第一話 別れ
涙が頬をつたい流れる。
もうどれくらい泣いているのだろう。
開け放ったカーテンの向こうには、漆黒の闇が広がっている。
隣から微かに聞こえてくるテレビの音、それ以外の音といえばすすり泣きと、ティッシュを引き抜く音だけだ。
美和は時計に目を向けた。
信二と二人で買った時計が、何事も無かったかの様に時を刻んでいる。
じっと時計を見つめていると、楽しかった昨日までが甦ってくる。
信二と笑い、信二と語り合った時間。信二の為に作った手料理の数々。信二と撮った思い出の写真。
記憶が甦れば甦るほど苦しさが増してくる。
美和はティッシュケースからティッシュを引き抜くと、流れる涙に当てた。
「どうして……」
涙で声が詰まって、それ以上の言葉が出て来ない。
涙に濡れたティッシュを鼻に当てる。
どれ程泣けば信二が戻ってくるのか。
美和は、信二が戻ってくる事など無い事を知りながらも、もう一度戻ってきて欲しいと願わずにはいられなかった。
しかしそれは、あまりにも儚い夢。
「別れよう」
唐突に切り出された言葉。
信二が来るからと、心を込めて作られた料理がテーブルに並べられている。
それらは湯気を立て、食欲をそそる香りを漂わせていた。
しかし、楽しい時間を盛り上げるはずの料理達が、たった一言で生ゴミと化してしまったのだ。
美和は笑いながら信二を見た。
「今、何て言ったの?」
「別れようって言ったんだよ」
玄関先に立ったままの信二の口から、再び漏れる最悪の言葉。
美和の顔から笑みが消えた。
「本気……なの?」
「ああ、本気だよ」
「どうして?」
体が震える。
これ程尽くしてきたのに。
どこの女が彼氏の為に食事の支度をして待っているだろう。それも大学生という身分だ。
あったとしても、せいぜい出来合いの料理を並べるか、ファーストフードを買ってくるくらいだろう。
自分はどこの誰よりも信二の為に頑張ってきたのだ。
料理の本を買い、必死に信二の口に合うものを作ってきた。信二が言うことは何でも聞いてきた。どんな無理も、信二の為なら頑張れたのだ。
そんな自分が捨てられるはずは無いのだ。
「お前、重いんだよ」
しかし、信二の口から出たのは、有り得ない言葉だった。
「重いって、どういうこと?」
口元が緩む。
無意識に彼の機嫌を損ねない様に、笑顔を作ってしまう。
今までもそうだった。
中学生の恋も高校生の恋も、そして大学生となった今も、何も変わっていない。困った状況に陥れば陥るほど、笑顔でやり過ごそうとするのだ。そうする事で今までも、仲直りしてきたのだ。
今回もちょっとした行き違いがあるだけだ。だから笑顔で、笑いでやり過ごせば何とかなるはずだった。
しかし、それは美和の大きな誤算だったのだ。
「何で別れ話してるときに笑うんだよ!」
「それは……」
「まぁ、いいや。どうせ別れるんだしな」
「何で? 何で別れようなんて言うの?」
「だから言ってるだろ、重いんだよ」
「分かんないよ」
「分かんないなら分かんなくていいよ。とにかくさよならだ」
そう言うと信二は背中を向けて玄関から出て行ったのだ。
簡単な別れだ。
信二が玄関に現れ、二分で終わりだ。
カップラーメンよりも素早い別れ。
これが出会って半年もの間、愛し合ってきた男女の別れだろうか。
思い出す程悲しさが込み上げて来る。
何を言われようと耐え、何を求められようと努力したのに。
それが、たった二分。
たった一言で終わるのか。
テーブルの上に並べられた、信二の好物達が美和を嘲り笑っている様に感じられる。
本当なら今頃二人向かい合って、冷えたビールを傾けているはずだったのだ。
それなのに、部屋の片隅でひざを抱えている自分が、情けなくて仕方がない。
あれ程愛し合ったのに、どうしてこれ程の苦しみを受けなくてはならないのか。
「もう……いやだ……」
嗚咽と共に口から漏れる声。
搾り出すような、苦しみと哀しみの混ざった呟き。
「どんなに……泣いても……信二は戻ってこないのよ」
ひざに顔をうずめ、じっとしていたかと思うと、おもむろに顔を上げた。
その表情は深い哀しみの中で、ある決意が感じられた。
「別れるくらいなら、死んだ方がましだわ」
その目は、もう何も見ていなかった。
美和はケイタイを手にすると、ひとつのアドレスを表示させた。
そして、垂れる鼻水をすすりながら、ケイタイに打ち込む。
「これで、本当にお別れよ」
そう言うと、送信ボタンを力強く押した。




