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優しい恋人  作者: 久乃☆
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第三十話 封筒

 仕事から帰ると、郵便受けを確認するのが日課だ。


 山根恵子は昨日と同じように郵便受けを開けた。


 そこには見慣れた広告が数枚。どれも自分には全く関係の無いようなものばかりだ。車のチラシ、新築マンションのチラシ、果ては近くにあるのだろう、学習塾の手作りチラシまである。


 それら、変わり映えのしないチラシの中に、厚めの封筒が目についた。


 宛名は山根恵子、差出人は空白。


 恵子は一抹の不安を感じたが、そのまま捨てる気にもならずに、手にしたまま部屋へ入って行った。


 部屋の中は暗く、健斗が不在なのは外で窓を見上げた時から分かっていた。


 凍りつくような空気の中を慣れた足取りで歩き、部屋の中央に垂れ下がる電気の紐を引いた。部屋中が明るく照らされる。部屋が明るくなると、外の暗さが一層恐ろしさを増す。


 恵子はカーテンを閉め、ほっと溜息を吐いた。


 健斗と知り合った頃は、仕事から帰るのが楽しみだった。


 アパートの下から窓を見上げれば、薄いカーテンから電気の明るさが透けて見えていた。それだけで、心が温かくなったものだ。


 しかし、今となっては遥か昔のような気がする。


 恵子は部屋の中央に座ると、郵便受けから持ってきた封筒をテーブルに置いた。電気の下におかれた封筒は、薄暗い郵便受けの傍で見た時よりも白く、不気味に見えた。


 差出人の無い封筒。


 それが何を意味するかは見当がついている。


 大方、健斗がその気にさせた女達が、勘違いしてカミソリでも仕込んできたのだろう。或いは、恨みつらみの手紙だろうか。


 過去に何度も同じような手紙が届いたのだ。いい加減、慣れても不思議は無いだろう。


 テーブルに肘を付き、タバコに手を伸ばす。


 出来るだけ節煙を心がけているが、こういう訳の分からない手紙が送られてくると精神的に落ち着かなくなる。


 カチッとライターが鳴り、タバコの先端が赤く染まる。


 大きく吸い込み、肺を煙で満たす。



「全く! 何人の女を泣かせたら気が済むのかしらね」



憎々し気に言葉がこぼれる。



「どうせ今夜も遅いご帰還でしょうね。こんな手紙が届いているとも知らずに」



 恵子の指が封筒の角を弾く。



「いい加減疲れるよね……」



 始めの頃は、封筒が届くと震えながら封を切った。中からは面々と綴られる怨念。全身を震わせながら、健斗にしがみつき『どうしてこんな手紙がくるの!』と泣き叫んだものだ。そんな時、健斗は優しく背中を撫でながら『これは彼女の勘違いだよ』と言ったものだ。


 勘違い……。


 都合の良い言葉だ。勘違いする女と、勘違いさせる行動をとっている健斗。どちらの方が、罪が深いのだろう。



「しょうがない、開けるか」



 恵子は引き出しからカッターを取り出すと、封筒の隙間にカッターの刃を滑り込ませた。鋏でもよさそうなものだが、カミソリが仕込まれている可能性もあるのだ。何度かカミソリ入りの封筒が送られてきたが、鋏とカミソリの触れ合う感触は好きになれない。


 カッターの刃が気持ち良く滑り、開封される。



「カミソリは無かったわね」



 多少肩に力が入っていたのか、左右の肩を上下に動かした。


 タバコを灰皿に押し付けるように消すと、封筒を取り上げ逆さにする。


 すると、中からは数枚の写真が時を待っていたかのように飛び出してきた。どうやら手紙は入っていないらしい。


 恵子は一枚の写真を手に取ると、じっと見つめた。そこには健斗と女性がキスの真っ最中だ。



「なるほどね、そういうことか」



 新しいタバコに火を点けた。


 写真は全て、健斗と女性を捉えたものばかりだ。



「可哀想に……健斗が女ったらしだって知ったら、この人はどうするのかしらね」



 自分だって、かつては健斗を信じ、健斗が愛しているのは自分だけだと思い込んでいたのだ。その甘い夢がカミソリ入りの手紙によって打ち砕かれたのは、同棲を始めて間も無くだった。


 あの日から、何度別れようと思い悩んできたことだろう。その度に、健斗に丸め込まれてきたように思う。それも、男と女の愛情があればこそだった。


 しかし今となっては、いい加減どうでも良くなってきている。


 学生の健斗と、社会人の恵子。それが大きな溝になりだしているのかもしれないが、それも健斗のだらしなさが呼び起こした事だ。



「こんな写真を送ってこなくても、一言健斗をくださいって言ってくれたらあげるのに」



 吐く煙と同時に溜息が漏れる。


 ちょうどその時、恵子のケイタイが鳴った。ディスプレーを見ると、知らない番号からだ。躊躇いはあるものの、仕事の関係で知らない番号から掛かってくることもあるのだ。電話に出ないで、その後の仕事に差支えがないと誰が断言できるだろう。


 恵子は仕方なさそうに、受話ボタンを押しケイタイを耳に押し当てた。



「はい、山根です」



 しかし、電話の向こうは無音の世界なのか、なんの返事も無かった。


 恵子はケイタイを握り締めると、もう一度丁寧に繰り返した。



「山根ですが、どちらさまですか?」


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