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リピーテッドマン  作者: 早川シン
第二章「underground」
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第二章5話 『苺タルト』

 

「──追放者(エクシリアド)……それが俺の正体……なのか」


「といってもそれは君の謎の一部分であって、本質とはまだほど遠いんだけどね。あと少し下準備が必要だから、しばらく僕の話に耳を傾けてくれると助かるよ」


 ようやく己の核心に触れた話題に入り息を呑むミハル。無意識のうちに喉の粘膜がはりついて、喉が渇きを訴えてくる。

 ベッド横に置かれたコップを掴むと、一気に氷が溶けた冷水を胃に流しこんだ。ほっと一息、清涼感が体の隅々まで澄み渡っていく。

 その一部始終を真横で見ていたエミリが、


「今、すごーく緊張しているでしょ?」


「そんなに顔に出てた?」


「そりゃもうはっきりとね。挙動の一つ一つから心の声をナレーションしてあげられるくらいには」


「ちょっなんかヤメて! そこはかとなく恥ずかしい! 俺はそんなピュアじゃねーんですって!」


 羞恥心に苛まれる少年を前に、エミリは飄然と腕を組んで背もたれに凭れて浅い息を吐く。

 先ほどの女の子らしい仕草から一転、このような態度を取るものだからいまいちエミリの性格が掴めない。


 わずかに沈黙し、やがて口を開く。


「分かってる。受け入れなきゃいけないんだよな」


 現世から異界へと追いやられた者。要は現世からこの世界へ飛ばされた者、ということだ。


 つまり、ミハルの身に起こったことに当てはまる。

 三日前の王都でここが異世界であると認識した時は『転生か転移かもしくは召喚か?』と勝手に思考を張り巡らせていたが、確かにその筋で正解だったようだ。

 といってもそれくらいしか推察できないのも事実。壮大な雰囲気がある割には味気ない内容に苦笑する。


 ともあれ、


 呼び方は違えど、確かに“追放者(エクシリアド)”とKは言った。


「砂糖はひとつ? ふたつ?」


「ええと……ひとつで」


「わたしは砂糖なしでお願いします」


「お、エミリ。ブラックで飲むんだ」


「えっへん! 大人ですから。苦いのはへっちゃらよ。ミハルはお子様ね」


 ドヤ顏&腕組みというオトナなおねーさんの風格を出すエミリ。

 そんな彼女の額には冷や汗が浮かんでいる。不意にミハルは真顔で、


「メロウブレンドってかなーり苦かったような」とでまかせを呟く。


「えっ⁉︎ そ、そうなんだ。ま、まあちょーーっとだけならお砂糖も……ありかな」


 途端に慌てるエミリに、ミハルは笑いを咬み殺す。何ともまあ、わかりやすい。

 可愛かったのでこれ以上追求しまいとほくそ笑むミハルである。


「安心してエミリ。メロウブレンドはマイルドな酸味と柔らかな甘味が特徴だから、それほど苦くはないよ」


「へえーそうなんですね。──って! ちっ違いますから! あたし別に苦いの嫌いじゃないないもん! 二人ともからかわないでください!」


「へいへい分かってやんすよ姉御」

「ぱねえっす姉御」


「あああっーーもーー!」


「ウェーイ」と拳と拳でグータッチ。

 なかなかノリの相性が良いミハルとKであった。


 連携のとれた小芝居を挟み、ほっと一呼吸。


