第二章1話 『瞼を開けば』
どこか意識の海の底から、名前を呼ばれた気がする。
気泡が弾ける音と共に、はっきりと。
ただ誰に呼ばれたかは分からなかった。
それはとても不気味で、気持ち悪いことで。
不意に誰かに肩を叩かれた気がして、振り向こうとした時。
意識は突如、浮上し始めて────
ミハルは目を見開いた。
目尻には微かに涙が溜まっていて、瞳にはぼやけた景色しか映らない。
左手の甲で両目を拭ったところで、ようやく目の前に飛び込んできた景色が天井であったことを認識した。と同時に自分が今、仰向けに横たわっていることを知る。
「……ベッドの上。ここ、どこだ?」
木目の天井はどこか日本家屋を連想させるが、辺りを見渡したところ、シンプルな洋風の部屋だった。
セミダブルのベッドが二つ。ミハルが寝ていたのは窓側のベッド。部屋の四隅には淡い輝きを放つランプが吊るしてある。
「それに服も変わっている。これ、寝衣じゃん」
ミハルが身に纏っているのは肌ざわりのいい服で、ほんのりと柔和剤の香りもした。
が、忘れてはいけないことが一つ。
「……ってことは俺、誰かに着替えさせられたということだよな。やべぇ、めっちゃ恥ずかしいんですけど。寝てる間にフルチン見られるとか羞恥プレイ以外の何物でもないって」
導き出される事実に悶絶しながら、ミハルは寝台の上で寝返りを打つ。
そしてそのまま、真横に位置する窓の外へ目を向けた。
窓の向こうには緑の木々と白い小鳥がまるで一枚の額縁に納まっているように見える。
その奥には灰色の建物の連なりが見えた。よく目を凝らして見ればパイプのような太い管と木材が組み合わさってできている。
「変なデザイン。景観はよくねぇな」
空はのびのびと、底抜けに青い。
そのあたりで、ミハルの意識は鮮明に機能し始めた。
とりあえず、寝台から下りたミハルはだるみきった体をリセットするため、伸びをした。
爪先から中指の先端までまっすぐに伸ばす。コキリと小刻みな音がして、浅い吐息が出た。
裸足だったため、床のひんやりとした冷たさが、実に心地良い。
「で、二度目のセリフだけど。ここどこよ?」
分かりきっていることは、自分の今いる場所が、どこかの建物の一室であるということ。誰かがここに運びこみ、着替えさせて放置したということ。
その二点だった。
そして、
「右腕……元に戻ってる」
右手を二、三度握り返す。これといった痛みもなければ、深い傷もない。完璧に機能している。
ミハルは安堵のため息をつくが、直後、
「────ッ‼︎」
忘れていた記憶がフラッシュバックした。
今の今まで頭の片隅にさえ置いていなかった過去。つまり、意識を覚醒させる前の出来事。
「蒸気を纏った怪物。俺はアイツに吹っ飛ばされて、そんで……右腕を」
あの時、あの瞬間。自分は死んだと思っていた。それともまた時間遡行をするのかと。意識を失えば発動すると仮定していた例の現象である。
「これは巻き戻ったってことか──」
と言いかけるが、妙な違和感に気づく。
何か物足りない。それがないと時間遡行が発動した実感が湧かない。
巻き戻しをした後、再生ボタンが押されていない感じ。
それは──
「そうだ。爆発音がしない。それに俺が立っているのは、例の大通りじゃない。知らない部屋だ。
ってことはつまり────
────時間遡行は発動していない。そういうこと……になるよな」
じわりと。
ミハルの額に嫌な汗が滲んだ。
この状況が良いのか悪いのかといえば、良い方だと思うが、気持ち悪くはあった。
なにせこれはミハルの知るパターンとは違う。目覚めの良い爆発音もしなけければ、活気のある大通りの存在すらない。
目が覚めて用意されていたのは、心地良いベッドと静かな部屋。まだ傍に誰かが居てくれれば、気休めにはなったかもしれないが、ここにはミハルしかいないのだ。
結論の出しようのない悪寒だった。
足りなさすぎるのだ情報が。
「どうなってんだ一体? それに」
自分以外の二人の少女の存在を思い出す。
忘れてはいけない二人の存在。あの怪物の猛威に晒され、ミハル含む三人は散り散りになったところまでは覚えている。
