第一章20話 『咆哮』
「本当にやるんだよな……?」
胃袋にのしかかる圧。速まる心臓のとくとくと波打つテンポ。
しかし、ミハルはいちいち月並みな緊張に襲われている場合ではなかった。
ここで動かなければ、やられてしまう。躊躇するわけにはいかない。
「準備はいい? 三人とも?」
エミリはミハルを含む三人に目配せした。
彼女の手には茶色の麻袋が握られている。
「大丈夫。任せて」
凛とした声はアリス。こんな状況でも堂々としている彼女は頼もしい。男であるミハルが情けなく思えてしまうほどにしっかりしている。
桃髪の少女──アインが怯えた声を上げた。
アリスと正反対の脆弱な声色の少女であるが、これが普通の反応なのだろう。
「大丈夫。わたしがあなた達を守るから」
にこりと微笑むエミリの声は頼もしく、緊張した少年の心をときほぐした。容姿から少女だと思い込んでいたが、口調や態度からミハルより年上なのだろう。そう確信できた。
これから行動を共にするのはミハル、エミリ、アリス、アイン。そして気絶している名も知らぬ黒装束の少年。
エミリの提案をすぐさま理解してくれた二人はこの局面を打開すべくミハルとエミリに協力してくれた。
狙撃手の攻撃範囲から離脱後、アインの知る貧民の教会まで辿り着くというのがエミリの提案した成功シナリオだ。
現在、二度目の銃声の後から約三分。
未知の襲撃者からの反応がないことが逆に恐ろしい。
賑やかな喧騒から一変。多くの人々はひとまず近くの建物内に身を潜めており、辺りは恐怖に満ちていた。空は快晴だというのにこの雰囲気はアンバランスで気味が悪い。
どこからか『衛兵は何をしているんだ』という男の怒鳴り声やその声に怯えた赤子の泣き喚く声が聞こえてくる。
誰もが恐怖と不安と混乱に苛まれていた。
そんな最悪な状況を改めて認識したミハルは思わず足元がすくむ。
「じゃ、手はず通りに行くよ。私の合図でこの袋を大通りにぶち撒けて、向こう側まで白煙を焚いて射撃手の射線を遮る。私が先行するから、離れずにくっついてきてね。それからもう一度確認だけど、アリスさん。あなたの術で指示通りのことができるのよね。ここからあなた頼りになるのだけど」
「ええ、それぐらい楽勝よ」
「頼もしいわ。それとミハル君」
エミリはミハルの肩を叩いた。
「その男の子よろしくね。彼は気を失っているから」
「了解、まかせろ」
ミハルは背中に背負う少年をちらりと見る。
エミリとアインが連れている謎の少年。体のあちこちを負傷しているようで見るのが痛々しい。こんな姿の彼がなぜこうなったのかは興味がないといったら嘘にはなるが、今はそれどころではない。
フードを深くかぶっていて顔はよく見えないが、アインにとって大切な存在だということだけは聞かなくても分かった。
──俺にできることはこれくらいしかないなんて……情けねぇ
これから行動を共にする中でその少年をおぶって走るには男であるミハルが適任であり、それにはミハルも賛成だった。他三人は少年と年は近いものの、少女である。
本当は男である自分がしっかりしなければならないというのに、これといったことが出来ない自分が腹立たしい。
──やっと救えた命なんだ。何があろうと俺が守る。絶対に。
ごくり唾を飲み込む。瞳に闘志を燃やす。
ここまでやってこれたのだと。そして、必ずハッピーエンドにしてみせるのだと。
「さぁ、みんな。 生きてこの局面、乗りこえるよ。 アリスさん、私の合図で盛大にぶち撒けてやって」
ミハルは太ももをパシパシ叩き呼吸を整える。
「──ルト・ナートム」
アリスが何か呪文の様な単語を呟くと、エミリが手に持つ麻袋が彼女の手を離れ、宙に浮いた。
ゆらゆらと地面から約二メートル程上空をゆらゆら揺れながら路地から大通りへと浮遊していく。
勿論、これは陽動。
未知の相手がどのような出方をするのか見極めるための囮である。
『銃声と着弾のタイミングがおかしい。向こうは一体どんな武器を使っているの? Libraの連中の仕業?』という打ち合わせをした時のエミリの意味不明な独り言がふと頭をよぎった。
彼女は何を思ってあんなことを言っていたのかは今のミハルには分からないが、それを問い詰めるのも後の話だ。
アリスを見れば慎重に掌を前にかざして術をかけている。これもおそらくルフ操作というものなのだろう。まったく器用な少女である。
そのアリスが操作する麻袋が丁度大通りのど真ん中に出た時だった。
ドスッ!!
