第一章3話 『名もなき少年は異界にて』
//リオスティーネ聖王国/王都リオネ/商店街南区の大通りにて
──俺は一体誰なんだ?!
少年の第一声はそれだった。
ここはどこだ? とか今日は西暦何年の何月何日?
など問いかけるそれ以前に、彼は自分が何者であるかが分からなかった。
見知らぬ場所に見知らぬ自分──そんな状況に置かれたら誰であれ、恐怖やパニックに陥るものだ。
しかし、実際はそんな感情が湧き上がるどうこう以前の問題だった。
何もこれといった感情が芽生えない。
ただ、淡々と事実を受け入れることしかできない。
そんな状況で少年は無意識に手を動かし、顔を触る。
そしてほっと息をついた。
二足歩行の哺乳類。性別は男。年は肌の艶からおそらく10代後半。
彼は次に自分の特徴、服装を確認する。
長いとも短いとも言えないアホ毛がピンと目立つ髪型でサラサラな前髪。体幹はしっかりとしているため、何か運動でもしていたのだろうか? なんの手掛かりにもならないが……
「うん……普通」
そして服装は青いパーカーに黒のデニムパンツ、白いシューズを身につけ、肩にはショルダーバックをかけている。
しかし、この世界にはあっていない身なりのため、少年は周りの注目の的となっていた。
そんなことは気にもせず、一通り基本情報を収集したところで、少年は状況を整理する。
「これは……記憶喪失ってやつか……」
逆行性健忘。一般的な知識や常識などの意味記憶は保持しているが、意識が覚醒した時点よりも前の記憶が抜け落ちている状態。
そして、何より自分が何者で、今まで何をしてきて、そしてここは何処なのかが分からない。
「ハハっ……妙に落ち着いている自分が怖い」
そんな感想を彼が抱いた時だった。
それは突如起こった。
ドォォオオオオオオオオオオオォォォン!!!
腹を押し付けるような轟音が空間を震わせた。
引き裂くという表現の方が適切かもしれない。大地が唸り、鼓膜が揺さぶられる。
少年も彼の周りを行き交う人々も、皆が驚きのあまり腰をかがめた。
その直後、割れるような悲鳴と叫び声が協奏曲を奏でた。
再びあたりを見渡した時、1kmほど離れた遠方で黒煙が青空に向かって立ち上っていた。
ただでさえまずい状況に置かれているというのに、新たなる面倒事の介入。
普通の人間であれば関わることを避ける事態である。
が、名を持たぬ少年はその場所へと惹きつけられるように歩み始めた。
まるで少年の意思とは関係ない何かが作用しているかのように彼の歩調に淀みは無かった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
名も無き少年は黒煙目指して歩き出したが、周りの様子を確認するぐらいの余裕はあった。
とりあえず確認を終えた少年の感想は、
「一体全体何なんだ……これ……」
少年の周りを行き交う人々の頭髪は少年のような黒髪ではなく、色鉛筆の12色セットが揃うほどに様々。
地味な髪色の少年がかえって目立つ程に、カラフルに埋め尽くされている。
格好に関しては洋風のシンプルな服装がベースの者もいれば、和の雰囲気が感じられるスカートを身につけている女性や、規則で塗り固められているような身なりで、腰に剣を携えている青年も見受けられた。
いまいち世界観が掴めない装いに混乱してしまいそうだ。
洋の要素もあれば和の要素もあるし、ちょうど今横を通った少女を見れば中の要素もある。
既存の文化を無理矢理混ぜた感じ、と言えばいいのだろうか。
とにかく奇妙な景色であることは確かだった。
そんな、これといった例えが見つからないという点から、ふと思いついたのがコスプレという文化。
であれば、なんとか納得のいく話に落ち着く。近年では海外でも大規模なコミックマーケットが展開しつつあるという認識が少年の記憶の片隅に残っていたのはせめてもの救いか。
行き交う人々の顔ぶれからアジア圏の可能性は低いとも推測できた。
「──にしても凄い光景」
