第二章9話 『自動書記』
地下都市アーカム。
神樹の恩恵を受け、長く栄えてきたアーカムは数ある地方都市の中でも一二を争うほど美しいと称される。
故に、多くの貴族や王族がその神秘を一目見ようと、こぞって押しかけてきたのも有名な話。
その中の一人。リオスティーネ聖王国三十三代目の聖王リフラ・リオスティーネ。
芸術や自然の美に深く精通していた彼の審美眼をも唸らせた都市の景観は、アーカムの住人にとっての誇りであった。
彼がこの都市の神秘に触れた証として残した手形は、今も大切に都市の記念碑として祀られている。
そんな麗しい歴史を築いてきたアーカムにも、実は黒い負のエピソードがあるのだが、それはまた後に語ることになるだろう。
話は変わり、とある二人の会話に焦点は当たる。
アーカム第一階層。
メインエリアから外れた南東居住区の一角にて。
とある夜の話だ。
新月の夜のアーカムは特に寒い。
青暗い夜空には満点の星々が散らばり、その隙間を縫うようにして神樹の枝葉が生い茂っている。
幻想的な地下都市は奇想天外な構造の影響か、風通しが良く空気が澄みきっていた。
テラスの隅に掛かったランプの淡い灯りに目を細ばめながら、ミハルは横に目線を流す。
ミハルの隣、ヒト一人分の間隔をあけて手摺りに背中を預けているKは、なにを考えているのか分からない瞳で都市の全景を見渡していた。
欠伸を我慢するような仕草でミハルは気怠く呟く。
「……まだ、続きあったんだな」
「最終ステージ。これを話せば君に伝えることはしばらくないよ」
話はいよいよ核心に入る。
ここまでの話は全てそこに集約しており、それ故に予備知識という名の大量の下準備が必要だったのだ。
「さて、気を引き締めて聞いてくれ」
金髪爽やかイケメンは『残すラストスパート、張り切っていきましょう』というノリで呟いた。よくもまあ元気なことである。
聞き手のミハルですら疲れているというのに……
「……ミハルに話さなければならない事は残り二つ。ミハル個人に関する謎と例の右腕に関して」
そう言われ、腕が欠けた右肩に触れた。
謎の右腕。
ミハルの一部ではない異形の被造物。
やはり何かあるとミハルは予想するが、この代物がどのようにして話に関わってくるのか検討もつかない。
──なんなんだよ。一体
そう心中でぼやき、右肩の切り口を指で突いた。
何度目になるかは分からないほど慣れた動作に辟易するが、特に変わったことは起こらない。
数日前の死闘が夢だったのではないかと思えるほどに身体は快調なのだ。
Kはストレートに訊いた。
「ミハルは君とそっくりな存在を知っているだろ」
「そりゃまあ……全く気づいていなかったのは間抜けだけど」
三周目の世界でエミリと出会った時のことを思い出す。
確か、大通りでの一連の出来事の際、ミハルはそいつをおぶる役目を負っていた。
あれほどの至近距離で近づいていながら、もう一人の自分の存在に気づかなかった己の鈍感さには呆れを通り超して笑ってしまいそうだ。
相手がしばらく気を失っていたことに加え、顔をフードで隠されていたことも原因ではあるが、もう少し早く気づいていればあの時どうにかなったかもしれない。
過ぎ去ったことを悔いても意味はないことは知っている。それでもミハルの中にはやりきれない想いがわずかにあった。
Kはテラスの柵に肘を置きながら、
「そもそも今回、僕とエミリが急遽リオネに派遣されたのはちゃんとした理由があるんだ」
「──追放者……か」というミハルの即答に微笑んで、頷いた。
「そ、僕らの職務である“追放者”の処理──今回の件に関していえば追放者“キリエ・ミハル”の監察及び執行になるわけだが。名前から察するに、君の正体にたどり着くための鍵であることは間違いない。まあ今はもう会えないけれどね」
