マッドサイエンティストの憂鬱
一年D組の担任。 清水義孝は科学室で一人、飲んだら性別転換してしまうと言う荒唐無稽な薬を創りながらボーッとしていた。
彼は天才科学者の中でもトップと言っても過言では無い程の薬精製の技術がある。
公に晒そうと思った時、ふと考えなおした。
もし、この面白可笑しな薬が世に出回ったらどうしようか?
勿論、頭のネジが外れた金持ちならきっと喜んで札束を投げてくれるだろう。
しかし、こんな世にも恐ろしい薬が出回ると混乱が起きるのは必至。
それを踏まえ、義孝はあえて薬を世に出さなかった。
そう、これで良かったのだ。
義孝は白衣の胸ポケットの中から一枚の娘の写真を取り出した。
自分の愛しい娘。
だが、それも今日で離れ離れになる。
彼は妻と辻褄が合わなくなり、離婚を決意した為に、多額の慰謝料を払わなくてはならない。
期限は今日の日没まで。
それまでに妻に慰謝料を払わなければ娘は妻に連れていかれるのだ。
それを阻止する方法が一つだけあるのは義孝が一番理解していた。
でもそれはやらない。 やってはいけないのだ。
どうすれば良いのだろうな、と頭を抱えていると不意に科学室の扉が開かれたので義孝は素早く写真を胸ポケットの中へと滑り込ませた。
「失礼します!」
自分のクラスの生徒、東野院空。
彼には余り関わらない様にしていた。 何故なら空が余りにも何とも口にすることが出来ない程の不気味なオーラを纏っているからだ。
クラスのムードメーカーとして名を馳せているが義孝の目は彼の違う何かを捉えていた。
科学室にやって来た空は「おや? これはこれは我らが担任、清水義孝先生ではありませんか。 奇遇ですねぇ」とあたかも義孝がこの科学室に居る事を知らなかった様な口振りをした。
何が「奇遇ですねぇ」だ。 ここが俺の溜まり場だと知っててやってきたのだろ。
義孝はそれを口にせず「こんな所に何の用だ?」と空を睨みつけると彼は肩を竦め「こんな所ではなく貴方自身に用があってきたのですよ」と不敵な笑みを浮かべた。
「はっきり言うじゃねぇか、糞餓鬼。 生憎俺ぁテメェが望んでいるモノは持ってないぜ?」
「現在進行形で性別転換の薬を精製している人の口とは思えませんね」
その言葉に義孝は瞼を大きく開いた。
何故、一目で自分が現在進行形で性別転換の薬を創っている事が解ったのか?
そもそも何故自分がこの様な薬を創っている人間だと言う事を知っている?
「その顔はどうやら図星の様ですね」
あたかも義孝の心情を悟った様に口を開いた空。
そんな彼に義孝は警戒の眼差しを送る。
「だとしたら何だ? 校長にでもチクるか? この学校の科学室で頭のイカれたマッドサイエンティストが変なクスリを創ってるって」
空は鼻で笑い「そんな馬鹿な真似はしません」と言って義孝の前へと移動し、まるで手品の様に何も無い所からアタッシュケースを出現させ中を開いてそれを彼に見せつけた。
「こっ、これはっ……!?」
そこにはアタッシュケースに限界まで敷き詰められた大量の福沢諭吉の札束。
義孝は思わずゴクリと喉を鳴らした。
「貴方のクスリを売って頂きたい」
「断る」と義孝は即答した。
空は珍しい者を見るかの様に瞳を少し輝かせ、「それは何故ですか?」と問うた。
「テメェの様な訳の解らん餓鬼にクスリを渡せばどうなるかは皆目見当がつく。 こう見えて俺も一教師だ。 学校の空気を乱すマネは出来ねぇよ」
教師として素晴らしい答えを言った義孝に対して空はさぞ詰まらなそうに冷めた顔を浮かべ、顎に手を添えて思考を巡らした。
そして何か思いついたのかすぐに犯罪者の様な危険な表情を浮かべ口を開いた。
「良いのですか? 娘さんが救えなくなりますよ?」
気づいた時には義孝は空の胸座を掴んで壁に押し付けていた。
「何故その事を……?」
おかしい。 自分の娘については誰にも話していなかった筈だ。 なのに何故、この餓鬼が知っている?
対して空は「さぁ? 何故でしょうね?」と義孝から視線を逸らして不気味な笑みを浮かべる。
「それよりも、良いのですか? こんなチャンス、もう二度と転がる事は無いですよ? 娘さんを奥さんに渡して良いのですか? 今ここで娘さんを手放したらきっと先生は後悔しますよ? きっと自分を赦せなくなりますよ? 良いのですか?」
先生、と畳みかける様に空は義孝を煽る。
義孝は頭を悩ませた。
娘か、後悔か。
今、目の前に転がっているチャンスをこの自分の憎たらしい生徒、東野院空が握っている。
NOと言いたい。 言えない。 言いたくない。
ふと瞼を閉じ、義孝は自分の一人娘との記憶思い出す。
愛らしい自分の娘。
愛しい自分の娘。
大切な自分の娘。
俺は手放す事が出来るのか? いや、出来ない。 絶対に。 それを東野院空は知っている。
義孝はゆっくりと瞼を開き、空の胸座から手を放し、胸ポケットから二本の薬を取り出し机の上に置いて「持っていけ」とどこか納得のいかない声音で言った。
「流石先生。 理解して頂けたのですね? 賢い選択です。 交渉成立ですね」
空は机に置かれた二本の薬を胸ポケットに収め、そのまま科学室から出ようとしたその時、「待ちな」と義孝に呼び止められた。
「お前、何を考えていやがる? 何が目的だ?」
その問いに空は「別に目的なんてありませんよ。 そうですね、強いて言えば刺激が欲しいと言った所でしょうか?」と笑って科学室から出て行った。
一人取り残された義孝。
お金が敷き詰められたアタッシュケースに目をやり、「本当にこれで良かったのか?」と自分に問いかける。
どうか自分の薬で傷つく生徒が出ない事を祈るのだった。