 Kから渡されたカップを慣れない左手で受け取ると、香りを楽しむなどというキザなことはせず一口飲んだ。

 確かになるほど、Kの言う通り苦味はほとんど感じられない。飲んだ後でなんとなく気づくぐらいだ。

 代わりに酸味ははっきりと舌の上で堪能できる。木の実の香りもほんのりと香った。


「コーヒーを飲みつつ、続きの講釈と洒落込もうじゃないか」


 指を順に折りながら、Kは言った。


「“追放者(エクシリアド)”、“漂流者(エトランジェ)”、“先導者(イニシエーター)”。本来はもう少しだけ細かく分かれるが、そこまで深く知る必要はない」


「全部なんたら者ってつくのか。なんか犯罪者っぽい響きが苦手だな」


「その呼び名を付けたのはお堅い上層部の連中だから見逃して……ま、僕もミハルの意見に賛成。ちなみに良い意味でもないよ」


 まだ湯気の立つカップに二、三度息を吹きかけ、飲み口に朱色の唇をおっかなびっくり付けるエミリ。

 ミルクも砂糖も入れていないままのホットコーヒーをちびりと一口飲むと、酸っぱそうな顔をした。猫舌らしく、舌をちょろりと出している。


「僕らの職務に関して軽く触れたよね」


「犯罪シンジケートとか非合法組織とか……つまるところ悪い奴を取り締まるってことだろ」


「そう。その悪い輩ってのが次の本題に繋がるキーポイントだ」


 その悪い輩が指すことが何を意味するのか、ミハルが今最も気になる点の一つだ。と同時に、なんとなく次の内容が予想できる気もしていた。

 Kは自分のカップにコーヒーを注ぎ、満足顔で一口啜った。


「問題の発端は“亀裂(クレバス)”の存在が明らかになり、しばらくしてから始まった。どんなに世界や環境が変わろうがヤツらは一定数存在する」


「そのヤツらってのがなんたら者と呼ばれているってことか」


 とその先を繋げるミハルに、Kは首を縦に頷いた。


「三つ呼び名をあげたけど、ここでいうヤツらは二つに分類される。まず、一つ目が“漂流者(エトランジェ)”。彼らは現世と異界を行き来して不当な取引を行っているんだ。主に未開武器や異界の技術を扱っているから異界専門の武器商人と言うのかな。とにかく、“大終焉(ジ・エルフィナル)”以降、異界との不要な干渉は異間協定によって禁止されているから立派な犯罪者さ」


「異界専門の武器商人、不当な取引き、異界との干渉禁止……ね。気になる単語ばっかだけど、その“漂流者”の具体的なイメージはできたかな」


「危ない連中だと認識してくれたのなら結構」


 一息ついたKはミハルのベッドの端に腰掛けると、二口目を啜りミハルの方へ腰を捻った。


「そして二つ目が“先導者(イニシエーター)”。これも厄介な連中だね。この手の輩は異界の異邦人を現世へと導き、犯罪を行っている」


 ようやく人肌程度まで冷めたのかエミリは再度カップの縁に口をつけた。

 コーヒーが彼女の唇を艶やかに濡らし、喉に入っていった。こくりと喉が上下して、後を追うようにもう一度ゴクンと音が鳴る。


「彼らの厄介なところは異界の仕組みや亀裂に関して詳しく熟知していることだ。秘密裏に事を企てることが出来るから追う側としても一苦労さ」


「“漂流者”にしろその“先導者”にしろ、危険な連中だと」


「だね。僕らみたいな立場の人間しか中々遭遇しないし、うまくこの世界に溶け込んで動いているからそう簡単には出くわすことなんてない。もちろんミハルのような存在とも……いや、ミハルはかなり珍しいケースか」


