはからかってきた。
そっと。ミハルの肩口にわざと当たるようにして、すり寄ってくる。
良い匂いまで漂ってくるし、リアルな生暖かさと柔らかさがミハルの心拍数に拍車をかけていく。
「……はっ?! なぁ!? えっ!?」
「ふぅーむ。ウヌの髪、なかなかに肌触りがいいのう。シュリシュリして犬の毛みたいじゃ。良い、もっと堪能させろ」
とか言い始めたカースの暴走は止まらない。
お気に入りの人形を抱いて健やかに眠る幼女のようにミハルの頭に頰を何度も擦り付け、独特な快感に溺れていく。
「オイっ?! おまっ離れろ──ッッ!!」
「シュリシュリシュリシュリシュリシュリタ──イムッ!!」
「ひギィーっッ!? ハゲるはげるよ禿げちゃうッて!!」
ミハルは自分でもよくわかる、これはもうご褒美でもなんでもない──主人に仕える者としてのご奉仕じゃないですか、と。
しばらくカースのシュリシュリタイムは続き、ようやく終わった頃、頭はボサボサを通り超して爆発していたとミハルは後に語る。
◯
「上を見ろ従僕。何が見える?」
「……綺麗な夜空? ……が見えるけど」
ミハルは前髪を整えながらありのままの感想を伝えた。ついさっきのことなど露知らず、愉快な微笑を浮かべながらカースは左手の人差し指をクルクルと回している。
これはいよいよ情緒不安定な奴としてみなしていかなければならないかもしれない。と、ミハルは改めて思った。
「これからウヌに話すことは荒唐無稽に聞こえるかもしれんが、ワシが知りうる嘘偽りない真実じゃ」
カースはミハルと同じく夜空を見上げながらそう前置きすると、
「ワシとウヌが成さなければならぬ『使命』──それは世界を真なる未来へ導くこと。シンプルに言うとそうなる」
「……えらくスケールのデカい使命。世界を導けって……無茶苦茶だ」
気のない風に手首を回しながら吐き捨てるミハル。
一方カースはその反応も織り込みづみと言った口調で間髪入れず言葉を継げる。
「──とでも言うと思ったわい。じゃがな従僕。ウヌはほんの僅かではあるが世界を導いておる」
「過去完了?」
「いいや現在進行形で──じゃ」
どうやって? そんな疑問を口に出すよりも前にミハルの思考はある一点へたどり着く。“来たるべき未来”の中のワンフレーズ──“未来”という時間に関係する事象と言えば一つだけ。
「2度の時間遡行を遂げた3周目──それが俺が今いる世界。つまり俺は『他死戻り』によって未来を変えたんだ」
「いかにも。そして、『他死戻り』によって改変された未来は宿命論に沿って固定化される。起こったことは変えられない──決定論的世界の完成じゃ」
と続けざまにカースはスラスラと述べていくが、当然ミハルは一度で全て把握できるわけがない。
「も少し噛み砕いてくれない?」
ミハルの呻きにカースは頷き、
「宿命論の改変」と短く告げる。
生徒に大切なポイントを教える教師のように目を半分閉じながら、
「世に起こりうる全ての事象はあらかじめ定められ、人並みの力では変えようがない──そんな必然性に囚われた考え方。『他死戻り』を扱う上では基礎中の基礎じゃな。『他死戻り』発動者の運命の死がほぼ絶対である理由は『宿命論』による強制力と言えるじゃろう」
いつから哲学的な話になったのかと理解に苦しむ内容を緩い口調でスムーズに言う。
もちろん、ミハルがすぐさま理解できるとも最初から思っていないようで、「そうじゃな」と一言置くと、
▶︎とある少年Aがタイムワープして過去にいくと、それによって歴史になんらかの変更が加わるので、未来は別の形に書き換えられる
それとも、
▶︎タイムワープしても、少年Aが起こす事象は辻褄が合うように過去に組み込まれるので歴史は変更されず、未来は変わらない
二つの選択肢を提示しカースはミハルに問い掛ける。
「どっちが正しい?」と。
「ん────んんん? 流れ的に後者……だろ?」
極端な例を挙げるとすれば、この少年Aが飛び降り自殺をして亡くなった友人を救うために過去に戻って、それを回避するよう奔走したとしても、すでに「友人が死ぬ」という記録が歴史に組み込まれている以上、どんな手を行使してもその友人を救うことができないように、あらゆる事象が作用するのではないか?
