マッチョが売りの少女
私が今の旦那に出会ったのは東北の雪国に赴任してから最初の冬だった。
慣れない雪との共存。一人暮らし。車は早々に田んぼに落とし、ポンコツ軽の代車が仮の相棒として私の月極め駐車場に佇んでいるのを見て、暗澹たる気持ちになっていた。
辞めたい。今すぐこの仕事を辞めたい。
車の大部分が雪に覆われているのを私は涙目で見つめていた。コンコンと雪が降り積もる中、身体が酷く冷え込んでいる。車に入るか家に戻るかすればよいのだが、それができないからここに銅像の如く佇んでいるのだ。
鍵を無くした。家の鍵と一緒にしていたのに。
遅刻しそうになって慌ててアパートから出て転んだ時だろうか。スタッグした通行車を救いだそうと奮闘した時だろうか。いや、散歩していた近所の可愛いポメラニアンを撫でていた時だろうか。いやいや、そうしていて遅刻しそうなのを思い出して走りだそうとして再び転んだ時だろうか。
思い当たる節が多過ぎる。そして考えている間にも、空からはコアラのマーチぐらいの大粒の雪がもっさり降り続いている。私の歩いて来た足跡など既に消えていた。
死にたい。……そして生きたい。お腹減った。アーモンドピークが食べたい。そこはコアラのマーチだろ。
現実逃避ともとれる思考の最中、私の身体も雪に埋もれてく。
「ヘクシッ」
いかん、風邪を引いてしまう。このままではマッチ売りの少女と同じ末路になってしまう。考えてみれば私も食べ物のことしか考えていない気がする。食べ物以外の事も考えるんだ私。そうだ。〝マッチ売りの少女〟ではなく〝マッチョが売りの少女〟の事を考えるんだ。二文字付け足すだけで前向き感パないな。
「あのぅ」
上腕二頭筋を意識し始めた私の背後から控えめな声がした。
振り返るとそこにはマフラーに顔半分を埋め、フードを目深に被った防寒対策バッチリな青年がいた。同じアパートの住人だろうか。青年は振り返った私の顔を見て驚いたように眉を上げた。
「鼻水……。てか寒そう。なにか困り事ですか?」
「かくかくしかじかで。会社に遅れそうになって慌てて家の前で転んで、雪に嵌った車を助けて犬を撫でてまた転んで、気付いたら鍵を落としてて家にも車にも入れないんです」
「かくかくしかじかが機能していない!?」
リアクションが面白い青年だった。
青年の厚意により私と青年は雪の降る中を手分けして鍵を探すこととなった。ていうか、今まで現実逃避に没頭している場合ではなかったのだ。
腰を屈め、匂いを辿る警察犬のように、ブーツの足首よりも上に積もった雪の地面を探し回った。
どれくらいの時間が経っただろうか。
会社に遅刻するのはもう確定だろう。私は会社に電話を掛けようとスマートフォンを取り出す。なんだ、いつもと違うポケットに入れると取り出す時の違和感パないな。
ん? いつもと、ちがう……?
「ごめんなさい!」
私は青年の前に土下座して許しを乞うた。
こんな大雪の降るクソ寒い中、私のポケットに入っていた鍵を延々と探し続けてくれた青年に合わせる顔が無かった。顔がめっちゃ冷たいけど頭を上げられない。怖くて青年の顔が見れない。
「わわ、立ってください! 大丈夫ですから! みつかってなによりですから! ほら、天気も良くなりましたよ? 気持ちも晴れやかですねぇ!?」
慌てた様子で青年が私を地面から剥がし立たせてくれた。
眼球表面を覆う透明な液体により視界が歪んでいる。青年の顔が良く見えないのは少し良かった。こんなに寒いのに目がしらが熱くて、ヒクヒクと喉が変な音をたてる。
「だって、だって、わたしぃ……」
強く握った鍵が手に食い込み、私を戒める。
「ここにきて全然良い事ないし、不幸だし、自分ばかりか他人にも迷惑、かけてぇ……」
あぁ、見ず知らずの良い年した女が唐突に目の前で泣きだしたら、確実に引かれるだろうな。それでも私の涙と嗚咽は止まる気配もない。
もう、会社も行きたくない。死ぬ。でも生きたい。たけのこの里食べたい……。
「まいったなぁ……」
青年の途方に暮れた様子が、更に私の胸を締め付ける。
「そうだ。あのね、ちょっと見てみて」
青年のなにかを閃いたかのような声音に私は涙を拭く。
「この町も、この雪も、なにも不便な事だけじゃないよ」
青年が地面の雪を手で掬うと、手の上にかき氷のような山が出来上がる。さらりとキメの細かい雪だ。青年の手が勢いよく下から上に振り上げられると――
「あ」
私は息を呑んだ。
青年の手から放られた雪は瞬間的に無数の粒子となって拡散した。否、それだけではない。丁度みえた晴れ間により、一粒一粒が陽光を煌めかせ、青年の周りを幻想的に包み込んだ。
それはダイヤモンドダストに似ていた。
一振り二振りと手の動きに合わせてキラキラが踊る。まるで妖精と戯れているようだ。
「あは」
私は自然と笑みを零していた。ずっと溜めこんでいた心の奥の黒いものが浄化されるかのようだった。青年も、私の顔を見て笑う。楽しそうに。黒のジャケットを雪まみれにしながら。
「私も!」
青年に倣い、雪の塊を掬い取った。雪の結晶を潰さないよう優しく乗せる程度の力加減。驚くほど軽いソレは風が吹いただけでさらさらと流れる。勢いよく両手を振り上げれば、視界をいっぱいに光りの粒子が漂う。
そして
「わぷ」
風の向きにより盛大に顔に被った。それを見てケタケタと青年が笑えば、恥ずかしさを誤魔化すように私も笑う。
なんとも不便な町ではあるけれど、少しだけ、ほんの少しだけ、この町が好きになれそうだ。
「本当に、ありがとうございました。私、もう少しこの町でやっていけそうです」
そういうと青年は笑顔で頷いた。
「それは良かった。じゃ、僕は仕事に行くけどアナタも急いだ方が良い。結構な時間ですからね」
それもそうだ。青年とはまたどこかで逢えるだろうか。
そんな事を考えながら私は手の中の鍵の感触を確かめる。
「…………」
確かめる。
「「………………」」
確かめ、る?
無い。さっきまでしっかりこの手に握っていた筈なのに……!
――ハッ!?
私はは悲壮感に溢れた姿で振り返る。
「あ、あはは……。もう少し、付き合ってもらえますか?」
ちょっと、タイトルのギャグが書きたかったが為だけに書いた作品。