第3話
「黄金の狂気」
勝利の代償は、一週間の寝たきりと、消えない鉄の味だった。
村上ガレージの二階。湿った油の匂いと、安物のコーヒーの香りが混じり合うリビングで、麗は額に冷却シートを貼ったままソファに沈んでいた。
「……生きてるか、姉貴」
弟の義清が、無造作にスポーツドリンクをテーブルに置く。彼は姉と違い、まだ「からくり」には乗っていない。だが、その指先はいつもエアグルーヴの設計図をなぞり、芝のレースを凝視している。
「死んでる暇はないわ。レイスターの右肩、アクチュエーターの交換は?」
「親父が徹夜でやってる。柳生んとこの末っ子に削られた装甲は、特注の塗料じゃないと色が合わないってボヤいてたぜ」
麗は鼻で笑い、重い身体を起こした。
あの時、りんねが見せた飢えた瞳。柳生という「檻」を壊して飛び出してきた熱。あれを思い出すたびに、脊髄のプラグ跡が疼く。
「……あの子、次はもっと速くなるわよ」
その時だった。
ガレージの一階から、鼓膜を破らんばかりの爆音と、金属が悲鳴を上げるような破壊音が響いた。
ズドン、という地響きと共に、建物全体が震える。
「なんだ!? 事故か!?」
義清が階段を駆け下りる。麗もフラつく足取りでそれに続いた。
ガレージの作業スペース。そこには、目を疑う光景が広がっていた。
調整台に固定されているはずの、一台の機体。
燃えるような黄金の装甲。筋骨隆々としたその体躯は、他のからくり馬よりも一回り大きく見える。モデルとなったのは二十一世紀の暴君、オルフェーヴル。
機体名、ゴールデンルナティック。
その怪物は、今まさに、自分を拘束していた極太のチタン製チェーンを、力任せに引きちぎったところだった。
「あははは! またやった! ルナ、あんた本当にお行儀が悪いわね!」
機体の背中、まだハッチが開いたままの操縦席で、一人の女がケラケラと笑っていた。
逆立ったショートヘア。油まみれのオーバーオール。首からは無数のプラグをジャラジャラとぶら下げた、池谷亜紀子だ。
「亜紀子……! 何やってんのよ、うちのガレージを壊す気!?」
麗の怒声に、亜紀子はひょいと操縦席から飛び降りた。猫のような着地。
「おはよ、麗! いやー、ルナがさ、『ここの空気、油が安っぽくて気に入らねえ』って暴れ出しちゃって。ニューラルリンク切ってるのに動くんだもん、傑作でしょ?」
「笑い事じゃないわ。AIの暴走ならすぐに緊急停止コードを……」
「無駄だよ」
亜紀子は、ルナティックの黄金の首筋を愛おしそうに撫でた。
「この子はね、バグの塊なの。演算回路の隙間に、死んだ馬の幽霊でも住み着いてるんじゃないかな。私の脳波と繋がってなくても、こいつは『走りてえ』って叫んでる」
ルナティックの紅いカメラアイが、ギチリと音を立てて麗を睨んだ。
殺気。
レイスターの怒りが「熱」なら、この黄金の馬が放つのは「純粋な狂気」だ。
「麗、聞いたよ。柳生んとこのお嬢様を泣かせたんだって?」
亜紀子の目が、一瞬だけ鋭くなる。
「でも気をつけな。柳生のミカ……あの女は、人間じゃない。完璧なプログラムそのものだ。泥で汚そうとしても、あいつの芝に入った瞬間に、あんたのレイスターはただの鉄屑に変えられるよ」
「……やってみなきゃ分からないわ」
「そう、その意気だよ」
亜紀子は再び、ルナティックの背中へ跳ね上がった。
「あ、壊したチェーン代は、今度のミックス重賞の賞金で払うからさ! じゃあね、トレーニングの時間だ!」
亜紀子が接続プラグを首筋に叩き込む。
次の瞬間、ルナティックは咆哮を上げ、ガレージのシャッターを物理的にぶち破って外へと飛び出していった。
朝の光の中に消えていく、黄金の閃光。
残されたのは、ボロボロになったガレージと、耳に残る不気味な駆動音だけだった。
「……あいつ、本当に人間か?」
義清が呆然と呟く。
「……さあね。でも、あいつが言ったことは本当よ」
麗は、遠ざかる黄金の背中を見つめながら、自らの指先を見つめた。
柳生ミカ。
まだ見ぬ「完璧」という名の絶望。
その背中を捉えるためには、今の自分たちでは、あまりにも足りない。
麗は、階段の下で作業を再開した父親の、ハンマーが鉄を叩く音をじっと聞いていた。
ガレージの隅で眠るレイスターが、主の気配に応えるように、一度だけ低く、電子音を漏らした。




