第一章15話 『介入』
最初は真っ暗闇だった。
何も見えない。
瞼が重く開こうとしないのだ。
意識の中では開こうとしているのに、開かない。
未知の不安にとらわれ、呼吸が荒くなる。
──何なの? この音?
視覚は機能していないが、聴覚は機能していた。
エミリの鼓膜に入る音は異質なものだった。
さっきまで聞こえていた人々の騒がしい声は何処かへ消え、代わりに不可解な音が響いている。
否──音というより、叫び声や悲鳴に近い。
──怖い……何かいる……
ようやく重い瞼を開けることができた。
エミリはゆっくりと目の前に映る光景を脳裏に焼き付ける。
「じ……地獄……?」
それがエミリのその光景を見た率直な感想だった。
空気は淀み、空は黒雲で埋め尽くされている。
その雲は生き物のように蠢いていて気味が悪い。
辺りはどんよりと暗く、灰色の霧が多い尽くしている。
エミリが足をつける地面はぬめりのある泥と深緑色の苔で覆われていた。
そして何よりそこが地獄だと思う理由。
それは黒い幻影がそこかしこで見受けられたからだ。先程から聞こえる不気味な声の主は彼ら彼女らだった。
「落ち着いてエミリ。彼らが僕らに危害を加えることはない」
エミリの横に立つKがエミリの緊張をときほぐすようにゆっくりと話しかけた。
自分以外にもこの光景を共有している人間がいることにひとまずエミリは安堵した。
「あれが……」
「そう、死者の幻影。といってもこれは第二象限から見た姿。これより深層に行くと、またその姿形も変わってくる。僕らが見ているのは一時間前、ここで亡くなった死者の魂そのものなんだ」
死者の幻影と呼ばれるそれは黒い粒子の一粒一粒が合わさって一つの人間の姿をなしていた。
特徴的なところと言えば、その黒い人形もどきはどこかしら体の一部が欠けているということだろう。
右足の太腿から先がないモノや、左腕の肘から先がないモノ、頭部そのものがないモノもいた。
エミリの読んだ文献によれば、欠けている部位はその者を死に追いやった部位らしい。だから、その幻影の欠けているところからその死者の死因がわかる。
「先輩。彼らに繋がっている黒いチューブのような物は?」
どの幻影も地面から1.5mほど空中に浮かんでいて、黒い粒子で構成された紐が幻影たちの身体と地面を括りつけている。
「ああ、あれか。死霊とあの世を繋げる糸。通称──死の糸と呼ばれるものだ。死んだ者は必ず地獄とあのようにして繋がりを持つ」
その黒い糸はまるで母子と胎児を繋ぐへその緒のようにも見え、死者の幻影がそうして地獄と繋がる様は神秘的に感じられた。
──この世で命を燃やし尽くした者はああなるのか
エミリはこれまで生きてきて自分が神を信じない、いわゆる無神論者であるという自覚はあった。
死後の世界なんていうものは人間の妄想でしかない。だから、非現実的な考えだと、そう思い続けてきた。
仮に天国という神の世界が存在するのだとしてもそんな世界は人間なんていうちっぽけな脳に収まるようなものではないと、半ば自分が現実主義者でありたいと思い込むような人間でもあった。
しかしだ。
この光景を目の当たりして、
──地獄なんてすぐそこにあるんだ……
これだけは、はっきりと断言出来た。
「エミリ。未知の感覚に慣れない所申し訳ないんだけど、時間もあまりない。先を急ぐよ」
「大丈夫です。私、こう見えて優秀なので」
「うん、自信があるのはいいことだ。じゃ、これより時間を一時間ほど逆行するよ。なんといってもこれが死霊同調の醍醐味だからね」
死者の魂が浮遊する空間というのは極めて地獄に近い領域であり、それは地獄という空間と同じ現象が起こる。
時間逆行の再現もその一つだ。
現世と違いあの世では時間は不可逆的なもの。つまり現在、自動書記を通して地獄に近い領域に侵入しているKとエミリは間接的に時間逆行を可能にすることができる。
が、時間逆行が起こるのは自動書記の展開する領域の中のみであり、加えて起こる事象を監察することしかできない。生者の介入は不可能だからだ。
しかし、過去に何が起きたのかは時を巻き戻して監察することはできる。
ようはアナログテレビの巻き戻しのボタンを押して、自動書記の領域という画面を通し、過去に起きた真実を見るようなもの。
──1時間前。この商会で何が起きたのか、必ず突き止めてみせる
エミリ志を固く持つと深呼吸をした。
酸素を肺に取り込み精神を安定させる。
Kはエミリの心の準備が整ったのを確認すると、右手に持つ自動書記に命じた。
「フライデー:逆転──開始」
次の瞬間。
自動書記の右手全体が青白く光り、五指のそれぞれからプラズマ線がほとばしる。
