第一章27話 『彼岸に咲く』
GURUUUUUAAA‼︎
響き渡る怪物の咆哮を聞きながらミハルは現実逃避気味に考える。
どうしてコイツはこうまでして自分達に固執するのだろうかと。
地獄の業火の中で泣き叫ぶ亡霊たちの声にも似た、高くひび割れた鳴き声がミハルの全身に浴びせれれる。
「ははっ……(ビリビリ来やがる……)」
「もういっちょ」
アリスの展開した黒杭が今度は全方位から浴びせられた。致命所は与えられずとも足止めはできる。
そして今、怪物は四本あるうちの腕の一本を失っている状態だ。そこに集中砲火すれば……
だが、追撃を放とうとしたアリスの手が止まった。
「……そだろ、そんなのってありかよ」
「流石の再生力ね」
消えた左腕が数秒で再生されたのだ。
切断面から見える肉が蠢くと、折れた骨が見る間に伸びていき、骨格を形成し元通りになった。
千切れた筋繊維が互いに引き合うようにして戻っていき、その表面をあっという間に黒い皮膚が覆った。
高い再生能力と回復能力を持つ死繋人なら当たり前にやってのける所業。
エミリがやっとの思いで、与えた致命傷をいとも簡単になかったことにされた。
「もう、回復している。あの程度じゃ、痛手にならない」
「でも十分だアリス。コイツを足止めでも出来るだけすげーよ。マジで」
「そ、そう。ふ、ふふん。どんなもんよ」
腰に手を当て、すまし顔のアリスの横顔におもわず口元がほころんでしまう。
事実、三人の中で目の前の怪物を食い止めているのはアリス一人の力だ。
見た目はただの美少女なのに戦い慣れしているというまさかの設定に感嘆しつつ、ミハルはすぐさま左隣のエミリに問いかけた。
「で、作戦は? アリスの攻撃でも足止めが精一杯でなおかつ不死身に近い再生力ありの怪物だ。戦車でも勝てるか分からっ──ぶねっ」
寸前のところで飛んでくる飛来物を躱すミハル。
真後ろの壁にそれは激突し、頭一つ分くらいの穴を軽々と開けた。
見れば怪物の両手にはそこらに散らばった木片の塊が握られていた。
咆哮と共に、再び敵の遠距離攻撃が再開される。
エミリとミハルは軽々とした身のこなしで躱していき、アリスは黒杭を巧みに操り、防御していく。
攻撃は苛烈さを増し、朽ちた協会を破壊が容赦なく蹂躙する。
「やばくねーか、これ。ドッジボールどころじゃねーぞ。勝てる気が全くしない」
次々と明らかになる怪物のチートじみた能力にこちらの不利を訴える。数の利はこちらにあるが、それも最早頼りないアドバンテージ。
「あるわ」
しかし、そんなミハルの不安を打ち消したのはエミリである。
飛んできた一撃を踵で叩き落としながら答えた。
「勝つ算段なら一つだけ、アレの唯一の弱点。それを叩き潰せば」
「弱点?!」
「コアよ。心臓部に位置する器官を破壊できれば完全に活動を停止できる」
「その言い方だと、この怪物について詳しい感じか?」
「ま、そんなとこね。この怪物は死繋人、私たちはそう呼んでいる。それに、その──」
とエミリはその先の台詞を言い淀む。この怪物の正体は紛れもなくキリエ・ミハルなのだ。
彼と瓜二つの少年にその事実を突きつけるのはエミリにはどうしても出来なかった。
そもそも傍にたつミハルはキリエ・ミハルが死繋人になる様を直に見ている。
──だから、なんて言えば、
影がさした双眸のエミリを横目で見ること数秒。
何かを察したような顔を見せた後、ミハルは清々しいほど突き抜けた声で、
「俺は大丈夫だ、分かっているよ。アレの正体が何か……この目で見たからな」
「本当に……いいの?」
「正直すげぇ気になるってのが本音だ」
首をコキリと鳴らし、ミハルは「けど」と息継ぎし、
「ここで死んだら全て終わりだろ? 何もかも。だから、俺は躊躇しない。そう、決めたんだ」
そう堂々と言い放った。そんな態度を見せられれば、エミリにこれ以上の迷いなど必要ないわけで、
「了解です。ミハル君」
ミハルがGJしようとするや否や、
「ちょっと、二人とも! 私抜きでなに勝手にいい感じになっているの? 私も混ぜて!」
案の定、アリスの声が割り込んできた。
「お、おう。すまん。アリス」
高ぶった感情が彼女の展開する黒杭の射出速度に心なしか影響しているように見えたのはさておき、作戦会議に話を戻す。