仮に飛び降り自殺を回避できても、その直後に突然、友人が足を滑らせたりだとか……上から足場が落ちてくるとか……階段から足を踏み外すとか……通り魔に遭うとか……。
「いずれにせよ、一度“死んでしまう”と記録された事実は変更されることはない──ってことか?」
「うむ。過去に起こったことは若干の経緯の違いはあってもやはり起こる。それが時間における宿命論の絶対的強制力じゃ」
起こったことは仕方ない。結果は全て決まっている。ならば、とミハルは思う。
カースが言ったことが事実なのであれば、『他死戻り』が起こる条件に矛盾が生じてくる。
乱れた耳元の髪を指で捻りながら、
「確か『発動者の死』もそういった宿命論……“変えようがない未来”として世界の歴史に組み込まれているんだよな? だったらなぜ俺はアリスの死を回避して時を進めることが……できている??」
宿命論において、運命の強制力は絶対である。しかし、ミハルはその事実を覆すことをしているのだ。現に今!
沈黙するミハルへ、静かにちらと横目を投げてカースは、
「いいか従僕。『他死戻り』により構築されてループから抜け出すには100から限りなく100に近い数値を引いた僅かな数値──それ指し示す世界線に辿りつけばよい」
上を見ろ、と再びカースは尊大な調子で指をさす。
「ふむ、まあ言葉だけで理解させようとするのも酷な話か。面倒じゃが仕方ない。まあその説明のためにわざわざこうして大層な模様替えをしたんじゃからな」
そしてこう言った。
「『星』を時の分岐点にたとえてみる」
夜空を指したカースの人差し指が真横にスーッとスライドすると、一筋の光の軌跡が現れた。
まるで、黒板の上を白いチョークでなぞったような感じだった。
落書きめいた線の右端に矢印を付け足しながら、
「過去から未来、世界の理の上では時間は一方向にしか進まん。この図では左から右に時が進んでいることを表しておる。そして、いま印を入れた二点が三日前の『他死戻り』、その始発点と終着点じゃ」
カースが横目でミハルに意味ありげな視線を送ったので、ミハルはとりあえず頷いておく。
「各ループ上における時間の長さはその時々の展開によってまちまちじゃと言ったが、この図解では省くぞ。ポイントはここからじゃ」
眩く光る二つの星を中指と親指で測りながら、
「二点間には数百の星々が存在しているが、その一つ一つを分岐点として両端の星を結ぼうとすれば一体いく通りの道順があるじゃろうか?」
数学用語で言うと樹形図みたいなものだろう。何百もの点を結び二点を繋げようとすれば道の選び方は迷うほどある。
点から点へ進む方向は何通りもあるのだし、実際の宇宙は二次元ではなく三次元。イメージするだけでも頭がおかしくなる。
「……無数にありそうだ」
とお手上げ状態の回答を吐き出すミハル。
「不確定という意味ではあっておる。未来は様々に分岐し、たまに合流もする──そんなふうに分裂と統合を繰り返しながら進んでいくのがウヌら人間が認知している時間という概念じゃ」
カースがパチンと指を鳴らすと、無数の星々が光の線で繋がり合い、二点の星の合間を樹海のごとく埋め尽くしていく。
「──といっても誰もあやふやに広がる無数の未来を見ることはできん。観測した瞬間、世界は一つの未来に収束するからな」
カースが今度は両手の掌を交差させるように音を鳴らすと、無数に繋がる白の樹形図の中から一つ、赤く光る線が浮かびあがった。
「じゃが、『他死戻り』を備えたウヌの場合は少し違う」
笑いを含んだカースの瞳が怪しく光る。
「『他死戻り』のループ内にいる限り、ウヌはいく通りもの世界を可能性として観測することができる」
「……?!」
「ふむ、そうじゃな……シュミレーションゲーム……みたいなものかの。この世界がボードゲームの基盤とすれば、ウヌは駒を動かすプレイヤー。先が行き詰れば何度でもリセットできる仕組みじゃ」
「おぉ、なんかしっくりきた」
ミハルの感心した反応に得意顔のカースはこうも告げる。
「世界がビンの中にあるものとして考えればウヌはそのビンを外から覗き込める存在とも言えるな」
「もうソレ神……じゃん」
ミハルは茶化す口調で笑ってみるがカースは「神じゃよ」と淡々と肯定する。
そして、あくまで可能性の中で存在する世界では宿命論は絶対的ではなく、『発動者の死』が起こらない世界が僅かながら存在するのだとも言った。
『他死戻り』のループから脱出するためには無数の道順から一つの正しき道を選択するしかない。
ミハルは改めて事の重大さを思い知り、深く息を吐く。
「たぶん、ポイントは押さえた気がする。数ある可能性世界線の中から宿命論に囚われていない──つまりは『発動者』が死なない世界に辿り着く。うん、ここまではいい。けどカースはさっき『他死戻り』によって改変された未来は宿命論が〜って言ってたよな。それは……」
尋ねるミハルに、カースは夜空を見上げ、
「『他死戻り』から脱出する際に行き着いた世界線、その固定化じゃよ。ウヌが選んだ世界を“真なる世界”として確立させるためじゃ」
