第一章21話 『ヒガンバナ』
《side K》
吹き荒れる嵐が通り過ぎていったかのようだった。
石畳はところどころ剥がれ、剥き出しになった歴史の下には、どす黒い泥が顔を出していた。
泥で濁った水たまりには、灰色の空が朧げに映っている。
無人の街路には誰もいない。
まるでハーメルンの笛吹きに誘われ消えていったかのように。
重厚な窓と小さな窓、半円アーチが等間隔に並べられた欧州風の建造物。
その隣には平面的で整然としていて、左右対称かつ均等な造りの家屋。
それがいくつも連なって、芸術的な景観を生み出している。
つまり、石と煉瓦を組み合わせ、積み上げた市街だった。
しかし、その絢爛な佇まいを誇りとしていたそれには輝きが無い。
物に命はあるのかは分からないが、草原に寂しく放置された草食類の亡骸と同じような哀愁が感ぜられる。
この世界には生命を暖かく包み込む光は無い。
あるとしたら死を招き入れる暗闇ばかり。
ここはあの世。
その単語がしっくりくる景色だった。
そんな退廃的な景色の中でぽつりと咲く一輪の赤い花。
崩れ落ち、黒く変色した瓦礫の上に咲いていた。
特徴的な細い花弁が輪生状に並んでいる。
秋の彼岸の頃に咲く赤くて怪しげな花。曼珠沙華。死人花。そして、地獄花とも呼ばれる真っ赤な花。
まさしく、それは一輪の彼岸花だった。
血のような赤みを持った花弁が、灰色の街に彩を与えている。
その様は一枚の絵になる程綺麗だったが、
──フッ
突如、赤い花びらが空を舞った。
そして、ゆらゆらと重力に従って落ちていく。
きっかり三秒。赤い飛沫がふわりと泥が塗りたくられた石畳に優しく着地した。
キィン!!
ギュガガガガガガガガッ!!!!
甲高い金属音がこだまし、泥の飛沫が飛び散った。
静寂だった空間は、一瞬にして衝撃と烈風に包み込まれる。
砕けた石があちこちに散らばり、黒い灰が辺りに漂う。
ぼんやりと人の姿のシルエットが浮かんだ。
それも二人。
灰色のベールは徐々に剥がれ落ち、その姿が露わになった。
睨み合うのは男と女。
お互い大股で二歩ほどの間合いを取り、微動だにしない。
「しぶといですね。いい加減諦めては? あなたに勝ち目はありませんよ」
女が口を開いた。
彼女の顔は黒い布のベールに覆い隠されていて、どんな表情をしているのか分からない。
「そのセリフそのまま返す」
ニコリと爽やかな笑みを浮かべながら返答する男は、手に握る異形の刀を構え直した。
異間公安特異九課所属───上等監察官K。
相対するのは世界政府直轄機関───魔術結社Libra構成員ミシェル
相反する目的を持つもの同士の殺し合い。
正確に言えば、命を刈り取ろうとする理不尽な行動を始めたのはミシェル側の方だが、LibraにはLibraなりの目的があるのだ。
それをどうこう言うつもりはないが、このまま黙って殺される気は毛頭ない。
今回の任務を突き付けた上司を呪うばかりだ。
───理不尽過ぎるだろこの仕打ち、つくづくこの仕事が嫌になる
「和解の案はないのかい?」
「いえ、あなたはこの件に頭を突っ込んでしまった。それが全てです。よってあなたを処分することに変わりはありません。外部には漏れていけない件なので」
「堅いな。もう少し楽に話せばいいのに。タメ口できなよ」
「ふざけているのですか?」
「その感じ、俺の同僚にそっくりだ」
ここではっきりと明記する。
二人の間にはもはやこれ以上の対話などなかった。
先程の衝撃で黒ずんだ壁にミシリと亀裂が入った。
ドガッ‼︎
刹那、Kとミシェルは同時に動いた。
ミシェルは両腕をクロスさせ、赤い糸を交差させる。
赤い糸といえばロマンチックな響きだが、これは死の赤い糸。全てのものを切り裂く、鋭利なワイヤーである。血操術と呼ばれる暗殺特化の魔術の一つ。
音速の限界を突き破り、Kの胴体を真っ二つに切り裂くべく一気に迫った。
「──よっと」
その無慈悲な攻撃をKは難なく交わした。
重心をすぐさま落とし、バランスを取りながら、背骨を曲げ、鼻すれすれのところで回避したのだ。
人の域を逸脱した身体能力と反射神経を併せ持った芸当である。
獲物を取り逃がした鮮血の糸は交差し、捻れ、一本の糸になった。
流れるように回避したKはそのまま一気に間合いを詰め、紅蓮に光る刃を右肩から打ち込んだ。
フォンと空を切り裂きミシェルの細い首もとへ吸い付くように入っていく。
はずだった。
ガキィン!!
