願い事は、叶わなくとも
それは、寒い寒い冬の日の夜でした。
騒がしかった昼と比べて今は静まり返っており、良い子はもう寝る時間です。しかしとある町の住民たちはあるものを見るために、夜遅くまで起きていました。
その町にはたくさんの人が信じる言い伝えがありました。
“寒い冬の夜に、願い事は叶う”
“もし、祈りを捧げるのであれば”
“その望みは開かれるであろう”
人々は願い事を叶えるために、こうして冬の寒い日にはひたすら起きているのです。
まだ、願い事を叶えた人はいません。しかし、何故人々は遅くまで起きるのをやめないかというと、夜には心休まる一時があったからです。
空気が澄み、星が輝き、美しく、まるで夜の海がそこにあるかのような景色は、たくさんの心を癒しました。
人々は、毎晩毎晩お祈りをしました。どうか、願い事が叶いますように、と。
決して口にはせず、ただただ、願うのです。
『どうか、皆が幸せになれますように――――』
場面は代わり、ここはその町にある駅です。
たくさんの人が乗り降りし、電車も早いスピードで飛び交います。
しかし終電も近く、通勤ラッシュよりかは人は少なくなってきました。
「はあ、今日は疲れた。疲れすぎて眠い。眠いわ。」
自販機の近くのベンチ、凍ったような冷たさのベンチに、それを暖めるようにして一人の男性が座っていました。
きっちりスーツを着こなし、ただ、顔は酷く隈ができています。
「やっと帰れるよ……、やっと……。」
彼は、決して明るい時間に帰ることは出来ないのです。
そう、それは鎖のように――――、牢獄のように、体にまとわりついては離れない、まるで罪のようなその存在に、決して抗うことは出来ないのです。
つまり、帰るなと禁止されているのです。
電車が来ました。しかし彼は乗りません。寝てしまったからです。
人が降り、人が乗り、電車は彼方へ去っていきます。
他のスーツを着こなしている立派な大人も、顔は疲れたそうに、またある人は誰かのことを思うように、またある人は泣きそうに、彼の前を早々に歩いていきました。
ただ、刻々と時間が過ぎていきます。もうすぐで、終電の時間です。
ちょうど五分前、彼は起きました。
身を伸ばし、時計を確認します。12時15分。真夜中で、星がとても綺麗でした。
しかし、何かいつもと違います。
彼は大きく目を見開き、何かに驚いたかのように一点を見つめました。
そうです、奇跡が起きたのです!
なんと目の前には、天国への道とでも言うべき、光に包まれた階段がありました。
さっきまでこんなもの、もちろんあるわけありません。彼は不思議で周りを見回して見ましたが、どうやら誰も気づいていないようです。
な、なんなんだこれは、幻覚か!? と思いながら、妙に落ち着かずそわそわしていると、急に誰かに話しかけられました。
「やあ、君ももしかしてこの先にいくのかい?」
「ひぃっ! え、だ、誰?」
「僕は雪だるまさ。これから、この先にいくところだよ。君も行くの?」
「え、あ、いや、知らない。」
「知らない? そんなことがあるのかい? 行くか行かないかは君が自分自身で決めるんだよ。こうやってこの階段が迎えに来たってことは、君が行きたいって望んだからじゃないの?」
「俺は本当になにも知らない! なんなんだよお前!」
彼は一気に怖くなり、立っている雪だるま、現実ではあり得ない生きている雪だるまを指差しながら、あっちいけと手でジェスチャーしました。
「まあ落ち着いてよ。本当は僕にもお迎えが来るはずだったんだけど、近くで二つも開いていたら面倒くさいからね。きっと神様が僕ら二人をまとめちゃえーって言って一つの階段に絞っちゃったんだよ。」
「ほ、本当に知らない……。何の話?」
すると雪だるまは、少しため息をつき、彼を見つめました。
だんだん溶けているその体に、気づいているのでしょうか。
「君は無意識に迎えを呼んじゃったんだね……。相当だね。大丈夫なの?」
「どういう意味なんだよ。」
「まあ、いいや。僕もどうせ最期の時間だし。君に付き合ってあげる。おいでよ。」
雪だるまは彼の手をとり、階段の横を通りいきなりホームに向かって飛び出しました。
「えっ、ちょっと、待ってうわあああああああ!!!!」
「しっかり捕まって。僕に身を委ねてくれれば大丈夫だからね。」
彼は、思わず目を手で塞ぎ、つい先ほど出会ったばかりの不思議な雪だるまに、全身を預けていました。
冷たいのですが、しっかり抱き抱えてくれているので、そんなことはあまり気にしません。
