Case 86:妖魔天象・来迎
2021年8月7日 完成
柚月と一時的に別れる決断をする。
そして八朝は無事人間へと戻り、紫府大星の霧の中に飛び込む……
【3月13日(金)・時刻不明 篠鶴地下遺跡群・深層某所】
『あっ、篠鶴機関からのpingが返ってきたよ!』
「そうか……もう篠鶴市なんだな」
辺り一面を覆いつくす青色。
上も下もないような水面の上を慎重に歩く八朝。
『だがくれぐれも気を付けるように
集合海の水には絶対に触れてはならぬ』
退魔師が支度の際に滑り込ませたメモにはこのように書いてあった。
なぜ集合海の水だけ特別扱いされるのか、その勘所は終ぞ分からなかった。
……あの『雨』に出会わなければ。
『ふうちゃん、前方の湿度が高めだよ
ものすごく大回りになるけど、いいよね?』
「構わん、溶かされるよりかはマシだ」
エリスの指摘通り、前方に巨大な降水域が広がっている。
先程まで水面が引っ切り無しに揺れていたのもこのせいである。
(……俺の技術では波が立った瞬間に水に浸かる、そしたらもう終わりだ)
それが集合海の水の性質、即ち『万物』溶融の魔水。
浸されたもの全てを溶かし、色を無くし、自らと同じ『透明な水』に返す。
万物とは決して誇張でも何でもなく
先程の降水域ではエリスの肉体を数パーセント削ってきたのである。
無論、避ける他道は無い。
「市内には無事入れたが
大樹の姿が全然見えない……」
八朝達が目指しているのは集合海の中州に聳える大樹。
つまり、『巻き戻す前』にて弘治と雌雄を決したENIACの足場である。
あそこまで着けばもう集合海の水に怯える必要はない。
但し、出口は『月の館』となってしまうが、柚月の肉体がそこにあるのなら好都合。
『それにしてもコレ……
地表まで湧かせたら大変な事になるよね』
「だな、触れたもの全てを集合海にしてしまう
海と混ざれば二度と航海なぞ出来なくなるだろう……」
そこまで言って、ふと何かに気付く。
篠鶴市の『外に漏らさない』構造と、『巻き戻す前』の記憶遡行見た『大災害』。
「……ああ、つまり『洪水機構』ってそういう事か」
八朝の呟きにエリスも何かに気付いて声を漏らす。
もしもの時に、渡れずの横断歩道に仕込んだ最終手段。
ENIACが目覚めた時のような異常事態に対し篠鶴市を生贄にして
異変を完全消滅させる為の切り札とはつまるところ『コレ』なのであった。
『ひどい……でも何の為に……』
「それは……」
分からないが、一つ確信はあった。
少なくとも篠鶴機関や鳴下家、十死の諸力が設計したものでは無い。
これらに通底するのは『誰か』を救うための集まりである事。
篠鶴機関は言わずもがな、十死の諸力も異能力者を守る。
鳴下家も鳴下地区を侵す者に容赦をしない。
要は彼等と洪水機構は何一つ噛み合っていないのである。
(……じゃあ誰が何の為に)
そう思っているとエリスに額を小突かれる。
金属の身体から繰り出される一撃は堪えるものがある。
だが、今やるべきことを再確認するには充分であった。
『エリス、引き続き道案内を頼む』
【3月13日(金)・時刻不明 篠鶴地下遺跡群・ENIACの足場】
『ついたー!』
霧の中から自然にあるまじき複雑な影が見え始める。
そしてその傍らには大きめの樹の影まで見える……間違いない。
そして、足場に備え付けられている階段を登る。
(ん……? 何か濡れている……?)
ステップには水しぶきの跡が残っている。
それに気づいたエリスが困惑したかのように口を開く。
『あれ、この水って何でもかんでも溶かすんじゃ……』
だが八朝の視線は既に大樹の方へと向いている。
噂話で釣った哀れな人間を器に、再び化物に君臨しようとした大樹。
「ああ、この大樹も水が無ければ生きられない
……当初の設計者は化物の進化を考慮しなかったらしい」
『そんなぁ、それじゃあ洪水機構って……』
状況をリセットする最終手段でなく
単に人間を虐殺するためだけの趣味の悪い機構に成り下がっている。
この樹の影響範囲内の足場や物が集合海に解けていない。
「そんなことはどうでもいい
ここで漸くスタートラインだ、そして……」
・目を覚ました柚月と合流する事
・篠鶴市の地上に戻る事
・(懸念事項として)天象石を盗んだ下手人を倒す
この三つが当面の目標となる。
『ゆーちゃんの場所はわたしに任せて
ちょっと物騒な場所だけど引き続き案内するよ!』
「頼もしいな」
宙に浮く端末が嬉しそうに回転している。
元々頼られるのが好きなのか、それとも『恩人』というのに関係しているのか。
『みんなどうしてるのかなぁ……元気だといいんだけど』
「そうだな、何も起きずに平和に暮らしていて欲しい」
願望を口にしているが、それは多分叶わない事なのであろう。
偽天使の石に、親衛隊の糾弾による篠鶴機関への疑惑。
20日以上もあれば一段階程度は状況が進んでいる。
それでも八朝達は一秒たりとも向こうで惰眠を貪ったつもりはない。
「状況を知るには外に着く必要があるが、まずは……」
八朝が重ねて最重要目標を口にしようとした瞬間。
聞き覚えのあるアラートとアナウンスの大合唱が始まる。
■■までの各端末 裏処理完了まで残り678秒。
「洪水機構だと!?」
激しく目を疑うような内容。
何かの見間違いかと操作盤まで駆け寄ろうとして……
後頭部に撃鉄の引き絞られる音が伝わる。
「動かないでください」
「……『若』か?」
声の主は無言で首肯する。
ああ、そういえばここまで忘れていたものが一つあった。
鬼里邸に預けようとした『若』の姿が、忽然と消えていたことに……
「便利ですよね、■■って
貴方が重宝している理由も良く分かります」
「……何が目的だ?」
「愚問ですね、まあ一度も言ったことがありませんのでこの際に言っておきます」
「僕、最初から貴方の事が反吐が出るぐらいに不快でした」
続きます