「エミリ、アイン。二人はどこだ? 俺が生きているっていうのなら」
今、ここで、ミハルが生きていることが何よりの証拠だ。ここが死後の世界というならば話は別だが、これほどリアルに世界を認識できていることからその心配はノープロブレム。
希望があるとすれば、エミリもアインも自分と同じく生還しているという説が濃厚だが、現状が把握出来ない以上、それは単なる楽観的な考えでしかない。
右腕を失い、意識を消失する寸前、それまでの経緯を思い出す。
人差し指、中指、薬指の順で巻き戻った世界の回数を数え上げていく。
「一週、二週、三週目の世界。俺は二度の時間遡行を経てここにいる」
三度目の時間遡行が発動していない以上、そう考えるのが妥当だ。
「三週目の世界、俺の中では実質二度目になるエミリ達との再会──までは良かったんだけど、なんやかんやあって、俺は右腕失ってそのままB A D E N D。
と思いきや、時間遡行は発動していないっぽい。うーん。どゆこと?」
──記憶喪失、時間遡行、治っている右腕。エミリとアインの安否、機械と肉でできた怪物……
ミハルはブツブツと口の中で呟いていた。
片っ端から自分の頭の中にある過去の記憶を引き出し、ありとあらゆる知識を総動員して取っ掛かりを探そうと試みるが。
数秒後、あっさりと諦めた。ミハルの中に残っている知識ではあまりにスケールが違いすぎて、太刀打ち出来なかったのだ。
それほど、今まで体験してきたことは複雑で明確な理由づけが困難で、
「もう一人の俺。確かにアイツは俺そっくりだった。ドッペルゲンガー並みに。そんでアイツはいきなり怪物になって、暴走し始めた……覚えてる」
元は乳白色だったミハルの顔色はすっかり蒼ざめていた。気味の悪い悪寒が背筋を走り、鳥肌が立つ。
未知とはこれほど怖いものなのか。初めて感じる類の恐怖がミハルを包みこんだ。
自分とそっくりの存在の正体。そいつが変容して生まれた機械と肉が合わさった怪物。
「思い出したくねぇ存在だけど、俺はアイツに腕を吹っ飛ばされたんだ。それはもう呆気なく……」
教会での出来事の一部始終は、はっきりと覚えている。
もう一人の自分が異形の存在に変容していく様も、エミリの驚愕に包まれた顔も、割れるステンドグラスの音も、事細かに記憶のフィルムに納まっている。
「まだ生きていることに信じられないってのが本音だよな。奇跡的に倒したかと思えば、死んだふり決め込みやがるし、吹っ飛ばされるし、右腕吹っ飛ぶし……」
と文句を言い始めたところで、ふと、ミハルは違和感を感じた。
そう言えばの話。
何故にあの状況でミハルは腕を失うことになったのか。
黙考するほどでもなく、答えはすぐに出た。
「俺は誰かを助けようとしていた? でもそれはエミリでもアインでもない。……だったら、俺は誰を?」
何かが欠けている。それはわかるのにはっきりと分からない。
いくら記憶の渦をこねくり回しても、同じ光景が浮かぶだけ。誰を助けようとして、右腕を失いかけたのか明確に思い出せない。
たった一日にも満たない記憶。簡単に忘れるはずがないのに。
「クソっ、思い出せねぇ」
ミハルは過去の記憶から大事な存在が消えていると感じていた。
その存在がいなければ自らの行動理念が確立しないような気がして。
いたのにいない。ミハルの記憶の全てから切り取られて消えている。
「確かにいたはずなんだ。もう一人」
未だ記憶障害は回復しておらず、自身の素性については全く分からない。知っているのは己の名が『ミハル』ということだけで────
「ん? えっ?」
突如、焦る思考に電気が走った。
当たり前のように使っていたため、気づいていなかった。馴れ親しんだ三文字。
「俺の名前がミハルって、いつからそうなった? 最初の世界では名前すら知らなかったんだぞ」
三週目の世界でエミリに仮の名として名乗ったのは覚えている。つまり、その前からミハルは『ミハル』という名前を知っていなければ話が成り立たないことは明らか。
いつから。
いつから自分は。
己の名前を『ミハル』と自覚していた?