作戦会議と言ってもミハルとエミリはアクロバティックな動きをしながら、アリスは摩訶不思議な術を駆使しながらであるため、大変忙しいことこの上ない。
「弱点のコアだな。狙うは胸部……つってもあの怪物の懐に攻撃入れるのは難しいぞ。アリスの遠距離攻撃ならまだしも」
「うーん、無理。私のとっておきでも難しいわ。さっきのだって簡単に防がれたし……」
「ってことはつまり……」と汗を垂らしながら声をあげるミハルを横目でみて、アリスは気まずげに唇を噛み
「接近戦しかないってことでしょ」
「そう、それしかない」とエミリが最後に決定付けた。
──せめて二人がかりなら、死角が生まれるはず
エミリが刺し損ねた対DCHブレードの一本はまだ怪物の背中に刺さったままである。
あと少し、もう少しでコアに届くはずだ。
勝利への道は一つだけ、その道筋を瞬時に構築すると、エミリは指示を出した。
「アリスは私に付いて後方支援をお願い。あなたの力なら十分助けになる」
「うん、がんばる……いいえ、やってやるわ」
と息を吸い込み、気合い十分。お互い無言で頷き、それぞれの役割を認識する。
そのまま視線をスライドさせ、
「それで……ミハルは──」
「囮りは任せろ。意外と俺って動けるっぽいし……スタミナはまだよく分からんけど、エミリのスピードならまだ対応できる感じがする」
軽くジャンプしながら動けるアピール。確実な保証はないが、ミハルの身体能力は予想以上に高かった。先刻のチンピラ共との戦闘では人並みそのものだったが、なぜかこの局面ではすこぶる調子がいいのだ。
そんな自画自賛中のミハルを見て、うっすらと笑みをうかべつつ、
「無理はしないでよね。丸腰もあれだし……そうだ。これでも使って──ほら」
エミリは腰のホルダーから円柱形の棒をミハルに投げた。
受け取ったミハルの手中でそれはスチャリと展開する。伸縮式の金属製の黒い棒。
「これは?」
「特殊警棒よ。対人仕様のね。丸腰よりはマシでしょ」
グリップを握りしめ、軽くスイングする。硬い先端が風をきり、鋭い音が鳴った。
生身の拳よりも何倍もの打撃を繰り出してくれるアイテムだ。
「サンキュー、これなら」
「いけそう? なら、出来る限り奴の注意を引いてくれる。もう一度言うけど無茶はなしよ」
「おう、任せろ」
「心強いね」と言いながらエミリは目の前の怪物に向き直る。
不意にらしくない凶悪な笑みが溢れでた。昔から緊張するといつもこうなるエミリの悪い癖だ。
慌てて頰をペチペチと叩くと、足裏に力をこめる。
第三形態と化した異形の存在──死繋人が地を踏みしめながらこちらへ歩いてくる。
その足取りは粘ついた執念を表しているようで、ふらふらと頼りなく、しかし決して倒れることはない。まるで、真っ黒なモルタルで足の裏と地面を繋ぎ止めているかのようだった。
続けざまの遠距離攻撃をピタリと止めた敵の次の一手は目に見えている。
「────来るよッッ!!!」
真 ・ 正 ・ 面
その巨躯からは考えられないほどのスピードで敵は突っ込んできた。
木の床はいとも簡単に裂けていき、その下の地面が露わになる。
まるで巨大なトラックにでも突っ込まれたような破壊の光景。
誰しも足がすくんでしまう光景である。
しかし、三人の動きは早かった。
エミリとミハルは二手に別れ、疾走する。
アリスは上下左右からの黒杭を瞬時に展開後、ノーモーションで撃ち込んだ。もちろんそれは足止め。
その間に敵の両側を二つの影が交差する。
敵は左右に別れた標的の内、左側、つまりエミリに的を絞った。頭二つ分ほどの巨大な拳がエミリの頭部を叩き割ろうと差し迫るが、
「その攻撃はもう慣れたっての」
その場で体を160度反転すると、踵を振り上げ、差し迫る拳の手首をある一点で蹴り上げた。
ほんの少しの力の向きを変えることで、それは大きな反動を生む。勢いをつけすぎた敵の上半身がつんのめり、右足でなんとか体を支えている状態に縺れ込んだ。
そこをミハルは逃さない。
「────シィッ」
両手でグリップを握りしめ、死角となった背後から右足の脹脛めがけて警棒を叩きこんだ。
「────!」
