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優しい恋人  作者: 久乃☆
31/35

第三十一話 電話

「山根ですが、どちら様ですか?」



 何度繰り返しても、相手は無言のままだ。とうとう恵子の社会人としての糸が切れた。



「あなた誰! 失礼じゃないの!」



 大人気ないとは思いながらも、ここまで無言だということは、健斗の女性関係を連想させる。これは最早、嫌がらせとしか思えない行動だ。



「私は暇じゃないのよ! 嫌がらせに付き合ってる暇は無いのよ!」



 すると、電話の向こうで満足気な含み笑いが聞こえてきた。



(やっぱり、女なのね)



「どう? 貴女の彼は、よく写っているでしょ?」


「貴女が送ってきたのね」


「そうよ、ご忠告のつもりでね」


「どういうご忠告かしら?」


「貴女の彼が浮気してるから、気をつけてっていうご忠告かしら」



 電話の女が澄まして言い放つ。



「この写真の女性が貴女なの?」


「馬鹿ね、その女が私なら写真を撮ることは出来ないでしょ」


「出来ないこともないけど……で、何が言いたいの?」



 灰皿にタバコを押し付け、散らばった灰を吸殻で一箇所に集める。


 何の意味も無い作業。



「何が言いたいって! 貴女の彼が浮気してるのよ!」



 電話の女が焦っているのが分かる。



(そう、そういうことか)



「そんなに健斗が好きなら、あなたにあげるわよ。どう?」


「……別れるって事?」


「そうね」



 恵子は、こんなくだらない事に貴重な時間を取られていることが、腹立たしく感じ始めていた。


 早々に、この電話を終わらせ軽く食事をして、持ち帰った仕事に取り掛かりたい。



(私は学生じゃないのよ)



 昼間の疲れが、どっとのしかかってくる。



(仕事が無ければ、仲間と飲みに行っていたのに)



 事務所を後にしようとタイムカードを押した時だった。数人の同僚が揃って飲みに行く話しをしていたのだ。もちろん恵子も声を掛けられたが、明日までの仕事を抱えていたので、同行するわけにも行かず、泣く泣く断ったのだ。


 多少なりとも悔しさを感じていただけに、こんなくだらない電話が余計にいらだたしく感じるのだ。



「貴女にあげるから、好きなようにしたらいいわ」


「……それって……」



 電話の女が何を考えているのか、間が空く。



「貴女は、彼をどう思っているの?」


「どうって?」


「そんな簡単に別れるなんて……」



 笑いが込み上げてきた。



「何が可笑しいのよ!」


「だって……」



 笑いが笑いを呼ぶ。



「だって……貴女は、私と健斗が別れることが目的で写真を送ってきたのでしょ?」



 ケイタイを耳に当てながら、冷蔵庫へと移動する。


 笑ったせいだろうか、のどが渇いた。



「それは……それは健斗が余りにもいい加減だから、腹が立っただけよ!」


「ああ……貴女も、可哀想な被害者ってわけね」



 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。



「被害者って何よ!」


「貴女も彼に優しくされて、虜になっちゃったんでしょ」


「……」


「今まで何人もの女性から、貴女のように別れろって迫られたわ。ちょうど私も別れたかったのよ。だから、あげるから好きにしたらいいわよ」



 二人の間に沈黙が流れた。


 恵子は、冷えたペットボトルを手にすると、ゆっくりとキャップを外し口につける。


 次に相手が何と言ってこようと、自分が動揺することは無いだろう。そして、相手が望むなら本当に健斗を譲ることも辞さない覚悟なのだ。


 いや、逆かも知れない。


 相手が望んでくれたなら、健斗と別れることができるのだ。そうすることで、今の煩わしさから解き放たれるのだ。


 恵子は、ペットボトルをテーブルに置くと、タバコを指に挟んだ。


 電話の向こうから、思案しているのか、深い息遣いが聞こえてきた。


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