「一度目の世界の記憶がはっきりしねぇ」
意識が覚醒して、爆発音にビビって、爆破現場前に行ったところまで鮮明に覚えている。そして、その後。エミリと鉢合わせたところまでは鮮明に。
だが、その間に忘れてはいけない出来事があったような気がして。朧げではあるが、確かにミハルという名はその時に──
欠けている記憶に再び手を届かせようとした矢先、それは起こった。
「ぐ……っ」
呻き声をあげて、額に手を当てる。
記憶のフィルムを巻き戻している最中に生じた障害。
触れてはいけない何かに触れてしまったため、それは発生したようにミハルには感じられた。
バランス感覚が安定しない。ぐらぐらと揺れる小舟の上に乗っているような感覚だった。吐き気も酷い。
「ぉえっ……この世界に来てから吐いてばっかじゃねーか」
ずきん、ずきんと。
頭を割るような鈍い頭痛は一度目の世界で体感していたものと酷似していた。
自分の嘔吐物で窒息するつもりのないミハルは、痛む頭を無視して無理矢理身を起こす。
意識を過去の記憶から遠ざけると、その頭痛は引いていった。潮の満ち引きの入れ替わりのようになめらかに。
「とにかくトイレで吐くだけ吐こう。うぇこれじゃあまるで二日酔いに悩むおっさんじゃん。吐き芸だけは様になっていやがる」
とか、まだ軽口を吐けるだけの余力はあるようで、トイレへレッツらゴーのミハルだったが、あいにくその部屋にはトイレは無かった。
部屋の内部にはベッドの他に、テーブルが一つと椅子が四つ。それと簡易的な台所があるだけで、個室のトイレへと続く扉は見当たらない。
「仕方ねぇ。外にあることに賭けるしかないか」
奥にある扉の前に立ち、深く深呼吸。ただ捻るだけの動作に若干の怯えを添えながら慎重に回す。
が、ミハルの眉は思わず寄せられた。
「あれ……ん……開かないんですけど」
右に回しても左に回しても金属が擦れる音がするだけで、ビクともしない。
「いやいやいや、そんなことってあんの? 扉は開くもんでしょ、普通」
と、ツッコミを入れるが、目の前の木の板は何も答えない。当たり前の話である。
外に何か置いてあるのかと、床と扉の間に出来た僅かな隙間から外の様子を伺ってみるが、確認できたのは、この部屋の床と同じ木のフローリングだった。
ひんやりとした隙間風が覗き込むミハルの瞳に直撃し、水分をかっぱらっていく。目をこすったところで、再び立ち上がり、疲れた首を軽く回した。
視野が狭すぎたため、獲得した情報は少ないが、外に障害物があるという可能性は消去できた。
分かっていることは、
「これ、監禁されているよな。まあどっちかって言うと、軟禁だけどさ」
おそらく、この部屋は内部から鍵の開け閉めは出来ない作りになっているのだろう。この部屋の鍵を持っている者のみ外から自由に施錠できるという意味の分からない仕様。
これではまるで牢屋ではないか。
「この場合はやっぱし、外に助けを求めた方がいいのか? 窓から逃げ出すとか……」
開かない扉に背をあずけて、ベッドの隣に位置する窓に視線を移す。
「さすがにそれは横着しすぎだよな。そもそもこの状況での俺の立ち位置が分からないってのが問題だし」
自分が動きづらい状況にいることを改めて理解すること、数秒後。ミハルは次の行動を決めた。
右手の拳と左手の掌を胸の前で合わせ、気合いを入れながら、
「……っし、ここで何もせずに待っていても何も変わらねぇ。こっちからアクションを起こすべきだ」
ということで、180°方向転換すると、腕を振り上げ、
「すいませ〜ん。誰かいませんか〜? いたら返事してくださーい」
と大声を上げながら何度も扉を叩いた。