エミリの予想通り、三度目の銃声が大通りに響いた。
例のごとく赤い閃光が瞳に鋭く入る。
未知の襲撃者の三度目の攻撃。今度はミハルでもその正体がおぼろげであるが少しだけ分かった。
確かにそれは銃弾だったが、弾速は肉眼でなんとか追える程のスピード。
そしてその弾丸はどす黒い赤色だった。
それは麻袋を難なく突き破り、そのまま石畳に着弾。
堅い石を抉りとり、深紅の飛沫が飛び散った。
爆発というより液体性のものが激しく散ったという感じがした。
エミリはその一瞬のタイミングを見逃さない。
「今っ!!」
すぐさま、アリスは中指と人差し指を揃えてクイと上に動かしながら、ルフに命令を下した。
「──メナス」
アリスが叫んだ直後。
ッッッドハッ‼︎
鈍い音が炸裂した。
残り九個の麻袋が大通りに浮遊し、一斉に爆破した音だった。
正確には麻袋が散ったというのが正しい。
そして次に何が起こるのかは分かりきったこと。
ボハァッと一気に白い白煙が辺りを埋め尽くす。
それは幅が20メートル程の大通りを難なく覆い隠し、辺りを白一色で染め上げた。白い粉が浮遊した煙幕は路地にまで漂い、ミハルは慌てて顔を布で覆う。これで咳き込むことはある程度抑えられるが、視界は良好とは言えなかった。
「走って! !」
エミリが叫んだ。
その叫びに呼応し、ミハルは一気に駆け出した。
エミリ、アイン、アリス、ミハルの順で、白煙の中に突っ込んだ。
背中おぶる少年を振り落とさないようにバランスをとりながら、けれども出来る限りの速力で足を動かす。
走り出して三秒後。
ドガッドガッドガガッ! ! と腹に響くような鋭い轟音と共に、白煙の中で赤い閃光が光った。
「……ッきたきたきたききたきたきたーーぁ! バカスカ撃ってきやがった! !」
ミハルはとにかく喚き叫んだ。恐怖と興奮が混じり合い、情緒不安定。
アドレナリンが分泌され運動器官の機能が向上する。
血流が速まり、心拍数が上がる。
肺は忙しく機能し、時折息が止まりそうになる。
大股で数十歩。ちょうど大通りの真ん中を通過した。
ここまで来るのに数秒だというのに、ミハルの体感では数十秒に感じられた。
流石に白煙の効果はあるようで、今のところかすりもしていない。未知の敵はがむしゃらに撃ち続けているようだが、正確な的を絞り切ることが出来ず、エミリ率いる四人を仕留めることはできていないようだった。
「あと、もう少し」
ズシャアッ!!
「きゃあっ! !」少女の甲高い声が聞こえた。
と同時にミハルも「ぶわっぷ‼︎⁉︎」と転びそうになる。
が、なんとか体勢を立て直す。
「アリスっ! !」
ミハルは白髪を乱した彼女の名を叫び、転んだ彼女の手を掴みぐいっと引っ張った。
「歩けるか?」
「……っごめん。挫いたみたい」
着弾と共に石畳に付着する赤い液体に足を滑らせたのだろう。
よく目を凝らして見れば、ぬめりのある赤色の液体が石畳の上に敷かれていた。
──血ィみたいだ。気味悪ぃ。
所々に小さな亀裂や穴が空き、躓きやすくなっている。
「二人ともっ! ! 」
声のする方へ視線を向けると白煙の奥にうっすらと二人の人影が見えた。
すでに先行していたエミリとアインは向こうの建物の陰に逃げ込めたようだった。
「クソっ、マズいッ!」
ミハルが悪態をつく間もなく、
ドヒュッ!!