金属がぶつかり合う鈍い音が響いた。
彼女の首元寸前のところでKの放った刃は塞がれていた。
「これじゃダメか」
よく目を凝らせば彼女の身体全体蜘蛛の糸ほどの血のワイヤーが張り巡らされている。
コイルのように巻いているそれは彼女の絶対防御壁とも言えようか。
「殺れ」
直後。
彼女の合図と共にKの両側から二人の男が斧のような武器を振りかざした。
血色に染まった刃先が空気を切り裂きKの両肩に差し迫る。この斧の形をした武器も血操術の一つなのだろう。
Kの相手はミシェルだけではない。彼女が率いる部下は五人。
数の利に頼った不意打ち。
しかし、Kの顔に焦りはない。
まず、左側から攻撃してくる男の斧の刃先を鮮血の刃で受け止めると、絶妙な刀捌きで横にいなす。
赤くギラつく斧の刃先がぬかるんだ泥に突き刺さった。
黒い泥が派手に飛び散る。
そのまま間合いを詰めると巧みな足捌きで身体をスライドさせ男の後ろに回り込んだ。
ここまでの動作、わずか0.5秒。
──まずは一人
男が振り向く間も与えず、Kは刀の柄で思い切り彼の背骨に鋭い打撃を与えた。
刀の柄と言ってもKの刀の柄は通常のものとは異なる。
握られた柄は人の右腕を改造した被造物。
そして、先端は硬く握られた拳である。
「グウッ‼︎」
男は痙攣し、その場にズサリと崩れ落ちた。
「ただの打撃じゃない。気をつけろ」
そう言い捨てながら、Kは二人目の男に攻撃を仕掛ける。
「──シッ」
右側から仕掛けていた二人目の男は一歩下がり、Kとの間合いを取ろうとするが、そう簡単にもいかなかった。
まさに一瞬だった。
瞬きする間も与えず、Kは刀の柄である右腕を逆手に持ち替える。
そして、両側に散らばる石の瓦礫を足場にトントントンと右、左、右の順で軽く跳躍しながら近づいた。
そんな人間離れしたKの体捌きに男の反射神経が追いつく間はなく、気付いた時にはライトレッドの一閃の軌跡が現れ、
ビキッ‼︎ ‼︎
「!?」
男が手間に構えていた刃先の太い斧がいとも簡単に割れた。
心なしか声のトーンを落として、Kは軽く前置き。
「これは少し強めだ」
動揺と恐怖に体勢を崩した男の懐に潜り込んだKは躊躇なく彼の引き締まった腹に拳を入れる。
その拳は深く腹に突き刺さり、その時点で男は気を失った。
Kの言う『少し強め』これは嘘ではなかった。
ドガアアアアアアアアアアッッッ!!!!
