第6話
「ミックス重賞の罠」
東京湾岸を叩く雨は、オイルの混じった黒い霧となって視界を遮っていた。
ミックス重賞『ベイサイド・スプリント』本番まで、あと三時間。村上ガレージのピット裏では、麗の父であり、ベテラン技師の村上健造が、レイスターの脚部ユニットをバラバラに解体し、苦渋の表情を浮かべていた。
「……麗、やはりこのままで走れば、第四コーナーを抜ける前にレイスターのフレームが破断するぞ」
「わかってるわ。でも、あいつらの『演算』の土俵で戦うには、出力を上げるしかない」
麗は首筋のソケットをアルコール綿で拭いながら、モニターに映し出された財前の愛機『バハムート』の挙動解析データを凝視していた。
前日のスパーリングで感じた違和感。バハムートに接近した際、レイスターのニューラルリンクが不自然に乱れ、機体の接地感が喪失したあの現象。その正体が、亜紀子の持ち込んだ盗撮映像の解析によって判明していた。
「財前の『絶対的な盾』……。ありゃ物理的な装甲じゃない。**『神経ノイズ・ジャマー』**だ」
亜紀子が、工具箱の上に座って忌々しそうに吐き捨てた。
「バハムートの排熱ダクトから、特定の周波数の電磁波が出てる。芝からダートへ切り替わる瞬間、ジョッキーの脳が路面の変化に集中するその『隙』を突いて、ニューラル信号を一時的に切断するんだよ」
それこそが財前が仕掛けた「罠」だった。
急激な路面変化に伴う「トルクショック」。本来なら騎手の神経がそれを補正するが、ジャマーによってその補正を「一瞬だけ」無効化される。結果、相手の機体は制御を失い、自滅するか、あるいは財前の「完璧な進路」から弾き飛ばされる。
「卑怯な真似を……」
義清が拳を握りしめるが、麗は冷たく笑った。
「勝負の世界に卑怯もクソもないわ。あるのは『勝った』という事実だけよ」
「……一つだけ、対抗策がある」
健造が、奥の棚から埃を被った黒い箱を取り出した。
「レイスターのオリジナル、クロフネのパーツから剥ぎ取った古い『アナログ・バランサー』だ。こいつを無理やり神経系に割り込ませる」
「アナログ? そんなのであいつらの電子戦に勝てるの?」
「最新のジャミングが効くのは、『洗練されたデジタル信号』だけだ。だが、こいつは違う。……麗、こいつを使えば、ジャマーの影響は受けないが、路面の衝撃がすべてお前の脳にダイレクトに叩き込まれることになるぞ」
デジタルでフィルタリングされない、路面の生の震動。
鉄と砂が擦れる摩擦、アクチュエーターが悲鳴を上げる過負荷、一トンの鉄塊が弾む衝撃。それらをすべて、生身の神経で受け止める。
「……いいわ、繋ぎなさい」
「麗!」
義清が叫ぶが、麗の瞳には迷いはなかった。
「あいつらは『計算』で勝つつもりよ。だったら、あたしは『痛み』で勝ってやる。……ジャミングなんて小細工、あたしの血の熱さで焼き切ってあげるわ」
午後八時。ベイサイド・スプリント、ゲートイン。
人工芝の緑と、照明に照らされた銀色の砂。
八頭の鉄の馬が、蒸気を噴き上げながら並ぶ。
最内枠には、黄金の覇王『バハムート』。
その真後ろ、影を落とすように『アイアンエクリプス』が構える。
そして大外枠、マットブラックの死神『レイスター』。
「村上。まだその鉄屑を動かすつもりか」
財前の冷徹な通信が届く。
「君の神経系は、このレースの終わりに焼き切れる。それが合理的な結論だ」
「あんたの『合理』なんて、あたしのレイスターが蹴散らしてあげる。……ゲートの向こうで会いましょう、財前さん」
ファンファーレが鳴り響く。
静寂。
雨音が、鉄の心臓の鼓動に変わる。
シグナルが、青に変わった。
――ゲートオープン。
第一コーナーへ向かう芝の直線。
レイスターの首筋から、かつてないほどの青白い火花が散った。
麗の視界が、一瞬で真紅に染まる。
アナログ・バランサーが咆哮し、レイスターの「野生」が、電子の盾を食いちぎるために解き放たれた。