言いながらKはミハルに意味ありげな視線を送ってきた。
察して話を合わせろといっているのだ。理由はさだかではないが、ミハルはそう理解した。
“キリエ・ミハル”はこの世にはもういない。今はそのあやふやな他人の死を認識していればいいのだと。
「君は自分のことをミハルと名乗っているけど、それは本名なのかい? 仮名とかではなく」
それが、と首を傾げつつ、
「俺もそこがよく分からなくてさ。自分のことを認識した時は知るはずもなかったんだ。どのタイミングだったか、当たり前にそう名乗っていて……仮名って可能性が高いかも」
「なるほど、二重の記憶障害って線もあるわけか」
Kは顎に手を当て、涼しくそう呟いた。
追放者“キリエ・ミハル”と尸霊人“ミハル”。
ただ偶然、二人の下の名がミハルであれば事は流されていたはずが、まさかのまさか、顔まで瓜二つという事実。
特に何も無いで済まされるほど、流していいことではない。
ミハルと同じ深海色のKの瞳が鋭く光り、
「僕が推測するに君の名はミハルで間違いないと思う。もう一人のキリエ・ミハルと同一人物ではない、全くの別人であるという意味でね。
となると、キリエ・ミハルとミハルは二卵性双生児の双子って説が出てくるわけだが、キリエ・ミハルの出生記録には記載されていなかった」
「じゃあ、ドッペルゲンガー?」
「でもないかな。仮にキリエ・ミハルがミハルの複体であるとしたら、矛盾が生じる。ドッペルゲンガーを本人が見ると死ぬとされているからね。でもミハルは今生きているだろ?」
「確かに」
「結局、キリエ・ミハルとミハルの関係性に関しては、二人とも追放者であるという共通点しか見出せないのが現状だ」
そう、ミハルに関して言えることは分からないことだらけ。まさしくブラックボックス。
いつ、何の目的を持ってこの世界に来たのか? この問いに関しては序盤の時から気になっているが、ミハルの記憶に障害が生じている今は突破口が見出せない。
全てはミハルの失われた記憶が鍵と言えよう。
「さっき君は自分の名をなぜ『ミハル』と名乗れたのか分からないと言っていたよね?」
「ああ、言ったな」
「原因は──」
「記憶喪失。これっきゃないだろ」
この場合は、記憶の一部の健忘といえば最適か。
事あるごとに過去を思い出そうとすると、どこか欠けているような気がするのだ。
王都の1日をこれまでに二、三度振り返ってみたが、何かが物足りない。
まるでその映像だけにモザイクがかかっているような。記憶のフィルムの一部を切り取られているような。
もどかしい気持ちにミハルの表情が歪む。
そんな少年の隣にたたずむKは深入りはせず、夜空を通り過ぎる流れ星を目で追いながら、
「ここでようやく君の腕に関する話だ」
と不意に話題はミハルの奇妙な右腕へと転換した。
当の右腕といえば分離した今、面倒なので寝室に置いてきたが、この際持ってきた方が良かったかもしれないと軽く後悔する。
「自動書記。俺の一部ではないナニカだっけ?」
「イグザクトリー。気分はどうだい? 得体の知れない物が身体の一部として機能していたら気持ち悪いだろ?」
「気持ち悪い。うーん、どうだろ」
言いながら、ミハルはこの右腕に関する記憶を整理してみる。
死繋人とやらに腕を飛ばされ、朦朧とした意識の中で手に取ったのがこの右腕。
自分の腕を取り間違えたという実に間抜けな話ではあるが、あの絶体絶命の状況を鑑みて許して欲しいところだ。
何はともあれ、ミハルの右腕はかつての自分の肉体ではないことは揺るがぬ事実。
「少し手の込んだ義手と思えばへっちゃらかな。色々ありすぎてワケわかんねーし」