なにより、少年がそう疑う理由はもう一つ存在する。
それは仮装の醍醐味──亜人と呼ばれる姿に扮している人影が時たま見受けられたことだった。
頭部にガラスの球体を被っていたり、身体の半分が透明だったり、四肢が煙で構成されていたり、指が三本で腕が異常に長かったり、とまあすれ違うと思わず振り返ってしまう容姿ばかりだ。
何より驚いたのは全長が3メートルもあり、首がその三分の一を占めている異形系もいたことで、作り込みのリアルさとデフォルメに感嘆の眼差しを送る少年であった。
「場所としては、西欧のどこかだな。おそらく」
そう言いながら、足元を爪先でコンコンと蹴ってみる。どうやら、リアルな石畳らしい。
区画を取り仕切る豪勢な建物は全体的に丸みを帯びて、どっしりしている。
重厚な壁と小さな窓、半円アーチなどが特徴的。
そんな建造物もあれば、平面的で整然としていて、左右対称かつ均等なデザインのものもある。
一言で言うと、歴史の感じられる欧州風の建物が主流だった。装いには和や中の雰囲気を感じられたが、建築に関しては洋の要素しか取り入れてないようだ。
最後に、行き交う人々の会話を聞こうと試みたが、何を話しているのか分からない。
外国語であることは間違いないだろう。
──なるほど。これは、つまり……
少年は収集した情報から一つの答えを導き出す。
「俺はどこぞの海外で開催されているフェスティバルに迷い込み中、そしておまけに記憶喪失。そんな感じか。うん……てことはですよ……」
見上げると真っ青な大空が目に入る。
雲一つない透き通るような青みを帯びた空は彼の心とは真逆のようだった。
少年は両手で頭を抱え込むようにして受け入れなければならない事実を嘆くように、
「プリーズ・ヘルプミ────────」
彼の声は名も知らぬ地を覆う快晴の青空に吸い込まれていった。
◯
少年がその爆発があったと思われる現場に辿り着くと、酷い光景が視界に入った。
通りを挟んだ区画の二つ分ほどが消滅して、代わりに四角の大穴が現れている。
真下に大きな空間が広がっていたようで、数本の折れた柱と崩れた階段の残骸が遠目に見えた。
大穴の周囲は人で溢れ返り、悲鳴や叫び声が飛び交っている。
状況を確認したところでミハルは違和感に気づいた。
これほど大きな事故が起きているというのに、消防車や救急車、それにパトカーの一台も姿を現していないのだ。
そして最も彼を混乱させたのが、消防車の代わりに行われている放水活動の様子だった。
「あれ……どうやってんだろ?」
混乱の目で見つめるその先には指揮棒のようなものを回している男がいた。
ポンプに繋るホースを使っているのではなく、広場の噴水から直に水を汲み上げているのだ。
男が手首のスナップを効かせた動きで杖を振るうと、まるで蛇の如く水流がうねり、火元へと流れ込んでいく。
その一連の光景は摩訶不思議で、少年には彼の持つ指揮棒が異様な物に見えた。
“何かがおかしい”
そんなことを感じ始めた時だった。
「おうううっっっえぇぇっ!!?」
少年は口を押さえた。
突如、襲ったのは嘔吐感だった。
胃の中から胃酸が食道をつたって込みあげてくる。口の中には唾液と込み上げてきたものが混じりあい、酸味が広がった。あまりの苦しさに少年はかがみこむ。
石畳に手をつき、吐き出そうとするが口からは唾液しか垂れ落ちてこない。
──気持ちわりぃ……なんだこれっ……
原因は頭痛だった。
なんと表現すればいいのかわからないが、頭を熱せられた金槌で殴られたような痛みだった。
熱射病かもしれない。
とにかくここから離れよう。これ以上ここにいたらどうにかなってしまう。
そう少年が判断した時だった。
「あなた、大丈夫?」
その声は透き通っていて、銀鈴のような声音は少年の鼓膜を心地よく叩いた。
少年はその美しい声のする方へ顔を上げると、思わず息を飲んでしまった。
「────!?」
少年の目の前に立っていたのは一人の少女だった。
