第三十一話 電話
「山根ですが、どちら様ですか?」
何度繰り返しても、相手は無言のままだ。とうとう恵子の社会人としての糸が切れた。
「あなた誰! 失礼じゃないの!」
大人気ないとは思いながらも、ここまで無言だということは、健斗の女性関係を連想させる。これは最早、嫌がらせとしか思えない行動だ。
「私は暇じゃないのよ! 嫌がらせに付き合ってる暇は無いのよ!」
すると、電話の向こうで満足気な含み笑いが聞こえてきた。
(やっぱり、女なのね)
「どう? 貴女の彼は、よく写っているでしょ?」
「貴女が送ってきたのね」
「そうよ、ご忠告のつもりでね」
「どういうご忠告かしら?」
「貴女の彼が浮気してるから、気をつけてっていうご忠告かしら」
電話の女が澄まして言い放つ。
「この写真の女性が貴女なの?」
「馬鹿ね、その女が私なら写真を撮ることは出来ないでしょ」
「出来ないこともないけど……で、何が言いたいの?」
灰皿にタバコを押し付け、散らばった灰を吸殻で一箇所に集める。
何の意味も無い作業。
「何が言いたいって! 貴女の彼が浮気してるのよ!」
電話の女が焦っているのが分かる。
(そう、そういうことか)
「そんなに健斗が好きなら、あなたにあげるわよ。どう?」
「……別れるって事?」
「そうね」
恵子は、こんなくだらない事に貴重な時間を取られていることが、腹立たしく感じ始めていた。
早々に、この電話を終わらせ軽く食事をして、持ち帰った仕事に取り掛かりたい。
(私は学生じゃないのよ)
昼間の疲れが、どっとのしかかってくる。
(仕事が無ければ、仲間と飲みに行っていたのに)
事務所を後にしようとタイムカードを押した時だった。数人の同僚が揃って飲みに行く話しをしていたのだ。もちろん恵子も声を掛けられたが、明日までの仕事を抱えていたので、同行するわけにも行かず、泣く泣く断ったのだ。
多少なりとも悔しさを感じていただけに、こんなくだらない電話が余計にいらだたしく感じるのだ。
「貴女にあげるから、好きなようにしたらいいわ」
「……それって……」
電話の女が何を考えているのか、間が空く。
「貴女は、彼をどう思っているの?」
「どうって?」
「そんな簡単に別れるなんて……」
笑いが込み上げてきた。
「何が可笑しいのよ!」
「だって……」
笑いが笑いを呼ぶ。
「だって……貴女は、私と健斗が別れることが目的で写真を送ってきたのでしょ?」
ケイタイを耳に当てながら、冷蔵庫へと移動する。
笑ったせいだろうか、のどが渇いた。
「それは……それは健斗が余りにもいい加減だから、腹が立っただけよ!」
「ああ……貴女も、可哀想な被害者ってわけね」
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。
「被害者って何よ!」
「貴女も彼に優しくされて、虜になっちゃったんでしょ」
「……」
「今まで何人もの女性から、貴女のように別れろって迫られたわ。ちょうど私も別れたかったのよ。だから、あげるから好きにしたらいいわよ」
二人の間に沈黙が流れた。
恵子は、冷えたペットボトルを手にすると、ゆっくりとキャップを外し口につける。
次に相手が何と言ってこようと、自分が動揺することは無いだろう。そして、相手が望むなら本当に健斗を譲ることも辞さない覚悟なのだ。
いや、逆かも知れない。
相手が望んでくれたなら、健斗と別れることができるのだ。そうすることで、今の煩わしさから解き放たれるのだ。
恵子は、ペットボトルをテーブルに置くと、タバコを指に挟んだ。
電話の向こうから、思案しているのか、深い息遣いが聞こえてきた。