「ははっ、確かにそりゃそうだ。この状況だって実に訳が分からない。尸霊人の君と監察官の僕がこうして肩を並べて話し合っていること自体、実におかしいことだからね。いつだって運命は不規則に展開する。
世界は分からないことばかり。でも、分からないじゃ何も進まない。だから僕は君に必要なことを必要なだけ話そう。手始めにそれ──」
Kの人差し指はミハルの右肩をさした。正しくは欠けた右腕の一部分。
その右腕の正体を。
何度も話題に出しておきながら、最後の最後まで慎重に触れざるを得なかった存在を。
「自動書記」
ミハルはごくりと喉を鳴らして応じた。
「この被造物とは一体なんなのか」
と、Kはこの右腕の正体に関して淡々と語り始めるのだった。
少し専門用語っぽいものも入っているが、ミハルなりにまとめると以下の通りである。
自動書記とは──
死者の肉体の一部に死霊を人工的に憑依させた被造物、つまり一種の生物機器であるらしい。
人の魂を死者の肉体の一部に宿すなどオカルト臭が半端ないが、これまでの話を振り返れば理解し難い話ではない。
この世界に魔法という未知の法則が存在するならば、屍に人魂を憑依させる技術が存在していてもなんらおかしくないのだから。
K曰く、『生者と死者を繋ぐ器』。死者の世界と生者の世界を繋ぐ領域を展開することで、表の世界から裏の世界に干渉し、見えざる事象を観測できるのだとか。
この場合の裏の世界とは、この物理世界とは違い、全く別の次元の相に存在する特殊な場であると説明される。
そして、普通の人間には感じる事は出来ないが、自動書記を所有している者はその特殊な場に干渉できるのだと言う。
分かりやすく例えると変換器みたいなものらしい。
電力の相数,周波数を変える装置がコンバータであるように、次元の座標軸、要素の配列を変える装置が自動書記といった感じだ。
「現世からヒトが認識出来ない高次元への干渉、人外未知の領域に存在する未解明システムの末端に触れた技術と言えるね」──by.K
自動書記とはそんな異次元の要素を詰め込んだガジェットらしい。
どのような用途で使うのかに関してはKは詳しくは語らなかった。そうせざるを得ない禁則事項などがあるのだろうか。
後で隙があれば聞いてみようと思ったが、うまくKを誘導できる自信は今のところない。
気になる事は山ほどあるが、それは些細なことでしかなかった。
なぜなら、
肝心な問題は別にある。
「確かに……そんな大層な代物を俺が持っているのはおかしな話だよな」
「おかしいというか。まぁ、不可解すぎるよ」
と言うのはこの自動書記という被造物。
これを所有出来る人間は限られている。
本来、自動書記は異間公安が運用している物であり、監察官の中でもそれを持つ者は一部の人間のみ。
そこらの人間が手にできる物でもないし、ましてやミハルのような存在には全く関係のない代物である。
「自動書記にはその一つ一つにタグと個体識別名が必ず付けられている。管理するためさ。番犬につなぐ首輪みたいなものだと思ってもらえればいい」
まるで今の自分と同じじゃないかとミハルは首元を触った。
不自然な感触は何も変わらず感じられる。
「で、君の右腕となった自動書記──ひと通り調べさせてもらった」
Kはそこで息を引き継ぐと、思わせぶりにミハルへ視線を向ける。
「結果は識別不能。情報技術課のデータベースに確認を取ってもらったところ、そんな個体は登録されていないんだってさ。そもそも君の自動書記はタグ付けされていなかった」
「じゃあ、俺の持っている自動書記は訳ありの謎個体だってか? いよいよきなくさい話だぜ」
「そういうことになるね。いわくつきの自動書記なんて今まで聞いたことがないから困ったもんだ」
では、なぜミハルは持っている?
至って普通のショルダーバッグに折り畳み傘を入れる感覚で?