手首がくるりと二回転半回り、初期動作を終えた。
きっかり5秒後──エミリとKを取り巻く世界はまたもや変化した。
◯
再び鼓膜を震わせたのは空間を捻じ曲げるような音だった。
あまりの奇怪な音に思わず耳を塞ぐエミリ。
しかし、彼女は瞳に映る目の前の光景に絶句する。
「ま……巻き戻っている……?!」
ついさっきまで地面に散らばっていた残骸から黒い残像が浮かびあがり、元々あった場所に吸付けられるように戻っていく。
フロアを支えていたであろう大きな支柱も、割れたタイルの一片も、それらを構成する黒い粒子が風に運ばれるようにしてあるべき形に変容する。
自動書記を通して第二象限の領域で同調しているエミリとKには第一象限からでは見ることの出来ない景色が見えているのだ。
死者の体から魂が抜けていく幽体離脱と同様。物にも同じことが起きる。
いわゆるアストラル・ディメンションへの移動。
物からその物の魂が抜ける様は神秘的で……
──すごい……まるで魔法だ
変化していたのは辺りの景色だけではなかった。
儚く浮遊する死者の魂にも変化があった。
黒い粒子の塊が不気味に蠢き様々な姿形へと変形していく。
人の姿をしたモノもあれば異形の姿をしたモノも見受けられた。
それら全ては商会爆破前まで内部にいた者たちの亡骸を模す幻影であり、今回の事件の謎を解く鍵と言える。
数十秒後、エミリとKを取り巻く景色はすっかり変わっていた。
変わらないのは黒雲に満ちた空模様とどんよりと漂う灰色の霧。
悲惨な残骸の山があった場所には黒い粒子で構成された構造物が浮かび上がっていた。
それは地下に埋まっていた秘密の商会の館内を外部のみならず内部まで精巧に模倣された幻影である。
粒子の濃淡で細かな奥行きまで再現されている様子は精巧なガラス細工のように見えた。
Kは自動書記を持ち直すと歩きながら言った。
一歩、また一歩と、彼が足を進めるごとに黒の粒子が舞い上がり、足跡を残していく。
「ついてきて」
エミリは不気味な黒一色の空間に若干萎縮していたが、彼の単調な声が彼女の緊張をとぎほぐした。
黒い粒子で構成された構造物は不可思議な物理法則が成り立ち、上下左右どこにでも簡単にすり抜けることができた。
Kは四方を注意深く見渡しながら壁を3回、床を2回潜って進んだ。
「おそらくこの辺りかな」
商会の内部はB4階に取引所が設けられ、だだっ広いフロアになっていた。
床には絨毯が敷き詰められ、中央に大きな長机がでんと置かれている。商会員と商人が机を挟んで商談し、交易品と代金とを引き換える形なのだろう。
長机の脇には大小様々な積荷が並べられている。
そしてそのすぐ側に黒い粒子で構成された人影が動いているのが見えた。
彼らの話し声は聞こえない。
第二象限ではここまでの再現が限界だった。
「本当に過去の光景を見ている感じですね。黒い粒子で構成されている点を除けば」
「黒い粒子は一粒一粒が霊素なんだ。霊素は全ての時間を記録している。だからこういうケースでは扱いやすい」
「なるほど」
そうエミリがKに相槌を打った時だった。
「そこのお二方、こんにちは」
突如、無機質な声が聞こえてきた。
それはKとエミリが感覚を同調している領域内では聞こえるはずのない第三者の声。
エミリは聞き覚えのない声に肩をビクリと震わせ、恐る恐るその声のする方へ体を向けた。
──だ、誰?
初めは死者の魂が語りかけてきたのかと思った。
しかし、
それは全く見当違いだった。
エミリが視線を向けた先には女がひとり立っていた。
彼女は顔を薄い布で隠していた。
腰辺りまで黒髪のロングヘアーを伸ばし、身長は160後半。エミリより少し高い。
服装は赤褐色をベースとしたマントコートを羽織り、その下には体にフィットした白地と黒地のスーツを着込んでいた。
──死霊では……ない……よね……
彼女の体は粒子で構成されていない。二本の足をしっかりと地面につけている。
死者ではなく生者。
そして、この次元に干渉している時点で彼女が普通の人間ではないことが伺えた。
「エミリ、僕の後ろに」
Kが手短に囁いた。
いつになく真剣で冷たい声色に変わり、あの緩みきった目はどこへ行ったのやら、今の彼の瞳は鋭く光っている。
「先輩? あの……これは?」
エミリは慎重に話しかける。
対してKは苦笑いを浮かべながら、
「少々、マズイ事態かも」
エミリの不安を掻き立てるような返答をした。
事態を把握出来ないエミリは戸惑うも、Kとエミリの目の前に現れた謎の女の方から自己紹介を始めた。
「魔術結社──Libra構成員──ミシェルと申します」




