第一章28話 『インフェルノ』
「ミ……ハル?」
薄れゆく意識の中、エミリは目の前に広がる光景に愕然としていた。視線の先には不気味に佇む人影が一人。
キリエ・ミハルと瓜二つのもう一人の少年──ミハル。先の一瞬で死ぬ運命を辿るはずだった彼は、二本の足で立っていた。
姿だけ見ればなんら変わりない。
ただ、その仕草、立ち振る舞い、声。という不気味なほど静かな雰囲気をのぞいて、
今、この時、彼はエミリの知っている『ミハル』ではなかった。
そして、驚愕すべき事実がもう一つ。
「これは……いったい……」
『どういうこと』とまで言えなかった。それもそのはず、
エミリの瞳に映る拡現には警告を知らせる文字列が二つ浮かんでいた。
RLP値上昇を告げる警告がいつの間にか一つ増えているのだ。RL粒子は死繋人からしか発せられない。
現時点で、死繋人は一体のみ。
新たにRLP値上昇が確認されるはずはないのだ。
状況に追い着かない。
頭が理解を拒んでいる。
しかし、事実は真実である。
揺るぎない明確な真実をエミリは受け入れるしかなかった。
一人は死繋人、そして、
もう一人は〈ミハル〉だった。
今までRLP値すら計測されていなかったはずの彼から、突如、爆発的な勢いで濃度の上昇が計測されている。
エミリはこの状況をどう呑み込んでいいのか分からず、全身の痛みに気を回すどころではなかった。
ただ、この成り行きを見守ることしかできない。
それだけで、
「やれやれ」
ゆらり、と。
〈ミハル〉は、ゆっくりとした動作で一歩足を踏み出した。
彼が履いていた白いシューズは底が抜けていたため、それを鬱陶しそうに脱ぎ捨て、裸足で地に足を着いた。
「久しいなこの感触。生身の体はやはり格別じゃ。良い、実に良い。足裏から伝わる土の感触に朽ちた木の香り、そして、生気の宿る血の匂いと味、何千年ぶりじゃったか忘れておったわ」
瞼を閉じ、饒舌に喋る少年の声はエミリの知る彼の声とは違う。
顔形は全く同じだが、その少年の本質、正体はミハルとは別人だ。
「異性の体であることはちと不快じゃがワシの可愛い従僕の体。しばし堪能するぞ」
そう言いながら綺麗な白い両足で地の感触をしばし楽しんだ後、「……さて」と呟き、
「おい、そこの小娘」
〈ミハル〉は凍てつくような声でエミリに呼びかけた。底冷えするほどの恐怖に包み込まれ、エミリは一言も発っすることが出来ない。
少年はエミリを一瞥し、顎に手をあて、「ふむふむ、なるほどな」と何かを納得する素振りを見せた。
そして、ニィと意地汚い笑みを作り、
「従僕なりに頑張ったの、初めてにしては上出来じゃ。初期同調までにはちと時間がかかったが、問題ない。必要十分は揃っているわけか」
ガハハッと下品な笑い声が高らかに響く。
まるで悪魔の笑い方のようで不快な声だった。
「そして──」
咆哮が炸裂した。
ズズン‼︎ という轟音と共に。
真っ赤な蒸気を身に纏った怪物がのそりと立ち上がり、一直線上に立つ少年を見据えた。
「ほぅ、面白い。従僕と同じ波長を感じる。言うなれば悲劇の自動的失敗により産み落とされた無形の落とし児、という所か」
〈ミハル〉は言う。
「じゃが、紛い物は不用じゃ」
前を見据え、恐るべき膂力を備えた筋肉と機械でできている怪物と、正面から対峙する。
対峙して、断言する。
「故に、お前は殺す」
ダンッッッ‼︎‼︎‼︎ と。
少年と死繋人、その双方が全力で走り出す。
その激突は一瞬だった。
怪物と少年。────否、怪物と怪物の激突である。
死繋人の圧倒的な質量による突進が、怒涛の勢いで迫り来る。
〈ミハル〉は防御も回避もしなかった。自らその猛威へと踏み込んでいく。
〈ミハル〉の側面から、紅蓮の剛腕が叩き込まれた。
〈ミハル〉は回避どころか振り向くことすらせず、拳のど真ん中に手刀を入れた。
叩き込まれた勢いのまま、剛腕は真っ二つに引き裂かれ、肩まで綺麗に両断されていく。
ウィンナーを切るような感覚でスパリと。
エミリの対DCHブレードでも切れなかった拳を瞬く間に。