十回ほど叩いた辺りだろうか。次第に腕を振り上げるのがしんどくなった時、誰かが近づいてくる足音がした。聴覚を研ぎ澄ませ、その足音に集中する。
音が重なっていないことから、一人と判断。
よくスパイ映画にありがちなネタ。
足音だけでその人物の簡単な情報を取得出来るような特殊なスキル。そんな大層な能力は持ち合わせていないミハルではあるが、流石にそれくらいは分かった。
足音は次第に大きくなり、そしてついにミハルの部屋の前で止まった。
ゴクリと唾を飲み込む。
喉仏が小さく波打ち、心拍数が頭に響く。
──来る。
意識が覚醒してから初めて人とのご対面。
その瞬間が今まさに来る。と身構えていたのだが、
「……ん?」
予想と違った展開にミハルは思わず首を傾げた。
今か今かとその瞬間を待ち望んでいるのに、一向に扉は開かない。
立ち止まった足音は再び歩き出すことはなく、扉の向こう側はしんとしている。まるで、誰もいないかのように。
「……怖い怖いビビるって。幻聴じゃあるまいし」
予想外の出来事と不気味な静けさに、ミハルの口調に震えが伝播するが、ここはやはり一人の男。退がるわけにはいかない。恐怖を飲み込み、
「すんませーん。中にいるんですけど、外からしか開けられないみたいで」
と言い切った。しかし、扉の向こう側からは一向に返事がない。
「あの〜、聞こえてます……か?」
もう一度、下の隙間から外の様子を伺うが、誰も立っていなかった。ついさっき、確認した光景があるだけ。せめてもの救いといえば何だろうか?
覗き込んだ視線の先にあるのは向こうから覗き込む瞳で、互いに運悪く見つめ合ってしまうとか。
ホラー映画お約束の展開だが、想像するだけでも心臓に悪い。
「そろそろ笑い事ですまされるレベルじゃねぇぞ」
その時だった。
ガチャリ、と。
鍵のロックが外れる音がした。
同時に金具の軋む音と共に、扉がゆっくりと開いた。
「あ?」
ミハルは勢い余って、扉の向こう側へと上半身が入った。
ようやく狭い部屋から解放されたと思った矢先、
「えっ!? あれ?」
己の瞳に映っている景色に目を疑った。この時、ミハルの表情は困惑というよりも驚愕と表現した方がしっくりきていた。
それもそのはず。
扉を開けた先に待ち構えていたのは、“部屋”。
ミハルの予想では扉の先には廊下があるものだと思っていたが、目の前の光景はミハルの予想とは程遠いものだった。つけ加えて、その光景が不可解な理由。
それはその扉の向こう側の部屋に見覚えがあるということ。
視線を左から右にゆっくりスライドさせていく。
四隅に吊るされたランプ、二つのセミダブルのベッド。窓側のベッドの上には乱れたシーツ。テーブルと四つの椅子、簡易的な台所。そして、扉の横に置かれた観葉植物。
次にミハルは後ろ、つまり元いた部屋の方へと振り返った。
「はぁ?」
そこにはまったく同じ光景があった。
四隅に吊るされたランプ、二つのセミダブルのベッド。窓側のベッドの上には乱れたシーツ。テーブルと四つの椅子、簡易的な台所。そして、扉の横に置かれた観葉植物。
それぞれの配置が扉に関して対称的という点を除けば、異なるところなんて一つも無い。
「オイオイオイ、どうなってやがる?」
部屋が扉一枚で繋がっているというのは珍しくはない。ミハルの元いた世界のホテルなどでもそんな作りが確かにあったが、この部屋はどうみてもおかしい。
この違和感はどんな鈍感な奴でもさすがに気づく。
まず、一つ目は両方の部屋のどこにも外に通じる扉がないという密室空間であること。
二つ目は仮にそのような部屋だとしても窓側のベッドのシーツのしわまでそっくりだということ。
