第一章26話 『鳥籠に光あれ』
ほんの少し前、
ミハル視点
「今! 行って、ミハル────‼︎」
掛け声を聞くと同時に、思いきり地を蹴ってとにかく走った。振り返る余裕など無い。彼女がどんな顔で自分の背中を見ているのか分からなかった。
二人を抱え奥の扉を蹴破った時、冷や汗をかいていたことに気づく。べっとりと濡れていて気持ち悪い。
外に出て暖かな夕陽に照らされた瞬間、全身を取り巻いていた恐怖から解放されて行くのを感じた。
貧民街の奥に位置する教会は周りより少しばかり高めの丘陵地帯に建っている。
そのため、人気のある貧民街への道のりは少し下り坂になっていた。目視でおよそ100メートル。
「まずは助けだ。衛兵だ衛兵。化け物退治の時間だぜ。ちゃんと仕事してもらうからな、この世界のおまわりさんよ」
興奮状態の感情を軽口でほぐすと、ミハルは息を引き継ぎ、転げるように駆け下りていく。
風を切り、目まぐるしく景色が変化していく。少女二人を脇に抱えているのに、なぜか体は飛ぶように軽く、走れば走るほど速力が増す。
火事場の馬鹿力と雖も予想外の脚力と持久力が不気味だった。おまけに体の調子もすこぶる良い。
前傾姿勢のまま、疾走する肉食獣のように全力で走り続けること数秒。
あっと言う間に丘陵を駆け下りたミハルは、抱えている二人をすぐそばの小屋にひとまず下ろした。
小屋の壁にもたれて、
「────かっ……はっ」
同時に息を吹き返す。
──無茶だ
エミリは『二人を頼む』と言った。
アリスを、アインを、そしてミハルを助けるために、たった一人であの怪物に立ち向かっていったのだ。
「クソっ、なんなんだよ一体」
理解し難い現実の波にもまれ、悪態を吐く。
突如現れた怪物。見たことのない異形の存在。怪物と化したもう一人の自分。何がなんだか分からない。
頭の中で、疑問符が爆発的に吹き荒れた。
なぜ?
なぜ、こんな風な目に合わなくちゃならない?
突如、絶叫が轟いた。
視線やや上に見える教会からだ。
なぜ世界はこんなに理不尽なんだ? どうして? エミリが何かしたか? アリスが何かしたか? アインが何かしたか?
鋼と鋼がぶつかる音と咆哮がわずかに聞こえる。
これほどの理不尽がなぜ存在する?
一度目の世界で見た光景。
胸部にぽっかりと大穴を空けている少女の亡骸。その死体から漏れ出した臓器がひしゃげて絡まってスパゲティのようになっている残像。かすかに開いた唇から可愛く覗いている前歯。
ミハルの中で『死』の惨劇が再びフラッシュバックした。
──こんな理不尽が許される世界で俺は
恐怖に凍てついたミハルの腕の中、アリスが喉を押さえて苦しげに咳き込んだ。
「アリス! 大丈夫か?」
「こふっけほっ……ん、大丈夫。喉はまだ辛いけど……」
見ればアリスの白い首にうっすらと赤い手型の跡が残っている。
強く圧迫され軽く内出血しているのだろう。まだ首の骨を折られていないだけ運が良い。ミハルはほっと胸をなで下ろす。
「いきなりで悪いけど、俺とエミリが話している間、何があった?」
「一瞬の……ことよ。アインさんが連れていた子……こほっ……のルフを回復させようとしたら、けほっ……急に……目覚めて──あれ? エミリは?」
辺りを見渡しながら一人欠けていることに気づいたアリスの何気ない一言。
ミハルは苦い表情をしながら答えた。
「エミリは……まだ教会の中だ。君とアインを襲った……奴がいきなり怪物になって暴れ始めたんだ。エミリは俺たちが安全な所に逃げられるまで……時間を稼いでいる」
「な、なに……言ってるの──そんな」
アリスはまだあの異形の存在を目にしていないため、理解し難い事実にそう反応するのも仕方ない。
そもそもミハルですら今の状況を整理できていないのだ。
唖然となるアリスの手前、ミハルは再び彼女を抱えると、息を吸い込み走り出した。
(住宅街まですぐそこだ。さっさと訳を話して衛兵を呼びに──)
その直後、
バチィッ‼︎
「──っあ?!」
「きゃっ?!」
ミハルは『何か』に身体をぶつけた。がつん、と硬いものと骨がぶつかり合う鈍い音がして、ミハルの視界を花火がちった。
鋭い痛みに一瞬だけ視界が点滅し、天と地が逆転した。
背中におぶったアインの頭に咄嗟に手を回し、地面との直撃を阻止する。アリスはミハルの胸の上でうめき声をあげていた。
頭に電撃が走ったようにズキズキ痛む。
全力で駆け出そうとした勢いのまま『何か』に直撃したため、反作用によるダメージは大きかった。
「痛っ……なんで急に」
打撃を受けた顔とおでこをさすりながら前方を見上げる。
壁か何かに直撃したのかと思ったが、前方を確認してから走り出したのでそんなはずはない。
では何にぶつかったというのか? 物理的な障害があるはずなのに、目の前には出っ張りの一つもない。