敵の絶叫が上がる。
「五月蝿い」
舌打ちをしながら、〈ミハル〉は一瞬にして肩の上に飛び乗ると、右手で怪物の頭部を掴んだ。
「キヒヒッ」と甘い吐息と共に、下卑た笑い声が口から漏れた。
五指が側頭部にめり込む。
〈ミハル〉は捻るように腕を回しながら、一息に機械じみた怪物頭部を胴体から引き抜いた。
首の断面から血と体液が噴火のごとく、ドバドバと出てくる。
それは圧倒的な破壊だった。
ただひたすらに死を喰い尽くす怪物すら恐れるほどの、一方的な虐殺。
──あぁ……
瞳に映る惨劇を目の当たりにして、エミリは何も言えなかった。
あまりの光景に全身が金縛りかけられたように硬直していた。
──ほんの数刻前とは違う、ミハルも世界も何もかも……
──とてもこの世の光景じゃない……まるで
地獄かそれとも──
獣の咆哮に近い叫びと共に、怪物の腕が修復していく。高い再生能力を持つ死繋人であったとしても、流石に頭部の再生には時間が要するようで、まだ首なしである。
しかし、常軌を逸していることにかわりはない。
悶えるような呻き声と共に頭を失った首から高熱の炎が放たれた。オレンジ色の火炎放射による捨て身の攻撃。
頭の上の邪魔者を焼き尽くそうという理を失った怪物の魂胆である。
まともにくらえば生身の少年の体は一溜まりもない。
だが、〈ミハル〉はすでに怪物の背中を蹴って上空に跳躍していたため、火炎放射は逆に怪物の体を外側から焼き払うだけだった。
空中5メートル近くまで跳び上がった〈ミハル〉は、上空で体を何度も縦回転させながら、後方に突き刺さった十字架の天辺に着地した。
「十字架とは皮肉なもんじゃな、このワシに」
そう言いながら、〈ミハル〉は右手に持った頭部をその天辺に突き刺した。
頭蓋の中の体液と血、そして、機械じみた部品が垂れていき、不快な音をたてながら地に落ちた。
その残虐な行為をしながらも、心の底から楽しんでいる表情は悪魔そのもの。
数秒後、再び怪物の頭は修復された。
が、明らかに疲労しているようで、地面に片膝をついた。
〈ミハル〉は、うっすらと唇を開いて告げる。
「死にたいのか? おまえ?」
異形の怪物からの返事はない。
呻きと、機械じみた頭部から滴る涎と、咆哮が返事のかわりだった。
「ガハハッ」
黒髪の少年は、背を仰け反らせて笑った。
その瞳には目の前の怪物の生き様を嘲笑うような、不気味で圧倒的な存在感を霧散させるような、濁りがあるだけ。
生きとし生けるもの全てを見下すような底知れぬ闇があるだけだった。
十字架から華麗に飛び降り、そして、
「まぁ、よい。これはちょうどいいハンデじゃ。せいぜいワシを楽しませてみせよ、哀れな欠落者。……っと、その前にこの邪魔な鳥籠は破壊させてもらうぞ」
両手を胸の真ん中で組む。
少年はただ、ゆっくりと告げた。
〈 力 場 “開” 〉
宣言通りだった。
直後に、怪物が支配していた鳥籠は────
ピキピキピキ、と。
闇が支配している結界。ドーム状のそれは内側からひびが入っていき、次の瞬間には綺麗さっぱり消えていた。
構築した術者を殺さなければ結界を解除するすべは無い、という絶対的な常識も覆すほどに、それは一瞬で、刹那だった。
結界が破壊されたことにより、広大な空が露わになる。
夕日はとっくの間に沈んでおり、上空には三日月と満天の星々が煌いていた。
王都の中心部から最も晴れた貧民街には明かりが少ない。
そのため、空の星の一つ一つが鮮明に見えた。
月明かりに少年の顔が照らされる。
その深海色の瞳には少し哀しげな影がさしていた。
「これは慈悲深いワシからのせめてもの救いじゃ
──── 深 層 極 点
──── 業 火 蓮 滅 」
〈ミハル〉の右手が淡く輝き始め、やがて紅蓮に灯る焔となった。
赤々と燃える右手は辺りを明るく灯す光となる。
「────ッつ?!」
直後、辺りが灼熱の炎に包まれた。迫り来る圧倒的な熱にエミリは息を呑む。
少年を中心に大地は地中から燃えていき、赤と白の炎で覆い尽くされた。