「え、ええ? ……『他死戻り』にそんな力がある。みたいな言い方になるぞ?」
「勿論、あるとも。未来の改変──それが『他死戻り』の真の力じゃからな」
単なる時間遡行能力ではない、その上をいくスケールの話である。過去に行くとか、未来に行くとか、時を逆行させるだとかはまた違う……そんな話だ。
困惑するミハルにカースはこうも語りかける。
「まあ、シナリオの改編みたいなもんじゃ。ウヌという脚本家が書いたシナリオによって、世界という役者はそれ通りに動いていく。そう。ウヌが導いた未来が絶対となり、変えようのない過去となるんじゃ」
「世界の改編……なんか今……とんでもないこと話しているよね? さらっとコレ」
額に指を押し当てながらミハルは戯けたジェスチャーをとる。
いよいよ、やれやれである。ミハルの頭では追いつかない展開になってきた。
世界のシナリオを書き換える?
『発動者の死』が訪れない世界線を手繰り寄せ、真なる世界として確立させる?
いやいやいや待ってくれ。意味が分からないし、やっていることのスケールが大きすぎる。とミハルは今更ながらに動揺するが、不思議とその事実を受け入れつつある己の無意識の思惑に打ち震える。
「じゃ、じゃあ王都での『他死戻り』から抜け出せたってことは……三日前のあの日、アリスが死なない──そういうシナリオに変わった……のか」
「ああ、アリス・アークライトは本来であれば三日前に命を落とすはずじゃったが、ウヌが運命を変えたことによって今も健在であろうよ」
「改変された宿命論による強制力は絶対だから」
「そうじゃ」
「そして、コレからもそうやって未来を変え、世界のシナリオを改編させていくことが俺たちの『使命』」
「うむ」
一言一言その言葉の意味を噛み締めるようにして呟くミハルに、カースが眉一つ動かさずに肯定した。
『使命』の為に交わされた契約と譲渡された時間遡行能力『他死戻り』、そしてその代償となったかつての記憶。
一つ一つの真実が明るみになった今だからこそ、ミハルは思う。
「なかなかにB級サスペンスやってんのな」
◯
さて。
いよいよフィナーレに近づきつつある今宵の密会ではあるが、まだカースから聞き出したいことは残っている。
すでにミハルの脳内メモリは山ほどの知識と情報に埋もれているというのに、不思議と苦しくはない。
何も知らない空腹状態よりも、知るべきことを知った満腹状態の方が幸福感を感じるのだ。
よってミハルは変わらずカースに問いかける。
Q:ぶっちゃけた話、『他死戻り』を使って世界のシナリオを改変する目的ってなんだ? 『発動者の死』を回避するためってのは分かるけどさ……本質っていうか背景が見えてこない。
言葉足らずではあるが、今まで感じてきた違和感の正体を口に出す。
カースは唇を噛んで、目を逸らした。視線はまた、上空の夜空に吸い寄せられる。
「その問いにワシが答えられるか否かをYESかNOの二択にすれば、答えはNOじゃ。厳密に言えば伝えることができぬ」
「……どういうことだよ。その言い方……!? まさかっそれも……ッ」
含みのある言い直しをしたカースの返答にミハルはすぐさま思い至る。
「制約の二つ目。『他死戻り』を行使し、世界を『真なる世界』へ改変していく際、ある特異点までは『他死戻り』の全貌をウヌは知ることができない。ワシの口からウヌに伝えることもな。そういう縛りがワシにもかけられておるんじゃ」
そう言って、カースは苦しそうに息を吐いた。額に手をやり、片目を閉じる。
「余計な詮索はするなと」
「“無知は力なり”とは言ったものじゃが、ウヌの場合においてはまさしくその言葉の意味が適用されておる。知らないことが時には厄から逃れる盾になりうることもあるんじゃ」
カースの瞼がゆっくりと開き、ミハルをまっすぐ見つめた。
「意味が分かるか?」
「たぶん」
疲れた目頭の上を指の腹でマッサージしながらミハルは静かに応えた。
おそらく、今ミハルが片足を突っ込もうとしていたのは、これまで話してきた中でもっとも全ての核に近く、危険で壮大な内容なのだろう。
「俺はただ『他死戻り』を打破して、世界のシナリオを変え続ければいい。それが俺たちの使命だもんな、カース」
「そうじゃ。そして、来たるべく未来に位置する特異点に到達すればウヌは知ることができる」
「それはいつ? って聞くのもダメか」
「ああ、ただその“いつ”はいずれ来る。今ワシが言えることはそれだけじゃ」
知ってしまうことで、世界の見方が180度変わってしまうような──それは、推測はできないけどヒトが踏み入れてはいけない領域なのだと、ミハルはそう確信した。
だから。
これ以上ミハルは知ろうとしない。そう意識するだけでカースの言葉の重みを知るには十分だった。
仕切りなおして、次に問いかけるクエッションを選ぶ。
ここからは一旦『他死戻り』や『契約と制約』から離れた内容だ。つまり、ミハルが置かれている状況や問題に関して。
Q:この世界についてカースが知っていることは?