これではまるでそこに、
「まさか……な」
ふと舞い降りてきた突拍子もない憶測。それを確かめてみようと、
「……ミハル?!」
恐る恐る何もない虚空へと手を伸ばして、
バチッィ‼︎ と。
奇抜な音が再び炸裂した。
接触。
ミハルの右手が何もない虚空へ触れた瞬間であった。黒い火花が飛び散り、腕が大きく振れた。
「痛ぇっ!!」
痺れる手をさすりながらよく目を凝らしてみると、目の前に薄い歪みが生まれていた。透明な壁とでも言えばいいのか、とにかく未知の障害がそこにはあった。
そして、次にミハルが瞼を上げた時、目の前に一つの暗闇が生じた。一つの暗闇とは手の形をしていて、それは丁度ミハルの手が触れた位置だった。
「マズイ予感しかしねぇんだけど」
『何か』が発動した。
ズ・ズ・ズ・ズ・ズ・ズ・ズ・ズ!!!! という不快な音が地を伝わって腹に響いてくる。
「夜になってく?!」
ミハルの手が触れた部分を中心に黒い闇が広がっていき、瞬く間に辺りを覆い尽くした。
ついさっきまですぐそこに見えていた貧民街の景色は全く見えない。
目前にあるのは暗闇。それだけである。
「どうなってんだ一体?」
「結界よ……これ。こんな規模の領域は初めてみるわ。それに凄いルフの量」
ミハルには分からない事実に驚愕しているアリスが『何か』の正体を口にした。
「結界?」
ミハルの中で『結界』というワードに関する具体的なイメージといえば、術者が外部との空間を分け隔てる固有の空間みたいなもの、である。
上を見上げると球面になっていて、ドーム状の囲いを被せられたような感じに近かった。おそらくミハルたちのいる反対側もそうなっているのだろう。
再びその闇に手を触れようとしたが、触れることが出来なかった。
何か見えない力に押されるのだ。磁石の同極同士を無理やりくっつけようとするときに生じる斥力といえば伝わるのだろうか。
「もしや外に何の変化もない理由ってこれが原因だったりする? だとしたらますますヤバイぞ」
「うん。認めたくはないけどたぶんそう。この『結界』の仕業だと思う」
普通に考えてみれば、あれだけの爆音と破壊のかぎりを尽くしておいて、外部の人間に伝わっていないはずがない。とっくの間に人だかりが出来てもいいはずだ。
となると、この不可解な現象もこのドーム状結界の影響と考えるのが妥当か。
運が悪いことに場所が場所ということもある。ただでさえ人気のない貧民街の奥に位置する教会。場所としては最悪だった。
そう考えると、状況は絶望的に思えてくる。
「この空間から抜け出せる方法ってあるか?」
「この『結界』を構築した術者を倒すこと。それしかないわ」
「その術者ってまさか──」
推論を組み立てる内に、電撃的に可能性が思い浮かんだ。
「たぶん……あなたが見たという怪物ね。それを……人として数えるのなら」
しぼり出すような声で、アリスが受け入れたくない仮説を口走った。
この世界の未知の法則や術を知らないミハルにはさっぱりだが、彼女がそう言うのならその可能性がもっとも高い。
この『結界』を展開しているのがアレであると仮定すれば、その行動理念に納得がいく。この区切られた空間は獲物を喰らいつくすための狩場。
こちらがいくら抗おうが、向こうからすればミハル達が疲れるまでじっくりと待てばいい話なのだ。
疲れ切った草食動物を虎視眈々と狙う肉食動物のそれと同じ。
信じてみる価値は大いにある。ちっとも喜べる事実ではないが。
「結局、そうなるのか。なら、やることは一つだ」
「…………ミハル?」
「このままここで突っ立っているわけにはいかないよな。俺は戻るよアリス。アインを頼む」
今この瞬間もエミリは一人であの怪物を食い止めている。
あくまでミハルが二人を安全な場所に連れていくまでの殿を務めている彼女だが、この結界という予想外の障害の存在が発覚した今、意味がない。
無駄に命を削っていくだけだ。なにより、この外の世界と遮断された空間から抜け出すためには、アレを倒さない限り道はない。どっちみちの話だった。
アレを倒す。
──肉の壁でもなんでもいい。俺ができることならなんだってやってやる
そう自分に言い聞かせたつもりだったのだが、
「ちょっと待って。なに勝手に一人でいくつもりなの? 私も行くわよ」
正義の味方様が黙っているはずがなかった。
「アリスならそう言うと思った」
「当たり前でしょ。こう見えてちゃんと強いんだから」
と彼女が呟いた瞬間、何もない虚空から漆黒の杭が六つ展開した。
アリスが細い手首をくるりと捻ると螺旋状の軌跡を描きながら白髪の頭の後方を浮遊し始めた。
「え、えげつない感じしかしねぇ」
「ふふん、どんなもんよ。私のとっておき、影のルフの応用技。それで……あなたはどうやって立ち向かうつもり?」