同時に燃える大地から次々と紅蓮の花が咲き乱れていく。
ただの花ではない。一輪の花と見えるのは焔。花を像った炎だ。
触れるだけで死者を焼き苦しめる業火と化す。
不思議なことにエミリもアリスもその焔に晒されているというのに、全く熱を感じないし、痛みも感じない。むしろ、
「傷が……癒えてる!?」
エミリの体のあちこちに出来た傷は徐々に治っていき、痛みも和らいでいく。活動限界に達し、疲労しきったエミリの体はゆっくりではあるが、回復の予兆を見せていた。
──暖かい……優しい炎
〈ミハル〉は、告げる。
「地獄の業火は死者には苦痛を与え、生者には生の恵を与えるというが────さて、お前はどっちだ?」
死繋人はその名の通り、死と繋がった者。地獄に堕ちていく存在である。
結果は明らかだった。怪物の巨躯を包み込むようにして、紅蓮の花が咲き乱れ、灼熱の苦しみを与えていく。足が腰が腹が胸が腕が、赤と白の焔に包まれ、
GRRUOVOOAAA‼︎
怪物の叫びに、〈ミハル〉は応じなかった。
一歩、無造作に踏み出して、
だちゅっ‼︎
〈ミハル〉の右手が、その掌が、死繋人の胸の中央へ叩き込まれた音だった。
骨が砕け、肉がひしゃげ音が炸裂する。
巨躯の体内を破壊し尽くし、背中から勢いよく飛び出していく。
「脆いなお前」
そして、右手を勢いよく引き抜いた。躊躇もなく、遠慮もなく。
ぐらりと、怪物の体が大きくよろめく。
少年の血に濡れた右手には赤黒い臓器が握られている。
「相手にならん」
鉄錆臭い臭いに塗れたそれを握り潰した。
ぐちゃり、という腐った無花果を摺りつぶす音と共に、黒い手の形をした臓器の残骸がぽとりと落ちた。
二つ目のコアは呆気なく破壊された。
たった一人の少年の右手によって。
残るコアは一つだけ。もう一度少年が右手で抉り出すことで、この勝負は決まる。
もう、ここまでくれば勝敗は目に見えていた。
が、しかし、
しかしだ。
ここにきて、
不意に──〈ミハル〉の上半身が傾いた。
「……っと……」
バランスを取ろうと足を踏み出そうとするが叶わず、〈ミハル〉は膝をついた。
同時にあの暖かな炎はピタリと消えた。再び辺りを闇が支配する。
少年は荒い息をつきながら、敵を見据え唇を歪めて笑う。
「予想に反して早いな。同調の限界はここまでか、全く情けないのォ従僕よ」
少年は体を折り曲げ、呻くような声を唇から漏らした。
〈ミハル〉のすぐ目の前に、怪物の頭部から突き出た砲身が迫っていた。
「……仕方ない……リセットじゃ。ウヌには気の毒な話じゃが──」
語尾は搔き消え、少年の荒い息が聞こえる。
その様を見て、エミリは必死に足に力を入れようとする。
あと少し、残る最後のコアを潰せばこの戦いは終わる。あと一歩、もう一歩なのに、その一歩を進めることができない。
回復の炎が消えた今、起き上がるのが精一杯で、エミリにできることはこのどうしようもない状況を、ただ見守るだけだった。
「ミハル……」
そう声をあげるしかないエミリだったが、
「くく」
笑みがあった。
今の彼に。あと一歩の勝利を得るための条件はない。
そのはずなのに。
「ラッキーじゃな、従僕。前言撤回、その必要はなくなった」
ニタリ、と。
引き裂くような笑みと共に、少年は言った。
「此奴のトドメを刺せないのは癪だが、仕方ない。譲ってやるわ」
『譲る』とは誰に? なのか。エミリには何のことか分からない。
ただ、少年は全てを納得したような表情で、
「手助けはしてやったぞ。好きにしろ」
そこでようやくその声が途切れた。
力を失った上半身が、がくんと前に傾き、そのまま地に倒れ込んだ。
「……ミハルッ……!」
エミリの口から声にならない叫びが出た。
地に伏したミハルは動かない。
また、不気味に立ち上がるのかと思ったが、今度こそは本当に微塵も動かない。
砲身が赤く染まり、赤い蒸気が生み出される。
間もなく少年の体は、強烈な衝撃とそれによる余波に耐えきれず、一瞬でただの肉の塊となって、命は消滅する。