ミハルは必死に今まで見てきた映像を巻き戻し、手がかりを探し求める。
が、しかし、答えは見つからない。
なぜ? と疑問を提示したところで、容易く答えがふってくるほど現実は甘くない。
リオネの大通りで意識を覚醒した時点で、すでにミハルはショルダーバッグを肩にかけていたし、気づくのが遅かっただけで、最初から自動書記を持っていたことには変わりない。
どのような経緯を経て、ミハルの手に渡ったのかは、記憶のフィルムに納まる以前に終了していることになる。
つまり、この時点で詰み。
いくら唸ったって、大通りで意識が覚醒する前のことは思い出せない。
やはり失った記憶だ。全てはそこに存在する。
改めて記憶の重要性を思い知るミハルだったが、そこでふと思い至ることがあった。
自動書記に関しての話に入る前に、確かにKはこう述べたではないか。
「────ここでようやく君の腕に関する話だ」と。つまり、“ミハル”自身に焦点を当てた話から派生して、繋がることになる。
「結局」
ミハルはそっと言葉を添えた。
「俺とその右腕がどう繋がる? そりゃ所有していたからには何かしらあるとは思うけどさ。でも追放者とか尸霊人とは全く無関係としか言いようがないだろ?」
「うん、その二点とは関係ない」
「じゃあ──」
しかし。
しかしだ。
結論を急ぐミハルをなだめるようなトーンでKはこう言った。
「けれど、ミハルが患っている記憶喪失とは何かしら繋がりがあるとは思わないかい?」
記憶喪失。
現状、最もミハルを悩ませている症状であり、ミハルの正体を覆い隠す障壁。
その最たる原因の根源が謎の右腕──つまりは自動書記と関係があると、そうKは言いたいのだろう。
確かに言われてみれば、である。
記憶喪失と自動書記。今までミハルの脳内を転げ回っていたのは『記憶喪失』に関することばかりで、その根本的な原因を深くは考えてこなかった。
記憶喪失と言えば、頭を強く打ち、記憶や学習能力に関わる脳器官の機能がショートすることで発症する例がよくある話だ。または、精神的なストレスや薬の過剰使用などで引き起こされるなど。
詳しいメカニズムは知らないにせよ、ミハルも記憶喪失の原因は頭に対する外的要因だと思っていた。
しかし、Kが述べた記憶喪失の原因は突拍子もないもので、ミハルの口は間抜け声を発せざるを得ない。
「自動書記を所有する者は死霊と契約して初めて主人と認められる」
「何の話?」
「まあ訊きなよ」
そう言いながらKは脚部のホルダーからある物を取り出し、ミハルの目の前に差し出した。
凹凸のある円柱の何かと思いきや、それは五本の指がついている人体の一部。
巻かれている包帯からはみ出した皮膚は禍々しく、赤黒い爪は鋭く光っている。
「……って! えぇっ?!」
「驚いたかい? これも自動書記。君と同じく右腕に死霊を憑依させた被造物だよ」
「あーーま、まぁ。うん。そ、そうか。Kは監察官だもんな。持っていて当然か」
忘れかけていた事実を思い出し、リズムよく首を縦にふるミハル。
現物を手にしているのは自分だけだと錯覚していた今までが恥ずかしい。
稀少な被造物を所持している自分に少し優越感を感じていたのは嘘ではなかった。
羞恥心で顔を赤く染めるミハルの隣。
本来、持つべくして自動書記を所持しているKは手元でその腕を軽く弄びながら、
「自動書記に憑依している死霊と所持者の関係は非常に複雑で難しい」
「というと?」
「所持者と死霊の間で交わされる契約と制約だよ。死霊が理から力を引き出す代わりに、こちらからも何か同等の価値あるモノを献上しなくちゃならない。
等価交換さ。大いなる力には大いなる代償を。当たり前のことだろ」
「まあ筋は通ってるな」
「で、契約ってのは所持者と死霊のみが知る秘密の約束だ。絶対に他人には知られてはならないし、交わされた条件や譲渡される能力に関して漏らすのも厳禁。世の理から外れた力を引き出すからには、多大なリスクが伴うからね」
世の理から外れた力。
世界の枠組みから外れているというのだから、よほど常軌を逸した力なのだろう。
常軌を逸したといえば、王都で体験した一連の出来事が思い出される。