「希少種みたいな言い方っすね」


「それは失敬。あ、コーヒーのおかわりはどう?」


「遠慮しとくよ。お腹がチャプチャプだからさ。一杯でも目はシャキッとした」


「みたいだね。目つきが少し鋭くなってる」


 エミリの昼食のおかげで水は嫌というほど飲むことになったのは言うまでもない。

 今晩は寝る前にトイレでしっかり用を足そうと思いながらKの話に思考を集中する。


「で、最後の異端者に関して。君に関係する話だ」


「待ってました! ようやく本題か!」


 なぜか緊張してしまい、姿勢をただし、寝衣の襟の皺を直すミハル。

 その仕草に難しい笑みをこぼしながらKはカップに口をつけた。

 飲んで、息を吐き、底が見えないコーヒーの波を見下ろす。


「“追放者……とは現世から贈られし強力な権能を有した者のことを指すんだ」


 ミハルはポツリと呟いた。


「強力な権能って?」


「ミハルも一度見ているはずだ。三日前の教会、覚えはないかい?」


 ミハルの騒がしかった思考はそこで静まり返った。見ているもなにも、奴とは命の削り合いまでした関係だ。右腕をこんな状態にしたのも奴だし、忘れるはずがない。


「あの怪物の正体が何か? 君は知りたいはずだ。順を追って説明していこう。まず、追放者には皆揃って一つの共通点がある」


「共通点……」


「彼らはこの世界に干渉する際に強力な権能を付与されているんだ。それは単なる力の強さなどで測れるものではなく、世界の均衡を崩しかねないレベルのものさ。

 ミハルはこれを聞いて焦ると思うけど、安心してくれ。そんな馬鹿げた権能が覚醒でもしたら、とっくの間にこの世界は崩壊しているよ」


 権能。

 ミハルが“追放者”だとしてその権能がすでに備わっているのだとしたら、何があるのだろうか。


 ──アレがそうだと仮定すると、どうなる?


 Kの話に耳を傾けながらも、ミハルは過去を振り返って、同時並行的に思考を巡らせる。


「じゃあ、どうして“追放者”と呼ばれる者達の権能が覚醒しないのか。なぜだと思う?」


 淡々と言うと、Kいっとき沈黙した。

 間が空いたが、ミハルは何も答えられなかった。


「真の覚醒に辿りつけない……厳密に言えば、権能の力が強大過ぎるがゆえに当人ですら扱えなくなってしまうからだよ。権能に飲み込まれて制御できなくなる。覚醒というよりは暴走だね。その結果、破壊のかぎりを尽くすべく変貌したのが君が三日前に相見えた怪物の正体だ。(death)繋がる(connect)(human)──死繋人と僕らは呼んでいる」


「しけいびと……」


 ゾッとする話だった。

 “追放者”とは単に異界に迷い込んだか弱い子羊とは違う。そんな可愛いものではなく、腹に爆弾を抱えた危険な存在だ。

 その危険な要素を含む存在にカウントされているというのなら、後は濁流のスピードで行き着く答えは一つしかない。

 記憶喪失の少年とは、ミハルとは、この世界で祝福されるべき人間ではなく畏怖される存在であり、害をもたらす存在なのだと、明らかになった真実に愕然とする。


 あれ、とミハルは思った。身体がピクリとも動かない。まるで背中に銃を突きつけられているような気分がして身動きが取れなかった。

 思考が止まるというのは脳味噌が溶けたように感じるのだなと初めて実感する。


 唇を動かしてその疑問を問いかけることすら怖かった。

 乾いた唇を舐め、感情を言葉に乗せないように口を開き、


「じゃあ、俺もその“追放者”に属するってことは……いずれあんな怪物みたいに……暴走しだすってことなのか? ちょっと……待って……くれよ。それって……さ……俺は……誰よりも危険な奴ってことだろ」


「違うよ」


 ミハルの震えた問いかけに、Kは即答した。


「君は追放者ではあるけど、一部他とは違う点がある。だから僕はミハルを珍しいケースと言ったんだ」


 底に溜まった残りのひと啜りを飲み干してからKは答えた。

 ここまで危険な要素を持つ追放者という分類に入りながら、ミハルは彼らとは異なると言われる理由。


尸霊人(バスタード)