「来るべくして飛ばされた世界……としか言いようがないの。ワシが知っているのはそれだけじゃ」
「要は何も知らない?」
「YES」
清々しいほど綺麗な発音で答えるカース。ミハルは少しイラっとしたが、知らないのなら仕方がない。
今後はエミリやKから情報を仕入れるのが得策だろう。
Q:王都で出会ったもう一人の俺に関して何か心当たりは?
今現在、ミハルに取り巻く謎の一つ。
怪物と化したもう一人の自分と渡り合っていたカース(意識を失ったミハルの中身を乗っ取った)なら、その時感じるものがあったのでは? と思った次第である。
「おお、彼奴か。確かにウヌと似た匂いがしおったな。じゃが、アレは紛い物じゃ」
「紛い物?」
「容姿がウヌと瓜二つとは言えど、その中身は別物という意味じゃ。その中身の正体は詳しくは分からんがな、今となっては」
と言いつつ、カースは艶やかに濡れた唇を親指で拭った。
「確かめようがない……よな。にしても、中身は別物って……ますます意味が分からん」
「そこまで気になるか? 従僕」
「そりゃ気になるさ。どう考えたって何かあるだろ。もう一人の俺の存在」
ほぼ勘ではあるが、ミハルには絶対的な確信に近いものがある。彼がどういう存在でどういう目的でこの世界にいたのか、単純に気になるし、ミハルは知っておかなければならないような気がするのだ。
と考えつつ、結局行き着く答えは変わらない。少し疲れた首元の筋肉をマッサージしながらミハルは言った。
「でも、ま、現状はこれ以上分かりっこないし、保留ってことで」
ようやくゴールが見えてくる。
Q:今のカースはその……具現化っぽい感じで存在しているけど、憑依しているのは例の右腕──自動書記だよな?
「うむ。ワシは宿木と勝手に呼んでおるが」
Q:……ってことは俺がこの世界で初めて意識を覚醒させた時もショルダーバッグの中にいたんだろ。俺が訊きたいのはそれ以前の話、意識を覚醒させる前の俺は何をしていたか? 前日譚が知りたい。
ミハルがこの世界に飛ばされたという事実は確かだが、いつ? どのタイミングで? という単純な謎は解明されていない。
本当に例の大通りで意識を覚醒させたのが、ミハルがこの世界に飛ばされて最初の出来事なのか?