一撃を自分の手で入れたことに喜ぶのも束の間、邪魔な虫を跳ね除けるような右腕の裏拳が繰り出される。
「くっ」
持ち前の動体視力と身体能力のおかげでギリギリ回避。
まるで砲弾のような圧倒的な威力により鋭い風が巻き起こる。
風圧でミハルの身体は後ろに投げ飛ばされた。
その先には怪物の猛攻により破壊された木の板の尖った先端が禍々しく待ち構えていて、一秒後にはミハルの串刺しの完成である。
「ミハルっ」
そんなバッドエンド直行前の一瞬に反応したのはアリスだ。偶然にも吹き飛ぶミハルの近くに展開していた黒杭を薄い円盤に変形させ、宙で動くことのできないハルの体を受け止めた。
間一髪の救出劇だったが、それはアリス自身の防御にも隙ができたともいえる。
良からぬ邪魔が入ったことに苛立ったのか、死繋人は三本目の腕を突き出すと、掌から衝撃波のような力を繰り出した。
予想外の挙動と攻撃に、アリスの反応が刹那遅れ、
「きゃぁぁぁ!」
その衝撃波に耐えきれず、アリスの身体が宙に浮く。そのまま地面に頭から落ちるところを、滑り込むミハルがかろうじて受け止めた。
「うん、動けんね俺」
「いきなりびっくりするじゃない!」
「ごめん、怪我ない?」
ミハルの腕から解放され、アリスは照れたように呟いた。
「おかげさまで大丈夫」
まだ、そんな余裕を見せる二人に安堵しつつ、エミリは襲ってくる激痛を無理矢理笑うことで誤魔化した。
──足が……っ
先ほどの攻撃を捌いた時の影響がエミリの足に出ていた。足首に嫌な音が伝播している。
──無傷でいなし続けるには相当の技量がいる。冷静にならないと……一発でも受けたら終わり……
エミリは敵の動きを分析し、先を読み、七手先までの動きを組み立てる。
──七歩。七歩で十分。
「今っ‼︎ 畳み掛けるよ‼︎」
その掛け声だけで十分だった。
三人はそれぞれがそれぞれの最善の動きを展開する。
七歩、大きく踏み出し、床が爆ぜる。柱の出っ張りを掴み、柱頭につま先をかける。
身軽に駆け抜けるエミリの後を敵は追おうとするが、
「俺を忘れんなよ、バケモンッ‼︎ アリスッ」
「────テム・ソーレス」
少年の掛け声と少女の詠唱が重なる。
六歩、足裏に力をこめ、さらに跳躍。壁に横向きに着地する。と、壁に突き刺さっているのはついさっき手放したもう一本の対DCHブレードだ。突き出た柄を掴み直し、逆手に持つ。
「お願い、これで止まって」
アリスが中指を突き立て、息も絶え絶えに術を展開した。六方面から空間に固定された黒杭。
それが長い棒に変形し、関節の間に入ることで巨軀を地面と繋ぎ止めるアンカーとなる。
五歩、再度呼吸を整える。全身に力がこもり、同時に体が拒絶反応を起こす。込み上げて来た血反吐を無理やり吐き出す。
「────らァッ‼︎」
身体のあちこちに裂傷をつけたミハルが怪物の懐に飛び込んだ。閃く掌の爪先が獲物を引き裂くべく振り下ろされる。が、ミハルは加速したスピードを緩めないまま、
「────ッ‼︎」
直撃寸前のところで足をわざと滑らせ、そのままスライド。後頭部の髪を焦がしていったような気がして総毛立つ。も、お留守になった股下を掻い潜り、背後に回った。
四歩、踏みしめた靴裏で柱が爆砕、支えがなくなった教会が断末魔を上げて崩壊し始める。
身体を固定された怪物が頭部のみを旋回させ、背後のミハルをねらい撃とうとする。
力任せに振るった死繋人の頭部は床に突き刺さり、一瞬、動きが止まる。ミハルにとってそれは十分な隙だった。
「おせぇんだよ。木偶が」
地面に突き刺さった怪物の頭部の先端に一歩踏み込み、駆け上がっていく。微妙な重心のコントロールと神がかった身のこなしがあって、初めて成立する軽業だ。
自分がなした芸当に感嘆する間も無く、次の一手に手をだす。
大股三歩のところで、飛び上がり────
トンッ、と軽やかに頭部に乗った。
エミリはちょうど今、怪物の手前の柱に足をかけている。
三歩、三度目の跳躍。深手をおった傷口から血が帯を引く。止まらない。が、どうでもいい。
──死角となる背後に回る時間はない。だから、
「アリスッ! 真上に足場っ」
「りょーっかいっ‼︎」
怪物の真上に黒杭の一つが変形し、円板を形成。