ミハルとアリスの本の数十センチ前を紅蓮の弾丸が通り過ぎた。
直後に鋭い風圧が空間を切り裂き白煙が薄まる。
ミハルの頰に赤い飛沫が付着した。
しかし、今はそんなものを拭う暇はなかった。
「向こうも馬鹿じゃない。適当に撃って、この白煙のベールの濃淡を変えてやがる」
何発か試し撃ちして、最適な射撃コースを割り出しているのだ。弾速は遅い分一撃は大きい。本命の一発が運悪く発射されたら、物理的な遮蔽物がないミハルとアリスの命は一瞬にして途絶える。
「ミハル様っ! !」
「そこで待っていて。今行くからっ! !」
アインが悲鳴に近い声をあげ、エミリが助けようと叫んだが、
「来ちゃダメだっ!」
「でもっ! !」
エミリは歯噛みする。
場は一刻を争う事態。
「何かいい手はないのか? この状況を乗り越えるいい手が」
脳を超フル回転させ、崩れた体勢を立て直す。
そして一つ思いつく。
「アリス!!」
「何? なんでも言って」
「そこに散らばっている屋台の瓦礫。アレ、白煙の外に誘導できるか?」
「もちろん。あっ……そういうことねっ! !」
アリスが合図を打った直後、眩く赤色に光る弾丸が次は二人の後方二メートルを過ぎ去った。
鋭い音が鼓膜を激しく震わせる。
すぐさまミハルの意図を汲み取ったアリスは左手の人差し指をくるりと回転させた。
すると、ミハルの指した布と材木が絡まった屋台の瓦礫が浮遊した。
「白煙外に瓦礫を出すと同時に一気に駆け抜けるぞ。俺が肩を貸す。いけるか?」
「うん、任せて」
ミハルは背中におぶる少年の足をがっちり固定し、細いエミリの腕を首に回す。
──そういえば、最初は俺が肩を貸してもらっていたな
準備万端。
射撃コースはかなり正確になってきていた。
このままではいずれ正確に狙われてしまう。チャンスは今しかない。
「よし、いくぞ。3……2……1……今だっ! !」
ミハルの掛け声と共に、アリスの術が発動。
布と木片の塊が白い霧を引き裂き、陽光が照る大通りへと姿を現した。
それはまるで人影が出てきたように見えた。
煙の中から、影が飛び出す。
標的を絞ることが出来ず苛立つ狙撃手はどう反応するのか?
ミハルとエミリを足止めさせていた弾幕はピタリと止まり、代わりに白煙外に集中した。
──迷わず、食いつく。それが囮だと気付かずに。……そして、これがチャンスだ
「ダッシュ、ダーッシュ! 逃げ切るぞ‼︎」
ミハルとアリスは必死に白煙の中を駆け抜ける。
二人分の体重を負担しながらもミハルはとにかく無我夢中で太腿を動かす。
もう体力は限界に近く、足の感覚がほぼない。
肺は悲鳴を上げ、気管支はズキズキ痛み、心臓は胸から出てきそうなほど激しく鼓動していた。
十メートル少し駆け抜けること、たった6秒。
ついに二人はエミリとアインが待つ建物の陰に滑り込んだ。
「あばばばばっ‼︎」
ミハルは頭から突っ込むようにして倒れこむ。
そのままいけば地面に衝突。顔面から打ちつくことになり悲惨なことになるコースは不可避。
しかし、それは免れた。
少年の疲労した身体は包容力のある胸に包まれたからである。
視線を上げれば、深紅の瞳を少し潤わせたエミリの顔があった。
「もうっ! 心配したんだから! とにかく無事で良かった」
「アリスのおかげだよ。俺一人じゃどうしようもなかった」
そんなミハルに向かってアリスは慌てて抗議した。
「何を言っているのミハル?! 助けられたのは私の方。あの時、あなたが冷静に対処していなかったら、今頃死んでいたわ」
「誇るべきことよ、ミハル君」
「……いや、俺はそんな……」
ミハルが二人の賞賛に照れつつも、戸惑っていた時だった。
それは突如、聞こえてきた。
それは今まで聞いたことがないほど五月蝿く、不快で、気味の悪い音だった。
否、声だった。
意味のわからない『あ』の羅列のようにも聞こえたそれは、鼓膜を引っ掻く様に震わせ、身体が反射的に耳を塞ぐように反応した。
黒板を爪で引っ掻く音の100倍も不快な叫び声。まるで死と苦の混沌を象徴した様な、地獄の業火に身を焼かれた罪人の賛美歌の様にもミハルには聞こえた。
「──ッ! ?」
わかった事。
醜怪
その奇怪な声は王都全域に響きわたっていた。
そしてその声とも言える音はそれを聞いた者の耳に不快な余韻を残しながら青空へと吸い込まれていった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「────」
その後訪れたのは静かすぎるほどの静寂。
先程まで激しく空間を揺さぶっていた狙撃の着弾の音はいつの間にか止まっていた。
大通りを覆っていた白煙のベールは次第に剥がれ、暖かい陽光が赤く染まった石畳を照らしている。
昼下がりの暖かな一時。
場所が変わったと錯覚してしまうほど、人を除いた大通りは平穏を取り戻していた。
赤煉瓦の屋根にとまった青い小鳥の囀りが心地よく響く。
「……やっと鳴り止んだ……ようね。今のは一体なんだったの?」
整った眉をひそめたアリスがそう呟いた。
──何の声だったんだ?
その音が鳴り止んだところでミハルが気づいたことが一つ。
──あの音……
なんとなくではあるが、ミハルには感じられた。
──音の根源。声の源。
──時計塔の天辺から聞こえた気がする。