もしかしたら、それ以前に意識を覚醒させていて、見覚えのある最初の覚醒はその一過点に過ぎないとしたら……
「あいにく」
と、カースは言った。はっきりと、痛烈に。
「ワシはその問いに関して答えられることは無い」
「制約のせいで?」
「半分は、そう。ワシの記憶を振り返ってみても、ウヌの言う大通りでの意思の覚醒──それ以前のエピソードは保管しておらん」
望んでいた答えを得られず顔をしかめたミハルは、薄く息を吐いて、唇を指でなぞる。
ふたたびカースはミハルを見据えると、ミハルに語りかける。
「ではどのタイミングでこの世界に飛ばされたか、に関してじゃが、それは制約の禁則事項に含まれておる。故に伝えることは出来ん」
「例の右腕を所持していた経緯についても?」
「じゃな」
カースの肯定に、ミハルの表情は固くなった。分かってはいたが、実際にこうもスラスラと現実を突きつけられるとこたえるものがある。
すぐそこに答えはあるのに、強固な首輪をつけられているせいで手が届かない──そんなもどかしい気分だ。
三角座りで顔を埋めるミハルの肩にカースはそっと手を置いた。
「ワシは一つも嘘はついておらんぞ」
「知ってる。オレそんな疑り深い顔してた?」
「丸わかりじゃが」
「やっぱ、ポーカーフェイスは苦手みたいだ」
苦い微笑と共に吐き捨てた。美女の前では感情を隠すことは至難の技らしい。
一通り、心の整理をしてからミハルは固まった足の筋肉に力を入れ、立ち上がる。
爪先から頭頂までまっすぐ伸びすると、息を吐いてこう告げた。
「現状、俺は未来を改変する為に尽力するよ。流れに身を任せたままだけど。ただし、主導権は俺が持っているし、これからも制約が及ぶ範疇以外に関しては秘密は無しだ」
「ほう、従僕にしては言うではないか。まあ良い、頼もしい従僕は嫌いではないからな。ウヌの言う通りに従ってやるわい。じゃが、ワシの目的は『使命』を完遂すること──それがワシの行動理念であることは忘れるなよ」
ミハルの瞳とカースの瞳がまっすぐぶつかる。
どういった経緯でこんな壮大で理解しがたい状況に巻き込まれたのか、制約という縛りがある限りはミハルはその真実を知ることができない。
期待を持って行き着いた結果がこれだ。現状はよろしくない。
しかし、逆を言えば、明確な目標が定まったとも言える。
なんのためにどう生きるのか、記憶を失ったミハルにとってありがたい道標であることには変わりないのだから。
「長い付き合いになりそうじゃな」
たった一つの突破口は廻り続ける『他死戻り』を打破し、未来を改変すること。
馬鹿げたことかもしれないが、ミハルは立ち向かってやろうと思う。いきりたった安直な感情によるものではない、確固たる決心によるものとして。
──“運命に抗い、世界を導け”
奇妙な主従関係を結んだ少年と異形の存在の掌と掌とが重なる。
「これからよろしくな。カース」
「うむ」
繋がった五指と五指は解かれ、ミハルはやっと長い対話から解放される。
今日一日のほとんどを会話に費やしていたのではないだろうか。とにかく疲れた、とミハルはほっと息を吐く。
こうして突如始まった会合は穏やかに終わった──のだが、
「で、えーっと俺はどうやったら帰れるんですかね?」
ここはミハルの心象世界。詳しくは知らないが、ここが現実に存在している空間ではないことぐらいは流石に分かる。
事実、頭部にカースの角を刺されても大事に至っていないことがいい例だ。
だだっ広い浅瀬の湖のような場所にポツンと立つ円柱、そしてお絵かき帳にもなる夜空。
もう一度カースが指を鳴らせば、何が起こるのだろうか。ミハルには見当もつかない。
「……簡単じゃ」
「?」
案の定、カースが指を鳴らすと、地形に変化が起きた。場所はミハルとカースが立つ円柱の真下。中心から瞬く間に輪っかが開けていき、半径50メートルほどの大穴がぽっかり空いた。
淵は滑らかにカーブし、地上を覆う温水がサァーっと穴に吸い込まれていく。
「出口は真下。穴の奥」
カースはサラリと告げた。金髪美女の口元は悪戯っぽい笑みで染まっている。嫌な予感しかしない。
「それって……まさか」
「落ちろ従僕。GO TO HOLEじゃ」
「……HELLだろ」
言葉は短かった。
続く台詞は虚空に消え、カースの長い素足がミハルの背中を思いっきり蹴った。
身体のバランスが崩れ、足裏が宙に浮く。
ミハルの瞳に夜空が映り、可憐に佇む美女が映り、最後に深い大穴が映り込む。
「次にこうして面と向かって逢える日を楽しみにしておるぞ」
それが今日、ミハルが他者から言われた最後の一言だった。
カースに蹴り出され、宙を舞ったミハルの身体は徐々に加速しながら落ちて、落ちて、落ちてゆく────。
そして。
夢の中で感じる浮遊感が体を包んだ直後、ミハルの意識はベッドの上で覚醒していた。
前頭部に引っ付いていた右腕は剥がれ落ち、視界の先には木目状の天井が露わになる。
長い深呼吸と額に溜まった冷や汗を拭ったのち、ミハルの意識は再び微睡みに引き込まれ、ものの数分もしない内に深い眠りに着いたのだった。




