第三十四話 婚姻届
アパートから出ると真冬の風が気持ちよく頬を撫でた。
可笑しな位に足が軽く、心が弾む。
これで、何者にも心を捕らわれることが無くなるのだ。脅かされることの無い毎日がやってくる。
恵子は胸を張り、力強く前へ前へと歩を進めた。
(それにしても、あのビックリした顔)
思い出すと可笑しさが込上げてくる。
(そりゃぁ、驚くわよね。同棲相手が乗り込んで来たんだものね。普通なら殺傷沙汰だわ)
反芻すればするほど笑えてくる。
特に婚姻届を差し出したときが一番楽しかった。
美和にしてみれば、突然に降って湧いたような幸福だろう。しかし、あの婚姻届も曰くが無いわけではないのだ。
同棲を始めた頃は幸せだった。徐々に健斗が他の女性と関係があると分かり、更にはカミソリ入りの封筒や無言電話がくるようになった。自分を愛していると思っていたのに、全てが嘘だったのかと絶望を感じた。しかし、その気持ちをぶつけても、健斗にのらりくらりと交わされてしまう。
どんどん追い詰められ、情緒不安定になりだした頃、生理が止まってしまったのだ。
女性問題で不安を感じ、無言電話で追い詰められ、ののしりや恨みの手紙でどん底に叩き込まれていた時の事だ。
恵子の脳裏に【妊娠】の二文字が浮かび、子供ができれば健斗も変わるかもしれないという浅はかな思いが頭をもたげた。
健斗に、妊娠している可能性があると話すと、喜んでくれた。
翌日には婚姻届を持ってきて、目の前でサインをしてくれたのだ。
しかし、それはあまりにも簡単に、鼻歌交じりに、まるでメモでもしているかのようにサラサラと書き進められた。
その様子を見ていた恵子は、多大な不安と漠然とした恐怖を感じたのだった。
(もし、子供が生まれたら。この人は、その現実を受け止めることが出来るのだろうか)
全てを理解した上で。
サインした事の責任までを理解した上でならば、恵子も喜べただろう。しかしどうみても、健斗がサインしている姿は、子供が何も理解せずに殴り書きを楽しんでいるように感じてならなかった。
それ故、恵子はしばらくサインすることを躊躇っていたのだが、そんな恵子の姿も健斗は優しく見逃してくれた。
「急に母親になることになってビックリするよね。恵子がサインする気になった時が結婚記念日だよ」
その結果、婚姻届は引き出しにしまわれた。
そして、数週間後生理がやってきた。
情緒不安による生理不順。
それっきり婚姻届の事は、会話に上ることは無かった。
あの婚姻届が恵子を拘束してきたのだが、健斗にとってはどうだったのだろうか。
よく、恵子が思い考えてきたことだ。
引き出しの奥を覗くたびに、目に触れる婚姻届の封筒。その度に、どうしたらよいのか思案にくれてきた。しかし、健斗は一度も何も言わなかったのだ。
(結局、あんな紙切れに縛られていたのは私だけだったのよね、きっと。健斗は書いたことすら忘れてるわよ。だからこそ、他の女と楽しくできたんでしょうしね。でも、これですっきりしたわ! 彼女も婚姻届を見て喜んでるはずだし。これで、健斗と晴れて恋人同士だものね。お互いに幸せになれたってことよ!)
目の前の信号が赤から青へと変わった。
恵子は大きく一歩を踏み出した。