二歩、三歩目の跳躍でそのまま怪物の上部を通った瞬間、真下へ方向転換し、足場に両足で踏み込む。
「──シィッ‼︎」
怪物の頭部。ミハルは握りしめた特殊警棒を大きく振りかぶり、叩き込んだ。そして、背中から突き出たブレードの柄めがけて──
一歩、真上から神速の一撃を突き刺すべく、怪物のコアめがけて──
────────ッッッドスッッ‼︎‼︎‼︎
コアに両側から二つの一撃が加わった。パキンと何かが潰れる音がした直後。身の丈二メートルの巨躯の動きが止まった。不気味なほどの静寂が三人を包み込む。
──失敗か
エミリの頭に一抹の不安がよぎるが、それは杞憂だったことに気づく。
失敗していなかった。ゆっくりと死繋人は膝から崩れ落ちていき、くぐもった音を上げながら地面と接触した。
ズンッッッ‼︎
怪物が土埃を巻き上げた音だった。
「「やった‼︎」」アリスとミハルが同時に叫んだ。
「どうよ! ぶちかましてやったぜ!」
「見たわたしの腕前? とっておきって言ったでしょ?」
「言ったけ?」
「言いました!」
頰をぷくりと膨らますアリスにミハルは口から安堵のため息がでた。
「ナイスサポートだったわ。ミハル、アリス」
死繋人はBh器官を破壊されると活動を完全停止させ、体細胞は炭化していき最後には塵となって消えていく。
──やっと……一件落着ね。やっと
ついに活動限界がきた様で、全身の力が抜けていき、そのまま地面と激突。の所をミハルが受け止めた。
「ちょっと肩、貸してもらえる?」
「貸すけど、尋常じゃないほど血が出てるって……早く医者に見せた方が」
「心配ありがと。でも時間が経てばすぐ治るから、安心して」
エミリは肩をすくめながら答えた。少年と少女を見て、安堵のため息が再度溢れ、
まったく、とんだ初任務だった。と────
「────?!」
言いかけたエミリの脳裏に、何か冷たい違和感が走った。できれば感じたくなかった種類の直感だ。
「待って」とアリスは言った。
「何かおかしい……気がするの」
ミハルとエミリは上を見上げる。基盤から崩れた教会は天井が抜け落ち、吹き抜けのようになっていた。
そこから見えるのは夕暮れ時の赤く染まった空でもなく、太陽が沈んだ直後の幻想的な空でもなく、
「あれ、真っ暗だぞ……おい」
「……結界は術者が死ぬか……気を失うかで解除……されるはずよ」
三人の瞳には真っ黒な闇しか映らない。
すでに夜になっているのではと思ったが、星一つさえ見えないのだ。
まだ、結界は解除されていなかった。
「え……ってことはつまり」
ミハルの口から気の抜けた声が聞こえた。
次の瞬間、少年の身体は消えていた。
「へ」とエミリの口から言葉が溢れた時には、ミハルの身体は瓦礫の山に吸い込まれ、姿は見えない。
呆然と固まるアリスとエミリの背後、ゆらりと大きな影が立ち上がった。
つまり。
つまり。
つまり、だ。
死繋人は消滅しなかった。
「……な、ぜ……」
エミリはそいつを見上げた。視界を覆う巨体、四本の豪腕。廃熱蒸気を纏った、傷一つない頭部。
──なぜ? コアは確実に破壊したはず。感触もあった。
炭化の予兆すら見せることなく、黒い体表は内側から徐々に赤々と光っていく。そして、再び怪物は立ち上がった。
見えなかった胸部が露わになり、同時にエミリは予想外の展開が起こった理由を思い知る。
「コア……みっつ」
誰も予想できないことだった。赤々と点滅する胸部に手の形をした黒い影が二つ見える。
唯一の弱点であるはずのBh器官。それが残り二つもあったのだ。三人でようやく破壊したコアはその一つに過ぎなかった。
肌が泡立った。
直後。一抹の恐怖を感じた直後である。
腹部に猛烈な痛みを感じた時には、すでにエミリの体は空中を浮遊していた。
崩れた教会の壁を突き抜け、そのまま外に根を生やした針葉樹の太い幹に思い切り背中をぶつけた。
「────がっ────ふっ」
血塊に呑まれ、呼吸が危うくなるのを無造作に胸部を叩くことで持ち直す。遠ざかりかける意識を引き戻し、体勢を立て直そうとするが、
「──っぅ」
一呼吸足りない。息苦しく、酸素の不足した脳が機能不全を起こす。
──このままじゃ
ぼやけるエミリの瞳に最悪の光景が映った。白髪の少女アリス。