 Kはミハルをそう呼んだ。


「君は半“追放者”。死繋人になりかけた半端者さ」







 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇







 ──現世から異界に干渉する者はミハルのような存在だけではない。例えば……




 聖王国リオスティーネ//王都リオネ/娼館街東区/とある娼館




 金と性欲に塗れた男と女が集う場所。

 普段であれば午後から夜遅くまで香の薫りと性欲に溺れた男女の声が賑わう館だが、その日は様子が違った。

 昼過ぎではあるが、娼婦の一人も出入りすることなく静けさに包まれている。

 どの階も暗く廃墟のような雰囲気なので、異変に気付く者がいたかもしれない。しかし、午前中から夕方まで人通りの少ない娼館街。その前を通る者は一人もいなかった。


 そんな中、娼館の一室で呟く男がひとり。


「オマエらはよォ……死に急ぎすぎだ。頭冷やしてから出直してこい」


 男は、胴体で真っ二つになった屍の前でそう吐き捨てた。館内を満たしていたのはお香ではなく、死臭だった。

 くすんだ灰色の壁にもたれるようにして寄りかかった屍体からはまだ新鮮な血と臓物が溢れだしている。

 ミネストローネのような色味を持つ血溜まりから足裏を引っぺがし、半歩後ろに下がって浅い息をつく。


「クソ萎える」


 銀髪を掻き毟り、欠伸をしながら一言呟いた。

 身長は高く、肩幅もあり格闘家のような佇まいだった。


 黒いジョガーパンツに藍色のシャツを着こなす彼は、その上に黄色いレインコートを羽織っている。

 首元まできちんとファスナーを上げているのは彼の几帳面な性格からだ。


 レインコートの表面にこびりついているのは水滴ではなく、返り血。

 これでもかというほど黄色の下地についた血糊は無味乾燥な現代アート作品の雰囲気を醸し出している。


「また汚れちまった。洗濯が面倒だ」


 絶命の叫び声も上げられない屍の網膜には、影で半分隠れた男の顔と、黄色いレインコートの光沢が焼き付いていた。

 魂の消えた、すでに息をしていない屍人に一瞥をくれながら、


「で、残りはアンタだけだぜ。オッサン」


「こ、こんなの聞いていないっ! 何なんだ、これはっ!」


 喚き叫ぶ男は50過ぎだろうか。大人という身分を忘れて、赤子のように泣いている。


 血が混じった唾を勢いよく飛ばし、額に青筋を貼らせ、目尻を吊り上げながら全身でこの状況に張り合っている。

 その表情は己のプライドなどというものはとうの昔に捨てており、今残っているのは生にしがみつく動物的な本能だけだった。


「あ? 見ての通りだが、アンタの目ちゃんと機能してんのか? そんなに気になるってんなら殺す前に目ん玉くり抜いて確かめてやるけど、どうする? これでも昔は医者まがいのことをやってたんだ。安心しろよ、な」


「ふざけるのもいい加減にしやがれクソボケが!」


 左手でレインコートのフードをかぶり直し、聴覚を研ぎ澄ませる。三軒離れた娼館での掃除も終わったころだ。

 バディのショウが和かな笑顔で戦利品を見せにくる。

 殺した屍から溢れだす『死の香り』というやつを自前のカプセルに収集しながら「セーンパイ☆ 新鮮なやつをゲットできましたよ!」とか言ってくるに違いない。


「話と違うじゃないか。俺はあんたらのボスの言う通りに動いただけだ。なんのヘマもしてねえ。注文通り、偽装タグ付き銃火器を5挺、確かに取り寄せただろ?」


「ああ、そうだな。アンタはなんのヘマもしてねえよ」


 適当な相槌をうちながら、肩をすくめる。

 靴底についた血糊を床に塗りたくるような動きをしながら無感情に言い放った。


「じゃ、じゃあなぜだ? なぜ俺がこんな仕打ちを受けなくちゃならない?」


「さあ……ボスの気分じゃねーの」


「は? はあ⁉︎ お前なに言って──」


「あーキモいウザいめんどくさい。ぐちゃぐちゃうるせえなあ。最近耳掻きしていないってのにアンタの声は雑に響くんだよ。うるさすぎ」


 急に声に苛ついた感情が宿り、床に擦りつけていた靴底が大きな音を立てた。「ヒィ」という男の情けない声が後に続く。

 天井にも撒き散った血しぶきが赤い水滴となって床へと垂れている。

 その一滴が黄色いレインコートのフードに付着した。


「いっつも思うんだけどよ。オレが殺しにいく連中はアンタみたいのばっかなんだ? 毎度毎度、死に際になって急にごねだす。思考が甘々のガキみてえによ。これ、おかしいよな。年中苺タルト食ってる気分だぜ。吐くっつうの」