「やる気と負けん気。それと……精神力かな」
「すごく脳筋な気がするのだけれど」
「そう言われると俺がただの馬鹿に見えるからやめねっ。これでも必死なんだ」
「それはわたしも一緒」
エミリもアリスも自分の身を守るための力を持っている。そして、誰かを守る力も。
──だからって守られっぱなして言うわけにもいかない。甘えるな
おそらく、この場でもっとも戦力がないのはミハルだ。魔法も使えなければ剣の振り方なんて知らない。
自分は無力だと、悔しい現実が突き刺さる。けれど、無力だからと言って引き下がるつもりなど毛頭ない。
「行こう、アリス」
「うん」
ミハルとアリスは駆け出した。
たった一人で立ち向かう少女のために。
この絶望的な盤面をひっくり返すために。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「なるほど、まるで鳥籠ね」
教会の外部に張り巡らされた結界の存在。
その状況説明を聞き終えたエミリはそう答えた。
「だな。外に助けも呼べないし、これで崖っぷち確定だぜ」
ミハルはまだふらつくエミリに肩を貸して支える。
──笑えねぇ
重傷を負ったアインは結界ギリギリに位置する無人の小屋に匿っている。安全とは言い切れないが、教会の中にいるよりはまだマシだろう。
内側からこじ開けることができないため、助けすら呼べない。
一応アリスの術で破壊しようと試みたが、結界に触れた瞬間、霧散した。状況は絶望的だ。
肩を貸しているエミリが間近で叫ぶ。
「とにかく私の後ろに下がって。アリスはともかく君が太刀打ちできるような相手じゃない」
「はぁ? ふざけんな! どんだけ俺に恥をかかせるつもりだっつの。女の子二人に守ってもらうとか恥ず過ぎるわ。それに自分の身体の状態分かって言ってるのか? 一人でこれ以上戦うのは無茶だ!」
ヤケクソ気味に叫ぶミハル。その横顔をみたエミリは、そこで信じられないものを目撃した。
異形の怪物を眼前に恐怖と絶望に震え、エミリという余計な重さを抱えながらも。
ミハルという少年は笑っていたのだ。
「とにかくここを切り抜けるぞ。俺もエミリもアリスもアインも、みんな揃ってハッピーエンド。最高のシナリオじゃねぇか」
「震えてるけど?」
「これは……あれだ。武者震い」
ガチガチと。
歯の根を震わせながらも、それでもミハルは言いきった。
記憶喪失。一日にも満たない僅かな思い出。2度の時間遡行を経て、やっと繋げた3周目の世界。
記憶喪失である以上、かつての自分が何をして何ができる人間だったのか、確かめる術はない。
この間に何度も思った。自分にこの八方塞がりの現状を解決できる特別な力があればいいと。しかしそれは、都合が良すぎる話だ。
「知りたいことも沢山あるし、もっと話したい。死にたくもないし、このまま決められた運命に従うつもりなんてない。上等だ、再度宣言。クソッタレな運命様とやらに抗ってやるよ」
その声を聞いて。
その横顔を見て。
エミリは、一等監察官の少女は、ほんの少しだけ頰を緩めた。
「君がそんなにかっこつけたら私のプライドが丸潰れじゃない」
死繋人は一歩一歩と迫り来る。
着実に今度こそ息の根を止めるべく、必殺の距離へと詰めてくる。
「しつこい──ッ!!」
苛立ちの混ざった掛け声と共に、アリスの後方に展開した黒杭が槍の形状に変化し、空気を切り裂きながら怪物目掛けて突っ込んでいった。
命中すれば体に大穴が空くほどの一撃。それが六連もある。受けたら一溜まりもない。背筋が凍るほどの攻撃だ。
しかし、現実はそう甘くはなかった。迎え撃つのは異形の怪物である。
「──ッ?! しぶといっ」
術を繰り出したアリスの目の横を、汗が一筋滑り落ちた。
二撃目同様、致命傷は与えられていない。おまけに今度は六連目の杭を拳で弾き飛ばされた。
アリスの呼吸がだんだんと粗くなっていく。
「ミハル、もう大丈夫。立てるから」
「え、回復早くね?」
「自己修復したから。ほら、この通り」
エミリはミハルの肩を振り解くと、再び地に足をつける。アリスが時間を稼いでくれたおかげで、回復出来る時間は確保できた。
何とかもう一踏ん張りできる余力はある。拡現には活動限界まで210秒との警告表示が映っている。
このまま止まるわけにはいかない。今止まればフレームAにまであげたはね返りがくる。
だけど、
ミハルの瞳を見た。その目、強い意志を備えた深海色の瞳。
アリスの瞳を見た。その目、強い信念を宿す瑠璃色の瞳。
二人の目を見て、エミリが次に言う言葉は決まった。
「やるよ。ミハル、アリス。私に力を貸して」
「まかせろ」
「まかせて」
二人の声が揃った。
三人の意志が一つになった。