彼女もエミリと同じく吹き飛ばされ、崩れた長椅子の残骸の上に背中を打ち付けていた。
──マズイ
彼女の体は地面に縫い付けられたように動かない。────否、動けないのだ。
「アリスッ‼︎」
よほどの集中力と負担を体にかけていたのだろう。
瞬く間に細い体は崩れ落ち、ぺたりと地面に手をついた。口から血が滴り、紺色のポンチョコートに染みが出来た。
怪物がアリスを見た。わざわざ近づいて殺す必要もないと感じたのか、頭部の砲身をそちらに向けた。何度も見た予備動作。
「…………て……」かすかに呻くような声。
「いいから……逃げ……て……」
アリスが薄眼を開けて、囁くように言った。
喘鳴のような吐息が溢れた後、アリスの意識は完全に落ちた。
──動け動け動け動け動け動けっ
絶望する状況に歯嚙みし、全神経を足に集中するが、錘のように微動だにしなかった。
アリスはルフの過剰消費で意識を失い身体を動かすことすら出来ない。
エミリは活動限界に達し、意識はまだあるものの起き上がることすら困難。仮に起き上がれたとしてもアリスの元へ向かうには距離があり過ぎる。
間に合わない。故に状況は完全に『詰み』だった。
エミリは叫んでいた。何かを叫んでいた。自分の声が耳に届かない。ただ、こんな理不尽な世界を呪うしかなかった。
迫り来るアリスの『死』を見届けることしか出来ない世界を、
そんな中、動けた者がただ一人。
「おおおおおおァァァァァあああああああああああああああああああああああああああああああ‼︎」
必死の形相で地を駆け、アリスの元へ飛び込む命知らずの少年だった。
瓦礫の山から勢いよく飛び出し、無我夢中で地を駆ける。
体のあちこちの切り傷や裂傷から血が流れ出しているが、なりふり構わずひたすら疾走する
。頭蓋には呼吸をするごとに鋭い痛みが走り抜け、叫ぶだけで口内に激痛が走る。
生と死が、こんな些細な差異に隔てられて共存している。死ぬか、生きるか。それは物理的には、本当に、残酷なまでに些細な違いしかない。コインの表と裏。まさしく表裏一体。
何も考えなかった。その紅蓮の弾丸が当たったらどうなるのだとか、自分は助かるのかとか、その後どうしようかとか。全てがどうでも良かった。
ただ、アリスを助けたい。その一心で。理性よりも体が気づいた時には動いていた。
力の全てを使い果たして、乱れた白髪から光を失った瞳を見せる彼女の身体を思い切り突き飛ばし、そして──
「…………あ」
回避する時間も、受け流す余裕もなかった。
アリスに直撃するはずの一撃はミハルの突き出した右腕に吸いつけられる様に迫っていき、
ブチン、と。
底抜けするほど簡単に、ミハルの右腕は吹っ飛んだ。
「────!?────!!」
くるくると。
血のラインを描きながら、ミハルの右腕は宙を舞っていた。細く赤いラインが解けたリボンのように留まり、綺麗な放物線を築きあげていき、ぽとりと落ちた。
時間差で襲ってくる激痛。さらに────
「あ、あああ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ‼︎⁉︎⁇」
絶叫だった。
のたうち回りながら襲い来る痛みに悶える。右肩からの感覚はとっくにない。何を叫んだのか分からない。千切れた右肩を空いた手で押さえ、舌を噛まないようにするので必死だった。
──熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い。
意識を支配しているのは圧倒的な『熱』。右肩から広がった『熱』は全身に伝導していき内側から焼き尽くしていく。
右側にあったはずのものがなくなったことで体のバランスは崩れ、自分の体から溢れでた血溜まりに転がった。
立ち上がろうとしても、足に力が入らず、血の滑りにもつれさせるだけ。
「────っぐぅぅぅあああ……いだぃいだぃいだぃ」
『痛い』とはっきり口に出せない。ただ何かを叫び続けなければいつの間にか狂ってしまいそうだったから。近づいてくる『死』から逃げたかったから。
そんな時だった。
『痛み』と『死』を往復する意識の中、ミハルの左手が何かを掴んだ。
──う、うで?!
