第十三話 キーワード
そこは、大通りから一本奥に入った小さな居酒屋だった。
店内に入ると、静かな音楽が流れる程度で、客の声が聞こえて来ない。
学生街にある居酒屋とはまるで違う。
席に通されると、隣との間に衝立があるだけだが、どこも静かに語りあっているという感じだ。
「静かですね、ここ」
「ああ、学生が来るって感じじゃないだろ」
「ええ、高そう」
健斗が笑いながらエリカを見る。
「値段は分からないけど、一度来てみたかったんだ」
「来たこと無かったんですか?」
「そうだよ。連れてくる人がいないしね。男連中とじゃ合わない様な気がしてさ」
「美和がいるじゃないですか」
「美和さんか……ちょっと、違うよね」
「というか、美和にはお酒を飲むなって言ったんでしょ」
店員がメニューとお通しを持って床に片ひざを付いた。
「ご注文をどうぞ」
静かな物腰だ。
「じゃぁ、僕はビールで。何にする?」
「私もビールで」
「じゃ、生を二つお願いします」
「はい」
店員が奥へと下がると、エリカが続きを促した。
「美和さんには飲まないで欲しいかなって」
「どうして?」
「飲んで騒ぐってイメージじゃないから」
「勝手ですね」
「そうさ、勝手なんだよ。男なんてね」
たった一学年先輩だというだけで、妙に大人っぽさを感じさせる。
信二は同じ二年生だ。
付き合うまでは、いや、自分の彼氏になるまでは大人びたところもあったのだが、自分の彼氏というポジションに着いた途端に子供っぽさが露呈された。
たった一歳の違いがこんなにも人を変えるものなのか。それとも、これが健斗なのか。或いは、健斗も又手に入れれば色褪せてしまうのか。
「美和のどこが好きなんですか?」
皮肉も入っていたかも知れない。
しかし、いつも思うのだ。何で冴えない美和に彼氏が出来るのか。そして、その彼氏は一体どういう理由で美和に惹かれているのか。
信二にも、それとなく同じ質問をした事があった。信二は目を細め、美和を思い描くようにこう言ったのだ。
『優しい人だよ、彼女は。それに、純粋なんだ。何でも信じて、誰でも信じてしまう。だから、俺が傍に付いていなくちゃ危なっかしくてね』
エリカが一番聞きたくなかった理由だった。
『純粋なんだ』
『何でも信じて、誰でも信じてしまう』
それがエリカには無いものだから。
これが『体がいいんだよ』と言われれば、馬鹿な男を彼氏にしたものだと嘲笑うことも出来たが、嬉しそうにエリカが許せない部分を褒められたのだ。
その時かもしれない。美和から、信二を奪ってやろうと決意したのは。
健斗も又、同じセリフを吐くだろう。その時、美和の恋の結末が決まるのだ。
「そうだなぁ、エリカさんは美和さんのどこが好きなの?」
「え?……」
「だって、中学生の頃からの付き合いなんでしょ?」
「そうですけど、女と男じゃ見方が違いますから」
「そうだね。でも、エリカさんが親友として付き合い続けるからには、それに応じた魅力があるからだと思うけどな」
こんな言われ方をしたのは始めてだった。
大概は、嬉しそうに熱く美和について語るのが関の山だというのに。
「さぁ、馬が合うから……でしょうか?」
健斗が優しく笑った。
「そうだね、男も女も同じじゃないかな。馬が合うから付き合うんじゃない?といっても、僕と彼女はまだ付き合ってるわけじゃないけどね」
「だって、毎日美和の部屋へ行ってるじゃないですか」
「それだけだよ」
「それだけ?」
「そうだよ。それだけだ。彼女の心の傷が癒えたら、僕は不要な存在になるだろうね」
「それでいいんですか?」
健斗が話している事が本当だとすれば、こんなに心が広く優しい人は他にいないことになる。しかしその反面、度を越えた鈍感人間だということも言えるのだ。美和は確かに健斗に惹かれ、恋心を抱きだしているのだから。
「僕は最初からそのつもりだからね。失恋して、自殺を考えてる人がいたら、助けてあげたいと思うのは、普通だと思うよ」
「じゃぁ、健斗さんは美和を何とも思っていないんですか?」
一瞬の沈黙があった。
その沈黙が美和への想いのような気がした。
「想ってないって言えば嘘になるね。彼女は聡明で、素敵な女性だと思うし、何よりも……純粋だ」
「純……粋」
言ってはならないキーワード。
「ああ、だからこそ。僕が好きになってはいけない人なんだ」
「……い・意味が分からないわ」
「分からなくてもいいのさ」
自嘲気味に笑う健斗。
健斗の言わんとしている事の意味が分からない。しかし、その意味が分かったところで、今のエリカには何も考えられなかっただろう。エリカの頭の中には、聞いてはならないワードが、渦を巻きだしていたのだから。そして、天使のように純粋な美和から健斗を奪ってやるのだと、憎しみが湧き出していたのだ。
(美和! あんたに健斗さんはもったいないわ! 私がもらってあげる! あんたを又失恋地獄へ突き落としてあげるわ)
エリカの手に持たれたグラスが、ゆっくりと口に運ばれた。




