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優しい恋人  作者: 久乃☆
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第二十九話 もつれ合う感情

『ごめん、今日は行けない』



 初めの頃は、そんなメールが来ることは無かった。又来たとしても、特別な感情が無かったときは楽だった。


 今は違う。


 美和の中に以前とは違う感情が生まれ、育っているのだ。健斗が来られない夜は、辛く苦しくなる。涙が溢れて止まらなくなるのだ。


 けれど、それを健斗に明かしたことは無い。


 もし、自分の気持ちを明かして、健斗が受け入れてくれなかったら。或いは、迷惑だったら。そう考えると、とてもじゃないが打ち明けることなどありえないのだ。


 包丁の手を止め、溜息をつく。



(今夜は来ますように……)



 冷蔵庫には、冷えたビールが入っている。車で来ているのは分かっている。飲まないのも分かっている。しかし、いつか健斗が帰らずに一晩を共にする日が来たら、その時に冷蔵庫のビールが始めて食卓に上るのだ。


 これは美和の小さな賭けだ。


 健斗と出会い、新たな想いが生まれ始めてから、毎晩のように繰り返されてきた賭け。



(今夜こそ……彼がビールを飲みますように……)



 毎晩繰り返される祈り。


 冷蔵庫の中には、夕べの料理がタッパに詰められて残っている。けれど美和はそれらを食卓に乗せることはしない。


 恋人同士になれたなら、昨日の残りが食卓に上ることもあるだろうが、今の美和には昨日と今日が一緒になることは許されないのだ。


 昨日の辛かった想いは、健斗の前で出してはならないのだ。

 


 玄関のチャイムが鳴った。


 健斗なら直ぐに玄関を開けるはずだ。しかし、扉は一向に開く気配が無い。


 美和は仕方なく、玄関の扉を開けた。



「おひさ」



 そこには、いつも以上に綺麗に化粧を施したエリカが立っていた。



「久しぶりね」



 美和はせっかくの時間がエリカの出現で、霧の彼方に霧散するような気がした。



「誰かを待ってるの?」



 知っていながら、意地悪そうに口が動く。



「エリカこそ、デートじゃないの?」


「あら、何で?」


「それだけ念入りにお化粧してれば、誰だってそう思うと思うけど?」


「そう? いつもと変わらないけどな」



 そう言いながら、部屋の中へと上がり込んでくる。



(もうすぐ、健斗さんが来るのに……)



「健斗を待ってるんでしょ」



「分かってるのよ」と言いたげな言い方だ。



「そういう訳じゃ……」


「健斗なら来ないと思うけどな」



 コートを脱ぎ、ソファーに腰を下ろす。


 美和は仕方なさそうに、小さな食器棚からコーヒーカップを出した。



「コーヒーなんか淹れてる場合じゃないわよ」



 美和の手が止まる。



「ほら、これを見れば、さすがの美和の目も覚めるでしょ」



 エリカの手には数枚の写真が握られていた。


 その写真が何の意味を持っているのか、理解することも出来ずにいると、苛立ったようにエリカが続けた。



「こっちに来て、見てみなさいよ!」


「……」


「私は美和の為に言ってるのよ!」



 コーヒーカップを手にしたまま、エリカの傍へと近寄る。


 近寄りながらも、心の隅では(見ちゃダメ!)と誰かが叫んでいるように感じる。しかし、エリカの視線はそんな美和の躊躇いを許さなかった。エリカは立ち上がると、美和の傍へより写真を目の前にかざして見せた。


健斗と見知らぬ女性が車の中で抱き合っている姿が、しっかりと写し出されている。


他の写真には、疑うことの出来ないキスシーン。


女性の泣いている姿。


健斗が優しく背中を撫でている。



「だから来られないのよ、健斗は」



 どうだと言わんばかりのエリカの不敵な笑い。



「だから?」



 写真から目を外し、しっかりとエリカを見つめる。



「美和! こんなに、女にだらしが無いのよ! そんな男がいいの?」



 美和の目に哀れみが浮かんだ。



「エリカ、人を信じる事って大事な事だよ。私は彼を信じているの。それに……私と彼は、友達以上恋人未満」


「でも、好きなんでしょ!」


「好きだよ。だからって、どうにもならないでしょ」


「こんな男と分かっても、気持ちは変わらないの?!」



 美和はゆっくりと首を左右に振った。



「惨めじゃない! こんな男に気持ちを向けてるなんて!」


「惨めじゃないよ。私と彼は、束縛できる関係じゃないしね」


「……そう、そんなにバカだったなんて、知らなかったわ。あんたにはプライドがないのね」



 エリカが唇を噛み締めた。昔からのエリカの癖だ。


 何かを思案しているときの癖。



 玄関のチャイムが鳴った。


 一瞬のうちに美和の思考が回転する。


 今のチャイムが健斗だったら、直ぐに玄関の扉が開くだろう。


 ここにエリカがいる。


 エリカは健斗を見て、どうする気だろうか。


 どちらにしても、良い展開は期待できないだろう。


 健斗でないことを祈る気持ちが、美和を支配した。しかし、残念ながら美和の祈りは届かず、扉が静かに開いた。



「やぁ、外は寒いね」



 明るい健斗の声が室内に響いた。



「健…・…」


「お邪魔してますぅ」



 写真をバックにしまいながら、エリカが作り笑いを浮かべる。


 どうしたことか、エリカを見たときの健斗の表情にうろたえたものを感じた。


 咄嗟に過去が甦ってくる。


 信二の時も、今の健斗と同じ表情を浮かべたことがあった。



「や・やぁ・・・…元気そうだね」


「ええ、お陰様でぇ、化粧の乗りも良くってよぉ」



 意味ありげに健斗に視線を向ける。その視線が、どこか邪悪さと隠微なものを宿している。


 美和の体に電流が走った。



(また? またなの?・・・…どうしてエリカは私の邪魔ばかりするの?)



 うすうすは分かっていたことだとうのに、胸に熱く苦しいものが込み上げてきた。


 どこかうろたえた表情を隠せない健斗と、この場の状況を楽しんでいる事が明らかなエリカ。エリカの思惑に哀しみを溢れさせる美和。


 三人の感情がもつれ合い、絡み合う。



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