少なくとも雪だるまの心は、暖かいのです。
そうです。二人は、空を飛んでいました。
飛行機のように、スーパーヒーローのように、鳥のように。
どんどん高度を上げ、周りの気温もどんどん下がります。
だいたいのところまで上がり、雪だるまは上がるのをやめました。
「目を開いてよ。美しいでしょ?」
雪だるまの言葉とほぼ同時に、彼は目を開きました。
そこには、なんとも言えない、とても綺麗な景色がありました。
空気が澄み、星が輝き、美しく、まるで夜の海がそこにあるかのような景色。そして、眼下に広がる小さな小さな、しかし集まると大きい、心にも灯りそうな町明かり。
思わず、声を漏らしながら、その光景を見つめていました。
「どう? 綺麗でしょう」
「うん。俺、知らなかった。こんなこと、こんな景色……。」
「ねえ、もしさ、僕が君をここで手放したら、君はどう思う?」
急に、雪だるまは不思議な質問をしました。
彼は、思わず身震いをしました。だって、ここから落ちたら、ひとたまりもないでしょう。
「え、落とさないでよ。」
「もしもの話だよ。落とすわけないってば。」
「怖いよ。落ちたら、だって、皆に会えなくなってしまうよ。」
「そうだね。皆に会えない。」
「やりたいことも、出来なくなってしまうし。」
「うん。出来ないねえ。」
「ずっと、暗闇のなかにいるだけじゃないか。」
「うん。暗闇だね。」
「そんなの、そんなの、嫌に決まっている。」
雪だるまは、安心したような顔で彼に微笑みかけました。
「君は、今の現状から逃げ出したかったんだね。」
「えっ、それはどういう意味?」
「だって聞いている限りそうじゃないか。自分のしたいことをしたい。自分に制限がかかってほしくない。……まあ、言い過ぎかもしれないけど。少なくとも、全部全部縛られて、君はもう耐えられなかった。」
「……だから、駅で扉を開いたということ?」
「うん。無意識に。だって、そうすれば逃げられるもんね。」
雪だるまはゆっくり下降していきます。
ぽんぽんと、背中を叩いてリズムを作ります。すると彼の目からをぽつりぽつりと涙が出てきました。
「辛かったんだよね。よく、今まで耐えてきたね。悲しかったんだよね。よく、できたと思うよ。」
「ああ……。」
「でも、生きるのに無理しちゃ駄目だよ。そりゃ、多少は仕方ないと思うよ。でもさ、それがずうっと続いて、皆幸せなのに、自分だけそうなって、嫌だよね? 苦しいよね。」
「……くるしい。」
「もう、我慢しなくて良いんだよ。自分に忠実になって、きちんとコントロールしなきゃ。君が辞めても、君に影響はないんだから。」
空には、彼を後押しするかのように、星が強く輝いていました。
きっとその光景を見たのは、彼と雪だるましかいないでしょう。
彼は、生きる意思を探し当てたのです。
そして雪だるまは、再び駅のホームに降り立ちました。
そっと彼を降ろし、少し消えかかっている階段を見つめて、再び問いかけました。
「君は、この先にいくのかい?」
彼は、少しすっきりした顔で答えました。
「まだ、行かないよ。もっと生きて、精一杯生きて、そうしたら、行くことにする。」
雪だるまは呆れたように、でもまた嬉しそうに、彼を見つめました。
「じゃあ、僕は行くことにするよ。君の人生に幸あらんことを。」
「あなたは紳士だな。いろいろありがとう。」
「僕は君にこの階段の先を教えただけさ。では、そろそろ時間だね。またね。」
雪だるまは、階段を上っていきました。そして、階段はゆっくりと消えていきました。
……と同時に。
彼の目の前に、最終電車が通りました。
電車はだんだんゆっくりになり、目の前で扉が開きます。
彼は歩き出しました。一歩、重たい足取りでしたが、確かに進みました。
しかし、思わずつんのめりそうになりました。
ドアの前には、不自然に雪の塊があったのです。
彼はふいにまた込み上げてきそうになり、他の乗客に見られないように、肩を震わせました。
それは、寒い寒い冬の日の夜でした。
騒がしかった昼と比べて今は静まり返っており、良い子はもう寝る時間です。しかしとある町の住民たちはあるものを見るために、夜遅くまで起きていました。
その町にはたくさんの人が信じる言い伝えがありました。
“寒い冬の夜に、願い事は叶う”
“もし、祈りを捧げるのであれば”
“その望みは開かれるであろう”
祈りを捧げたのに、彼の願いは叶いませんでした。
しかし、また新しい願いを見つけたのです。
「どうか、自分のように、皆が幸せになれますように――――」