 天窓から差しこむ緩やかな昼下がりの陽光が薄暗い部屋の中を明るくする。

 レインコート男の背後の壁には鼻から先の頭部がない屍体が二つ。仲良く肩を寄せ合ってもたれている。彼女らの口元はどこか薄笑いを浮かべているようにも見えた。


「でまあ、そんな甘ったれたタルト野郎を処分するのが俺の仕事でさ。アンタらを殺しにきたわけ。ほら、なんだ……アレだあれ。味が不味くなったら来るやつ……」


「消費期限?」


「ああ、それそれ。そう、消費期限。アンタは腐ったタルト。用済みなんだわ」


 頬骨から顎にかけて長く深い溝が両側へグイッとつる。

 爪先で床を蹴るのも飽きたのか、レインコート男は一歩近づいた。粘着質のある不快な音が怯える男の鼓膜を引っ掻く。ひどく動揺し、腰の力が抜け、尻から倒れ込んだ。


「でもな、アンタの言い分も分かるっちゃわかる」


「な、ならっ……今回は見逃してくれ……頼む」


「シー落ち着け。でな、オレはボスからアンタ宛の手紙を渡されている。まるで初めてのお使いみたいだろ。笑っていいぜ。オレも自分で笑った。なに考えてんだよって話だよな。ボスの口癖はいつもこうだ。『人生まともに生きてりゃいつかは狂っちまう。だから俺は誰よりもまともだ』って。意味不明だろ。しかも、それを気味悪い笑顔で言うんだぜ。鳥肌だっつうの。

 そんなセリフが似合うのはニヒルなキメ顔が似合う悪党だけ。ボスがやると急にB級映画っぽくなるもんからつくづくセリフってのは人を選ぶよな」


 男は息継ぎなしに喋るだけ喋り、そこでやっと深く息を吸った。


「で、その手紙がこれだ」


 男の懐から取り出されたのは一通の便箋。四つ折りになったそれは皺くちゃになっていた。血塗れの手で面倒くさそうに広げると、親指の先を歯で躊躇なく噛み切り、封の印の上に拇印した。

 すると、不思議なことにその便箋は男の手の平の上で生きているかの如く変形し始めた。山折り、谷折りが繰り返され、やがて一つの形へと折り込まれていく。


「白ヤギさんからお手紙ついた」


 ものの数秒で手乗りサイズの山羊が4本足で立っていた。


「な?!」なんだこれ、と叫ぶ途中で、第三者の声が重なった。


 折り紙の山羊。

 鳴くことしか知らないはずの動物の口からしゃがれた男の声が聞こえたのだ。


 〈──やあどうも。バレンタイン君。万年酸欠状態のお身体は元気かい? 俺様は元気さ。今朝も温かいホットミルクでお目目ぱっちり。健康的な生活ってのは良いものだ。たま〜に人間共が羨ましくなる。どうせ折り紙越しの君の顔は酷いもんだろう? 四六時中性欲に溺れているからそうなるんだぜ。不健康な生活は人生を壊す──〉


 魔法の紙で折られた山羊の口は上下にパクパク開いている。

 人面犬ならぬ人面山羊である。趣味が悪すぎると男は思った。


 〈──ところで何でこの俺がキレているかお分かりかい? 心当たりはあるだろう? その他のバカ共と裏切る算段を立てたりだとか、見返り欲しさに烏に情報を売ろうとしたりだとか。