「扉を開けると元の部屋に通じている。別の見方をすれば、俺は外から元いた部屋に入ったってことにもなるのか……アレ?……何言ってんの俺?」
扉を開けた向こう側はミハルの元いた部屋とまったく同じ部屋でした、と実に笑えない状況。
まるでこの扉が鏡として機能しているにも思えなくもない。
「この部屋から出れなくなっている……か」
試しに扉の向こう側に足を踏み入れて方向転換してみるが、目入るのは扉の奥に広がる見知った部屋。
その動作を何度か繰り返してみたが、何も状況は変わらなかった。
逆にどちらが最初にミハルのもといた部屋なのか忘れる始末。これでは何をやっているのかわからない。
扉一枚で繋がった鏡写しもどきの部屋。この現象が何かしらの術を使って為されているとしたら合点がいく。
なぜなら、
ここはミハルの元いた世界とはまったくの別物である。物理現象から科学現象、文化に気候、その他諸々ミハルの常識が通じない世界だ。
非常識なことが起きたとしても、この世界では当たり前のことだって山ほどあるに違いない。
「となると、考えられるのはループ構造か継ぎ足し構造かって思ったけど、そうじゃないんだよな。あくまで扉を通じてだから俺が扉の向こう側を認識するかどうかで変わってくる」
シュレディンガーの猫などの量子力学絡みのネタに繋がりそうな予感。とかカッコつけて考察してみるが、この不思議空間の仕組みはさっぱりだった。
「俺がこの空間に意図的に閉じ込められているとしたら、これを用意した奴の魂胆ぐらいはわかる。ズバリアレだろ、勝手に外に出るなっていう半ば強制的な」
扉の向こう側を開けっぱにしておくというのも気味が悪いため、ひとまず閉めることにした。
扉を閉めることで何か起きたりしないだろうかと微かな期待をしていたが、結果何も起きなかった。
「いや〜真面目にどうしよ? どうしましょ」
扉を背もたれに頭を振り仰ぐ。
そういえば。
扉が開く前に誰かが近づいてくる音がしていたことを思い出す。幻聴でないとすると、あの足音はなんだったのだろう?
「けど扉の向こうはこの俺のいる部屋なんだから、前提としてありえねぇ」
そろそろミハルの頭の回路がショートし始めた時。
しめし合わせたかのように、それは起こった。
ミハルの他に誰もいないはずの部屋の中で、
「おはよう、よく眠れたかい? 青少年」
背後から明るい声がした。男の声だ。
ミハルは突如、声をかけられたため、思わずジャンプ。そのまま『シェー』と叫んでしまうような勢いのまま盛大に尻餅をついた。
そのはずみで扉の横に置かれていた観葉植物が落下して、派手な音をたてた。
ミハルの臆病な反応が余程面白かったのか、ケタケタと笑っている。
しかし、ミハルはそれどころではなかった。
パニックに苛まれる中、ただ一言。
「だ、誰?」
警戒心が一気に上がり、無意識に相手との距離を取る。
黒装束に金髪の男。ミハルの記憶にはない人物。
エミリでもアインでもない。
思い返せば、ミハルが交流した中で、男だったのはタピパンのおっちゃんしかいない。どうも女の子との接触が比率が高いことが明らかになったが、今はどうでもいいデータだ。
──タピパンのおっちゃん、懐いな……
何よりこの目の前の男が不気味なのは、いつの間にかミハルの背後にいたということ。
この部屋の入り口は一つだけ、おまけにその入り口は摩訶不思議な鏡写しの扉。
そもそもついさっき扉は閉めたばかりなのだ。でもって扉を見てみれば開けられた形跡がない。
故に、扉を通じてこの部屋に侵入したという可能性はない。
しかし、相手は何の前触れもなくミハルの背後に回っていた。まるで、最初からそこに立っていたかのように。