プニプニした筋肉の感触と上腕骨の硬さの感触に馴染みがある。
千切れた右腕。それを掴み、血が溢れ出てくる右腕の切断面にくっつけようと──した。
その腕を付け直したからといって、治るはずがないのに。何も変わるはずがないのに。
「あで?」
意識を朦朧とさせるミハルの口から掠れた声が漏れた。
自分の腕だと思い込み、意味もなく付け直そうとした右腕。それはミハルの腕ではなかった。
長い爪と奇妙な模様が描かれているのが特徴的な細身の腕。女性の腕である。ミハルの千切れた右腕とは全く違うもので、何よりその腕にミハルは見覚えがあった。
──こデッて……
いつぞやの謎の右腕だった。とっくの間に意識の外にあった存在。
それはいつの間にかショルダーバックから転がり出ていたらしい。
偶然なのかはたまた神の悪戯かは知らないが、それをミハルは間違えて手に取ったと。そういうことだった。
急に意識が遠のいていき、ミハルの体は仰向けに倒れ込んだ。それでも最後まで足掻いてやろうと思い、左腕に力をこめ、近づいてくる怪物と対面する。
「もう……やめて、ミハル──
──もう、いいから」
誰かの呼びかける声が聞こえた。それも遠く掠れて、何もかもが曖昧で、分からなくなっていく。
落ちそうになる意識を必至に持ち返そうとするが、無駄な足掻きだ。
怪物が一歩足を踏み出した。
意識が深い闇に吸い込まれていく。
深く沈む。
意識が薄れる。
光が遠のく。
意識が細切れにされる。
──まるで深海にいるみたいだ
気泡が細かくなっていく。
射し込んだ生暖かい陽光が身体を包み込む。
──俺は死ぬのか……それとも
誰かの手がこちらに伸びてくる。
──また……世界を繰り返して……
そして、誰かの声が聞こえた。
『もうよい──少し借りるぞ』
誰かに包み込まれた時、ミハルの意識は完全に途絶えた。
* * *
GRUUUUUUUUUU‼︎
死繋人は重心を上下に揺らす非生物的な動きで、仰向けに倒れ込んだ少年の目の前まで近づいた。
少年はぐったりと倒れている。血で濡れた髪の毛が、頰に一筋かかっている。か細い呼吸は聞こえるがすでに虫の息。
千切れたはずの右腕はなぜかくっついていた。血が止まった肘から伸びているのは女の腕だった。少年の腕ではない。
怪物が腕を振り上げる。
ようやく、くたばった獲物にトドメを刺そうと渾身の一撃を込めて、一日限りの人生も、何もかもなかったことにして、蛋白質と水の肉塊に変えるために。
その光景を幻視し、エミリは無力さに絶叫を上げて──
その時だった。
崩れかかるエミリの瞳に信じられない光景が映り込んだ。身の丈三メートルもある巨躯。それががあろうことか砲弾のように吹き飛ばされていた。
瞼が閉じる間もなく、である。
叫ぶこともできず死繋人は教会の残骸の山を突き破り、結界の隅まで飛ばされ叩きつけられた。
空間全体に重々しい衝撃が迸り、崩壊音が反響する。
ズザッ‼︎
何者かが立ち上がる音がした。
再起不能のはずの少年の体。
まるで操り人形の様に不気味に動いていた。
そして────
「アハハハハハハハハハハハハははははハハハハハハハハハハはッ、ウフフッアハ……フゥ、はぁ、はぁ」
高らかな嗤い声の後、少年の口から熱の籠もった吐息がこぼれ出た。
赤く染まった頰は上気し、濡れた瞳は恍惚と輝いていて、唇に付着した血を舐める仕草は艶やかでどこか女らしい。
艶のある唇が動き、高貴な声が響く、
「はぁ、久しぶりの体じゃ。素晴らしい……」
乱れた黒髪をかき上げながら、
「……褒めて使わす、哀れな従僕よ」
ミハルではない少年はそう妖艶に呟いた。