時を逆行し、世界を繰り返すという行為は理から外れているのだろうか。それとも、この世界では珍しくもない現象なのか。
考えを張り巡らせるにしても、ミハルにはこの辺りが限界だった。
その間にもKの説明はスラスラと進んでいく。
「制約は所持者に課される縛りだ。力や条件にも制限があるからね。課された制約を破った場合、厄災が降りかかる」
腕の端を持ち、五指の内の人差し指を摘みながらKは続けた。
「例えば、僕の自動書記:フライデー。こいつとの制約違反の厄災は『存在希釈』。制約の禁則事項に触れた場合、僕の存在は世界から切り離され、終いには誰からも認識されなくなる。
あぁ、ご心配なく。フライデーの制約は他の死霊達と違ってずいぶん特殊だから君に厄災が降りかかることはないよ」
「よかった。記憶喪失な上に誰からも認識されなくなったらメンタル維持する自信ねぇわ」
この半日で精神的に疲れる話を何度も繰り返しているのだが、このアホ毛頭の少年はあまりその自覚がないようだ。
鈍感なのか、物事を軽く考えてしまうタイプなのやら。
Kはうっすらと笑って、
「つまり、ミハルの記憶喪失はその右腕の自動書記が関係しているかもしれないってことだ。死霊との間に交わされた制約による影響か、あるいは契約の代償として記憶を消去、または置き換えられてしまったか。
具体的には明言できないが、可能性としてはかなり高いだろう」
死霊、制約、契約の代償と記憶の消去。
いきなり意味深な内容になってきた。
ミハルは慌てて思考を整理するが、感情を自制するより先に口が開く。
「俺の記憶障害の元凶がこんな得体の知れない物のせいだって?!」
「でも、仮説を立てるとしたら辻褄が合わないかい?」
ミハルはKの自動書記に視線を送る。
ミハルの一部に成り変わった片腕とKが手にする片腕。
片や血の流れでない異物と片や包帯にグルグル巻きにされた異物だ。
「んん……確かにあり得る……っていうか、もうそうじゃなきゃ可笑しいまで思えてくるな。悔しいけども」
これ以上ミハルは何も言うことができなかった。
Kが語った言葉は、ミハルが本来訊かなければならなかったミハル個人の問題などを、一時吹っ飛ばしてしまうような迫力に満ちていたし、何より引き込まれるものがあった。
「さてと」
ややあって、Kは悪戯っぽく笑うと、
「もう察しがついているとは思うが、これが僕の立てた仮説だ」と言った。
「ミハルがいつこの世界に飛ばされたかは定かではないが、一度、例の自動書記と同調し、とある契約を交わした。もちろん、その契約内容は知る由もないが君が何かしらの恩恵を授かっているのは間違いない。
それがどんな力でどんな代償を強いられるのかは、契約として機能している以上、僕はこれ以上踏み入ることはできない」
Kはそこまで一気に言うと、そっと息を吐き、
「問題はここから。契約を交わしたものの、運悪く君は制約の禁止事項に触れてしまった。その制約違反による厄災は『記憶』に関係すること、記憶喪失から推測するに『記憶消去』かな。ミハルが自動書記に関して知らない理由もそれで辻褄が合うからね。
所持者本人の記憶を操作するなんて、何を考えているかは謎だけど、これだけは言える。君の記憶は人為的に消されたんだ。君の右腕、すなわち自動書記に宿る死霊の手によってね」
「────」
どう反応すれば正解なのか分からなかった。
『君の記憶はその異形の右腕に弄られています』という事実を突きつけられて、『あぁ、はいそうですか』と頷けるほどの冷静さなど持ち合わせていないが、『冗談だろ』と鼻で笑うほど馬鹿でもない。
ただ、記憶喪失を患った10代の心には少々重く響いた話だった。
「じゃあさ……」
わずかにトーンが落ちる。
「……もし、その仮説が事実だったとしたら、この数日の記憶も消されるかもしれないってことだよな」
「仮説はあくまでも仮説だ。僕が提示したのも一つの可能性。それを真実と思い込むのはあまりにも早計だよミハル」
Kはそう言うが、ふつふつと不安は募っていく。
いくら見て見ぬ振りをしようが、Kの立てた仮説は真実となり変わってミハルを囲い込むのだ。