──考えられるとすれば、窓から侵入したとかだけど、それはそれでヤバイ奴
そんな訝しむ視線を送りつけてくるミハルに対して、相手は柔らかな笑みを浮かべながら、
「あー、この部屋ね。ちょっといじってあるんだ。見ての通り、一見普通の部屋だけど、扉を境に空間を切り分けている。扉を挟んで外部と内部の境界をずらしているってのが大まかな仕組み。けど、まあ素人には分からないよね。とにかく内部から外にでる手段なんてないし、外部からこの部屋に干渉するには決まった手順を踏まないと入れないってこと。そして、今この扉の鍵は一時的に解除した」
会って早々、口を開いたかと思えば、一方的に話続ける男は「で」と息を引き継ぎ、
「それと自己紹介。僕の名前はK。アルファベッド順で11番目の記号ね。異間公安で監察官をしている」
予想外の登場の割には普通の自己紹介だったため、ミハルの緊張は少し緩んだ。が、彼の自己紹介の末尾の単語に引っ掛かりを覚えた。
確かエミリもそう名乗っていたはず。
「いかんこうあん……」
「そ、異間帯捜査局国家公安部。噛み砕いて言えば、異世界のお巡りさんってとこかな」
そう言いながら、Kと名乗る男は収納された椅子の一つを引きずり、そこに腰を下ろした。高身長の彼が座ると、椅子が小さく見える。
ミハルは異間公安という単語を何度か脳内で反芻しつつ首を縦を傾げて、
「まあ、一応は」
「よろしい、理解が速くて助かるよ」
Kはそっとオトナなため息をついて、
「さてさて、話すことなんていくらでもあるんだけど、おそらく君は今の現状を知りたいはずだ。まずはその辺から説明していこうか。まったく厄介な存在だよね、君は。エミリ曰く記憶喪失のようだし、おまけにミハルという名前。僕は君の正体が気になって仕方ない」
「俺の正体……」
「そう君の正体」
さぞ楽しそうに話す彼は、椅子の後ろ脚二本でバランスを取りつつ、天井を見上げながら、こう切り出したのだった。
見た感じ、喋ることが好きな類の人間なのかもしれない。
そんなどうでもいい考察をミハルがしていた時、それは起きた。
「……あ」
「ん──? どしたの?」
唖然としたままの表情で、ただ、ポツリと。
ミハルはありのままの状況を述べた。
「……腕、取れた」
「マジ?」
「マジ」
沈黙がゆっくりと、車内に降り積もっていった。
『腕が取れた』と言うのはミハルのジョークではない。話を聞いている間に、右腕に何か違和感があるなと思えばその様だったのだ。
いつぞやの時のように肘から綺麗さっぱり取れていた。
これといった痛みは特にない。なにせ当の本人でさえ最初は気づかなかったほど、静かに呆気なくそれは取れたのだから。
「痛くないのかい? それ」
Kは興味深そうに聞いてくる。腕が取れたこと事態にはあまり驚いていないようで、
「僕が気になっていることの一つ」
椅子から腰をあげると、肘から先がないミハルの右肩を指差し、
「君の右腕。なぜその正体が自動書記なのか」
床に落ちた右腕を拾い上げた。
そのタイミングで部屋に入ってくる者が一人。
ミハルのよく知る人物であり、今まで安否が不明だった少女。
彼女は目立つ赤髪のポニーテールを揺らしながら今度はちゃんと扉を開けて入ってきた。
何やら色んな日用品や食材をわんさか詰め込んだ袋を持ちながら、
「あ、ミハル。起きたんだ。三日ぶりだね、おはよう。……って、えぇーーーー‼︎ 腕取れてる、取れてるよっ‼︎ ていうか先輩なにしてんですか?!」
目が点で身に起きた事実を飲み込めずにいる片腕のミハルと、ミハルの右腕を持っているK。そして、この状況に驚愕しているエミリという三人の奇妙な構図の完成であった。




