第三十五話 最終話
幸せが込上げてくる。
どれ程、この日を待ったのだろう。
飛び込みたい気持ちをぐっと抑えて、ひたすら健斗を見つめ続けてきたのだ。
毎日来ては二時間三時間を共有して帰っていく。まるで愛人のような自分に嫌気がさしたこともあった。
友達なのだからと自分に言い聞かせたことも、数限りない。
毎晩、冷蔵庫の中で開けられることの無いビールを眺めて、溜息を吐いてきたのだ。
それらも、今日で終わりだ。
『どんなに遅くなってもいいから来て』
メールを送信する。
今までどんなに寂しくても、こんなメールを流したことは無かった。
でも、今夜からは違うのだ。
自分は正真正銘の恋人、そして夫婦となるのだ。まだはっきりと健斗の気持ちを聞いたわけではないが、それでも、恵子から健斗を貰い受けたのだから。
まもなく健斗から返信が届いた。
『どうしたの?』
直ぐに返信する。
『お願い、会いたいの』
『うん、でも遅くなるよ』
『何時位?』
『十一時には行けると思うけど。何かあったの?』
『待ってます。今夜は大切な日だから』
それ以上は、返信する気は無かった。
例え、健斗から返信が来ても、それ以上のメールは不要なのだ。
「十一時……一緒に新年を迎えられるわ」
美和がにっこりと笑った。
深深と冷え込んでくる。
窓は曇りガラスの様に、真っ白に曇ってしまっている。
ヒーターの音が室内の暖かさを強調しているように響く。
テーブルには重箱に詰められたお節料理たち。
TVでは、新しい年がもう直ぐだと騒いでいる。
―――新年―――
来年はきっと……。
そう思っていたのに、その思いが通じたかのように輝かしい新年がやってくるのだ。それも、健斗と迎えられる新年だ。
時計を見上げると、十一時を少し回ったところだ。
(もうすぐね、もうすぐ)
ひざ掛けに両手を入れてじっと時間が過ぎるのを待つ。
長い長い一分。しかし、その一分がどんなに長くても幸せへの一歩なのだ。もう直ぐやってくる最高の時間を考えると、美和の頬がひとりでに緩んで戻らなくなる。
玄関のチャイムが鳴り、静かに玄関の扉が開く。外気が流れ込み、健斗が寒そうに室内に入ってきた。
「やぁ、遅くなってごめんよ」
室内の暖かい空気が、健斗の凍った体を解かしていく。
「ごめんなさい、我がまま言って」
美和が健斗にしがみついた。
かつて無かった美和の行動に、驚きながらも健斗が優しく美和を抱きしめた。
しばらく抱き合っていると、美和が顔を上げて微笑んだ。
その穏やかな表情に健斗も微笑みを返した。
「ね、座って。二人で新年を祝いましょう」
「え……」
(変だな、いつもの彼女と感じが違うけど……)
健斗が定位置に座ろうとした時、美和が冷蔵庫からビールを出すのが見えた。
「僕は車だから、ビールは飲まないよ。知ってるだろ」
美和は冷たいビールを持ったまま振り向いた。
「ええ、よく知ってるわ。でも、もう運転はしないでしょ?」
「何言ってるんだよ。運転しなけりゃ、帰れないだろ」
美和が冗談を言っているのだろうと、笑って受け流したのだが、ビールは健斗の前に置かれた。
「どこに帰るの?」
健斗のひざに手を置き、美和が見上げる形になる。
「どこって、僕の家だよ」
「あなたの家は、こ・こ・よ」
「泊まらせてくれるのかい?」
「ええ、ずっとね」
「大晦日のプレゼントかい?」
「そうよ。大晦日の永遠のプレゼント」
そう言いながら差し出されたそれは、
「何? これ……」
健斗が手に取ってじっくりと眺める。
見覚えのある文字。
それは、恵子と同棲を始めた頃に書いたものだった。
あの日、恵子が妊娠したと知り、直ぐに婚姻届を取りに行った。それが女性に対する一番の責任の取り方だと思っていた。だからこそ、恵子の前でサインをしたのだ。これで恵子も安心して子供が生めると信じたからだ。
しかし、恵子は婚姻届にサインをすることを躊躇っていた。
それなら、恵子の気持ちが落ち着いたら、籍を入れれば良いと思い、引き出しの中に納められた。
残念な事に、子供はできていなかったが、それでも恵子への気持ちが変わることは無かった。
今でも、恵子がサインさえしてくれれば、そのまま届けを出してもかまわないと思っているのだ。