気づかぬうちに、左手の親指は掌に深く食い込んでいた。
数時間前、大切にしようと心に決めたほんのわずかな記憶でさえ。
今こうして過ごしてきた記憶でさえも失ってしまったら、本当に自分の存在そのものが消えてしまうような気がして。
そんなミハルの感情を表情から読み取ったのか、
Kは深海色の瞳を細めながら、こう言った。
「でも、問題はある」
「?」
「自動書記との間に交わされた契約と制約が不明な点だ。本来なら所持者は交わした契約内容と制約を熟知し、制約違反に触れないよう、ルールを公式化して使用している。
だが、今のミハルは自動書記に関しては何も知らない状況だ。何がマズイかは明白だろ」
答えはすぐに出た。
「契約と制約が不明である以上、今後、俺自身の言動や行動がどう作用するか分からない」
「大正解。例えば君に課された制約が『殺生の禁止』だとして、その制約違反による厄災が『記憶消去』だった場合。君が何かの拍子で蚊を殺そうものなら、君の今までの記憶は消去され、全て忘れて一からリセット、という最悪な状況になる。制約違反による厄災は絶対だ。抗う術はない」
Kは「そもそも」と前置きして、
「自動書記と所持者の関係は所持者が主人で自動書記が下僕という立ち位置で成り立っているのに、ミハルの場合はその立ち位置が逆だ」
「俺が下で向こうが上ってことか?」
「記憶を弄られていると仮定したら、そうだね。最悪ミハルは今、死霊の操り人形かもしれないよ」
ゾッとする話だった。
思わずミハルから掠れた笑いがこぼれ出る。
冗談じゃない。悪霊の操り人形なんてまっぴらごめんだ。
「今思い出したけど、一時的に俺を乗っ取っていた別人格。そいつの正体って──」
「死霊ではないかと。無きにしも非ずだね」
「いよいよマズい展開じゃねーか。クソ……ッ!!」
自動書記の存在をあまりに軽く見ていた。
王都で二回ほど対話したが、あんな軽い態度で向き合えるほど生温い相手ではないのだ。
下唇を噛みながらミハルは呻く。
「何か打開策は? さすがにいいようにさられっぱなしってのは気に食わねぇ。それにこれ以上周りに迷惑はかけたくない」
「あるよ。打開策」
Kは呆気からんと答えた。
「コミュニケーション。まずは訊くところから始めるのがセオリーでしょ」
「訊くって……まさか、自動書記の中に潜んでいるっていう霊と意思の疎通でもしろって?! そんな無茶な!」
思わず声を高めて詰め寄るミハルを、Kは両掌を胸の前に立てて抑える。
「無茶ではないさ。よし、じゃあこうしよう。この数日ミハルに課題を出す。課題内容は自動書記(の中に憑依した死霊)との対話及び、信頼関係を築きあげること。契約や制約に関して触れられたら僕としても助かるかな」
「待て待て待て待て、ちょっといきなり過ぎだって! 向こうが上なら対話の余地すらな──」
「現状が気にいらないんだろ?」
慎重に事を進めようとするミハルに、Kは容赦無く焚き付ける。
「──だけど」
「やるしかないんだよミハル。自動書記は枷にはめていなければ、単なる厄災だ。ミハルがそれを所持している限り、管理する義務がある」
Kの言っていることはもっともだった。
これ以上、ミハルが何かしらの言い訳を考えて後退しようとも、Kは引き下がらないのだろう。
「なぜ?」と問えば、「割り切って考えろ」とKはそう言うのだ。
自動書記。
ミハルの右腕となり、ミハルの記憶を弄った謎の被造物。
結果論にはなるのだが。
考えてみれば王都で早々にショルダーバッグを手放していたら、ミハルはあの時、例の大通りでエミリと遭遇することもなく、未だにどこかを彷徨っていたかもしれない。
なんの因果かミハルが今、こうしてKと話ができているのも自動書記のおかげといえばおかげなのだ。
ふっと。
ミハルは肩から力を抜いた。
全てはどこから始まり、どこへ向かっているのか。そして、どんな思惑や信念が絡まっているのか。
ミハルがそれらすべてを知るのがどれほど先の未来なのかはわからない。
ただ、一歩踏み出さなけれな何も始まらないのは明確なことだった。
自分の意志で、確固たる意思をもってまずは一歩足を前に進める。