一言で表すと彼女は美しかった。
雪のように真っ白な白髪は肩のあたりまでに切り揃えられており、少し幼さが残る小顔は気品に満ちていた。
美しい瑠璃色の瞳の奥には理知的な輝きがあり、きめ細やかな肌は彼女の白髪と同様に儚げで、それがかえって魔性の魅力を生み出している。
身長は少年より頭一つ分低い。
白を基調とした服装は派手な装飾などはなく、全身が白の彼女にはよく似合っていた。
これがもし異なる色であれば、彼女の美しさが軽減していたかもしれないと思うほどだ。
そんな彼女はその美貌を覆い隠すように紺色のポンチョコート(十字の紋章を象した黒紫の刺繍が入った)を羽織っていた。
とにかくその異質な美貌に目を奪われていた少年は、なにも答えることができないまま、じっと少女を見つめていた。
「あの……本当に大丈夫? 私の顔に何かついている?」
再び彼女の口から言葉が紡がれた。
若干顔が赤みがかっていることから少しばかり照れていたらしい。
少年は我に帰ると、やっとこさ口を開いた。
「あぁ……大丈夫。なんでもない」
慌てて表情を整えると、
「その……ありがとう」
少年は、見ず知らずの他人である自分に心配して、声をかけてくれた少女にお礼を言った。
人間誰しも簡単にこういうことをできるものではない。
対して、少年からのお礼を受け取った少女はその美しい顔を微笑ませながら、
「うん。大丈夫そうね」
少女らしい、白くてほっそりとした手を差し出してきた。
「えっと……」
急に手を差し伸べられた少年は躊躇する。
その差し伸べられた手が何を示すものなのかはわかっている。
けれども、同じ年頃の少女の手に触れることになると、及び腰になってしまうのは致し方ないようで、少年の手は中々次のモーションへと移せないでいた。
「もうっ、男の子でしょ」
溜息をつきながら少女はと少年の手を掴むとひょいっと引っ張った。
少女の柔らかく美しい手が触れる。少年は思わずヒャっと変な声を出してしまったが、彼女のおかげでようやく立ち上がることができた。
いつの間にか少年を苦しめていた嘔吐感はなくなっていた。
が、まだ目眩を感じる。
頭が重く、体がふらついた。
なにかを掴もうとするも、手は空を掴み、さっきまで倒れていた地面にキスを捧げる──そうなる筈であったが、事は未然に防がれた。
「全然っ大丈夫じゃないじゃない。ほら、私が肩をかすから。少し休める場所へ行きましょう」
重力に従い倒れそうになる少年を、横から支えたのはその名も知らぬ少女だった。
彼女は少年の腕を自分の肩にかけ、出来るだけ少年の負担を軽くなるように腰を少し落とした。
体は小さいが、体の軸までしっかりと鍛えられているように感じられた。
とは言っても華奢な少女に肩を預けている事実は変わらないわけで、少年は周りから見れば大変無様であり、惨めであった。
「そろそろ……大丈夫だからさ。この辺でいいよ。君にだって申し訳無いし……」
「いいえ。絶対ダメ。あなたは今とても身体が弱っているわ。私わかるの。あなたのルフの流れを見れば」
依然として少年に肩を貸しながら歩く少女はしっかりと前を見据え、真剣な表情でそう言った。
その顔からは彼女のお人好しすぎる所と、偽善などでは無い他人を助けるという純粋な優しさが感じられ、少年には彼女の横顔がカッコよく見えた。
無意識のうちに少年の口は開いていた。
「あの……」
「何?」
「なんで見知らぬ他人にここまでしてくれるんだ? こっちは何も君にお返しするお金も物も持っていないし……もちろんお礼はしたいけど」
えっちらおっちらと少年の歩幅に合わせて進みながら、彼女は浅く息を吐いた。
「そんなこと思っていたの? ちょっと心外。確かにこういう手口を使う詐欺師はいるかもしれないけど……安心して。私そういうのすぐバレちゃう性分だからさ。それに……」
「それに……」
少年は彼女に続きを促す。
「──私は正義の味方なの!」
彼女は快活に堂々と、そう言った。