筋骨隆々の男の体がぶっ飛んだ。
質量はあるのかと思えるほど重力を無視して飛んでいく。
もはや軽い砲弾だった。
男の体が、100メートル以上水平にぶっ飛んでいく。
もぬけの殻の石と煉瓦で作られた欧州式の建物の群の壁という壁を突き抜け、砂塵と衝撃の余波が辺りに巻き散っていった。
ただの鋭いボディーブローが、街の一角を半壊させるほどの爆風を生んだのだ。
規格外、という言葉がこの一連の出来事にぴったりだった。
「体、温ったまってきた」
Kは爆風の余波に金髪をたなびかせながら、コキリと首を鳴らした。
彼は今もうっすらと軽い笑みを浮かべていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
廃墟と化した市街で始まった殺し合いから数分後。
とある商店らしき建物の内部にその女はいた。
戦況を立て直すため、一度戦線から離脱したのだ。
どこからか爆風の轟音が轟き、天井に吊り下がっている照明がグラグラと揺れる。
足裏からは衝撃による地響きが感じられる。
ミシェル・ジェシカは薄いベールの下で下唇を噛んでいた。
これは彼女の癖である。幼少期の頃からの悪い癖。
気品ある女としての振る舞いを乱したことに余計に腹が立つ。
「姉御、奴は一体何者なんです? 強さが規格外だ」
と情けない声で傍に立つヴェルナーが言った。
「分かっているわ。落ち着きなさい。ハインツとカミルは?」
「両名とも意識不明。カミルは肋骨に重傷を負っている。戦闘復帰は難しいかと」
「戦況は?」
「ここから東に200メートルの地点でテアとヨッヘムが交戦中。戦況は……押されてます」
「二人を除けば動けるのは私とお前の二人だけ。クソッ、どうしてこうなった」
───アイツ、あの戦い方。我々との戦いに慣れている。どこの出だ? 特異九課の上等監察官K。腕持ちがある程度の力を持っているのは知っているが、私の部下が一人も通用していない。一対六だぞ。どうみてもこちらに数の利点があるのに……っ
ドガッ‼︎
苛立ちに任せて廃墟と化した石造りの壁を蹴った。
ガラガラと壁は崩れ、砂塵が舞った。
彼女も並みの人間とはかけ離れた力を有している。
「ヴェルナー、この領域から抜け出すルートは?」
「いえ、それが全く。通常の領域であれば外に干渉できる鍵穴があるはずですが、どこを探しても何もありませんでした。光さえ入る隙間がない。『姿映し』は使えません」
「やはり、術者本体を倒さなければならないようね」
口元に手をやり、しばし考え込む。
「どうしますか、ジェシカ姉」
「その呼び方はやめて、このまま続行よ。そして任務も必ず完遂する」
ここで失敗すれば自分が今まで築きあげたキャリアに泥を塗ることになる。こんなところでこけるわけにはいかない。
またもやどこかで爆音が響いた。
しばらくその音が轟いた後、不気味なほど静かな静寂が訪れた。
ミシェルにはその静寂が何を意味するのか薄々わかった。
「テアとヨッヘム戦闘不能」
ヴェルナーが泣き喚きに近い声で報告した。
──アイツはこの手で殺す。
「二人には感謝ね。これである程度ヤツの能力は分析できたわ。彼も消耗しているはず。ここから押し切るわよ。あなたは私のバックアップをしなさい」
「大丈夫ですか? 姉御」
「あなたよりはね」
ミシェルはそう言い残すと、この殺し合いのケリをつけるべく、歩き出すのだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「いい感じで ノってきた」
窓寄りの壁際に寄りかかり、息を整える。
緊張感のない笑みを浮かべるKはゆっくりと異形の刀を持ち直した。
チャキリと音が響く。
自動書記:フライデー。Kが所有する第3世代型の実験機。
肘あたりで綺麗に切断された右腕からは鮮血の刃が伸びている。自動書記に収納されたRL血液を人工の血液凝固因子で強制的に固めた刃である。