今度こそ本当の意味で時を進めよう。
だから。
ミハルは意を決して、言った。
「わかった。やるよ」
大きくはないが、強い意志がこもった声だった。
◯
ほんの余談だが、ミハルの意思を宣言してからすぐのこと。
Kは何気ない質問をミハルに問いかけた。
金髪イケメンは的外れなくらい気楽そうな調子で、
「ミハルはこれから先どうしたい?」
「これから?」と鸚鵡返しする視線の先。
ミハルは見たものに思わず「うぉいッ!?」と素っ頓狂な声をもらした。
いつの間にか、Kの自動書記は自動的に動いている。
親指と人差し指が輪っかを作ったと思えば、中指と薬指がねじれの位置で関節を絡ませたりと。その五指が、ただ握って開くにしては奇妙な並びで交差する。
「……そりゃあ、まずは自分の正体を知りたい。けどさ」
どかりと窓際のハンモックに腰を預けて、ミハルは浅く息を吐いた。
「けど?」
続きを促すKに対し、ミハルは本心を包み隠さず言葉を選ぶ。
「現状、俺は公安の保護下──つまり、しばらく自由に動けないんだろ。危険要素を存分に持っている俺だ。さすがに立場ってもんは分かる」
「へえー、肝が座ってるじゃないか。まるで今から煮るなり焼くなりしてくれって言っているようなもんだろ、それ」
くっくっと肩を揺らして笑いながらKは言った。
「で、どうなんだ? そこんとこ」
「どうしたものかな」
Kは腰を捻り、ミハルを見下ろす。
「僕もエミリもミハルが危険な存在ではないと思っている。いや、すまない……少し違うな。正確には思いたい、だ。例えばの話、いつ何時君が別人格とやらに体を乗っ取られるか、もし乗っ取られた場合どれほどの事態に発展するか予想もつかないからね。とにかく、今のミハルは不確定要素が多過ぎる」
Kの目には、真剣さと切実さがあった。
不確定要素が多いということは、それだけ危険要素が多いということ。至極当然のことである。
ここでいくらミハル自身の身の安全性を訴えてたって、何も解決しない。
「……ぐうの音もでねぇ。まったくその通りだ。最初から俺がやらなくちゃいけないことは決まっていた。何を今までうじうじしていたんだが」
「ずいぶん覚悟か決まったって顔だね」
「俺はやるときゃやる奴なんだぜ。やってみせる。いや、完璧にやってやるよ」
自分に言い聞かせるように。
これからどんな苦難が立ち塞がろうとも、必ず乗り越えてみせると。
冷える新月の夜だった。
もう話すべきこともないと判断したのか、Kは軽く伸びをすると、屋内の方へと歩き始めた。
ミハルにゆるく手を振りながら、
「じゃ、そういうことでよろしく。課題の件だけど、あまり焦らずにね。死霊ってのは実に厄介な性格だからさ」
「あんましビビらせんのは勘弁してくれ」
「でも、君はそいつと対話しなきゃならないんだぜ。向こうにペースを握らせるなよ。あらゆる手を使って誘惑してくるぞ」
「死霊つーか、悪魔じゃね」
制約の内容が不明である為、口に出しては言えないが、王都二周目以降、ミハルに語りかけてきた例の死霊。
高貴で古風な口調が脳裏に浮かんだ。
奴との思い出はあまりいいものがない。というより、むしろ悪いことばかり。
なにせ、ミハルの意識を一時期乗っ取っていたという可能性も出てきたため、気味が悪いことこの上ないのだ。
思い出しただけで鳥肌が立ち、ミハルは右肩の二の腕を激しく擦る。
以前とは違い、あのふざけた右腕の正体がはっきりしたことは結構。
だとしてもやはり、あの得体の知れなさは異常だ。
「うーん、悪魔か。言えてる……でも君の右腕は──」
扉の取手に手をかけたKは、
苦虫を踏み潰したような表情のミハルに遠慮なくこう言った。
「悪魔以上に厄介かもね」と。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
急遽始まった飲み会は夜遅くまで続くかに思えたが、Kとテラスで話している間にお開きになっていたようで、落ち着いた雰囲気に様変わりしていた。
今は給仕ロボがグラスや食器を忙しく片付ける音が涼しく響き、賑やかだった団欒の余韻は感じられない。