 デカいプレゼント(娼館)があるってのに、欲張りな野郎だよ君は。

 欲望に忠実なことはいいが、信頼を裏切るのはダメじゃないか。健気な俺様のハートはズタズタさ。まあそれを見越して君に今の役目を与えたわけだが──〉


「そ」それは、とか言うつもりだったのだろうか。男の目が丸くなった。

 人は嘘がバレるとなにかしらの決まった動作を起こす。どんなに頭の回転が速い奴でも些細なそぶりを見せる。

 喉がひくつき、呼吸が変わったのをレインコートの男は見逃さなかった。

 こいつよく今日までこの仕事ができたもんだな、と耳にかかった銀髪を触りながらそう思った。


 手乗り山羊のリズミカルな喋りはまだ続く。


 〈──俺様のやりたいことリストの一つは達成されたんだがね。物騒なこの世の中用心し過ぎることはない。がしかし、何のチャンスも与えずに終わらせるのは可愛そう。だから、フェアにいこうじゃないかバレンタイン君。コイントスだ。

 表がでれば継続、裏がでれば切り捨て。朝食作る片手でささっと済ませてはい決定──〉


 山羊の口からコインを指で弾く音が聞こえた。直後、パチンと手の甲を叩く音が続いて、


 〈──残念だよ。バレンタイン。君とはここでサヨナラのようだ。最期に心のこもったイカす一言を送りたいとこだが、俺様は今からチェスの時間で忙しい。日課でね。ラブの奴に49勝50敗で負け越しなのさ。今日勝たなくちゃ俺様の機嫌はどん底だよ。それじゃあご機嫌よう……‥〉


 情緒不安定なテンションで響く声はそこでピタリと止まり、手乗りサイズの羊は内側からひしゃげて、粉々になった。

 花吹雪の如く舞い落ち、血で染まった床の一面に散らばった。


「だとよ。あんまし意味のない時間だったな。アンタも所詮は駒の一つってことさ」


「ち、ちがうちがうっ……こんなの違うっ……俺はこんなこんなところでくたばるはずがないんだっ!」


 男の目には覇気がない。肩が震えている。嗚咽するかのように呼吸を荒げながら「こんなの間違ってる!」と大きな声を出した。糸を引いた唾が溢れ落ち、鼻汁と共に喉を伝っていく。

 レインコートの男は、もうその反応は飽きたという風に苦笑した。


「オッサンよ。最期にいいことを教えといてやるぜ」


「な、何」


「いいか、世の中の全ては必要十分で成り立っている。金も権力も信頼関係ってのも全部それだ。オレだってそう。ボスはオレを必要としていて俺もボスを必要としている。ボスからオレ、オレからボス。ほら、必要十分は満たされているだろ。簡単な仕組みじゃねえか。意外と世の中ってのは単純にできてんだな。そんで、アンタも今まさに必要とされている」


「何にだっ!!」


「そりゃあーあれだ……世界の理ってやつにだよ。おそらくな。だから、アンタの死は無駄にはならない。きっといつか見知らぬ誰かの幸福に繋がると思うぜ。なんだか泣けてくるじゃねぇかオッサン」