それほど、恵子を愛しているかと聞かれれば、分からないというのが本当のところだ。
だが、自分の為に苦しんできた恵子の姿を見てきている。恵子が変わってしまったのも、自分との女性関係が問題であることは分かっているのだ。
感情のすれ違いがあるにせよ、お互いが空気のような存在になり、敢えて気を使わなくても済むようになった今、分かれる必要などあるはずが無いのだ。
その点では、恵子も同じ様に考えているはずだし、それなりの努力もしてきたのだ。
それなのに何故、今ここにあの時の婚姻届があるのか…。
美和が健斗を見上げて微笑んでいる。
「何で、これが」
届けを手にしながら、震える声で健斗が聞いた。
「山根さんからのプレゼントよ」
「どういうこと?」
美和は健斗の手から婚姻届を取ると、ペンを手に持ち、書き始めた。
自分の名前を―――。
「山根さんが来たの。そして、幸せになってねって、これを置いて行ったのよ」
健斗はぼんやりと美和がサインするのを眺めていた。
その目は、今美和がしている事が、どんな意味があることなのか全く理解していないようだった。
「幸せにねって……そうそう、貴方の荷物は宅配便でこっちに送ってくるそうよ」
美和は丁寧に書き上げると、嬉しそうに健斗を見上げた。
「ねぇ、健斗。立会人は誰にしましょうか?」
我に返り美和を見、その視線を書類に移す。
そうだ、立会人が二名必要だったのだ。あの時は、何も考えず自分がサインすればそれで全てが終わるような気がしていた。
じっと、書類の立会人欄を見ると、空欄が二名のはずがどういうわけか一名になっている。
では、誰が記名したのか?
上体をかがめ、書類に目を近づける。
その一名の名前がしっかりと健斗の目に飛び込んできた。
〔山根 恵子〕
健斗は真っ白になった頭を必死に回転させた。
(そうか、恵子はサインをする場所を間違ったんだ)
(いや、それじゃあ……なんで美和がサインしてるんだ?)
(俺と美和は何の関係も無いんだぞ)
(美和が仕組んだのか?)
(それとも、これが別れの合図か?)
「いいわ、私が適当な人にサインをもらってくるわ」
美和が嬉しそうに、書類を封筒に納める。
その行為をぼんやりと眺め続ける健斗。
「お正月でも役所って、婚姻届を受理してくれるはずよね」
(受理……どういうことだ?)
「これで、健斗と私は夫婦よ」
(夫婦……?)
「新婚旅行はどうしよう、お金が無いから近くで、二人でのんびりって事しかできないかしら」
(こいつは何を言ってるんだ?)
「健斗、私嬉しい。この日をずっと待っていたのよ」
美和が健斗の隣に座りなおすと、両手を健斗に巻きつけてきた。
まるで、その手は二度と離れることが出来ないかのように、ねっとりと纏わり付いてきた。
「……そんな筈はないよ。帰って恵子と話をしなくては……」
独り言のように呟くその声を、美和は聞き逃さなかった。
「健斗、それは無駄よ。彼女だって、貴方と別れたくてしたことなのだから」
健斗の眉間にしわが刻まれた。
(どういうことだ?)
「だからこそ、婚姻届を私に渡したのだもの」
(恵子は俺と別れたかったのか? それで、ずっと不機嫌だったのか?)
「ねぇ、健斗……浮気したら……」
美和が小首をかしげ、健斗をねっとりと見つめる。
「ゆ・る・さ・な・い・わ・よ」
健斗の背筋に冷たいものが流れた。
美和の目が「どんな理由があっても、浮気をしたら殺すわよ」と語っているのだ。
時計が深夜十二時を告げた。
TVが新年を迎えたことを告げ、除夜の鐘の音を響かせている。
「二人で新年を迎えることが出来て、私最高に幸せだわ」
嬉しそうに、美和がはしゃいだ声を出した。
(俺は最高に、不幸だ―――)
美和は健斗から離れると、用意していた重箱の蓋を開け、二人っきりの新年を祝おうと準備を始めた。
その姿を、忌々しい思いで見つめながら、健斗は美和という重い女との別れを考え始めていた。
除夜の鐘が静かに鳴り響いていた――。
fin
長い間お付き合いくださいましてありがとうございました。
以前に書いておいた作品なので、ちょっと古めかしいかという感じもありますが、それなりだったかな~ という感じもしています^^;
明日から、また別の作品をアップしますので、よろしくお願いします。