部屋に残っていたのはエミリだけで、リオ、カイル、イツキの三人の姿は見当たらなかった。
先に各自の部屋に戻ったのだろうか。
L字型ソファーで体を休めていたエミリが小さく欠伸をしたことで、ミハルの口からも釣られて大きな欠伸が生み出される。
Kは軽い足取りでミハルに歩み寄ると、両手でパチンと大きな音を立てて、
「ま、とにかく。今日は色々あったことだし、ミハルも病み上がりだ。今晩はぐっすり疲れを取るといい」
「明日から本格的に活動を再開するとして……とりあえず、お世話になります。俺はあの部屋で寝ればいいのか?」
「そうだね。しばらく君の部屋として好きに使ってくれて構わないよ。何かあればエミリに聞いてくれ。僕は明日から数日ここを留守にすることになるからさ。それじゃあおやすみ」
続けざまにそう言うと、金髪爽やか長身は風のように退室。足音も立てずにどこかへ消えてしまった。
ミハルは手を振りながらはおだやかに苦笑し、エミリは呆れたように吐息。
何はともあれ、これで今日の一日は終了だ。これ以上ミハルが臨むべきイベントはないだろう。
と、ミハルはその場で一回転し、向かう先にあたりをつける。
「この扉から入ってきたっけ?」
「そっちは上に繋がる通路。ミハルはこっち」
この隠れ家という居住スペース。
実に快適なのだが、やけに広く入り組んだ構造をしているため、方向感覚が狂ってしまいそうになるのだ。
結局、エミリに送ってもらうことになった。
目覚めて半日、ずっとお世話になりっぱなしで彼女には頭があがらない。
「先輩と何話してたの?」
「ん? まぁあれだ。男と男の約束ってやつ」
「へぇーなんだか熱いね」
「どうだろ?」
帰りは行きの時とは違い、スムーズに進んだ。
途中、隠れ家の案内を挟みながらではあるが、エミリが簡潔に説明してくれたこともあり、あっという間にミハルの自室の前に。
ちなみにエミリの部屋は隣らしい。
何故か知ってはいけないことを知ってしまったような背徳感に苛まれるが、やましい気持ちは全くないのでご安心を。
壁の厚さに関しては少し気になるところだが。
ともあれ、エミリは普段通りのハキハキとした調子で、
「それじゃミハル。おやすみなさい。夜更かししちゃダメだからね!」
「安心しろ。丸一日ぐっすり寝込んでやるつもりだ」
「それは寝過ぎ。でも仕方ないか。う〜ん、分かった。明日の朝ミハルの服を用意するけど、まだ起きないようだったら外に置いておくわ」
「んじゃ、モーニングコール待ってます」
「はいはい、キツめなのを用意しときます」
「マジで! なんかテンション上がるな!」
「でも、ほんとに身体は大事にしなきゃダメよ」
「心配サンクス。いい夢見ろよ」
なんだかもうミハルの癖になりつつあるサムズアップを送る。
「ミハルもね」
「おう」
爽やかにエミリと会話を終えたミハルは、彼女が部屋の中へ消えるまで笑顔を絶やさなかった。
エミリが扉の向こうへ消えると同時にどっと疲れが押し寄せた。心配症なエミリのことだ。きっと少しでも弱いところを見せたら、問い詰められる。
いつだって、自分のことより他のことを優先する。
エミリはそんな優しすぎる心の持ち主なのだ。
ふと、そんな彼女の性格が見覚えのない誰かの面影とかぶさったが、瞬く間に睡魔が襲い、うやむやになった。
「なんでこんなに疲れなきゃいけないんだか」
愚痴をこぼながら、自室のドアノブをひねる。
「──え?」
ミハルが室内に入ってからその違和感に気づくのに秒もかからなかった。
真新しく記憶に残っていたこともあり、部屋に入ってまずは“それ”を視界に入れようと決めていたからだ。
ミハルは絶句する。
あるはずのものがない。
あるべきはずのものがないのだ。
何が起こったのか?
ベッドの端に置いてあったはずの右腕は綺麗さっぱり消えていた。
【information】
●瓜生イツキ
[特異九課所属・上等監察官/C4構成員]
・34(12/3生)男
・Blood type:O
・Size:192cm/91kg
・Hobby:部屋の掃除、裁縫
・Automatisme:Eric[エリック]
・最近気付いたこと:潔癖症かも
・好きな物:タバコ