「良いわけがないだろうが! 死んでたまるか! 俺は絶対的な勝者だ! こっちまできて掴んだ勝利だぞ! ふざけるな!! 生きて生きて生きぬいてやるっ!!」


「はぁそりゃ結構なことで……お、そろそろ時間か」


「……時間?」


 レインコートの男は自分の頭を指で小突きながら淡々と答えた。


「てめェの頭部はもう処理済みだぜ。ちょうど5分。頃合いだ」


 再び男が何かを喋ろとした瞬間、顔のど真ん中に細く赤い線が浮かんだ。

 徐々にその線は赤みを増し、震える男が息を吸い込んだ瞬間、鼻から上の頭部はずり落ちた。

 見開かれた男の目は分離した頭部ごと体と別れを告げる。


「あばよ」


 いつの間にか、男は“動物”から“静物”へと化していた。もう何も喚かないし、動かない。

 最後の屍体が痙攣して仰向けに崩れ去るのを眺め終えると、レインコートの男は口笛を吹きながらおその部屋を後にした。

 裏口へと続く廊下には綺麗に切断された屍体があちこちに転がっているが、男はつまづかないように器用に移動する。

 彼の口から奏でられているのはプッチーニのオペラ『我が名はミミ』だった。


 きっかり一節を吹き終えると黄色のレインコートを脱ぎ捨て、裏口入ってすぐの所に置いてきたバッグの中に押し込める。

 一通り着替えを済ませると、ようやく外に出た。照りつける陽光がまぶしい。


「セーンパイ! 遅〜い遅すぎ! 待ちくたびれた〜」


 案の定、扉の向こうにはショウが待ち構えていた。

 寝起きで両手をあげて背筋を伸ばすような仕草をしながら小さく欠伸をしている。

 濡れ感のあるウェットなホワイトアッシュの長い髪。その灰色が反射する光に目を細めながら、男は答えた。


「うるせえな。時間通りだろ。つーかお前その服装やめろ。目障りだ」


「今流行りのファッションだよ。ファッション。セツ先輩ってそのへん疎すぎ」


「お前のセンスは殺し以外壊滅的だ。いい加減気づけ」


 セツと呼ばれるレインコート男は掠れ声でそう告げた。

 地味とはいえど奇抜な服装の男ではあるが、少女の服装もまた奇抜といえば奇抜である。小柄で可憐だがメリハリのついた少女の服装は地肌にクリアレインコートという攻めすぎたもので、靴は赤いブーツだった。

 レインコートの下には娼婦が纏う純白のネグリジェのようなものを着ていて、何よりそれがボディラインを際立たせているのは言うまでもない。

 透明な雨具の外枠はなぜかカラフルな虹色で彩られているので、露出度の高い下着の上に紐を絡めている格好にも見える。じっくり見なければそう錯覚してしまいそうだ。


「純真無垢な女の子にその言い方はヒドくない?」


「純真無垢なガキは死臭を好んで嗅いだりしない」


 彼女の口元は透明のフェイスガードに覆われており、先端には円柱のカプセルが付いている。小型のガスマスクに似ているが、少女が付けるフェイスガードはまた違った用途を果たしていた。


「だいたいなんだよ。死臭をカプセルに入れて収集する趣味って……薬じゃあるまいし。死臭なんて誰だって同じだろ?」


「分かってないなあ。あのね、死臭って人それぞれ違う匂いがするんだよ。殺したばかりの死臭にはそいつの真実が紛れ混むの。あ、この人ってこんな悪事を働いてきたけど、今まで虫は一回も殺してこなかったんだなとか、人の良さそうな顔をしておいて色んな女に手を出していたりだとか、この人巨乳好きのふりしてじつは貧乳好きだったんだな……とか。色々分かるわけ」


「全然これっぽちも理解できねえ話だな。最後の貧乳の(くだり)もいらねえ」


「と・に・か・く絶対ハマる」


「ねえよ絶対。今度からお前の飯のお供は死骸だ」


「ハイハイうゼー。で、これからどうする? いったん戻る?」


 お団子付きのツインテールが可愛らしく揺れた。


「いいや、続けてボスからもう一仕事……久しぶりのエクレア処分だってよ。苺タルトはもう飽きたっつうのに次も胃もたれする馬鹿ときた。口直しにレモンシャーベットが食いたいところだぜ。……ところでショウ……なんで今ブラずらした?」


「え? 鼻血出るかな〜と思って」


「さっさとしまえ」


「あっ! 興奮してんでしょ。センパイがそんなに見たいなら脱ぐけど……悩殺しちゃうぞ☆」


「興味ないね」


「ふーん、そーすか。で、次の行き先は?」


「蔦とパイプ管の迷宮──アーカム。掃除がお似合いの舞台だとさ」


 掃除屋(クリーナー)──(セツ)(ショウ)


 彼らは日陰の闇へと溶け込んでいった。

 一人は血濡れのアイスピックを弄びながら。

 もう一人は口笛の続きを吹きながら。

 気の向くままに、和やかに。




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