わかりきった未来を目にしたくなくて、エミリは目を閉じた。
祈るべき何かを探したが、何も思いつかなかった。こういう時の神頼みは意味がないことは知っている。そんな都合の良い話はないと分かりきっている。
だけど、
それでもいいから、
──神様、お願い
死が届く三秒前。
紫電が弾ける音がエミリの耳に聞こえた。
次に起こった出来事は、その場の誰も予想できないものだった。
そして、一瞬のことだった。全てがお膳立てされたように、事は進んだ。
降臨したのは一人。
〈ミハル〉でも、エミリでも、アリスでも、アインでもない。
それ以外の第三者。つまり、新たなる介入者。
襲い来る怪物の目の前に、何かが光った。
青白い光。正確には青白いプラズマだった。
外部からの干渉。そうと気づいた時、エミリはようやくその正体を認識した。
それは、何もない虚空から突如現れた男だった。
それは、先刻、亜空間を飛び越えることを実行した男だった。
それは、右手に自動書記という被造物を手にした男だった。
それは、突如現れたというのに、容赦無く冷酷な一撃を放つ男だった。
「座標誤差なし。ドンピシャだ、フライデー」
異間公安特異九課所属の上等監察官にして、エミリの上官である男は、降臨すると同時に必殺の技を繰り出していた。この死人を絶命させることに特化した渾身の一撃。
刀の峰に手を添え刃を上に向け、そのまま前方の敵に向かって刀は突き進み、
彼の『K』という名と同様に味気なく、そしてあっさりと。
赤く煌く切先は敵の左胸に吸い込まれるようにして入っていき、一切の音を立てることなく貫いた。
「彼岸に帰せ」
彼がそう告げた直後。
刀の切先に串刺しになった最後のBh器官は、やがて微細に振動を始めた。
そして甲高い破裂音がして、粉々に砕け散った。
炭化現象。死繋人のコアが破壊されたことにより、活動は完全停止し、黒い粒子となって風化してく。
巨躯の全身に細かなひびが入り、やがてそれは黒い灰となってそよ風に流され崩れていく。
「……あ……とは」
それはどこからともなく聞こえて来た。
小さな声だった。
か細く、けれど、
「……まか……せ……た」
光があった。
たった一粒の水滴程の光の粒子だった。そこからエミリは声が聞こえて来たような気がして、触れようと手を伸ばすが、届くはずもない。
やがて、光の粒子は砂粒程の大きさになって、
ありがとう、と。
それが誰の声だったのか、単なる幻聴だったのかを確かめる間もなく。
ついに、
死繋人は消滅した。
絶命の叫び声すらあげず、ただ安らかに。
あれほどの猛威を奮っていた怪物は、塵一つ残すことなく、文字通りこの世界から消えた。
──これで……
朽ちた教会は全壊し、辺りにはいつの間にか紅蓮の花が咲き乱れていた。
真っ赤な彼岸花。『まず花が咲き、後から葉が伸びる』という通常の草花とは逆の生態を持っているため、その花と葉を一緒に見ることがないらしい。
ふと、そんな話を誰かがしてくれたのを思い出した。
どこか懐かしい思い出の余韻に浸りながら、ゆっくりと体を起こす。
小高い丘陵は赤一色で埋め尽くされ、月光に眩く照らされる様は美しかった。
そんな光景を見渡して、エミリが言えることは一つだけ。
「やっと……終わった……」
もう何度目かになるか分からないため息を吐いた。
肉体的にも精神的にも疲れがどっと押し寄せ、前のめりに倒れる。──寸前ををとある腕に受け止められる。それが誰の腕なのかはとっくに知っている。
エミリの体を支える金髪の男──Kは呼吸一つ乱さずに、エミリの視線に気づくと、澄んだコバルトブルーの瞳をエミリに合わせた。
「せん……ぱい」
「遅れてごめん、エミリ。もう心配ない」
その声を聞いて、エミリは思わず吹き出した。Libraの襲撃から別れて半日も経っていないというのに、久しぶりに会えたような気がした。
そんな、上官の顔を見て、声を聞いて。
呆れたように。
でも、可笑しそうに。
「知ってます」
エミリはKから僅かに目を逸らしながら答えたのだった。