紅色の波紋がゆらゆらと蠢いている様はまるで刀が生きているかのようにも見える。
「さて、ここまで連中を飛ばしたのはいいけど、どうケリをつけようか? 」
任務を最優先として下した決断。
自動書記の能力の一つ『座標飛ばし』を発動させ、Libra構成員六人纏めて第三象限まで飛ばしたところまでは順調に事は進んでいる。
今のところ四人を戦闘不能にし、残すところミシェルという女を含めた二人。
──思いの外、手こずったな。
フライデーの能力は大まかに言うと『位相置換』。『座標飛ばし』もその一つだ。
一見使い勝手がいいようにも見えるが、この能力には難点がいくつかある。
一つは能力の行使に限りがあるということ。大規模な術式と同調言語で組んでいるため、比例して術者の体力を消耗するからだ。
「最初から纏めてかかってくれたら手早く済んだのに、向こうのお堅い女ボスの慎重さが厄介だよ」
現在、Kが実体として存在している空間は固有結界の内といえば分かりやすいだろうか。
この亜空間に入ったら最後、術者であるKを倒すか、自動書記そのものを壊すかしなければ、永遠に抜け出せない。いわばこれは透明な鳥籠なのだ。
唯一の欠点は亜空間を展開した術者本人もこの領域の中に存在しなければならないこと。
そして、術者が座標を収束すれば相手も脱出できるということ。
つまり、Libraの連中をこの位相に取り残し、Kだけがこの場から離脱することは不可能なのだ。
この術をKが展開した時の目的は一つ──“多数の敵を一気に殲滅する”
この領域はKという狩猟者の狩場と言えた。。
──そろそろか
「フライデー、調子はどう?」
Kはおもむろにその右腕に語りかけた。
口に出すというよりは、脳内から語りかけるというのに近い。
すると、
〈まだなんとか。死霊同調に続いての『座標飛ばし』には疲れましたよ。毎度言っていますが、マスターは人使いが荒すぎます〉
彼の脳内に声が聞こえてきた。
それは機械音声に近い男の声で、執事っぽい口調だった。
まさしく助手という役割に近い存在である。
「あーそれはごめんごめん。可愛い後輩にいいとこ見せたくてね」
〈調子にノるのはいいですけど、わたくしのことも考えてください。で、この状況からどう切り抜けます? 何か良い秘策でも?〉
「お、感いいねぇ。流石。今思いついたんだけど」
〈嫌な予感しかしませんが……一応聞きます〉
Kはニヤリと口元を緩めながら
「久しぶりのアレやるぞ。派手にブチかまそう」
〈正気ですか!! 下手すればマスターの身も危うくなりますよ〉
フライデーの声色には呆れが半分、不安が半分同居していた。
「君もここ最近暴れていないだろ。久しぶりに身体を動かすべきだ」
右腕の五指は慌ただしく、動くこと数秒。
ぐてっとしなった。どうやらいろんな意味で折れたらしい。
〈ええ、分かりました。やればいいんですよね、やれば。どうせわたくしが何を言っても聞きやしないんですから〉
「助かる。いつもすまないね。タイミングは君に任せる。発動のタイミングで⒈5秒ずつずらせ。向こうのアンチ力は意外に強い。特にミシェルという女が厄介だ。でかい一撃に気をつけろ」
〈了解です。術式展開のリミットは180秒。五指のうち二本は使用済みです。つまりここでミスると後々面倒ですのでご注意を〉
「分かってるさ。早くエミリと合流しないとね。あ、それとさ」
〈はい、何でしょう?〉
「君の場合は人使いというより腕使いの方がしっくりこないかい?」
〈……キレますよ〉
「あははははっ……怖っ」
気さくで柔らかい表情の彼は深呼吸をしながらゆっくりと目を閉じ、そして──再び瞼を開けた。
「……さて、やるか」
いつの間にか彼のコバルトブルーの瞳からは暖かみが消え、冷たい闇だけが残っていた。




